婚約破棄された王子様は、経理部で甘い愛を知る

未来屋 環

その王子様は突然経理部に現れた。

 ――世界を捨てたくなるようなほろ苦さのあとには、甘いご褒美が待っていてもいいんじゃない。



 『婚約破棄された王子様は、経理部で甘い愛を知る』



「奥山さん、今資料送りました」


 涼やかな声が背後から響いて、私はキーを叩く手を止める。

 椅子を半回転させて振り返ると、そこには日本企業のサラリーマンとは到底とうてい思えない男性が立っていた。


 きらきらと光を反射する銀色の髪に、青く透き通った瞳――毎日見ているはずだけど、今日もやっぱり綺麗だなと思う。

 ネイビーブルーの細身なスーツもよく似合っていて、他の部署にまで彼のファンがいるのも納得だ。


栗栖くりすくん、ありがとう。あいかわらず仕事速いね」

「奥山さんのお蔭です。指示がわかりやすかったので、困りませんでした」


 完璧な台詞せりふの返しと共に、栗栖くんは穏やかに微笑む。

 まるで漫画の世界から飛び出してきた王子様のようだ――そう思いながら、それもあながち間違いではなかったなと思い直した。



 栗栖くんが私達の前に現れたのは、つい3ヶ月前のことだ。


 NASAの科学者グループが『並行宇宙』の存在を突き止めてからおよそ30年――無数のパラレル・ワールドを示す物的証拠ぶってきしょうこが続々と明らかになり、今では世界線を飛び越えたやり取りが行われることは決して珍しくない。

 恐らく政府間で確固としたルールは決められているのだろうが、ひとつの世界に人口が集中しすぎないようバランスを取れば、自由に人々はそれぞれの世界を行き来できることになっている。

 

 そんな或る日、人事部長が私たち経理部の中途採用者として連れてきたのが彼だった。


 説明によると、彼は元の世界では一国の王子だったらしい。

 しかし、王家の跡継ぎとしては兄がおり、特に元の世界にいる必然性もないことから、思い切ってこちらの世界にやってきたということだった。

 思い切りが良すぎるような気もするが、案外異世界の人の思考回路とはそういうものなのかも知れない。

 ただ、クリストファー・なんとかかんとかという高貴な名前まで無理矢理日本名に変えなくても、とは思ったけれど。


「栗栖です。精一杯頑張りますので、よろしくお願いいたします」


 そう言って、彼はうやうやしく頭を下げる。その所作しょさには、どこか品があった。

 周囲の様子をうかがうと、私以外の女子たちの目がハートになっている。

 まぁ、彼女たちの気持ちもわからないではない。

 とにかく栗栖くんは、綺麗だった。

 ここ数年色恋沙汰いろこいざたとは無縁な私も、「あぁ素敵なひとだな」とふと思う程に。


 そして、幸か不幸か、栗栖くんは私と同じチームに配属された。



 仕事を始めてみると、栗栖くんはとても優秀だった。

 経理部員は配属当初から資料上にあふれ返る大量の数字に慣れる必要があるが、どうやら数字の概念はあちらの世界も同じらしい。

 見る見る仕事を覚えていき、最近では主任の私と同クラスの業務を任されている。

 それでいて、特段それを鼻にかけることもなく、謙虚な姿勢を貫いていた。


 そして今夜、四半期末の決算業務を終えて、経理部メンバーで打上げの席が設けられた。

 女子たちに質問攻めに遭う栗栖くんを遠目に見ながら、部課長たちの相手をする。適当に話を合わせつつ隙を見てトイレに立ち、席に戻ろうとする途中で栗栖くんに逢った。

 いつも涼しい表情の栗栖くんだが、今日はほほが赤い。お酒、弱いんだろうか。


「栗栖くん、大丈夫?」


 そう声をかけると、彼はその顔をへろりとゆるませた。


「はい、少し顔が熱いですが、大丈夫です」


 ――これ、大丈夫じゃないやつだ。


 私はキッチンでお水をもらい、栗栖くんを連れて店外の喫煙所に向かう。うちの部は喫煙者が少ないから、きっと人はそんなにいないだろう。

 重たいドアを開けると、都心の夜風よかぜが私たちの熱をふわりと冷ました。


「栗栖くん、お水どうぞ」


 コップを差し出すと、栗栖くんは驚いたように私を見つめ返す。

 青い瞳が外灯をきらりと反射して、私はその青に見惚みとれてしまいそうになった。


「ありがとう――いただきます」


 栗栖くんは素直にコップの水を飲み干すと、少し冷静さを取り戻してもう一度私を見た。


「奥山さんは、優しいですね」

「――私が?」


 思いがけない言葉に私が目を丸くすると、栗栖くんはゆっくりとうなずく。


「そうかな、栗栖くんの周りにはもっと優しい女子たちがいるでしょう」

勿論もちろん他のみなさんも異世界から来た僕に丁寧ていねいに接してくれます。しかし、奥山さんはそれだけではなく、僕が働きやすいようにいつもさりげなくサポートをしてくれています」

「……そうだっけ?」


 正直特別なことをしているつもりはない。

 私が首をかしげていると、栗栖くんが微笑んだ。


「思い当たらないのであれば、それが奥山さんにとっては自然なことなのでしょう。奥山さんは、優しい方です」


『――那美なみは本当に優しいよな』


 ――ふと、脳裡のうりに男の声が響き、私は身を固くする。

 その様子を、栗栖くんは見逃さなかった。


「――どうしました?」

「いや……何だか嫌なこと、思い出しちゃって」


 そう不意にこぼしてから、はっと我に返り目の前の栗栖くんを見る。

 彼は申し訳なさそうに眉を寄せていた。


「違う違う、栗栖くんが悪いんじゃなくて――その、昔付き合ってた人に『優しい』っていつも言われてたの。その時は別に悪い気はしなかったんだけど、あとで相手に二股ふたまたかけられてたことがわかって……」


 栗栖くんが気にしてしまわないよう、弁解めいた口調で私は話し続ける。


「約束ドタキャンされても、誕生日スルーされても、『仕事が忙しいなら仕方ない』って、私全然彼のことを責めなかったんだよね。その度に『那美は優しい』って言われて、自分のふところが広いんだなんて勘違いして……単純に私が鈍かっただけなんだけど――」


 そこまで一気に話して、私は口をつぐんだ。


 ――何を言っているんだろう、私。

 他の世界から来た栗栖くんに対して、こんな――自分の恥をさらすようなこと。


「――変なこと言って、ごめん。私先に戻るね」


 早口でそう言い残して喫煙所を出ようとした瞬間、栗栖くんに「奥山さん」と呼び止められた。

 振り返ると、栗栖くんは少し寂しそうな顔で微笑んでいる。


「――僕の話も聞いてもらっていいですか?」


 ***


 栗栖くんはあちらの世界で、或る国の第三王子だった。

 王位継承順として、栗栖くんに王の座が回ってくる可能性は低い。

 しかし、王子という立場では当然結婚相手を自由に決められるはずもなく――栗栖くんの婚約相手は麗しい伯爵令嬢だったそうだ。

 幼い頃から決められた結婚相手と、栗栖くんは順調に愛をはぐくんでいた……はずだった。


「或る日いきなり、婚約を破棄してほしいと言われたんです。彼女の隣には、見たことのない男性が立っていました」


 そう話す栗栖くんの口元は笑っているけれど、その瞳には悲しみの色が沈んでいる。

 帰り道、ふたりで訪れたファミレスの隅の席で、私たちはホットコーヒーを挟んで向き合っていた。


「彼女は言いました。『クリスとの結婚は、親に決められたものだった』『そこに愛はなかった』『私は真実の愛を見付けた』と――その一言一言が、僕の心をえぐるようでした」


 コーヒーを一口すすり、栗栖くんは顔をしかめる。

 それは、その苦さに対してか、それとも。


「――つまり、僕の愛は偽りだったのでしょう」


 ぽつりとつぶやかれる言葉。机の上に置かれたコーヒーの水面みなもに、波紋が広がっていく。

 話を聞きながら、私は驚きを隠せなかった。

 あちらの世界のルールは勿論知らないが、王族相手にそんなことができるものなのか、そもそも自分が浮気をしておきながらそんなことを言える神経が理解できない。


 しかし、栗栖くんはそれを受け入れたのだ。

 そして、その傷はとてつもなく深かった。

 そう――彼にそれまで生きてきた世界を捨てさせる程に。


「――そんなことない」


 私の言葉に、栗栖くんが顔を上げる。


「愛に真実も偽りもないよ。ただそこにあるものを、人間が都合良く解釈しているだけ。だから――栗栖くんは傷付かなくていいんだよ。あなたはただ真摯しんしに彼女を愛しただけなんだから」


 そう言い切った時、ふっと自分の心が軽くなった気がした。


 ――そう、それはきっと、私だって。

 相手に愛がなかったのは不幸なことだったけれど――でも、当時の私をさげすんだり、否定する必要はどこにもない。


「……そうですね」


 落ち着いた声が耳に届いて、私は目の前の栗栖くんをまじまじと見つめ直す。

 その瞳に悲しみの色は既になく、そこには穏やかな光がたたえられていた。

 整った顔に浮かんだ優しい微笑みに、思わず私の頬も緩む。


「よし、折角せっかくファミレス来たし、甘いものでも食べよっか。栗栖くん何食べる?」

「そうですね。この――いちごチョコスペシャルパフェがおいしそうですが……ちょっとひとりで食べるには大きいでしょうか?」

「じゃあふたりでシェア――」


 そう言いかけて、私ははたと言葉を止めた。

 恋人同士でもない職場の男女でパフェをつつき合うのは、どうなのか。

 しかし、私のそんな逡巡しゅんじゅんに気付く様子もなく、栗栖くんはさらりと「それはいい考えですね」と頷いた。



 10分後、私たちの席に立派なパフェが運ばれてくる。


「こういうの、あちらの世界にはないの?」

「はい、王宮には色々なデザートがありましたが、こんな芸術作品はありませんでした」


 ――パフェが芸術作品って。


 少し大袈裟おおげさな物言いと、きらきらと子どものように輝く瞳――栗栖くんが何だか可愛らしく思えて、私は小さく吹き出した。


 そして、私たちは順番にパフェをつまんでいく。

 てっぺんにあるソフトクリームをすくって口に入れると、濃厚なミルクの味が口いっぱいに広がった。散りばめられたいちごの数々はルビーのようにつやつやと輝いている。その横にちょこんとひとつ載っているチョコレートブラウニーはあとの楽しみとして、小皿にけておいた。


「このザクザクしたものは、何ですか? 歯応えがあっておいしいです」

「これはチョコフレークだね。何だか懐かしいな」


 フレークの下からは果実たっぷりのベリーソースが顔を出す。更に食べ進めていくと、すっきりとした生クリームに続いて、少しほろ苦いチョコレートムースが姿を現した。


「奥山さん、グラスの底にもいちごが入っています……!」

「本当だ、最後まで楽しめていいね」

 

 あっという間にパフェのグラスが空になる。

 満足気に微笑む栗栖くんに、私はチョコレートブラウニーが載った小皿を差し出した。


「取っておいたよ、どうぞ」


 え、と栗栖くんが驚いたように目をしばたたかせる。


「そんな、折角ですから奥山さん食べてください」

「いいよいいよ、栗栖くん甘いもの好きでしょう。ほら、おいしそうだから、是非」


 栗栖くんは困ったように眉を寄せたあと――ふと、悪戯いたずらっぽい笑みを浮かべた。


「それでは、お言葉に甘えて」


 そして、栗栖くんはカトラリーケースの中からお箸を取り出す。

 フォークじゃないんだ、と思っていると――彼は箸でブラウニーをつまんで、私の顔の前に差し出した。

 思わず栗栖くんを見つめ返すと、目の前の青い瞳がすっと細められ――少し低い声で彼は呟く。


「――さぁ、口を開けてごらん」


 その声には、いつもの彼からは感じられない威厳いげんあでやかさがあった。


 そして、思い知らされる――栗栖くんが一国の王子様であることを。


 こちらをまっすぐにとらえる眼差しと、一種の色気をまとった声に抗えず、私の口がぽかんと開き――その隙間にチョコレートブラウニーがすっと差し込まれた。

 ほろ苦いカカオの味が舌をでる。



 そして次の瞬間――私の視界が栗栖くんの顔で埋まった。



 至近距離で見た青い瞳はきらきらと光を携えていて、まるで星のように輝いている。

 何が起こったのか理解が追い付かない中で、私はただ「あぁ、綺麗だな」と思った。


 気付くと、栗栖くんは元の体制に戻っていて、もぐもぐと口を動かしている。

 そこで初めて――栗栖くんが私のくわえたチョコレートブラウニーの反対側を、ぱくりと一口食べたことに気付いた。

 目の前の栗栖くんが咀嚼そしゃくする動きを止めて、ふっと微笑む。


「ほら、これで半分こですよ――ね、『那美』さん」


 ――私は今、どんな顔をしているのだろう。

 頬の温度が一気に上がるのを感じながら、私は必死で残りのチョコレートブラウニーを味わった。

 甘い、甘すぎる――最初のほろ苦さなんて、どこにも見当たらない。


 そして、余裕のない私は気付かなかった。

 涼しい顔をしてみせる栗栖くんの耳が、実はいちごのように赤くなっていたことを――。



(了)

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