クロスロードの鳥 (正義の代償2)

帆尊歩

第1話 正義の代償2

私はこの交差点を見下ろす鳥。人は私をクロスロードの鳥と呼ぶ。

昔、偉い市長だかがブロンズで私を作り、ここに設置した。

以来、様々な人間を見て来た。

今日も多くの人間がこの交差点を行き交う。

人間の思いは様々だ。

全く人間とは不可解な生き物だ。


一人の女が交差点に入ってきた。

見ない女だ。

この交差点には多くの人間が行き交うが、この女は来たことがない。

この交差点で、見たことがない女だ。



アタシは、大きな広場のような交差点に入る。

本当に大きな交差点だ。

広い交差点は、少しの植込みとかがあり、ベンチが置いてある。

そして交差点が見下ろせる所に、ブロンズの小さな鳥がいる。

きっとあの鳥は、あの人の最後を看取ったのかもしれない。

ニュースで見た。

あの人が死んでいたのは、このベンチだ。

アタシはそこに座ってみる。

お尻が痛い。

当然だろう。交差点にあるベンチなんて、何のために設置されているのかさえよく分らない。

こんな堅いベンチで、あの人は死んでいた。

数日前、一つのニュースが世間を騒がせた。

この交差点のベンチで、一人の男がが死んでいたのだ。

男は軽い脳梗塞を発症しており、体調は最悪だったが、とりあえず職場に行こうとして、この交差点まで来た。

そして毎日通っているこの交差点でいよいよ具合が悪くなり、このベンチで一休みしようと座った。

そして一息ついたものの、男はここで力尽きた。

あるいは、早くに救急車で病院に運ばれていれば助かったかもしれない。

でも男は酷く安らかな顔をしていたので、誰もが眠っていると思った。

男にとっては、やっとたどりついた、終着点だったのかもしれない。


男は過激派の工作員で、全国に指名手配をされ、四十年間の逃亡をしていた。

ニュースで名前を聞いても、アタシはなんとも思わなかった。

ただ流されるニュースの一つで、アタシの記憶にも残らない物だった。

でも次の瞬間、アタシは耳を疑った。

この犯人の潜伏中の偽名が、あの人だったから。

アタシは慌てて、テレビのニュースに映し出される写真を見た。

間違いない、あの人だ。

随分歳をとっている。

こんなにおじさんになっちゃったのね。

イヤ、そんな事を言えば、アタシだっておばさんだ。

あの時赤ん坊だった娘だって、もう三十だ。


あの人は、いつも顔を隠し気味にして、うつむいていたし、写真を極度に嫌がった。

人の多いところには行きたがらず、遊ぶことも目立つことも嫌いだった。

きっとアタシは、あの人を愛していた。

だからあの人がアタシの前から姿を消しても、誰かと一緒になることなんか想像も出来なかった。

確かに、娘がいたから、誰かの助けが欲しかった。

まだ若かったから、もしかしたら、誰かと一緒になれたかも知れない。

でもあの人のことを考えると、とても誰かと一緒になるなんて出来ない。

娘を育てるだけの人生、苦労の連続だったけれど、それすらも、あの人にもらった、まともな生活だった。

そう苦労はしても、人並みの生活が出来た。

「あなた、ありがとう」と、アタシはつぶやいてみる。

おかしいわね、ニュースで流れた、あなたの名前には何の思いもないのに、あなたの偽名には涙が出るほどの懐かしさがある。

あの時、私はあの人と一緒になりたかった。

でもあの人は、アタシの前からいなくなった。

それは汚れきったアタシとなんか、ましてあの醜悪な社長の娘の父親になんかなりたくないのだろうと思っていた。

たとえ、そんな理由でアタシを捨てたとしても、あの人を恨むことなど出来ない。

だって、あの人のおかげで、アタシは人間になれたんだもの。

あの最後に赤ん坊だった娘と、あの人とアタシで、ファミレスで食事をした時は、本当の家族のようだったし、もしかしたら、このまま本当の家族になれるかもしれないと、淡い期待を持ってしまったけれど、あの人は、アタシ達を捨てた。

でもそれは仕方のないことと思っていた。

だってそうでしょう。

アタシは二十歳の頃から、あの醜悪な社長のオモチャ、そして娘はその社長との間の子供、そんな女と所帯を持ちたいなんて思うわけない。

だから、アタシ達を捨てたからと言っても、あの人を恨むことなど出来なかった。

でも、違っていたのね。あの人はアタシ達を捨てたわけじゃなかった。

あの人は自分が犯罪者で、指名手配されている身だから、そのために、偽名で潜伏してたから。

だから、私達の前から姿を消した。

そもそも偽名だから結婚なんて出来ないし、一緒にいれば、アタシ達に迷惑が掛かると思ったのね。

でも、それでも良かった。それでもアタシはあの人と一緒にいたかった。

一緒にいなかったら、あの人を恨んでしまう時が来るかも知れない。

それが怖かった。

アタシがあの人を恨む?

そんなことあってはならない。

あの人が犯罪者で、逃亡者だったことがアタシは嬉しかった。あの人はアタシと娘が嫌いで姿を消したんではないことがわかって本当に良かった。

アタシがあの人を恨む日が来なくて本当に良かった。


アタシには国籍がなかった。

母は父の暴力に耐えかねて、逃げ回っていた。

その時私が生まれた。

出生届を出せば、父に居場所がばれる。

その恐怖に、母は私の出生届を出さなかった。

そのせいで私は、無国籍のまま大人になった。

二十歳になったとき、父から逃げるため、母とは別々に生きることとなったけれど、無国籍でろくに学校にも行っていない私が、働けるところは限られていた。

だから私は、あやしげなパチンコ屋に住み込みで働いていた。

安い給料でこき使われたが、住むところと、食べることが出来て、幾ばくかの給料ももらえた。

切り詰めれば、少しくらいの貯金も出来るくらいだけれど、相場から言えば、本当に少ない給料だった。

それでも、無国籍の私にとっては、本当に安住の地だった。

狭くて汚い寮だったけれど、個室で、暴力を振るわれないことだけでも、そこはアタシにとって天国だった。

パチンコ屋の労働時間は長いし、お客はガラが悪い人も多い。

台は叩くし、理不尽に怒鳴られることも多かったけれど。

でもその分、スタッフ同士の結束は強かった。

海坊主のような社長が、いつも睨みを効かせていたけれど、本当に酷いお客に捕まったときなどは助けてくれたし、つまらないオヤジギャグで、笑うことを強要されたけれど、私はこの海坊主社長のことがそこまで嫌いではなかった。

そこで一緒に働いていたのが、あの人だ。

確かに訳ありな感じはしていたが、いえあの会社にまともな人間は居着かない。

まさか過激派の指名手配犯で、偽名で潜伏生活をしていたとまでは思わなかったけれど。


アタシを含めて、良くあんな環境で働いていたと思う。

アタシは無国籍で、働く場所に選択肢が極端に少ないので、どうにも出来なかった。

何しろ身分を証明する物がないから、部屋も借りれないし、まともな所に就職も出来ない。

社長は、アタシの部屋に定期的にやって来て、アタシを抱いた。

社長は既に還暦に近いオヤジだったけれど、アタシを抱くときの社長は、酷く優しかった。アタシが嫌がることは絶対にしないし、痛いこともしない。

オヤジ特有のねちっこさはあったけれど、暴力を振るう実の父親より十倍良い人だった。

あろうことかアタシは、社長に女の喜びを教えられ、アタシ自身のその中に溺れていった。社長はアタシを抱く度に、一ヶ月分の給料くらいのお金をくれた。

そう考えるとアタシは、売春婦みたいな物だったのかもしれない。

アタシは、そのお金をここから出て行くときのために、一円も使わず貯めていた。

そんなとき、新たにやって来たのがあの人だ。

その時のあの人は、アタシより五つ上の三十歳。ここにいる人達とは、ちょっと違った印象だった。

訳ありというには、あまりにあやしい人間ばかりが働いていた。そんな中であの人は、とても上品で、頭が良かった。

ニュースで、あの人が日本で一番良い大学を中退していたことを知った。中退と言っても、入る事が出来たんだから、物凄い人だ。そんな人があんな吹き溜まりの良いうな所にいれば、場違いな感じは否めない。


歳が近かったこともあり、アタシは、あの人とは良く話をするようになっていた。

いや五歳も離れていれば、結構な年の差だろうと思われそうだが、訳ありのおじさんおばさんの中にあっては、あの人とアタシは、若手の方に入る。

いつしかアタシは、あの人の動きを目で追うようになっていた。

その頃からアタシは、あの人の事を愛し始めていたのかもしれない。

あるときアタシが、寮の自分の部屋で社長に抱かれているとき、ドアの外から声が掛かったことがあった。

「澄江、たこ焼き買ってきたぞ。メシまだだろう。一緒に食べるか」知らん顔をしようかと思ったけれど、きっとあの人は、この部屋に人の気配がしたので声をかけたのだろうと思う。だから無視は出来ない。

社長は、横で気まずそうに胡座をかいて座っている。

「ありがとう、でもいい。ちょっと具合が悪いから、もう寝るから」あの人は心配して、ドアを開けろと言うかもしれないと、アタシはビクビクした。

社長に抱かれていることは、あの人にだけは知られたくなかった。

あの人は、すぐに引き下がった。

きっと、何かを感じ取ったのかもしれない。


アタシは、社長の子供を身ごもった。

社長は堕ろせと、命令はしなかった。

でもきちんと頭を下げて、堕ろしてして欲しいと頼んできた。

頭ごなしに言われていたら、アタシは無理矢理にでも産んでやろうと思っていたけれど、あの社長が、アタシに頭を下げた。

その事でアタシは、子供を堕ろす決心をした。

でもアタシは、本当は産みたかった。

無国籍のアタシが子供を生む。社長の助けがなければ、この子は絶対に不幸になる。

でも産みたかった。

無国籍のアタシは、何物でもない。

だからこそ、生きた証が欲しかった。

パチンコ台の裏ストックで気分が悪くなり、うずくまっていたとき、あの人が心配してアタシに声をかけて来た。

アタシの心は、よほど弱っていたのだろう。

アタシはあの人に全てを話すと、今まで我慢していたことが全て出てきたように泣いた。

あの人は、心配そうにアタシを見つめた。

でも、抱きしめてはくれなかった。

あの人は、アタシをいくつもの役所につれて行き、アタシに戸籍を作ってくれた。

そしてアタシは、社長に土下座をして産まして欲しいと頼んだ。

社長は怒りはしなかったけれど、心底困ったような顔をした。

奥さんとの兼ね合いという事は、誰の目にも明らかだったので、アタシはパチンコ屋を辞めた。

その時アタシには、まだ戸籍はなかったけれど、確実に戸籍が貰えるところまで来ていたから、何も恐い物はなかった。

社長に抱かれて貯めたお金は、百万以上有ったし、社長は選別にその三倍のお金をくれた。


一度だけ、あの人に抱かれた。

アタシの戸籍が出来たことと、パチンコ屋を辞める事が出来たお礼で、アタシはあの人と食事をした。といっても、普通のファミレスだ。

横に乳飲み子の娘もいた。

その姿だけを見れば、本当にタダの家族だ。

家族で食事をする。

たまに赤ん坊がぐずり、妻があやす。

そしてまた向き直り、夫と笑顔で話しながら食事をする。

なんてことも無い、どこにでもある風景。

普通の人なら、幸せとも言えないほどのタダの日常。

でもそれは、その時のアタシ達にとっては、やっと手に入れた幸せだった。

アタシは、このままあの人と暮らしたかった。

それが愛なのかどうか、その時のアタシには分らなかった。

そのあとアタシ達は、近くの安宿に入った。

あの人に抱かれた時、社長には感じられなかった何かを感じた。それは快楽に支配された物ではない、何かだった。そこにあったのは、快楽ではない、幸福感だった。

こんな幸福が、この世には有るんだとアタシは思った。

あの人に抱かれたあと、泣く娘を抱き上げたとき。あの人が娘共々後ろからアタシを抱きしめた。あの瞬間がアタシにとって、一番幸福な時間だった。その幸福感は、あの人と体を合わせたときとは、また違う幸福感だった。

この幸せが続けばいい。

いえ、続いてほしい。そう、その時のアタシは強く思った。

でもそれは、感謝と別れの儀式だった。



風の噂で、アタシがパチンコ屋を辞めたと、あの人もどこかに行ってしまった。

アタシは、乳飲み子の娘がいたので、託児所のあるデリヘルに住み込みで働いた。

託児所とはいっても、手の空いている女の子が、代わる代わる見ているだけの託児所だった。

でも子供がいる子は他にもいたので、子供がいる大きな家族のような感じだった。

娘が預けられるくらいまで大きくなると、アタシはデリヘルを辞めて、小さなアパートを借りた。

そして、昼の仕事を見つけて働いた。

そこからは、娘の成長だけを楽しみに生きてきた。

昼の仕事で、仲良くなった友達に、そのときの状態を言うと、大体同情してくれた。

シングルマザーで、娘を育てるためだけに生きているように見えたらしい。

でも、アタシは幸せだった。

だって、自分で部屋を契約出来て、仕事に就ける。

娘の検診のお知らせや、小学校の入学の案内などがちゃんとと送られてくる。

それが、どんなに幸せなことか。

娘は、勉強が嫌いだと駄々をこねることがあったが、学校で勉強が出来ることがどれほど幸せなことか。

でも、そんな事で駄々をこねられることすら、娘は幸せなんだと思った。

アタシには、そんな事も出来ななかった。

みんなあの人のおかげだ。



私はこの交差点を見下ろす鳥、人は私をクロスロードの鳥と呼ぶ。

昔、偉い市長だかがブロンズで私を作り、ここに設置した。

以来、様々な人間を見て来た。

全く人間とは不可解な生き物だ。


愛していたのなら、なぜ男と暮らさなかった。

男がどう思っていたかなんて分らないのに。

男は、女を巻き込みたくないと思っていたかもしれない。

でも、何かに巻き込まれようと、それを踏まえても幸せになれたかもしれないのに。

男と暮らすことが、女には幸せだというなら、なぜその幸せを諦める。その上で男に捨てられても、今となにも変わらなかった。

お互いが望んでいたことを、お互いの勘違いで諦める。なんと愚かな。

人間とは不可解な生き物だ。

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