もう、苦しまなくてもいいんだよ

天野蒼空

もう、苦しまなくてもいいんだよ

「やっぱり、なんとかしないといけないんだと思う」


 最近の君はいつもこんな事を言う。昔は「おいしい」って喜んでくれていた晩ごはんにも手を付けないで、しかめっ面をしている。


 冷蔵庫のビールが二週間前よりもストックする数が多い。毎晩、会社から帰る時に半ダースの箱を一つ買って帰るようになったのと、一日二本までだったのが多い日だと五本も飲むようになったからである。


 これでは君の体が心配だ。


 その上、外食かスーパーのお惣菜ばかり食べている。偏った食事に、大量のアルコールは体に良くない。バランスの良いものや、肝臓をいたわってあげられるような食事を作っているのに、君はそれに全く手を付けない。


 家に帰ってからすぐに目に入るはずの、食卓の上に並んだできたてホカホカの晩ごはんはそこに無いかのように扱われる。皿が並んでいる場所を避けて君はビールとおつまみを並べる。燻製チーズとバターピーナッツがレギュラーメンバー。たまに枝豆とさきイカ、週に一度くらいはビーフジャーキーも並ぶ。


 そして、晩酌とシャワーが終わったあとに、ビールの缶やおつまみの入っていた袋と一緒に、皿の中身もゴミ箱に捨ててしまう。


 なんでそんなひどいことをするの?


 昔は美味しいって喜んでくれたのに。そんな酷いことをするなんて、君が君じゃなくなってしまったみたいだよ。


でも、私は知っている。君がゴミ箱に私の作ったご飯を捨てる時に、すこししょんぼりとしていること。ご飯って気分じゃなくてお酒だけがよかったから、食べられなかったことを後悔しているのでしょう。


 だから私は毎日君のために、晩ごはんを作る。家の掃除も毎日してあげる。忙しくて皿洗いを忘れている日は、代わりにやっておいてあげる。ごみの分別だって、君が間違えていたら直しておいてあげる。資源ごみが溜まったら、先に捨てておいてあげる。洗濯物は乾燥まで全自動のドラム式洗濯機だけれど、皺にならないように畳んであげる。もちろんワイシャツにはパリッとのりを付けてアイロンしてあげる。朝は会社に遅れないようにカーテンを開けて起こしてあげる。


 だって、起きてすぐに私のことを見つけちゃったら、君は喜んで仕事どころじゃなくなっちゃうでしょ?


 君は悩んで、苦しんでいるから、いつでも私が君のお世話をしてあげるの。ずっとずっと君の面倒を見てあげるの。


 でも君は苦しそうにしている。


 今の上司の声が大きいから? 取引先の担当者さんの口臭がきついから? 最近残業が多いから? 健康診断の結果が良くなかったから?


 順番に考えていったら、一番思い当たるものが浮かんできた。


 後輩の女の子に絡まれているからじゃないかしら。


 ああ、きっとそうよ。あのナチュラルメイクのような厚化粧の女は、化粧だけじゃなくて性格もああなのね。自然なふうに振る舞うフリして、目一杯ぶりっこしているのよ。君は優しいから、あの女に絡まれて困っているのね。さり気なくボディタッチが多かったり、わざわざ飲み会の時に君の近くに座ろうとしていたものね。歓迎会の時にアルハラしようとしていた上司からかばってもらってから意識し始めたってところかしら。ああ、こんなに君が悩んで、苦しんでしまうなら、もっと早く手を出すべきだったわ。会社のことだし、急に人が抜けたら君が困るかもなんて、後回しにしてしまったのがツケね。


 大丈夫。もう、苦しまなくてもいいんだよ。


 私、お掃除は得意なの。







 きれいにお掃除したのに、君はもっと苦しそうになってしまった。今日は休日だと言うのに、朝からずっとビールばかり飲んでいる。顔を真っ赤にして、飲むペースは一向に落ちない。机の上は空になった缶でいっぱいだった。


「どうしてこんなことばかり起こるんだよ」


 君を苦しめる人、君を悩ます人、みんなみんなお掃除して来た。君がいつも苦しまないように、私はいつも全力で尽くしてきた。なのに、なんで君はまだそんなに苦しそうにしているの?なんでそんなに泣きそうなの?


「もう、やめてくれよ。やめてほしいんだよ。俺はずっと、夢を見ているのか?ここは現実じゃないのか?なら帰らせてくれよ!」


 ダンッ。


 君の拳が机の上に振り下ろされる。空になっていたビールの缶が数本、横に倒れる。


 私はどうすれば君がもう苦しまなくて済むのか、ようやくわかった。


 それは君がもう苦しまなくて済む方法で、君が絶対に私のそばから離れなくなる方法だ。


 天井裏の板と板の細い隙間から、私は必要なものを通販で注文する。ちょっと入手が特殊なものだけれど、少しだけ嘘をつけば大丈夫だ。荷物が届けばすぐにでも実行できる。荷物はすぐに届かないから、それまでの間、まだ君が苦しみの中にいるのだと思うと少し心苦しいが、もう二度と、苦しまなくて良くなるからそこには目をつむってもらおう。




 荷物は思ったよりも早く届いた。


 しかし、君のことを待たせてしまっている。


 大丈夫、もう、苦しまなくてもいいんだよ。


 時計は二時を指している。カーテンの隙間から、月明りが足元にこぼれ落ちる。ベッドの上の何も知らない君は、口を少しだけあけて、すー、すーと寝息を立てている。穢れを知らない子供のようなその顔は、今日も口吻をしたくなってしまうほどに愛おしい。掛け布団からはみ出している引き締まった四肢は、頬ずりしたくなってしまう。柔らかくてくせっ毛混じりの君の黒い髪を指先でそっと触る。


「ん、んー」


 言葉になっていないものを発した君は、ごろり、と寝返りを打つ。


「もう、苦しまなくてもいいんだよ」


 右の手のひらの中に隠していた薬を、ゆっくりと君の口の中に流し込む。君が暴れ出さないように、左の手で君の手を握る。ゴツゴツと節のある、男らしい手。昔はあんなに小さくてふにふにとしていたのに。


可愛さのほうが上回っていた頃のことをぼんやりと思い出す。


 

 君は隣の家に住んでいた。物心ついた頃には一緒に遊んでいた、いわゆる幼馴染みというものだ。君は私より二歳年下で、いつも私の後ろをついて回っていた。


 背が小さくて、気も弱くて、でも優しい子だった君はいじめられっ子だった。餓鬼大将の近所の男の子に絡まれては、いつもべそをかいていた。そんな君を見つけるたびに、私は君の敵をみんなやっつけてきた。スカートよりもズボンのほうが似合う女の子だった私は、いつも君のヒーローでいようとしていた。


 私が君の敵をやっつければ、君が笑ってくれる。それがとっても幸せだった。


「大きくなったら結婚しよう」


 そんな言葉が出てきたのは、小学校低学年の頃だったと思う。


「うん、約束だよ!ずっとずっと一緒にいようね」


 小指と小指を結んでした指切り。守らなければ針千本。私はずっとずっとその約束を守ってきた。


 時がたつにつれて、君はかわいいなんて言葉は似合わなくなってきた。中学では陸上部、高校ではテニス部に入っていた君は、体つきががっしりとしてきて、背もぐんと伸びた。私の後ろに隠れているような君は、私よりも大きくなった。


 でも、優しいところはずっと変わらなかった。笑った時に顔がクシャってなるのも変わらなかった。何をするのも丁寧なところも変わらなかった。がんばりやさんなところも変わらなかった。


 ずっと、ずっと見てきたから知っている。


 そして私はそんな君が、今この瞬間までずっとずっと好きなのだ。心の底から愛しているのだ。この気持は今後も変わることがないだろう。


 もう私にとって、君は全てなのだ。


 君の部屋の合鍵を作ったのも、君の部屋のあちらこちらに隠しカメラをつけたのも、君の持っているかばんの全てに盗聴器をかけたもの、君のスマホにGPSをつけていつでも君がどこにいるのか分かるようにしたのも、君の部屋の天井裏に住むようになったのも、君のことを苦しませたり悩ませたりするものすべてをお掃除したのも、全部、君のためなのだ。


 私は今この瞬間も、君のために生きているのだ。






 君の体が痙攣を始め、口から泡が溢れだした。


「大丈夫だよ。すぐに楽になるからね」


 ゆっくりと眠っていたはずの君が目を開ける。その二つの瞳は私を捉えると大きく見開かれた。


 しかし、そのまま君は動かなくなった。


 優しい手付きで君の瞳を閉じさせる。まるでふっかけられた喧嘩に負けて泣いていたあの日の君をなだめているような手付き。


「これでもう、苦しまなくていいね。よかった」


 ボケットから手のひらサイズの箱を取り出す。


「結婚式、式場で挙げられなくなっちゃったから、今ここで誓うね」


 箱の中からプラチナでできた結婚指輪を、君の左手の薬指にはめる。それからペアになる指輪を私の左手の薬指にはめる。


「ずっとずっと君と一緒にいることを誓います」


 額にキスを一つ落した。

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