心を合わせる・力を合わせる
無名の人
心を合わせる・力を合わせる
誰でも、中学校の理科で「力の合成」を学んだ記憶があるだろう。いわゆる「平行四辺形の法則(ベクトル量の加法)」である。2つの力の向きが同じならば合力の大きさは最大になるし、逆向きならば場合によってはゼロ(運動会の綱引き状態の「つり合う2力」)になる。ここで学ぶべきことは、「1+1=2」にも「1+1=0.5」にも「1+1=0」にもなりうるという事実である。そんな小難しいことを言われなくても、皆さん直感的に「力を合わせる = 協力する」ことの有用性はご存じであろう。
生活のさまざまな場面で、「心を合わせる」「心を一つにする」といったフレーズを耳にすることがある。皆さんから「斜に構えた物言いをするな」と叱られそうだが、正直なところ「力を合わせる」というフレーズに比べると少なからぬ違和感を覚える。「多様性・個性の尊重」「みんなちがって、みんないい」(金子みすゞ「私と小鳥と鈴と」)「社会的包摂(social inclusion)の重要性」などの概念を若い人たちに学んでもらう立場の者としては、彼らに「心を合わせなさい」「心を一つにしなさい」などという言葉を発すると、当然の帰結として究極の自己矛盾・自己否定(少なくとも二枚舌(ダブル・スタンダード))に陥ってしまう心配が生じるからである。
「心を合わせる」というフレーズで、1990年代の古典的SFドラマである「Star Trek: Deep Space Nine (DS9)」に出てくる集団的意識を有する機械生命集合体「ボーグ(Borg)」の世界を想起してしまうのは私だけだろうか。少なくともドラマの中では、「ボーグ」に取り込まれて「意識が同化 = 一体化」してしまうことは、「一人称単数(私)のない世界」で「非人間的」かつ「不幸」なこととして描かれていたように思う。因みに、ボーグに同化された個々の生命体を「ドローン(Drone)」と呼ぶのであるが、現実世界の方でも、ウクライナ紛争で「攻撃型ドローン」が活躍していることや、国連加盟国で「権威主義的国家」が多数派になりつつあることなどを耳にするようになった。そこに「一人称単数の危機」を感じるのは杞憂であろうか。
アジア農耕民族における「同調圧力・相互監視型社会」は、稲作の生産性の向上には大いに寄与したのであろうが、その一方で、「村八分 = 社会的いじめ」「五人組・隣組 = 不条理な連帯責任制度」「会社人間・濡れ落ち葉族 = 一人称単数の喪失」などの弊害も生んだように思う。わかりやすい例を挙げれば、「一億火の玉 => 一億総懺悔」という変わり身の早さに隠された究極の無責任体質(形式的にみんなで決めたことにしておいて、万一失敗してもみんなの責任にすることによって自らは結果責任から逃れようとする態度)、一部の部員の不祥事を理由に「チーム全体の連帯責任」を問い、当然のように「出場辞退」や「出場停止」を求めようとする一部のスポーツ団体やマスメディアの思考の根底にありそうな、江戸時代か軍事独裁国家を連想させる「制裁 = 人間教育?」のあり方などである。
人間に精神的自由(freedom)を認め、一人一人の心の多様性(個性)を認める限り、我々にできること(なすべきこと?)は、せいぜい心のベクトルの向きをそろえる(正確にいえば、ベクトルのなす角を自発的に小さくしてもらうような雰囲気・環境づくりに努める)ことぐらいではなかろうか。むしろ、ベクトルの世界では、互いに平行なときよりも、互いに直交しているとき(一人一人が明後日の方を向いているとき!)の方が全体の面積は大きくなる。少なくとも私の感覚では、ボーグのように「全員の心が一つになった世界」など「気色悪い」だけであり、「金子みすゞの世界」の方が人類として「より良い生き方」を追求できそうである。
2022.6.12
心を合わせる・力を合わせる 無名の人 @Mumeinohito
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