OOBE

環月紅人

本編

 幽体離脱をした。

 どんっ、と壁にぶつかるような感覚があって、目を開くと天井に張り付いているような姿勢になっていたことに僕は気付いたのだ。

 真下を見下ろすと眠る僕の姿がある。まるで重力が反転したかのような、上下が真っ逆さまになった不思議な体験のなか、天井に尻餅を付きながら確認した僕の両手は朧げな輪郭を描いていた。

 だから、これが幽体離脱か、と思った。


 ただし、どうも思い描いていたものとは違う。幽体離脱って、もう少しふわふわしているというか、それこそ幽霊みたいに壁をすり抜けて浮遊する状態になると思っていたのだ。

 だけど僕の幽体には触覚があるし、天井に対して足を付いて立ち上がることができた。本当に上下が反転したような感じだ。これは面白い。

 どうせこれは夢なのだろうし、行けるところまで行ってみたくなった。


 窓辺に近付いてカーテンを開き、鍵に手を掛け窓を開ける。全てが逆さまだから不思議な気分。眼下を覗くと一面に広がる夜空と月が見えて、頭上にはおよそ三メートルほど離れたところに庭とコンクリートの道路が見える。

 上下反転していると、道路は重くのしかかる蓋みたいで抑圧されているような気分になった。閉塞的でどこか息が詰まる。

 一方でもしもここで僕が飛び降りたら、どこまでも続く夜空に落ち続けてしまいそうだ、と思う。


 ――それもまた一興か、と僕は思い切って身を投げ出した。


 反転した重力に僕だけが則り、天空へ向けて真っ逆さまに落ちることになる。徐々に大地が遠のくに連れて普段通りに通行する車や夜間も働く人々の灯りが見え、あの人たちにいまの僕は見えるのか?と疑問になった。僕だけが夢のなかにいるみたいな感覚だ。

 しばらくして相当な高度に落ちた頃、同じ視点の高さに逆さまの飛行機が見えたので僕は手を振る。届いたかどうかは分からない。

 僕はそのまま落下し続けて、ついに雲で視界を埋め尽くされるようになった。

 肌寒さを感じる。カーディガンぐらい羽織りたい。逆に言うと、その程度の冷えでしかないのも不思議だ。まあ、幽体なのだし、僕自身に体温はないような気がする。


 成層圏を突破して宇宙へと躍り出る。

 ここでふわりと僕を押し続けた重力がなくなって、反転した上下の世界でも、幽体離脱中のこの体でも、無重力とは作用するのだなと感じた。

 すぐ近くに暗い地球が伺えるなか、僕は進行方向を決めあぐねて体を丸め、くるくると回転する。

 近くに、地球の周りを漂う宇宙の塵を発見する。ロケットが捨てた廃材などだ。僕はそのうちの歪んだ鉄板を手に取り、振りかぶって、スローイング。カンッと別の塵に接触する。

 思えば、宇宙なのに音がする。

 まあ、僕が呼吸できているのだからすでにリアリティなんかないか。


 我ながら面白い夢を見る。楽しい。

 そのうち、UFOでも現れないものかと期待した。この幽体離脱体験は新鮮みはあっていいが、宇宙のなかをただジッとしているのはさすがに飽きる。

 ならばあそこにある月を目指してみるか。


 ふんっふんっと泳ぐように幽体を動かしてみた。

 何かを漕げているような感覚はなくてただただ疲れるばかりだったが、僕の気持ちを汲み取るように幽体は徐々に月へと導かれる。

 ワクワクする。不思議な感覚だ。楽しい。


 やがて月へと辿り着いた僕は、しかしそこで一つの問題が生じた。

 月にも月の重力があって、僕の反転した重力体験はいまなお続いているみたいだ。


 近付いたところで触れ合えずに宇宙へ引っ張られ、僕はくるんと身を反転してまたも同じような状況に立たされることになる。

 これには不満を覚えた。せっかく月に降り立てると思ったのに、これではなにも面白くない。


 興が削がれてきた僕はそろそろ夢からの起床を望む。とはいえ、ずっとこのままなはずもないのだから、いつかは勝手に目も覚めるだろうが、自力で戻れるならそれに越したこともない。


 起きろ!


 と念じてみる。効果なし。


「もう終わりー」


 と唱えてみる。これも効果なし。


 ふむ。どうしたものだろうか。

 ここまで夢を見ていることの自覚があって、朝の妄想をしているというのに起きれないとはどういうことだ?

 ひょっとして、幽体離脱って直接体に戻らなければいけない?

 いやまさか。そんなはずはない。もしそうだったら、僕、二度と起きれないし。


 ……サァーっと血の気が引いた。


 いやいや。まさか。いやいやいや。

 ふんっ、と体を力ませて丸くなり、力強く念じる。起きろ起きろ起きろ起きてくれ。もうこの夢には飽きた。そうだ、トイレに行きたい。お漏らししてしまうよ僕。それはダメだろう。ほら、トイレ。トイレに行こう。行かなきゃ。どうした?

 ……………。

 ダメだ、戻れない。どうして。


 暗闇の宇宙のなか、ぽつんと漂う。

 ひょっとして僕、ずっとこのままなのか?

 なにもないここで? 一生? 漂うだけ?

 嫌だ。頬を叩く。痛い。目が覚めない。

 どうして。


 月の重力から吐き出されたときのまま、緩やかな遠心力に振り回されて、僕は独り丸くなっている。

 くるくる、くるくると。

 ずっと囚われている。


 それからどれほどの時間を経ても、僕がこの夢から覚めることはなかった。



 … …… ………


 ………… …………… ………………


 ………………… …………………… ………………………




































                                               』


 ―― ―― ――― ――


*『僕』という自己認識のなかにおいて、薄れていく自覚のなかにはただ一つ『望郷』のような念があった。

 自分は何者か。自分はどこから来たのか。自分はどのようにしてこうなったのか。己のルーツを辿り、自己を確立することでしかこの暗闇の世界において精神を保つことはできない。否、もはや保てているのかすら危うい。

 頭のなかで考えること。頭のなかで描く〝現実〟だったはずの世界が、いまとなっては遥か遠き夢のように感じる。


『僕』という自己認識で生まれ、『僕』という存在はどこで暮らし、『僕』とはどのような人間になり、『僕』はどのようにしてここへ来たのか。

 それらは定かではない。


 むしろ、遥か昔から『僕』はこの場所でこうであったような気がする。


 頭のなかにある『望郷』は退屈を凌ぐための空想であったような気がする。


 それらは否定したいけれど、否定する方法がどこにもない。


 あの町。あの家。あの部屋。あのベッド。

 あの匂い。あの知覚。あの温かみ。あの世界。


 僕がこうなる前の場所へ想いを馳せる。




 幽体離脱




 もはや『僕』にとって、あの場所が本当に存在したのかを知る術は、何処にもない。


(終)

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