出来過ぎた話

無名の人

出来過ぎた話

「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証」になるはずだった先の東京オリンピックをめぐって、相変わらず「スポーツ(利権)の負の側面」をあぶり出すかのような醜聞がくすぶり続けているようだ。(インナーサークルに属する人たちの)利潤の最大化を目指すあまり「出来過ぎた話」になってしまい、当時は(指導監督すべき立場の方々や大手メディアを含めて)皆さん見て見ぬふりを決め込んでいたのに、後になって検証してみると法的に気まずいことになってしまったようだ。(祭りの最中にお堅いことを言うのは無粋なので、文字通り「後は野となれ山となれ」の精神で「心を一つにして」突っ走って「完全燃焼」したのだろう。)この10年あまり、様々なバージョンで目にしてきた「お決まりの形」の集大成だと思えば特に目新しいことでもない。むしろ壮大な「変奏曲のフィナーレ」にふさわしいと言えるかも知れない。と同時に、昭和初期の(振り返ってみると)無謀な意思決定の連鎖もこのような「時代の気分」の中で淡々と違和感なく進行したのかも知れない、などと祖父母の世代の日常に思いを馳せるきっかけにもなる。


振り返ってみると、我々の生活は「出来過ぎた話」にあふれていることに気がつく。組織のメンバーが不祥事を起こしたとき、「勤務態度は真面目」で「仕事熱心」な良い人が、偶発的に「思いがけないこと」をしでかしてしまったことにするかのように、また、それ以上周囲に害が及ばないよう「防火壁」を設けるかのように、「俄かには信じ難い証言」がテレビや新聞で報じられる。これも「歌舞伎の型」のように非の打ちどころのないほど完成された日本的「様式美」かも知れない。様式美といえば、入学式・卒業式等のセレモニーにおける(しばしば代読される)来賓挨拶や生徒代表挨拶の類も、個人の「生きた言葉」よりも前例踏襲の当たり障りのない言葉の羅列の方が好まれるようではある。(セレモニーとはその程度のものに過ぎない、と言われればそれまでではあるが。)


教育の現場も「出来過ぎた話」と無縁ではない。最近の検定済み教科書を読んでみると、これから学ぶことの目標・対話形式のQ&A・振り返り(ここまでは何となく納得できる)に加えて、「模範的な感想」まで書いてあることに驚いてしまう。ひょっとすると、先生方はこのような「出来過ぎた話」に沿って1時間近い授業を展開させるために、分刻みのシナリオと板書・プリントを「完璧に練り上げて」本番に臨むのだろうか、と妄想してしまう。場合によっては、「研究授業」と称して同業者の目の前で、本来予測不能なはずの「生徒の疑問や反応」まで完全にコントロールすることを目指して、どこか嘘っぽい「理想的なストーリー」まで事前に想定して「完璧な学級経営」のテクニックを競わなければならないとすると気の毒ではある。(自分が学生時代に受けたような、しばしば脱線しつつも、雑談・世間話も交えた「全人的教育?」とでも言うべきドキドキするような授業の「居場所」はなくなってしまったのだろうか。)


VUCA時代(Volatility 変動性 / Uncertainty 不確実性 / Complexity 複雑性 / Ambiguity 曖昧性)を生きる次世代の皆さんが、様式美と予定調和に満ちた教育を受け続けることに一抹の不安を覚えるのは私だけではあるまい。少なくとも、教科書に(大人が期待する)「感想の表明の仕方」まで明示してあるような授業ならば、「参加しなくてもわかる」はずだし、感性に従って「自分の言葉」を語ったとしても、(不幸にして力量不足の教員に遭遇した場合)「わきまえない生徒」として白い目で見られかねない。何の根拠もないが、不登校の児童生徒の数が増加の一途を辿っている現在、学校が必ずしも「行きたい場所」ではなくなりつつある理由の一つではあるのかも知れない。水戸黄門の番組終了数分前になると「お約束の大立ち回りと印籠」が出てくる究極のワンパターンとでも言うべき展開は、視聴者に安心感とカタルシスを与えてくれるので、私も大いに楽しんだものである。しかし、本来ダイナミックな知的探究の場であるべき授業が「聞く前からわかりきった話」に堕してしまうのならば、「完璧な予習」も「理想的な振り返り」も不要どころか有害でさえある、と私は思う。


2023.2.20

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