第50話 愛しているなどと、いえない

 すっぽりと、腕に包まれてしまった。男の唇がうなじを這うのを感じながら、テレーズはふと、天井を見た。住んでいたときはまったく気にもとめていなかったが、真っ青な花の唐草模様アラベスクがいちめんに広がっていた。


 彼の唇がうなじをついばむように這うのは、嫌ではなかった。その唇が、耳朶じだをそっと食みはじめても、まったく嫌ではなかった。手がそっとテレーズの胸に触れ、揉みしだきはじめても、全く嫌ではない。「優しい従兄」からされる、許せる範疇はんちゅうを超えたことをされても、嫌ではなかった。いや、むしろ幸福だ。夢に見てまで望んでいたものが与えられているから。


 と、同時に、本当に、自分の愚かさに呆れる。


 ——わたしはなにをしているんだ。


 腕に力が込められ、指が襟ぐりから素肌の胸へ入りかけたとき、テレーズは、自分の胸をまさぐる手を握りしめ、自分の身体から離した。


 レオンが不審な顔をした。もう一度胸に手を伸ばされたが、テレーズは身をよじる。テレーズの過去の恐怖を知っている彼は、ああ、と苦笑した。


「……テレーズ様、大丈夫です。私ですよ? どうしても怖ければ、目を閉じて」


 テレーズは焦った。


「……だめ」

「なにがだめなの?」


 女性から拒絶されるという発想のない彼は、笑ってテレーズを腕に閉じ込めたまま、優しく首をかしげる。


「だめだと思う」

「どうして?」


 しどろもどろになりながら、テレーズが答える。


「あなたは体調が良くないし、——妹の夫になってしまったから、その——」


 すると、彼が「可愛い」とくつくつと肩を震わせた。白いシャツだけの姿であるのに、華麗な威容に、テレーズは息を飲んだ。翡翠の瞳が、傲岸不遜に細められる。


「あいかわらずほんとうに可愛い。体調を気づかってくれるなんて。だが、差し障りがない程度には良くなった。それに、私は閨にあげてはいけない人などいない。安心して、テレーズ。すべて許されているから」

「すべて?」


 だから人の妻に手を出し、その夫を国外追放に処したの、お父様のおつくりになった法律を無視して、とテレーズは口走った。すると、彼が瞳を大きく見開いた後、開き直ったように驕傲きょうごうに笑う。怒ったように、テレーズの服の襟をやや強引に暴いていた。


「そう。そうだよ。そういうことも許されている。私には。あれはいつだったかな。でもよく覚えていない。先王陛下が定められた法には欠陥があって……それを使ったっけか」


 父の作った法律に欠陥があることを、妹の夫に胸を揉みしだかれながら説明されているのに、まじめなテレーズは耐えられなかった。

 つい、と血を流すように涙を流した。男は、早くもとろけはじめたのだと勘違いして、テレーズをゆっくりと優しく寝台に倒す。冗談はやめて、耳に甘く、真意とねがいを吐いた。


「テレーズ、本当に、本当に申し訳なかった。うそをたくさんつくはめになってしまった。貴女をひどく傷つけた。子供を儲けたから、もう引き裂かれることはない。貴女と結ばれたい」

「シャルロットと別れるの?」

「ああ」


 その途端、テレーズのあおの瞳がひどく揺れ、大粒の涙がこぼれた。

 レオンはそれを、感動によるものだと誤解して、歓喜のうちにテレーズの柘榴ざくろ色の唇をむさぼった。

 だが、ひどく舌に痛みが走る。唇を離すと、ぽたりと血が口からあふれた。

 テレーズに舌を噛み切られた。彼女はひどくむせながら、身体を起こした。


「……わたくしはそなたの何だ?」


 その声と瞳が闇にまみれていた。この世で一番愛しいひとです、と言おうとして、レオンは口をつぐんだ。


「……お許しください」


 テレーズはレオンの天使。彼の光。彼の半身。そんな人間に、しかも、最も敬愛する主君に「愛している」など軽々しいことは言えない。


 テレーズはためいきをついた。

 どうせいくら愛しても、レオンはテレーズを愛しはしない。その幸福をいくら願っても、レオンは幸せそうな顔をしていない。追い詰められた顔ばかりして、手を恐ろしく冷やして、女性ばかり追いかけている。

 彼は彼自身を大事にしない。愛していないなら幸福になってほしいというテレーズの気持ちを無視する。


 テレーズはするりと表情を変え、にっこりと笑う。寝台から離れ、服を整え直し、髪のほつれも直したあと、口を押さえたままのレオンを寝台に寝かす。


「熱があるからって、変なことばかり言ったり、したりしないで。仕事が忙しすぎたのね。ゆっくりおやすみなさいな」


 がちゃがちゃ、と鍵を開ける音がした。


 フレデリックが――レオンの父が踏みこんできた。その空間に、目の前で寝台に横たわる息子と、その息子を見下ろしながらその脇に座る女主君に濃密な残滓ざんしを見て、表情をこわばらせた。


(第二部へ)

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谷底に咲くダイアンサス ことり@つきもも @coharu-0423

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