第49話 妖女《セイレーン》の歌声のよう
気を失い、周囲が抱きおこしているレオンを、テレーズはぼんやりと見ていた。
自分より三歳年上のはずだから、彼は二十五歳になる。いまだに、ほんとうに美しかった。雪花石膏のように白い肌、閉じ合わされた白金の長い睫毛、乱れている白金の巻き髪、だが、華麗なだけだった以前にくらべて威厳が添えられている。
——いい? レオン殿下に近づいてみなさい。少しでも会ってみなさい。男の子とエリザベートは死ぬからね。
胸に刻みつけられたマルグリットの言葉。自分が愚かで阿呆でしかないという証拠の、いまの言葉にならない、駆け寄りたいという
その場を立ち去ってしまえばいいのだろうが、そんな無情なことはできない。
すると、侍従のひとりが、テレーズにすがってきた。
「女大公殿下、どうすればよろしいでしょうか。お部屋をお貸ししても……」
そうだ、とテレーズは思い出す。兄が臥せていてレオンも前後不覚である以上、この場ですべてを差配すべきは自分である、と。
テレーズは急いで答えた。
「お部屋を用意して差し上げて。お医者様も早く呼んで差し上げて」
声がかすれている。だが、兄の宮殿を貸すくらいなら、伯母も許してくれるだろう。
みながその通りに動いた。ぞくりとするほど。フレデリックさえ、テレーズのことばの通りに動く。
レオンは国王の居室とはすこし遠い、だが格式のある部屋へと連れていかれた。テレーズはそれを見守ったあと、その場を去ろうとした。
だが、侍従のひとりが急いでテレーズのところへとまたやってきた。
「殿下、大変申し訳ございませんが、ヴィニュロー公爵殿下はこの宮殿でお休みなさることが大変恐れ多いと申されておりまして、その……、フルール宮殿へ連れて行ってほしいと。姫殿下の御座所でございますが……」
テレーズは考えこんだ。
兄とひとつ屋根の下にいたくないという彼の気持ちはわかる。
アンリとエリザベートをスリゼー公爵邸にまたあずけて、自分はどこにおもむけばよいだろう。兄に願ってこのラ・メール宮殿に泊まるのがいちばんいいだろう。
「わかりました。整えておきます」
付き添いの女官に、自分の荷物を取ってくることと、アンリとエリザベートをスリゼー公爵邸へあずけることを頼む。女官はうなずいた。
しばらく周囲はばたばたとしていた。フレデリックが部屋の外に出て、医者を探しにでかけていった。テレーズは回廊に突っ立ってぼうっとしていたが、次第に疲れてどこかの部屋で休ませてもらおうと、さまよいあるいた。
すると、テレーズを呼ばわる声が聞こえた。まるで
開けたら、アンリとエリザベートは死ぬのに。ふたりが生きる目的であるのに。ということは、ふたりがいなくなれば、テレーズは生きている意味がないのに。
扉を閉めて、鍵をかけて、女官も侍従も入ってこれないようにすると、彼女は小走りで、寝台に駆け寄った。足置きを持ってきて座り、寝台のなかで休む彼の手を握った。ひどく冷たかった。
「……冷たい。また」
「——テレーズ様?」
「熱はあるの?」
「少しあるみたいです。……テレーズ様」
人を捉えて離さない翡翠の瞳が、テレーズをまっすぐ見据えた。
「少しだけ、そばにいてくださ……」
それを言い終わらないうちに、テレーズが近くにあった水盤に布を浸し、額に当てた。レオンは気持ちの良さそうな顔をする。
「どうして、だれもこういうことをしないのかしら」
「この宮殿の主人は私を
「いいすぎです、兄はあなたをそんなに厭うてはいません」
「そうかな。今日も拝謁しましたが、先王夫妻の肖像画ばかりご覧になっていました」
「兄は過去が懐かしいのです。いろいろありましたから。それを責めることは、わたくしはできません」
「そのせいで貴女が引き取っているアンリ殿下は国王になれない」
テレーズは眉根をひどく寄せた。
手にもつ濡れた白い布を見る。
——この濡れた布を広げて、彼の美しい顔を覆ってしまいさえすれば、しばらくしないうちに彼は呼吸ができなくなる。そうすれば、お兄様はご気分が和らぎ、アンリが王太子となるように事が進む。彼の遺骸を引き取れば、永遠にわたくしだけのものになる。
テレーズはぶんぶんと首を横に振った。何を考えているのだと。遺骸と一緒に住んでも話もできないし、つまらない。
「病人らしくないくらいよく口がきくわね」
「そう。貴女と口をきいているうちに元気になりましたから」
レオンは起き上がった。テレーズは手首を握られ、引き寄せられた。
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