8、再燃
第48話 声が聞こえた、テレーズの。
次期国王とはいっても、ヴィニュロー公爵であり、国王のもとへときおりは参じなければならない。
秋の深まっていったある日、レオンは、どうしようもなく侮蔑の感情しかいだけない国王のもとへ、気まぐれにご機嫌うかがいにいった。ラ・メール宮殿は海を思わす大きな池を持つ宮殿で、国王はその宮殿の奥深くにいた。
謁見の間へおもむいても国王はいない。いつも自室にこもっている。王の自室にいけば、寝台のうえで、ぼんやりとして一点を向いている一歳年下の青年がいるだけだった。彼は泣いていた。
哀れだとはいっさい思わなかった。優柔不断で決断力がなく、妻と通じるような男を重用し、妹を筆舌に尽くしがたい苦痛にみまわせたうえ、妻が生んだ子も我が子と認めないような度量の狭い男のどこに、同情する余地があるだろう。
来訪をつげると、国王はふりむき、テレーズそっくりの蒼の瞳で、レオンを冷たくにらんだ。
だが、国王はそれ以上何もしてこず、レオンも「では、お身体をご自愛ください」とだけいいのこして部屋を離れようとした。いつものとおり。
回廊に出て、シエル宮殿に戻ろうとすると、声が聞こえた。
テレーズの。
なんとなく、急いで身を隠した。
テレーズは回廊の向こう側で、しょんぼりするレオンの父と話していた。
「お兄様はそんなにお悪いの?」
「ええ。最近は起き上がることもおできになられません。ひと目、妹ぎみのお姿を拝見なされば、少しは、と思いましたが、なかなか難しゅうございましたな……」
「客人が来ると追い払われてしまったわ」
テレーズはレオンの父をまっすぐみていた。すがるように。不安そうな顔をして。
冷静に考えれば、兄が床から起きあがることができず、兄を見舞ったらしい妹の反応としては当然だっただろう。自分たちの世話をする人間に不安の表情を見せるのも当然だ。しかも自分は隠れていたので、テレーズから自分は見えないはずだった。
だというのに、そのときのレオンは、ひどく、心が焼け焦げた。
クラヴサン奏者のプレヴェールはテレーズとのレッスン中、とんでもない暴言を吐いたため、テレーズのまえを去ったという。
プレヴェールとテレーズを引き離せたというのに、テレーズは自分を見ない。
どうしようもない兄の国王を見る。生真面目で面白みのないレオンの父を見る。
怒りに身を任せそうになっていると、ラ・メール宮殿の女官たちが、こちらを向いて
いつもならば微笑みかえすはずなのに、吐き気がした。
まるで母が集団となって秋波を送ってきているような気分になって、ぞわりと激しい悪寒が走り、視界が暗転した。
「大丈夫?」
なによりも欲していた声が聞こえ、誰かが優しく抱き止めてきたような気がする。
***
遺言状の前半を公開し、モーテルピュイ大公領以外に関する自領の相続を明らかにしたテレーズは、アンリのことを兄がどう思っているか確認する機会をうかがっていた。
そして、程よい機会であろうと、秋のある日、フレデリックが国王の不調をうったえ、お見舞いをなさってくださいと願ってきたので、うなずいた。
ひさしぶりに会う兄は、思ったよりやつれてはいなかったが、臥せっていた。父と母の肖像画を枕もとにおいて、ぼんやりと見ていた。
「お兄様」
それでも、兄はテレーズがそういって寝台の近くへ寄ったとき、微笑んできた。
「テレーズ。よかった。心配してたんだ」
テレーズの頬に、兄は手を当てた。
「本当に、よかった」
そのあと、いくつか世間話をした。テレーズは庭づくりに凝っていた。クラヴサンにも。ただ、クラヴサンの教師とうまくいかなかったという話をした。
「そいつは不敬だな。二度と我が国に戻ってこれないようにしよう。フレデリック、テレーズに、新しいクラヴサンの先生を紹介してあげて」
フレデリックは「はい」と微笑んだ。
「やはり若い男はよくないかと思いまして。もう少し別の教師を用意いたしましょう」
兄の話も聞いた。だが、兄は未来をみていなかった。テレーズ以上に。
フレデリックが目の前にいるというのに、その息子であるレオンへの恨み言を言った。
「……あいつばかり、注目されている気がする」
思い切って、テレーズは兄に尋ねた。
「では、お兄様は、ご自分のお子様のことをどうするおつもりなの」
兄は
「こども? 私に子供が?」
「ええ。アンリが」
突然、兄が悲鳴をあげた。
「あの子は――私の子じゃない! あの売女が、オーギュストを――可哀想な前のスリゼー公爵を誘惑して産んだ子なんだ」
「お兄様」
「あの女は明るく素朴なふりをして、リジーを厭うていた! あの無邪気な天使を!! もう私はそこからして信用ならなかった。きっとスリゼー公爵以外にも男を引き入れていたにちがいない! あの子は私の子じゃないんだ」
テレーズは兄のあまりの激昂に、言葉を失った。その顔色を見て、兄は「あ」と何か気づいたように口をつぐんだ。
「そうだ、テレーズは、……その子を育ててくれているんだったね。ごめん。そうだ。ほんとうに私はふがいない兄だ」
「違います、お兄様、アンリは」
兄は涙をためていった。
「本当に最近おかしいんだ。もう……私は。ああ、そうだ、テレーズ。客人が来るから、帰ってくれないか」
テレーズとフレデリックは絶句し、一礼してその場を去っていった。
しばらくほかの女官や侍従と世間話をし、テレーズは回廊に出て、しょんぼりするフレデリックに声をかけた。
「お兄様はそんなにお悪いの?」
「ええ。最近は起き上がることもおできになられません。ひと目、妹ぎみのお姿を拝見なされば、少しは、と思いましたが、なかなか難しゅうございましたな……」
「客人が来ると追い払われてしまったわ……」
そんな話をしていると、突然、ばたりと大きな物音がした。
「殿下!」というざわざわとした騒ぎ声が聞こえる。
突然、テレーズの横にいたフレデリックが急ぎ足で、そちらのほうへ向かっていった。あとを追うと、倒れているひとを見て、テレーズは心が千々に引き裂かれ、涙が出そうになった。
レオンがフレデリックに抱きとめられていた。
「……大丈夫?」
そう声を出すので精一杯だった。
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