恋の季節と云うけれど 1

「きゃっ……え、」


3月下旬。

もうそろそろ桜が満開だという頃あいに、彼女が見たのは亡霊だった。

仕事帰りのこと。自宅の隣にある公園を通り過ぎようとしていた彼女は、思わず足を止めた。

花あかりの下。

見事な1本桜の下にそれはいた。

亡霊、いや。

よくよく見たら白いシャツを着た男である。


「………」


その男は桜をジッと見上げていた。

シンと閑静な住宅地にある小さな公園である。風に靡く桜の花たちの囁き声だけが聞こえていて、そんな中、男は静かに泣いていた。

満月と花に照らされて、彼女には男の表情がよく見えたのだ。

闇より深い黒色の髪の下、青白い顔をした細身の男は、まるで屍人のように魂ここにあらずという横顔をしていた。

彼の頬にはツッと朝露が伝うかのように涙が流れている。ポロリホロリと落ちる涙の雫が煌めいて、まるで目から結晶が溢れ落ちているようだ。距離があって、そこまで彼女には見えていないが、なんとなく雰囲気で、男が泣いていると彼女には伝わっていた。


「……、っ」


屍人。

否、この世に非るモノ。

彼は男だが、それこそ今にも月へ帰る輝夜の姫様か。はたまた天使だとか、そういう幻想的な生き物のように、彼女は思えた。

彼女は己の身体を庇うように掻き抱き、口を手で覆い、食い入るように見つめる。

口を塞いでいないと、ほぅとため息が出そうなのだ。

ため息でさえも、瞬きでさえも、彼の耳に届いてしまうのではと思うほどだった。


「……、ッ!」


すると。

不意に彼の瞳がキロッと彼女を見た。

確かに目があって、彼女は思わずハッと細く息をのむ。

石像のように固まっていた身体を、反射的に動かして、急ぎ足でその場を去った。

公園の隣にある、こじんまりとした可愛いアパートの、2階角部屋。家賃が安いのが決め手だった、6畳の和室と比較的広いキッチンがある部屋。

小さな我が家へ駆け込んで、バタンとドアを閉めた。走ったわけでもないのに心臓がドキドキしていた。

電気をつけようとして止める。電気をつけると公園からここの部屋は丸見えだ。

コクっと無意識に唾液を飲み込み、壁に手をつきながら、なぜか忍足で部屋の窓に近寄った。

カーテンをサッと閉めてから、僅かに汗ばんだ手でギュッとカーテンの端を握り締める。

まだいるかしら。思って、ソッとカーテンの隙間から、公園をのぞいた。


「……、」


彼が立っていた場所はほぼ満開の桜の花たちが隠していた。

1分ほど見つめていたが、彼が桜の花からひょこりと姿を現すことはなかった。

まだ居るのか、それとも帰ってしまったか──


「……何してるんだろ」


ふとバカらしくなって、彼女は窓から離れた。

電気をつけて、テレビをつける。ひっそりとしていた空間に、バカみたいに賑やかな音が満ちる。

アウターを脱いでから、くてんとちっちゃな丸いテーブルに項垂れた。

ただの成人男性が、夜の公園で桜の木の下に佇んでいただけ。

何で泣いていたかは知ったところではない。

こんなストレス社会じゃ突然泣きたくなることもあるでしょうし。

彼女は1人心の中で思い、ほっぺたをムニ、と冷たいテーブルにくっつけたままぼんやりする。


「……綺麗だったな」


雫がひとつ落ちるような声で呟いた。











「うそ」


さて、あの幻想的な夜の出来事から3日後。

彼女は居酒屋の個室で絶句している。


「もぉ〜遅いよぉ!」

「こんばんはぁ〜!初めましてぇ♡先にいただいちゃってるよ〜!」

「……ちょっとイロハ。男の人もいるなんて聞いてないんだけど」

「ごめぇん!男の子も呼んでるって言ったら来ないと思ってぇ……」

「あれ?もしかして彼女、男嫌い?」

「そぉなの。5年付き合ってた男に浮気されて以来……」

「え〜!なにそれ最悪じゃん!お姉さんカワイソー!」

「………、」


彼女は小学校以来友人の女の子・イロハちゃんに誘われて来たのだが。

いざ来てみれば、そこには既に出来上がっている友人イロハちゃんと、その隣に同じく出来上がってそうな知らない男。

ハイテンション且つ胡散臭そうな糸目をした、丸メガネの青年だ。テーブルには既に料理やつまみ、お酒の入ったグラスが乗っている。

そして、彼らと対面する座席に、すでに満身創痍で潰れている男が1人。テーブルに突っ伏して潰れている男の周りには、異常な量のグラスが置かれている。

その横がポツンと空いているのは、彼女の席だからに他ならない。


「帰る」

「い゙や゙!帰っちゃやだ!帰っちゃダメ!!」

「っちょッッと!!放してっ!!」

「1杯だけでもいいから一緒に飲もうよぉ!帰っちゃヤぁ〜〜〜!!」

「やだ、も、泣くことないでしょ!」

「あ、あのー、お客様……大丈夫ですか?」

「大丈夫です!!」


彼女は目の下をヒクつかせて帰ろうとするも、イロハちゃんが腰に抱きついて大声で喚き出す。

いわゆる地雷系のイロハちゃんは、しかしメイクが崩れるのも構わず、ピンクのメッシュが入ったボブカットの黒髪を振り乱して泣き出してしまった。

仕方なし。彼女はグラスを下げに来た店員に威勢よく返事をして個室へ戻った。

イヤイヤ我慢して、ギリギリ座席の端まで寄って、潰れている男の横にちょこんと座る。

彼女は押しに弱く、涙に弱い。

溶けたグラスの氷がカランと鳴った。


「へぇ〜!君、小学校の先生なの?」

「……保健室の、ですけど」

「保健室の先生か〜!僕も昔はよくお世話になったな〜」

「え!椿くん保健室によくお世話になってたの?いが〜い!」

「子供の頃は身体弱かったんだよねぇ。今は鍛えてるし滅多に身体壊さないけど」

「んふふっ、そぉだよねぇ〜♡椿くん余裕で4回はデきるくらい元気だもんねぇ〜♡」

「ね〜♡」

「……、はぁ」


今日ほど帰りたい飲みはない。

彼女はカクテルをちみちみと飲みながらどんよりとテーブルの一点を見つめる。

彼女が席についてなんだかんだ1時間が経った。

1時間もいるので、知らないもの同士がいれば身の上話もする。

胡散臭い丸メガネの男は、名前を『椿』と名乗った。

イロハちゃんと彼は、どうやらセフレらしい。

会話の中でイロハちゃんが。


「イロハね、椿くんの人形なの♡イロハ以外にも遊んでもらってる人形がいてぇ、マジうざいんだよねぇ」


と。訳のわからないことを宣っていたが、所詮酔っ払いの言うことである。彼女は疲れた声で「そうなの……」と聞き流した。

その上、椿くんは自身の職業のことについて触れられるとニコ!と笑うだけで何も答えない。

きな臭すぎるし怖い。色々意味不明。

頭が痛い。精神的な意味で。


「んあ゛……う゛〜」

「……!」


早く帰らせてと、彼女が考えていた時。

ずっと隣で突っ伏していた男がモゾ、と動いた。


「ああ、やっと起きた。紹介しそびれてたね、彼は僕のオトモダチ!ほら、お隣の美人さんにご挨拶したら〜?」

「……ああ?」


突っ伏していた、椿くんの友人だという彼。

ユラ、と重たそうに頭を持たげた。

フワフワとした柔らかそうな猫っ毛の、黒い頭を掻きながら、ジロ、と彼女に視線を流す。

彼女はパチ!と一度瞬きし、男を凝視した。

信じられない気持ちで、口から「嘘でしょ……」と細い声が漏れる。

嗚呼まさか。隣にいたのは、確かに、数日前に彼女が桜の木の下で見た男なのだ!


「……誰この女」

「前もって言っておいたじゃない。イロハちゃんのオトモダチだよ」

「………、」


男は彼女の目の前で、ぐあ、と大きな欠伸をした。黒いYシャツから覗いている、赤らんだ首をガリガリ掻きながら、椿の説明に「ふーん」と呟き、彼女をジトッと見つめる。

かの男は、この上なくだらしない奴だった。

ジットリと陰鬱な目の下に色濃く付いた隈。

何日か整えられてないことが伺える髭。

アルコールで赤くなった肌を突き抜ける、不健康そうな顔色。

彼女はそんな彼を見ながら、「ありえない」と思った。

だってまさか。あの夜、天使か何かと思えた存在が〝こんなの〟だったのだ。

あの時見た彼には、散りゆく桜と同じ儚さすら感じた。人間を超越した神々しささえ感じてしまったというのに、実際はこんな有様だなんて。

彼女はショックを受けている自分に気が付く。

こんないい加減そうな男に、一瞬でもときめいたのだと、気がついた。


「最悪……、」

「あ?」

「なんでもないです……」


身を掻きむしりたくなる心地だ。

ペト、と個室の壁に身寄せて、彼女は自己嫌悪に浸る。

こんなダメ男代表みたいな奴、彼女は人生で一度だって好きになったことが無い。

もっと清純そうで、爽やかで、浮気の〝う〟の字も感じさせない、誠実な男が彼女は好きなのだ。

ま、そんな元彼に浮気されたのだが。


「……あんたさぁ、どっかで俺と会ったことある?」

「え」

「え?なになにー?2人とも知り合いみたいな感じー?」

「ッいいえ!今日が初めて!初めましてですッ!」

「ウワッ」


バンッ!と彼女がテーブルを叩いて言えば、イロハちゃんがビクリと驚き、「そんなにおっきな声出さなくても聞こえるよぉっ」とプリプリ怒る。


「確かに、ンなやかましぃ女、俺の知り合いにゃいねぇわ」

「な……、」


彼は半笑いでタバコに火をつけて、勝手に吸い始める。

無愛想で礼儀知らずな言動に、彼女がイラつかない訳もなく。


「……あの。タバコを吸う時は、吸っていいか周りに確認をとるものではないんでしょうか」

「へぇー。吸っていい?」

「今じゃないですっ!!もう吸ってるじゃないですか!」

「お前ほんと活きのいい女だな」

「おっ……お前って、そんな呼ばれ方される筋合いありませんっ」

「だって名前知らねぇもん」

「貴方に呼ばれる名前はありません!」

「お前言ってること滅茶苦茶だけど分かってる?」

「だからお前って言わないでっ!!」

「ッ、せぇ!!耳元で叫ぶな!!鼓膜破れるわ!!」


彼女と彼の言い合いは白熱していく。

椿くんとイロハちゃんは身を寄せあってコソコソそんな様子を観察する。


「初対面でここまで言い合いできるなら、逆に仲良しまであるよね?」

「ね。イロハもそう思う」

「これのどこが仲良しなの!!」

「あ、聞こえてた」

「この子昔っから地獄耳なんだよねぇ〜……」


互いの胸ぐらを掴み合う勢いで言い合いをする最中、椿くんたちの会話を聞き取った彼女が、威勢よく2人へ吠えかかる。

ふざけないでよ!こんな男、友達にするのだってごめんよ!

そう、彼女が続けようとしたのだが。


「あ、」


間の抜けた声を出したのは、椿くんだったか、イロハちゃんだったか。怒っている彼女の顔の向きが、急にグイと変わって。


「………、?」


酔っ払いの彼の唇で、彼女の唇が塞がっていた。

彼女は目を瞑ることもなく、キョトンとしたまま、彼にキスされていた。自分の身に起こっていることが理解できていないのである。しかしそれも一瞬のうちで、すぐにカッと頭に血が上る。


「な、すッ、んっむぁ……っ」


彼を突き飛ばそうとするも叶わない。

彼女の後頭部にはしっかりと彼の手が回っていて、口が開いたが吉とばかりに彼の舌が入り込む。

座席に片腕をつくも、彼の力に押し負けて、ゆっくりゆっくり彼女は押し倒されていった。

彼女が完全に押し倒されてしまえば、後は官能的な音が空間に満ちる。

これを、友人2人は彼女を助けるでもなく、釘付けで見守っていた。


「はわわ……」

「はわわわ……」


椿くんもイロハちゃんも、お互いに縋り付き合い、口を手で覆って乙女の顔をしていた。


「……はッ、」


1分後。

ようやく彼はキスを止めて息を吐いた。

あんまり一生懸命キスをしたので、お酒の力も相まって汗をかいている。

もう言い返す事も出来なければ抵抗する力も残されていない、ふうふうと興奮した呼吸をしながら小鹿のようになっている彼女の上で。


「やっと黙ったな」


四つん這いのまま、口の端の唾液を舐めとって言った。


「……、」

「お」


じわ、と。

彼女の目に涙が溜まり出す。

彼女はスン、と鼻を啜り、か弱い力で彼の胸を押し退けた。彼も気が済んだので、今度は簡単に退いてくれた。

彼はタバコにもう一度火をつけて、彼女が大人しく帰り支度をするのをニヤニヤしながら見つめる。


「随分ウブな反応じゃねぇの。もしや処女か?」

「〜〜〜〜ッ、」


ケケケ、とタチの悪い悪魔みたいな笑い方だ。

彼女はこれが悔しくて悔しくて。

テーブルの上にカクテル1杯分にしては多すぎる万札を置いてから。


「あ?」


彼のタバコ取り上げて。


「ぶっ!」


彼のほっぺたをバッチン!と1発叩いた。

付けたばかりのタバコの火を灰皿に押し付けてから、もう一度スンッと鼻を啜り。


「……か、帰るっ!」


機嫌が悪くなった子供みたいな捨て台詞を吐いて、プリプリ帰って行った。

紅葉の手型がついた頬に手を当てながら、彼はポカンとして彼女の去り際を見送った。

それからフッと鼻で笑い、何も無かったみたいにして新しいタバコに火をつける。

そこでようやく、正面に座っている椿くんとイロハちゃんから、揶揄う目つきでニタニタと見つめられていることに気がつく。


「気色悪ぃ。ンだよ」

「やぁ〜〜〜〜るぅ〜〜!」

「うん、ヤバい。君ほんとヤバい男だよ」

「見物料とんぞテメェら」

「えー?君が勝手に始めたんじゃないか。僕ら何も悪くないじゃん」

「そーだそーだー!」

「あー、うるせえ。やかましい。頭に響く」


彼はフッ、と白い煙を吐き。彼女がいなくなったのをいいことに、タバコを咥えたまま座席に横になる。

眠気に従って瞼が勝手に閉じてしまった。

彼女が纏っていた、甘く馨しい香水の香りが、鼻の奥に残っている。

呼吸をする度に、彼女の顔が思い浮かぶのだ。

頬を艶やかに染め上げた、乙女の顔が。


「……あの女の名前、教えろ」


彼が眉間に皺を寄せて、目を瞑ったまま言う。

椿くんとイロハちゃんは、キョトンとしてから顔を見合わせ、ニンマリと三日月のように笑った。

アシンメトリーにテーブルへ頬杖をつく。


「なんだ、君。存外彼女のこと、気に入ってるじゃないか」

「なんだぁ〜!気に入ったんならイロハがまた会わせてあげるよぉ〜♡」

「うるせえ、気に入ってねぇ、余計な事すんな。いいから名前教えろ」

「え〜……」

「どする〜?椿くぅん」


焦れてイライラしながら薄ら目を開けた彼に、椿くんはニコ!と可愛く笑う。


「ナイショ♡」


腹の底を見透かす目をする椿くんに、彼は耐えきれないように舌打ちして、壁の方へ寝返りを打った。


「もういい」

「あ〜あ、拗ねちゃった」

「ね♡5歳児みたいだろ?」

「だれが5歳児だ!!」

「え〜ん、怒られたぁ……」

「ちょっと!イロハの椿くんいじめないでっ!」

「……付き合ってらんねぇ」


ピーピー喧しい2匹のことを無視し、彼は再び眠り出す。

タバコの匂いで、もう彼女の香りは残っちゃいなかった。











「おー、DV女」

「…………、」

「あ?」


最低男と彼女が再会したのは、居酒屋での一件からまた数日後のこと。

パチンコ屋から出てきた彼とばったり会ってしまった。彼女はもれなく仕事帰りである。

しかし彼女は声をかけてきた彼を無視。

目の前を素通りした。

夕日をバックに背負い、カッ、コッ、とヒールを鋭く鳴らして歩く。つんと前だけ向き、彼なんて見えていないみたいに歩いていく。

彼はこれが面白くなくて、顔を顰めて彼女に着いて行った。


「何無視してんだよ」

「……」

「聞こえてんだろ、無視すんな」

「……」

「おい」

「……」

「………」


彼女の横に着いて声をかけるが、やはり彼女はウンともスンとも言わない。

彼は歩くのを止めた。

彼女の視界から彼がいなくなって、彼女がほっとしたのも束の間。


「×××小学校の保健室の先生は処女で〜〜す」

「ッ、はぁ?!」


彼は往来で突然彼女を辱め始めたのだ。

天を仰ぎ、拡声器かの如く。

当然彼女は引き返し、彼を止めようとする。


「ちょッ、貴方ね!!」

「この女は男に暴力を振るうヒドイ女でェーーーーーーーす」

「やめッ、黙って!!」

「小学校のセンセーなのにぃーーーー男にヒドイ暴力ふるってまぁーーーーーーーす」

「あれは貴方が悪いことしたからでしょ!!ていうか、なんで私の職場知ってるの!!」

「イロハちゃんから聞きましたァ」

「くッ、」


彼は身長186㎝である。

ヒールを履いてもちまこい彼女では、口を塞ぐこともままならない。

道ゆく人々は関わりたくなさそうに2人を避けながら、怪訝な目でチラチラと見てくる。

これに耐えられず、彼女は「わかった!わかったから叫ぶのやめてッ」と懇願してしまった。

彼はしたり顔で叫ぶのを止める。


「止めてだァ?止めて〝ください〟だろォよ」

「くぅ……!」

「この女はァーーーーーーーー、」

「や、止めてくださいッ!!」

「始めっから素直にそう言えよ」

「〜〜〜〜〜ッ!」


ムカつく!!

彼女は口に出さず心の中で怒鳴った。

今にも弾けてしまいそうなくらい、彼女の顔は赤い。

ヤレヤレと仕様のない子供を見る目つきで彼女を見下ろす彼を、彼女は睨め付けてからプイと振り返って歩き出す。

彼もまた彼女に着いて来る。


「本当に、貴方、なんなの……!」

「そりゃあこっちのセリフだわ。ガッコでセンセーに習わなかったかぁ?人を無視しちゃいけませんってよ」

「貴方みたいな不審な男、学校の先生は無視しなさいって教えるわよ!」

「はぁ?どこが不審なんだよ」

「全部!!そのだらしない見た目も!!似合ってない厳つい柄シャツも!!公共の場で突然叫び始めるのも!!平日の夕方に、むせかえるぐらいキツいタバコの臭いさせて!!パチンコ屋から出てきたとこもね!!」

「わかっちゃねーなお前。俺ほど人からソンケーされる立派な社会人いねーから。汗水垂らして人様の命を日々救ってるお医者サマだぜ?」

「ハッ、呆れた……。貴方がお医者様なら私はエジソンか何かね」

「冗談キッツイ。お前がエジソンなワケねぇだろ。バカも休み休み言え」

「………ッ、」


彼女はギリリと奥歯を噛む。

どうやら彼は根っからのいじめっ子体質らしい。

何をどう言っても彼は下手に回らない。


「いい加減着いてこないで!」

「はぁ〜?自意識過剰もいいとこだわ。俺の家もこっちなんだよ」

「ッじゃあ離れて歩いて!」

「なんで俺が?離れたきゃお前が離れろよ」

「ッ……」


仕方なし、彼女が彼から離れようとするも、やはり彼は彼女の隣にやって来る。

彼女は疲れた顔で隣の彼を見上げた。

流石に怒鳴る気力を無くして立ち止まる。

彼も彼女に合わせて立ち止まり、立ち止まった彼女をジッと見下ろした。

彼女はこめかみを揉みながら「本当に、何の用なの……」と力無く呟く。

彼が何を考えているかいるかさっぱりである。

何の色も読み取れない表情で、彼はしばし彼女を見つめた。それからぽか、と口を開けて。


「名前、教えろよ」


至極真面目な声で言った。

彼女はキョト、として固まる。


「は……、名前?」

「お前、名前で呼べって言っただろ」

「そう、だけど……。……まずは自分から名乗ったら」

「お前ほんと礼儀だなんだって喧しいなァ」

「あ、当たり前のことでしょ!」

「めんど……、じゃあ山田で」

「じゃあって何よ!」

「俺の名前なんてどーだっていンだよ。いいからお前の名前教えろ」

「……イロハから、聞いてないの?」

「教えられてねぇから聞いてんだよ」

「………、」


いや、まさか。

まさか、彼は名前を聞きたくてしつこく付き纏って来たと言うのだろうか。

彼女はあまりに予想斜め上の回答がきて反応に困る。だっててっきり、こんないい加減で怪しい男だから、宗教勧誘だの詐欺だの変なことに巻き込まれると思っていた。

何だか急に、彼が人懐こい黒猫に見えてしょうがない。


「………………いや。教えたく、ない」


彼女は十分な時間静止してから。

ギュッと眉間に皺を寄せて、下に視線を逸らして言った。

正気に戻れ。こんな男が人懐こい猫なわけないじゃない。これ以上この男に個人情報を渡してたまるものか。


「……」


そんな彼女を、彼は目を逸らさずに見つめる。

それこそ、対象を注意深く観察する猫のように。


「わかった。じゃあ勝手に名前付けるからな」

「え?」


誘われるように、彼女は視線を彼に戻す。

酷い隈を携えた眠そうな目と、彼女の目が合う。


「ハル。春に会ったから、ハル」

「………、」

「いい名前だろ」


彼がヘラリと笑う。

眠気をさそわれる、穏やかな声。

春風に扇がれて、彼の猫っ毛が気持ち良さそうにそよいでいた。


「……なに、それ。単純すぎ」

「あん?DV女よかマシだろ。俺のネーミングセンスにせいぜい感謝しろや」

「ひゃっ、え、なッ、何すッ……!」

「うるせぇな。一々騒ぐな」

「………っ!」


手首を掴んで引き寄せたかと思うと、もう一方の彼の手が彼女の後頭部に回る。

またキスされる!!

彼女は反射的に目を瞑ってしまった。

しかしいつまでたっても唇に触れる感覚はない。

そろり、薄く目を開けると、目の前にはニヤニヤ嫌な笑みを浮かべる彼。


「脈拍凄。ウケる。キスされると思ったろ」

「〜〜〜ッ!!」

「ッつあ!っぶねーな」


彼女が彼にビンタしようとすると、彼は間一髪の所で避けた。

「ンと暴力的な女だな」と悪態までつく。


「あ、あっ、貴方ねぇ……!」

「あーあー、勝手に勘違いしてキレんなよ。俺ぁ親切に、くっついてた〝花びら〟、取ってやっただけだからな」

「は、?」


彼が彼女の目の前に摘んで差し出したのは、彼女が耳に付けていた、桜をモチーフにしたピアスだった。

いつの間に!

彼女はギョッとして彼から取り返そうとしたが、彼はヒョイと天高く腕を伸ばして取り上げる。


「またなぁ。ハル、ちゃん」

「………、」


そのまま歩いてきた道をUターンし、黒い丸サングラスをかけて、のらくら歩いて行く。

彼女は追いかけることもなく、背中を向けたまま手を振る盗っ人を、呆然と見送る。


「ほんとに、何なの……」


結局、彼の家は反対方向だった。











「……、うそ。」


数日後。

彼女はアイスが入った小袋を片手に、近所の公園の入口で立ち尽くしていた。

夜21時過ぎ、また彼が公園にいたのである。

桜を見上げて泣いている。

彼女は声をかけるかどうか迷い、一旦彼を無視して通り過ぎた。

通り過ぎて、やっぱり戻ってきた。

突っ立っている彼の所まで歩いていき。


「ど……、したの」


声をかけた。

関わりたくないはずなのに。

でも、ほら、ピアス返してもらわなきゃだし。

なんて、自分の中で葛藤して。


「……」

「……、えと」


けれど、彼は彼女の方をチラとも見ない。

ただ涙を流すだけである。

彼女は数日前と違いすぎる彼の様子に困惑する。

確かに一度目もこうして泣いていたけれど。

悪態をついてばかりの、能弁な彼と話した後にこの調子では、あまりに違和感がある。


「あの……、何かあった?」

「……」

「…………話、聞くけど……」

「……」

「……、」


だめだ、無反応だ。

彼女は眉を八の字にして困り果てる。

もしかして彼は1人で泣きたいタイプなのかも、という所に思考がいきついた時だった。


「……俺なんかに構うな」

「……!!」


桜を見上げたまま、彼が低く呟いた。

彼女は、ああやはりと合点がいき。


「邪魔して、ごめんなさい……。その……私、行くわね。おやすみなさい」


余計なことをしてしまった。

結構しょげながら、彼女は踵を返した。

あの夜だって彼は1人で泣いてたんだから、やはり彼は1人で泣きたい人なのだろう。

そう結論づけて。


「……ッ?!きゃっ……!」


いきなり腕を引っ張られ、正面から彼に抱きつかれた。

彼から襲われたのかと一瞬思うも、しかし違うとすぐに気がつく。


「……嫌いなら」

「……え?」

「……俺に近づくなよ」

「………、」


あまりにもか細い声で、彼が耳元で言うのだ。

構うなと言うくせに、しっかりと彼女を抱きしめて逃そうとしない。言っていることとやっていることが滅茶苦茶である。

キリキリと彼女を抱きしめる腕の力は強まっていく一方だ。


「……あ。天邪鬼すぎる」

「…………」


彼女がキョトりとしたままポツリと言えば。また彼の締め付ける力が強まった。

すると今度はズルズルと彼の身体が下に沈んでいく。「わ……ああ……」と、抱きしめられている彼女も一緒に地面に座り込む。

彼はスンスンと鼻を啜りながら、彼女の首元を濡らす。嗚咽を噛み締めて、何かに耐えるように泣くのだ。

彼女はもうどうしようもなくて、途方に暮れた顔をする。躊躇いがちに、彼の背中に手を添えて。


「……、大丈夫」

「…………」

「大丈夫よ」


母が子にするように、優しく背中を撫ぜながら言った。


「大丈夫、大丈夫……」

「………っ、」


花が囁くような声で、彼の背中を撫で続ける。

反射的に「大丈夫」と声をかけてしまっていた。何故だがそう言わなければならない気がしたのだ。

彼はもうほとんど彼女に縋り付くようにして泣き続け、彼女は半分困惑しながらも、彼の背中を撫で続けた。

そのうち自然と彼の頭に手が伸びて、彼女はふわふわとした彼の髪を撫で始める。


「……、」


はらり、ひらり。

彼女たちの周りに桜の花びらが舞っている。

ソメイヨシノだけが、抱き合う2人を眺めているのだ。

彼女は揺れる瞳を隠すように、瞼を閉じる。


「……大丈夫、」


呟いた声は、彼に向けて言ったものか。

それとも───。











「……お風呂、ここだから。着替え置いておくね」

「……」


あれから1時間後。

彼女は自宅に彼を連れて帰っていた。

彼が一向に彼女から離れようとしないのだ。

背中を撫で続けて30分。やっと泣くのをやめたので、役目を終えた彼女がおずおず帰ろうとするも、彼は決して彼女の手首を放さなかった。

困って困って、彼女が最終的に出した答えが。


「……ウチくる?」


だった。

彼は無言でコクリと頷いた。

それから彼に手首を掴まれたまま一緒に近くのお店に行き、彼女は男物のスウェットと下着を買って、てくてく一緒に、ちっちゃなアパートに帰ってきた。

終始無言である。

彼女は溶けてしまったアイスを冷凍庫に入れてから、まず風呂場で彼に温まってもらおうと思い案内した。

しかし彼、やはり手首を離さない。


「……」

「………」


彼は赤くなった目で彼女を見つめるばかり。

彼女はいっぱいいっぱい困り果ててから。


「………わかった、わかったわよ」


自分にバスタオルを2枚ほど巻きつけて、彼の腰にも1枚巻きつけて。彼と一緒にお風呂に入った。

浴室でも彼は彼女にベッタリで、それこそ愛し合う恋人同士のように、彼女を足の間に座らせて抱きしめて入った。風呂に入る前から彼女はすでに赤く茹で上がっていた。

私何してるの、と終始思いながらも。

擦り寄る彼にされるがままだった。

彼は何をするにも気力がないようで、身体だけは自分で洗ったが、髪は彼女が洗ったし、彼女が乾かした。

お風呂から上がって彼はパンツを履いてくれたが、買ったスウェットが気に入らないのかなんなのか、パンツ一枚のままだった。

もう好きにしてと思って、彼女は大して気にしなかった。


「お腹空いてる?」

「……」

「……何か食べたの?」

「……」

「あのね、ご飯はちゃんと食べなきゃだめ。おじや作ってあげる」

「……」


彼は何も喋らなくなった代わりに、小さく頷いたり、首を横に振ったりした。

彼女は野菜と卵を使った、美味しいおじやを作ってあげようとしたのだが。


「え、ひゃっ!?」


彼はヒョイと彼女を横抱きにして、電気を消し、てくてくベッドまで歩いていき彼女をベッドへ雑に投げ捨てた。彼女に跨って、彼女の寝巻きを脱がせ始めるのだ。


「ななななにすっ!」

「………」


しかしその脱がせ方というのが、抵抗する幼子を着替えさせる親のそれと、同じ動きだった。

色っぽい男女のそれとは、ほど遠かった。

彼女が抵抗しようとするも、彼はあっという間に彼女を下着姿にしてしまう。

わーきゃー騒ぐ彼女なぞ気にした様子なく、彼女を抱きしめてそのまま布団を被って寝始めたのだ。


「………え?…………、なに?」


彼女は目を点にするしかない。

3分と経たずに、すぅすぅと寝息をたてて、彼は寝てしまった。酷い隈があるだけあって、彼は日々寝不足なのだ。

気絶も同義だった。


「……、」


豆電球だけ点いているので彼の表情が見える。

あまりに気の抜けた表情で彼が寝ているものだから、彼女はくすぐったい気持ちになって彼を見つめた。

彼の体温はあまり高くない。

しかし彼女の体温が温かいので丁度よかった。

彼女は寝付けるはずもなく、しばらく彼の顔を見つめ続ける。

完全に、彼女は彼という男が分からなくなっていた。いや、いい加減でだらしがない男というのは確定している。

酒癖悪く、いつだってタバコの匂いがする。

ギャンブルだってするようだし。

近寄ってはいけない類いだということも、わかっている。

が、〝悪人〟という一言では、片付けられない自分も、確かにいる。

知り合ったばかりの、ちまい無力な女に、縋り付いて静かに泣くこの男が。

母猫に擦り寄る、子猫のように見えている。


「……、」


彼女はきゅっと胸が締め付けられる感覚を覚える。切なく眉を顰め、戸惑いながら、彼の肌に擦り寄った。

どうしよう。私。

心の中で、彼女は震える。

心に香りたつ、淡すぎるほのかな甘さに気がついて、震える。

ちまこいシングルベッドでぎゅうぎゅうになりながら、彼女はその夜夢をみたのだった。






「………、」


彼女の目が覚めたのは、早朝だった。

ふと肌寒さを感じて、ベッドに彼がいないことに気がつく。

帰ってしまったのかと思えば、彼は窓を開けてタバコを吸っていた。やはり色のない顔で。

珍しく眉間に皺は寄っていない。

縁の広い窓枠に腰掛けて、縁に乗せた足の膝に腕を引っ掛け、タバコを吸いながら朝焼け空の下にある公園の桜を眺めている。

彼のそばに置いてある灰皿は彼女の元彼が置いていったものだ。

すでにタバコが山になっている。

彼女はカーディガンだけ羽織って、窓の外に背を向けるようにして、彼の膝元に足を崩して座った。


「……そんなかっこで寒くないの」

「……」


彼は一瞬だけ彼女を見て、フンと鼻を鳴らす。


「似たようなかっこした奴のセリフかよ」


彼は昨日自分が着ていた黒のスラックスだけ履いていて半裸である。

下着姿にカーディガンを羽織っただけの彼女の方が、なんなら寒そうだ。

彼女は彼の様子がまた戻っていることに安堵する。

彼は黙っていた方が人を困らせるのが上手だ。

さて、昨日何があったか聞くべきだろうか。

彼女がそう考えていると。


「……桜が綺麗で、泣いてた」

「え?」


彼がぼんやり窓の外を眺めながら答えた。

彼女はポカンとして彼を見つめる。ちょっと間があって、それから拗ねた顔をした。


「……感受性豊かなアンサーね。その答えを出すのに一晩かかるのは遅すぎない?」

「俺ぁ繊細な男なんだよ」

「そ。気が付かなかった。とてもそうは見えないから、貴方」


彼は、嘘をついたのだ。

そのぐらい彼女だってわかる。彼には理由を話すつもりがないのだ。

信用されていない。

彼女は冷たい水が喉元を通るように感じた。

無自覚に唇が尖る。

彼はそんな彼女を横目に、声を出さずに笑った。存外この女は子供っぽい。


「おい」

「……?」


彼は、畳に下ろしている方の足の膝を、手で叩いた。〝ここに座れ〟の仕草である。

彼女は彼の意図が汲み取れずに、不思議そうにした後。ハッと気がついて──


「………、」

「………、な。なによ……」


たっぷり迷ってから、彼の膝に、ちょこんと小さな顎を乗せた。

彼は目を丸くして彼女を凝視する。

そしてブハッ!と吹き出して思いっきり笑った。


「だはははッ!」

「え、え、なに……」

「いや、ひっ……ふははっ、いや。そのままじっとしてろよ」

「……、」


訳が分からない彼女は、困った顔で顎を乗せたまま、彼を上目遣いに見上げるしかない。

ヒッヒッ、と笑いながら、彼は己の膝に顎を乗せている可愛い女の髪を、片方耳にかけてやった。

そのまま彼の指は彼女の耳の縁をなぞり、流れるように、するりと顔の輪郭を撫でる。

笑い終えて、「はーっ……、」と息を吐いてから。


「間抜けなお姫様。耳に花びらがついてらぁ」


揶揄うように言った。

彼女はパッと目を開く。

彼の膝から顎を離し、彼に触れられた方の耳に触れた。ピアスがついている。

彼から盗られたピアスだ。

パチパチと間抜けた顔で瞬きをする彼女。

彼は彼女から興味が削がれたように、公園の桜へ視線を戻してしまう。

何か思い出したように「ああ、それと」と言葉を続けて。


「俺なんかに惚れんなよ」


そう、付け足した。

彼女はカーッと頭に熱を集めてから、彼が咥えているタバコを取り上げた。

彼のカサついた、触れ心地悪い唇に、短くキスをする。


「……だから、遅いってば」


怒ったような、切ないような、耐えきれない表情で言った。

彼にタバコを咥えさせ直し、コーヒーを淹れにキッチンへ行ってしまう。

彼は公園の桜をぼんやり眺めながらクツリと笑った。


「そらぁ、御愁傷様」


ひらり、桜の花びらが部屋の中に舞い落ちた。












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椿という男 ハピ子 @hapico1218

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