椿という男
ハピ子
結局彼の傍にいる話
【15時・渋谷】
人々が行き交う歩道のど真ん中。
染めたての金髪にブラックのリクルートスーツというアンバランスな組み合わせの女が歩いている。そのアンバランスさえ気にならないのは、彼女のプロポーションが完壁だからに他ならない。
豊満な胸、細くくびれた腰、すらりと細く、長い足。美人社長秘書という言葉で浮かぶのはきっと彼女のような女だろう。
そんな彼女は、ただでさえ強気にアイラインを引いているのに、目をさらにキツくさせて猛然と歩く。
ピンヒールをカツカツコツコツヒステリックに鳴らしがなら。ルージュのポテっとした唇の下に皺を寄せている。
わかりやすく機嫌の悪い美女が歩いているので、正面から歩いてくる人々は皆彼女を避けた。彼女の為に、人々は道を造るのである。
そんな彼女、名前を三上ゆきという。
職業はキャバ嬢だった。
なぜ過去形なのか。彼女が昨晩辞表を叩きつけてきたからだ。辞表と言っても、ボーイに「あたし今から嬢辞めるからボスに言っといて」と宣言しただけ。しかも出勤日の、今今指名が入っているという時に。ボーイは半泣きになってユキちゃんの足にしがみついてきた。
彼女のボスは金にがめついとっても恐いお兄さんなので、店の3番手であるユキちゃんが身勝手に辞めることをきっと許さないし、こんな伝言した日には自分の首が物理的に飛ぶ。
ボーイに罪はない。ユキちゃんはボーイの頭を撫でてあげ、「あんたなら大丈夫、できるよ。がんばって」と慰め、ほっぺにキスをしてあげた。赤いキスマークを頬につけたまま大泣きするボーイを置き去りにしたのであった。
こうも急に仕事を辞めたのは、今ユキちゃんがどうしようもなく怒りを抱いている男が原因である。
「あ!ユキちゃん、やっほー!」
彼女の前方。
怒りの元凶がこちらに歩いて来るのに、ユキちゃんはずっと気がついていた。
丸いメガネはいつも通り、本日は黒いチャイナ服に身を包んでいる、胡散臭い笑顔を貼り付けた糸目小僧。
椿という名の、裏社会に生息しているきな臭い男だ。彼とユキちゃんの関係を一言で言えばセフレだが、そんな一言では片付けられないとっ散らかった関係性にある。
しかしユキちゃんは、愛嬌よく笑顔で手を振りこちらに歩いてくる彼に目もくれず、まっすぐ前だけ睨め付けてランウェイのモデルさながら歩く。
「ありゃ?」
無視されると思ってなかった彼、椿くんは颯爽と歩くユキちゃんの背中を笑顔のままキョトンと見つめた。
それから面白いおもちゃでも見つけたみたいに、ユキちゃんの華奢な背中を追いかける。
「なぁに怒ってんの!お顔がこわいぞぉ〜」
ユキちゃんにすぐ追いついた彼はツン、と彼女のほっぺをつっつく。
それでも彼女は知らんぷり。眉間の皺が深まるばかりである。うんとすんとも言わない彼女が面白くなくて、椿くんは彼女の背後に周り。
「え、きゃあ!?」
「な〜つべんにゃ〜!」
彼女の脇に手を入れて持ち上げた。ディズニー映画のライオンの赤ちゃんみたいに掲げれば、彼女は足が宙ぶらりんになる。片足だけヒールが脱げた。行き交う人々はチラチラと視線を向けるが決して歩みを止めない。
「ちょっと!!放してッ」
「やだもん。ユキちゃんが無視すんのが悪いもん」
「あたしの連絡ずっと無視してんのはあんたでしょ!!」
「え〜?最近通知切ってたしわかんなかった」
「白々しい…いいから早く下ろして!」
「も〜、わがままだなぁ」
「あたしのセリフよ!」
椿くんがユキちゃんを下ろせば、彼女は舌打ちをして脱げたヒールを履き直す。
その様子を、椿くんはニマニマしながらジィ、と見つめる。
「ユキちゃんさ、キャバ辞めるって啖呵切ったでしょ。だっさいリクルートスーツ着て早速就活とは、殊勝だねぇ」
言われて、ユキちゃんは一瞬動きを止める。それから頭を上げて、ため息混じりにふんわり巻かれた金髪を片側だけ耳にかけた。
先程まであった覇気はもうないが、唇はとんがったままだし顎に皺が寄ったままである。
たわわな胸を支えるように腕組みをして、ジットリ彼を睨んだ。
「誰から聞いたの」
「
ユキちゃんの『元ボス』の、恐いお兄さんの名前だ。どうやら泣き虫のビビりボーイはきちんと伝えてくれたらしい。
椿くんがニヤーと揶揄うような笑みをするので、ユキちゃんはまたひとつイラっとする。
「怒ってたよ〜、彼。ユキちゃんヤバいんじゃないの〜?」
「うるさい。余計なお世話」
「ね、僕が千聖サンに口利きしてあげよっか!」
「結構よ。自分のケツは自分で拭く」
ユキちゃんが回れ右をして歩き出すので、彼は彼女の横に着いて歩き出す。
「着いてこないで」
「僕の目的地もこっちだもん」
「さっき反対側に行こうとしてたでしょ」
「君のいる所が僕の目的地♡」
ああ言えばこう言う。
この男を喋らせるといつもこうだ。ぺらぺらぺらぺら次から次へとよく口が回る。
ユキちゃんは彼の方に顔を向けて、イーッと歯を剥き出してみせる。当然、こんなそぶりをしたって、彼には1ミリのダメージすらないどころか、加虐精神をくすぐるだけなのだが。逆効果であることは付き合いの長さから理解していても、イガイガした気分を表現せずにいられなかった。
「それでぇ?君をそんなに怒らせちゃった原因は何かな?」
彼の細い目が、メガネの奥からくすぐるようにユキちゃんを見つめる。
自分が一番理由をわかっているくせに、わざと言わせようとするのが彼らしい。
ユキちゃんは少し黙ってから。
「……聞いてない」
「ん?」
「結婚しただなんて聞いてない」
視線を合わせられなくて、前を見ながら言った。ちょっとだけ、語尾が震えていた。
椿くんは彼女のそんなサマが面白くて、彼女の顔を覗き込むように前のめりになる。
「よく知ってるねぇ、誰から聞いたの?」
「イロハちゃん」
「へぇ〜!ほんとあの子関心するなぁ、どこで情報仕入れてんだろ!」
イロハちゃんというのは、ユキちゃんと同じく彼と関係を持っている女の子である。
彼にはそういう女がわんさといるのだ。椿くんは彼女たちのことを「僕のお人形ちゃん達」なんて呼んでいる。まるきり人形遊びでもしているつもりなのだろう。それをわかっていて、みんな彼と関係を持っている。
勿論ユキちゃんもそうだ。彼のそばにいるには割り切るしかないので、みんな仕方なく割り切っているフリをしている。
しかし、今まで彼女達が耐えていられたのは平等だったから。
先日『おもちゃ箱』(という名前メッセージグループ)にて、椿くんに関してやたら詳しい謎のメンヘラ女子・イロハちゃんが、椿くんが結婚したらしいという旨の特大爆弾を投下し、彼女達の状況は一変した。
阿鼻叫喚とはこのことで、グループの通知はあっという間に999を超えた。イロハちゃんの情報の信用性は90%を超える。事実だと思って、当たり前にみんなショックを受けた。
まさか、彼に本命が現れるだなんて思ってなかったのだ。
けれど、どれだけ椿くんに確認の連絡をしようが彼からの返信は一切なし。電話も通じないし、彼の数ある自宅を訪ねてもどこにもいない。多分嫁と自分だけの根城を新たに用意したのだろうという推測がされた。
意気消沈するもの、現実逃避するもの、怒りを露わにするもの。彼女たちの反応は様々で、ユキちゃんは怒りに感情が傾いた。
嫉妬からくる、行き場のない怒りだ。
ユキちゃんは彼に〝情報〟を渡すために夜職に就いていた。情報社会では情報が武器になる。彼は上手く裏社会を渡る為に情報を集めているのだ。けれど今回のことがあって、一気に馬鹿馬鹿しくなってしまった。
本命の女がこの世に存在しているという事実だけで具合が悪くなる。
そんな訳で、怒りに身を任せてキャバクラを辞めてきたし。
彼と、縁を切る決心をしたのだ。
「あたし、もう降りる」
「お?」
「あんたとはもう一切関わらないし、連絡先だって消すから」
立ち止まって、ユキちゃんは俯きがちに言う。
その背中はあまりにか細く、泣いてる子供のようにも見えた。
「せいぜいバカなおもちゃ達と遊んでなさいよ」
吐き捨てるように言って、歩き出す。
彼の気配は着いて来ない。
目の奥が熱い。鼻の奥がツンとして、喉の奥が締まる。
なんで泣きそうになってんのよ。
自分にイラついて、本日何度めかの舌打ちをする。彼と過ごした2年間が、走馬灯のように駆け巡り。
「ッ、ひゃ?!」
グンッと後ろから腕を引かれた。
足を払われてバランスを崩す。背中から後ろに倒れて、思わず目を瞑った。しかし衝撃はなく、宙吊りになったような負荷が身体にかかる。
ユキちゃんが目を薄く開けると、目の前には、影になった椿くんの、飄々とした笑みがあった。
片手はギュッと握りしめられて、腰をホールドされている。ユキちゃんの腰を支えている彼の腕がなければ、彼女はそのまま背中から地面に落ちてしまうだろう。
彼の口が赤い三日月を描く。
「終わりを決めるのは僕だ」
心臓を撫であげるような声。
血の気がなくなって、身体の芯が冷たくなる。
「そ・れ・に。バカは死ななきゃ治らないって言うだろ?」
しようのない子に言い聞かせるような猫撫で声が、耳の奥をくすぐる。ユキちゃんは鼻で笑ってみせた。
「……なに、それ。脅し?」
「あっはっは!脅しだって?とんでもない!単なる事実さ!!……君自身が、一番よくわかってるんじゃないかな」
彼はユキちゃんの腰を抱き寄せたまま、彼女を抱き起こした。彼女の服を整えてあげて、最後に髪の毛を整える。指先で前髪を流し、輪郭をなぞり、顎を人差し指で押し上げ。
「だろ?」
艶かしく毒々しい目つきで、嗤う。
たまらず、ユキちゃんは彼の胸を突き飛ばした。
「クソッタレ」
涙目のまま首まで真っ赤になって、彼に中指を突き立てた。今度こそ1人で歩いて行く。
染めたての金髪が気持ち良さそうに風に靡いていた。
「ふっ……んははは!」
残された椿くんは肩を揺らしてケタケタ蛇のように笑う。
遠くなる彼女の背中をたっぷり見つめて。
「はーーーーっ………、おっかし」
機嫌よく踵を返すのだった。
◆
「気持ち悪い」
「いい加減もうやめとけって……」
「嫌」
「……はぁ」
【22時46分・新宿】
ユキちゃんはスーツのまま知り合いのいるクラブにやってきていた。どうにもこうにも消化しきれないムシャクシャを、酒で癒やしたかったのだ。
もうとっくにジャケットは脱いでいて、Yシャツを暑そうに腕まくりしている。惜しみなくボタンを外したYシャツの胸元から、胸がこぼれ落ちそうだ。
グラス片手にカウンターに突っ伏して、冷たいテーブルに頬をぺっとりくっつけるユキちゃんの横に、バーテンダーのお兄さんがチェイサーを置いた。
青く燃える炎を思わせる髪色で、ウルフカットをハーフアップにしている。リングのリップピアスの他には両耳にピアスが沢山。童顔で整った顔をしているが、身長が186㎝あるおかげで威圧感がある。
そんな彼を、ユキちゃんは気丈にも睨みつける。
「だれが水出せっつったのよ、舐めてんの。不良品のバーテンが……あんたのその、なっがいまつ毛全部燃やしてやるから」
「よくない酔い方してんの自分でわかってる?」
「酔ってない」
「典型的な酔っ払いのセリフをどうも。……だから椿さんに入れ込むなってあんだけ言ったじゃん」
「うるさい」
ユキちゃんはグラスに残ったジンバックをグイと飲み干し、バーテンの彼にお代わりを催促した。バーテンダーである彼・
「……で。椿さんの嫁ってどんな人なの」
「知らない。結婚したって事実しか聞いてない」
「ふーん。あの人の嫁になれる人って想像つかないけど……その情報マジなの」
「本人も否定してなかったしマジなんでしょ」
ほっぺたをテーブルにくっつけたまま、ユキちゃんはスマホを弄る。
ロック画面に大量の不在着信履歴とメッセージが表示される。いずれも名前は『ボス』。
今日1日電源を切っていたので大変な有り様である。メッセージを開いてみれば、途中からメッセージでなくボイスメッセージになっていた。興味本位で聴いてみると。
『なぁシュガー、辞めるなんて言うな、頼むよ』
『テメェ辞められると思ってんのかアバズレが!!』
『取り乱した。アバズレは冗談。お前に辞められると困るんだ、戻ってきてくれよダーリン……』
『ビッチが!!戻ってこねぇとどうなるかわかってんだろうな!!』
『酷いこと言ってごめんな……ベイビー、お前がいなくなると思うと気が気じゃなくて……』
『テメェどこ行きやがった!!今すぐ連絡しねぇと泥食わすぞクソアマ!!』
こんなことを永遠に言っているので既読だけつけてアプリを閉じ、スマホを伏せた。
15分ごとにメッセージを送ってくるだなんて、彼暇なのねと思った。
身体を起こしてため息まじりに頬杖をつくと楓くんが引いた目でユキちゃんを見ていた。
「何?」
「何!?こっちのセリフなんだけど?!さっきユキさん円満に退職してきたって言ってたろ!!」
「ボーイが代わりに言ってくれたから、あたし的には円満よ」
「……、おかしいと思った。あの北条さんが円満に辞めさせるわけねぇし……」
「絶対家の前で待ち伏せされてるわね」
「全然焦ってるように見えねンだけど、謎の余裕何。こんなとこで呑気に酒飲んでる場合じゃなくね」
「は?呑気?あんたあたしのこの状態みて呑気に見えんの」
「はいはい、失言でした。失恋傷心中で満身創痍でした。……てか、北条さんに椿さんと縁切ったって知られたらユキさんマジでやばいんじゃねぇの」
言われて、ユキちゃんは確かにと思う。当分外で寝泊まりするつもりで荷物をまとめてきたので、待ち伏せに捕まることはまずないけれど。椿くんとの関係を切ったともし知られるようなことがあれば、北条千聖という男は日本全国地を這い尽くしてでもユキちゃんを探し出そうとするだろう。探し出された暁には、まあ、海の藻屑になれるならまだマシといった具合か。
椿の女というステータスはある種危険であり、ある種抑制にもなる。
ユキちゃんはめんどくさいなあ、と赤いネイルでテーブルをコツコツ叩きながら考える。
それから、なぜかユキちゃんより顔を青くして焦る楓くんをジッと見つめて。
「ね、しばらく楓くんの家に泊めて?」
「……は?」
かわゆく首を傾げて、上目遣いにお願いしてみた。お金は腐るほど持っているけれど、職を失ったわけだし、これから当分逃亡生活になるのならなるべく資金は節約したい。近場に男がいてくれるのも、まあいないよりマシだ。一番望ましいのはヒモになること。楓くんとユキちゃんの仲を北条は知らないので家がバレる心配もない。あわよくば当分楓くんのヒモになりたい。
楓くんが顔を顰めて固まっているので、ユキちゃんは切なく眉を八の字にしてみせる。まるで捨てられた子犬の如く。
「……だめ?」
彼は呼吸を忘れてしまったようだった。
ギューっと顔を赤くしてウンともスンとも言わないので、ダメ押しだとばかりにユキちゃんはカウンターの上に身体を乗り上げる。
楓くんのネクタイに手を伸ばして、グイと引き寄せた。彼の肩に腕を乗せ、わがままな胸を大胆に彼の胸板に押しつける。
曝け出された右胸の上部に、赤い椿のタトューが眩いばかりに存在していた。
「代わりに、好きにしていいわ」
店内の喧しい音楽にかき消されてしまいそうな、囁き声で言った。
これで文句はないだろうと、ユキちゃんは確信をもったのだが。
「……っえ、」
彼はユキちゃんの華奢な両肩を優しく掴んで、引き離した。今度はユキちゃんが固まる番だった。
彼はユキちゃんが見たことない顔をしていた。眉間に皺を寄せて、怒っているような、悲しんでいるような、なんとも言えない顔をしているのだ。面食らったユキちゃんは目を丸くする。
「……ユキさん、椿さんと知り合ってからすげぇ変わった」
「え?」
「こんなユキさん、俺は見たくなかった」
ユキちゃんは何のことかわからなくてキョトンとしたままである。そんな彼女の様子を通して他の誰かを睨みつけるように、彼は目を鋭くした。
「今のユキさん、最低だよ」
突き放すように言う。
ユキちゃんはこれでやっと気がついた。まるで冷や水でも浴びせられたかのような心地だった。恥ずかしくて悔しくて、グッと歯を食いしばり、テーブルを降りてジャケットを引っ掴み、勢いのままクラブを出た。
「ッちょ、ユキさん!!」
まさか出て行くと思ってなかった楓くんは焦って呼び止めたが、彼の呼び止める声に振り向きもせず、ユキちゃんは出て行ってしまった。
追いかけたところで、彼女は大人しく話を聞いてくれないだろう。去り際の彼女は、肉親に見放されたかのように傷ついた顔をしていたから。
楓くんは自分が彼女の地雷を踏み抜いたことに今更気がつく。その場にしゃがみ込んで、額を押さえた。
「クソッ……!」
やっちまった。あの人が今頼れんの、俺だけなのに!クソクソクソ、と己の失態を責める。
しかし楓くんは本心を言ったまで。本当に気分が悪かったのだ。
椿という男がこの数年で彼女にどれほど影響を与えたか、身に染みてわからせられたのだから。
あのいけすかない糸目に出会うまでは、彼女は男と関係が切れたからといってヤケを起こすような人じゃなかったし。少なくとも、はしたなく身体を使って男に擦り寄るような人ではなかった。自分という芯をもった、格好いい人だった。
だから、楓くんはずっと彼女を想っているのだ。彼女がどんどん椿という男に入れ込んでいく横で、彼女の目を覚ますことができない自分を呪わしく思いながら、彼女を想ってきたのだ。
なんでこうなる。それもこれも全部あの詐欺師まがいなチャイナ野郎のせいだ。
縁が切れて一安心したかと思えばこれだ。
今度店に来たら酒にヒ素混ぜて出してやる。
取り急ぎ応急処置として彼女にフォローのメッセージを送ろうとスマホを弄る。
「ア゛?」
すると、アプリを開いた所で丁度渦中のチャイナ野郎からメッセージが来た。
別にメッセージをやりとりするような用事はないので、彼と連絡先は交換していないのだが、なぜか彼は楓くんの連絡先を知っている。時たま、彼からユキちゃんとのデート写真やら寝顔やら、最悪なことに情事を思わせる匂わせ写真やらが一方的に送られてくる。
ブロックしてもブロックしても別のアカウントから連絡がくるので、そろそろ殺すぞとメッセージを送ろうと思っていたのだが。
んだよこんな時に!
鬼の形相でメッセージを開く。しかしこいつが連絡してくるのはいつでも彼女のことについてなので、一応確認はする。
メッセージを開いて出てきたのは。
『もうユキちゃんとセックスした?♡』
「死ね!!!!!!!!!!」
「うわっ」
思わず出たセリフが、近くにいた後輩スタッフに聞こえたようだった。
「えぇ、治安悪……しゃがみこんでどうしたんスか楓クン。てかあの綺麗なお姉さん帰っちゃったんスか?」
「お前見え透いた建前使ってんじゃねえよ。ナンパ目的でこっち来たんだろが」
「へへへ。女好きに生まれたからには可愛いコはナンパしとかないと。男前に生んでくれたマミーに申し訳ないじゃないスかぁ」
「おー、そうだな。こんな男に生まれたことを母ちゃんに謝罪しとけや」
後輩を適当にあしらって、口から出た言葉をそっくりそのまんま椿にメッセージを送ってブロックする。
ンでコイツは俺のとこにユキさんが来てるって知ってんだよクソが。
仕切り直し、ユキちゃんにメッセージを送るために言葉を選びながら考えていると、後輩が隣にしゃがんでくる。
「楓クンお願いしますよぉ〜さっきのお姉さん知り合いならオレに紹介してくださいよぉ」
「絶対無理」
「なんでっスか!オレこんな感じスけど好きになったらめちゃ一途っスよ!?」
「もう俺意外の男は信用しねぇって決めたから、無理」
「もう?」
「うるせぇ散れ殺すぞ」
「うわこわ……」
こんな最低な夜、他にない。
◆
【23時34分・新宿】
『ユキさんごめん、傷つけるつもりはなかった』
『俺もうすぐ仕事終わるから迎えに行く。絶対人気のあるとこにいて。ほんとごめん』
『それと、しばらく俺の家に泊まっていいよ。その、家賃とか光熱費とかも気にしなくていいから』
さて、ユキちゃんはあれから宛てもなく道をフラついている。途中コンビニでビールを買って、チビチビ飲みながら歩いていた。
ナンパやら勧誘やら、夜の街のヤカラたちが声をかけてくるが、なんて声をかけられているのか耳に入らないくらいにはぼんやりしていた。
楓くんからのメッセージに気がついて、なんて返したらいいかわからず返しあぐねているのだ。
言われて初めて気がついた。自分はいつの間にこんな、卑しい女になってしまったんだろう。昔馴染みの男の子にあんなこと言わせるなんて、こんな最低で恥ずかしいことはない。
このまま彼に甘えるのも、なんだか気まづい。
「お姉さんフラフラだけど大丈夫〜?俺が介抱したげよっか?」
「あんたの靴に吐瀉物ぶっかかるハメになるわよ」
寄ってくる下心丸出しの男を適当に牽制して散らす。男は顔を顰めてどこかへフラフラ歩いて行った。
フン、雑魚が。鼻を鳴らして缶ビールを飲みきる。道すがら缶をゴミ箱に捨てて、ユキちゃんは道端の端っこにうずくまった。
最悪な気分だ。
どこかで救急車のサイレンが鳴っている。
頭を腕に預けて、グラグラする世界に酔う。
目を閉じて、思い出すのは数年前のこと。
楓くんと出会った時のことだ。
『こんにちは』
当時ユキちゃんは雑貨屋のアルバイトをしていた。アルバイト中に、万引きしようとしている学生を見つけたのだ。黒い学ランに金髪。ピアスがあちこちに空いていて、未成年のくせにタバコの匂いがする、いかにも素行不良ですといった雰囲気の男の子。
『あ?放せや』
腕を掴まれてなお焦る様子もなく、彼はユキちゃんにメンチを切ってきた。
17歳の楓くんである。
彼は万引きの常習犯だった。幾度警察沙汰になろうと更生の兆しが見られない。出禁なんてあってないようなもの。盗むものに規則性はなく、目についたものを無差別に盗っていく。この日彼が盗もうとしていたのは青い小鳥の置物だった。ユキちゃんはガンとして目を逸らさない彼にため息をついた。
『それ、欲しいの?』
『は?』
『買ってあげる』
『あ……?』
ユキちゃんは、彼にどうしたら歩み寄れるかしらと考えていた。多分、彼の行動はストレスだとかそういう負の感情からくるものだ。
根本的に解決しなければ意味がない。
ユキちゃんは自分のお財布からお金を出して、青い小鳥の置物を買ってあげた。
『欲しいなら買ってあげる。だから店に来たらあたしに声かけてよ』
彼に小鳥の置物を差し出して、そう言った。
彼が欲しがっているわけでないのは重々承知していたが、なんとか彼と繋がりを作りたくてそんなことをした。
彼はそんなユキちゃんに困惑していたようだった。不愉快そうに顔を顰めて。
『いらねぇよ』
小鳥は受け取らずに帰ってしまった。
この日をきっかけに彼とユキちゃんの攻防戦が始まった。彼の姿を見つけると必ずユキちゃんが飛んでくる。ずっとそばにくっついて回って、『これがほしいの?』『あたしのおすすめこれ』『いやそれはセンスない』とかぺらぺら勝手に喋りかけていた。楓くんはウザそうに『ついてくんな!』『しゃべりかけんな!』『ッとーしィぞ!』などと喚いていた。
しかしユキちゃん、高校生に怒鳴られるくらいでは毛ほどもビクつかない。むしろ反応して貰えたことにニマニマしながら喜んでいた。
そんな日々が続き、2人の関係に変化が起きたのは半年後のことである。
ユキちゃんがアルバイトを終えて帰宅する途中、裏路地で楓くんが寄ってたかって殴られているのを見つけたのだ。
『何やってんの!!』
考えるより先に、口と身体が動いていた。
楓くんを痛めつけていたのは借金取りだった。彼の母親がこさえた借金を取りたてにきたそうだ。しかし母親はとっくに愛人と高跳び。父親も蒸発してアテがない。代わりに息子の楓くんが支払っていたそうだが、17歳の子供である。高校を中退して仕事に明け暮れても多額の借金など返せるわけがない。
『じゃあ、あたしがその子の代わりに払う』
話を聞いたユキちゃんは間髪入れず答えた。迷いなど微塵もなかった。借金額は楓くんが返済した分を差し引き450万ほど。
ユキちゃんは一日に下ろせる限度額分のお金をひとまずATMで下ろして、借金取りの男らに渡した。
身分証のコピーも一緒に渡して後日必ず全額渡すと言えば満足して帰って行った。
『あんた、バカか。何で、知らねえ奴の為にそこまですンだよ……俺に構う義理も理由もねえだろ』
額から流れ落ちる血をハンカチで優しく抑えてくれるユキちゃんに、楓くんは辛そうに掠れた声で言った。
『構わない理由もない。人助けに理由って必要なの?』
淡々と返すユキちゃんに、彼は何も言えなかった。
ユキちゃんはにっこり笑って。
『お腹空いてない?あたしの家で一緒にご飯食べよ』
夜ご飯に誘った。楓くんはグッと何かを堪えるような顔をして、小さく頷いた。
6畳一間のこじんまりしたアパートの一室で、2人一緒にお鍋をつついたのだった。
それから彼はユキちゃんに底抜けに懐きっぱなしで、返さなくてもいいと言ってるのに、地道に稼いでお金を全額返してくれた。返済し終わっても関係が切れることはなく、彼はユキちゃんをよくご飯に誘ったし、彼が勤め始めたクラブにユキちゃんもよく通った。
ティーンの頃は殺伐としていた楓くんも、今ではすっかり牙が引っ込んで、ユキちゃんには彼が子犬か何かに見えている。昔が狼なら今はマルチーズだ。
彼が、どんな想いを抱いているかも、ユキちゃんはとっくの昔に気がついていた。
なのに、彼の気持ちを一瞬でも弄ぶような真似を無自覚にしてしまった自分が心底憎い。
こんな、人の反応を見て娯しむなんて、まるで椿くんみたいで。
「お姉さん大丈夫?」
「立てるー?」
呼びかけられる声に、途切れていた意識が浮上する。ユキちゃんが目をシパシパしながら顔を上げると、そこには警察のおじさんが2人、腰を屈めてユキちゃんを覗き込んでいた。
いつの間にか寝てしまっていたようだ。腕時計を確認すると時刻は0時21分を回っている。
「大丈夫……です」
立とうとするも、一気に気持ち悪さが襲ってくる。同じ姿勢でうずくまっていたせいで足も痺れて立ち上がれない。気分の悪さと痺れに耐えていると。
「ユキさんッ!!」
道路を挟んだ向こう側の歩道から名前を呼ばれた。楓くんだ。
彼は酷く焦った様子で道路を走って横断してきた。
「その人、俺の連れです!」
「ああ、ほんと。よかった。じゃあお兄さん、あとよろしくね」
楓くんが到着するなり、警察のおじさん達は近くに停めてあったパトカーに乗り込むとさっさと行ってしまう。彼はしゃがみこんでいるユキちゃんの正面に、同じようにしゃがんだ。
「マジ、焦った……酔っ払いの女が1人フラフラ夜の街出歩くなよ……しかもこんな道端で……んとッ、危機管理どうなってんだよ……」
「ご、ごめん……」
「……、無事でよかった」
彼の額には汗が浮かんでいた。息も上がっていて、走り回っていたことが伺える。
ユキちゃんから一向に返信がないばかりか、電話にも出ないので心配で探し回っていたのだ。
ユキちゃんはションボリとして俯く。どんな顔をして楓くんと話したらいいかわからないのである。
楓くんは息を整えながら、彼女のそんな様子を見てなんとなく察する。
「気分は?」
「……最悪」
「だろうな。立てる?」
「無理……」
「ん」
「っ、ひゃ!?」
彼は重さなんて全然感じないといったように、ユキちゃんを抱き上げた。それから比較的近くにある彼の家に足を向ける。タクシーなんて乗ったらユキちゃんが吐いてしまうと思ったから、歩きで向かうことにした。
「……楓くん、あたし」
「とりあえず、今日は俺ん家泊まれよ。明日からのことはゆっくり休んだ後に考えりゃいいじゃん」
何かいう前に言葉を遮られてしまう。歩行の振動を感じながら、ユキちゃんは口を噤む。
「……ごめん」
一言、それだけ溢した。彼は「ん」と短く頷くだけだった。
「ご、ごめん」
「いや、もう気にすんなよ」
「んん、ちが……おえぇ」
「っ、おあ゛ーーーーー!?」
本当に散々な1日である。
【1時34分・楓宅】
「ほんとにごめん……」
「だからもういいって言ってんじゃん。しつこい」
盛大に道端の真ん中で吐いた後。
楓くんの自宅マンションで、ユキちゃんは吐瀉物を彼に引っ掛けてしまったことを土下座して謝っていた。吐いてスッキリしたので今は大変元気である。
2人ともシャワーを浴びたので綺麗さっぱりな状態だ。駅のロッカーに預けていたユキちゃんの荷物を彼が持ってきてくれたので、ユキちゃんは自分のルームウェアを着ている。そんなユキちゃんを見向きもせず、黒いTシャツに適当なスウェットを履いた楓くんは濡れた髪のまま、首にタオルを引っ掛けて鍋の準備をしている。
走り回ってお腹が減ったのだ。
ジリ貧だった学生時代なんか微塵も感じないほど、今の彼はお金を持っているのだが。住んでいるマンションの部屋は8畳1kのこじんまりした部屋である。
綺麗に整えられた部屋の真ん中にある小さめのローテーブル。そこにお鍋の準備をし終えた楓くんは、あぐらをかく。テーブルを挟んで、肩身狭そうにシュンと縮こまり、正座をする金髪の美女からは、普段の威勢がすっかり掻き消えている。
彼は半目になって、どうすっかな、とタオルで頭をガシガシ拭きながら考えた。
シンとなった部屋に、グツグツ煮える鍋の音だけが聞こえる。
「ユキさん」
「ん……」
「俺ユキさんのことが好きだ」
瞬間、弾かれたようにユキちゃんが顔を上げる。控えめに言っても間抜けな顔で、ポカンと彼を見た。まさか告白されるだなんて思ってなかったのだ。
楓くんは真剣な表情でユキちゃんを見つめている。
「正直椿さんと縁切ったって聞いて心底喜んだ」
「……え、」
「ユキさんが俺の家に転がり込む展開になったのも美味すぎる。出来ればこのままずっと俺の傍で堕落してほしい」
「楓くん?」
「包み隠さず言うと下心ないわけない。今すぐ押し倒してキスしてセックスしてぇ」
「隠さなすぎじゃない?」
堰を切ったようにべらべら喋り倒す楓くんに、気まずくなっていたのも忘れてユキちゃんは思わずツッコむ。しかし彼は真面目な顔のまま、まっすぐにユキちゃんを見つめる。
「俺、ユキさんのこと本気だよ」
「……でも、あたし」
「椿さんのこと忘れられないのもわかってる。わかった上で、俺と付き合ってほしい」
揺るがない意思をもつ声に、ユキちゃんは言葉を失う。
4年前の彼はこんなにまっすぐ言葉をぶつけてくるような子じゃなかった。近くで見ていたつもりだけど、いつの間にこんなに変わったんだろう。
彼が眩しくて、ユキちゃんは視線を逸らす。手持ち無沙汰な手を膝の上でまごまごさせて、落ち着きなく瞬きをした。
「あたし、楓くんより6つも年上だし……」
「年齢は関係ない」
「無職だし……」
「金の心配なら俺の通帳確認してから言って」
「ボスの回しものがある日突然おしかけてくるかも……」
「命懸けで追い返す」
「正直未練たらたらだし……」
「失恋直後なんてそんなもんだろ」
「あたし、……」
目の奥が熱くなり、ユキちゃんは鼻をスンと啜る。再び室内は鍋の煮える音だけになった。
彼は黙ってしまったユキちゃんを暫し見つめ、諦めたように溜息を吐く。
「わかった。じゃあ、〝今〟は付き合わなくていい。俺のこと、好きにならなくてもいい。ただ、俺のことはそばに置いてほしい。俺にユキさんのこと守らせてよ」
時が止まったような心地がして、ユキちゃんはゆっくりと顔を上げる。
やっと視線が合って、楓くんは笑う。好きな子にちょっかいをかけて喜んでる小学生みたいに、無邪気な顔で。
「好きな人を忘れられないのは、俺も同じ。4年も余所見せず片思いしてる、可哀想な男のワガママを叶えると思って、尽くさせてよ」
心底愛おしそうにはにかむ。
ユキちゃんの瞳から、ボロっと大粒の涙が溢れ落ちた。とめどなく流れ落ちるそれを見て、楓くんは黙って腕を伸ばし、ティッシュ箱を掴んで彼女の近くに置く。鍋がいい具合に出来上がってるのを確認して、彼女の分と自分の分を取り分け皿に分ける。
彼女の前に取り分け皿を置き。
「返事はゴメンじゃなくて、いただきますで頼むわ」
意地悪く笑った。
ユキちゃんはもう何も言い返せない。
ぐしぐしと涙を拭い、鼻水をティッシュでかんでゴミ箱に捨てた。
「……いただきます」
「いただきます」
2人揃って、手を合わせる。
いつかの日のように、2人きりで鍋をつつく。
テレビ台のに置かれた小さな青い小鳥の置物が、2人を見つめていた。
◆
「ぶッ!!にゃははははは!!」
「ッお゛、椿ィ!!テメェここVIPだってわかって汚してんだろォなあ!!」
「うはッあはははは!!ごめ、ひえっ、ゲフッんははははははは」
「……さっきっからニヤニヤして気味悪りぃと思えば、ついにイカれたかテメェ」
「水!!だれか僕に水ちょうだいッ!!いーひっひっひ!!こりゃ傑作だ!!」
「はい♡椿くんお水どうぞ♡」
「んっ、ありがと♡」
【1時40分・銀座】
高級キャバクラ『MARIA』の煌びやかなVIP席で、椿くんは盛大に飲もうとしていた烏龍茶を吹き出した。片耳にイヤホンをしたまま、片手にスマホを持ち腹を抱えて笑う。彼の隣には店の1番手と2番手のかわゆいもちもちの女の子が着き、メロメロと彼に身体を寄せながら甲斐甲斐しく接待をしている。
左隣には、店の4番手と5番手の女の子に挟まれて座る男がいる。『MARIA』のオーナー、北条千聖である。
彼は薔薇がプリントされた派手な紫色のスーツで身を包んでいる。オールバックにして、頭のてっぺんでポニーテールに結んだシルバーの髪が、彼の動きに合わせて揺ら揺ら動く。
彼こそが、ユキちゃんのボスである。
彼は1時間前に椿くんを呼びつけた。ユキちゃんの居場所をこの男ならば知っていると確信しているからだ。しかし椿くんは知らぬ存ぜぬ。とぼけた顔をしてはべらした女の子たちに世話を焼かれている。しかも片耳にイヤホンをしてニヤニヤしているもんだから、舐められていると思って短気な北条は貧乏ゆすりが止まらない。
「テメェほんッッッとーーーーーにユキの居場所知らねえんだろうなァ?!」
「んもぉ〜千聖サンしつこい。知らないって言ってるじゃん。もしかして学習能力ママの子宮の中に置いてきたぁ?」
「あ゙ぁ゙!?」
「千聖サン、キレすぎて血管切れそうだよ〜ウケるね?」
「ね♡」
「ね♡じゃねぇーーーーんだよ!!同意してンじゃねェ!!」
「やだぁ、ボスこわぁい……椿くぅん」
「おーよしよし、可哀想に!僕が慰めてあげようねぇ♡」
「あん♡」
「やだぁずるい!あたしもぉ♡」
「おっぱじめようとすんなバカ供がァーーーーー!!!!椿ィ!!ユキの情報がねぇんならテメェに用はねェ!!帰れ!!」
「え〜、でもみんな帰って欲しくなさそうだし」
「やだぁ!帰ってほしくなぁい!」
「ダメ〜♡」
「ボスの方が邪魔ぁ〜」
「ボス帰ってぇ〜」
「ほら♡」
「ふっっっっざけんな!!ファーーーーーーーーック!!」
「なはは。うるさぁ」
女の子たちに挟まれてきゃいきゃいからかってくる椿くんに、北条は全力で中指を立てる。
北条は感情が0か100かの極端な男なのでいつも反応がいい。それを面白がられて椿くんからおちょくられているのだ。
しかしこの日に限っては椿くんの興味は北条からすぐに逸れる。スマホを弄るのに夢中なのだ。
「椿くんさっきから何してるのぉ?」
「ん〜?盗聴と監視〜♡」
「え〜ずるぅい!あたしも椿くんから盗聴と監視されたぁい!」
「ほんとバカタレだなお前ら。趣味のワリィクソメガネに監視されて何が嬉しンだよ」
「え?千聖サンのスーツの方がよっぽど趣味悪いデショ」
「あたしもそう思う」
「私もー」
「テメェらいちいち結束して俺を痛ぶンねェと気ィすまねェのか?カスメガネ残して全員席外せクソアマ共!!」
「ちぇー」
「ボスのケチんぼー!」
「椿くんまたねぇ♡」
「次はゆっくりおしゃべりしよーねぇ♡」
椿くんは女の子全員から顔の至る所にチューされて、朗らかな笑顔で手を振り彼女たちを見送った。
ピーチクパーチク喧しい小鳥たちがいなくなって、室内は店内のBGMのみになる。
北条がイライラと小刻みに貧乏揺すりをしながらタバコに火をつけた。
2人きりになっても、やはり椿くんはスマホを弄るのに夢中だ。
「帰れって言ったり残れって言ったり、忙しない人だなぁ」
「テメェがテメェのケツ拭くまでは帰すわけにいかねェ」
「さてねぇ、僕自分のおしり汚すような真似したっけ」
椿くんは鼻で笑いながら言う。
北条の右目の下に皺が寄った。立ち上がり、椿くんの足を跨いで胸ぐらを片手で掴み上げる。
「およ?」
凄まじい力で引っ張り上げられても、椿くんは表情を少しも崩さない。それどころか面白そうに笑みを深める。
北条はこめかみに青筋を浮かべたまま、たっぷりタバコを吸って、煙を椿くんの顔に吹きかけた。
「テメェ以外に、ユキがンなバカな真似する理由が思いつかねェンだよォ……」
地を這うような低い声で言う。
彼が椿くんをこの場に呼んだのは、何もユキちゃんの情報を得るためだけではなかった。絶対にこのメガネ野郎がユキちゃんの失踪に一枚噛んでるとふんで、呼びつけたのである。
彼女が夜職で稼いでいた理由も、どれだけこのイカレサイコ野郎に入れ込んでいたかも、北条はわかっている。
普段、ユキちゃんは人前でこそ椿くんにそっけない態度をとっているが、その実この店のどの女よりも入れ込んでいたのがわかっているのだ。北条はバカではないし、察しの良い男である。
故に、失踪させた原因であるお前が〝責任〟をとれと、暗に言っているのだ。
椿くんはため息を吐き、ちっともひるんだ様子もなく、挑発するような笑みさえ浮かべる。
「心配性なパパだなぁ……」
「あ゛……?」
「心配しなくっても、あの子は帰ってくるさ」
メガネの奥で、椿の瞳は別の何かを見ている。
揺るぎない、確実な未来を見ているのだ。
北条は暫し、椿くんを睨み下ろしたままの姿勢で考える。それから手を離し、ソファにドカッと粗雑に腰かけた。
「ンと、テメェは何考えてんだかわかんねェから気色悪ィ……」
「気色悪いだなんて失礼しちゃうなあ」
「そこまで言い切れる根拠があンだろな」
「そりゃもちろん!だから千聖サン、あんまり余計な事しないでねぇ〜僕に任せてくれたら1ヶ月くらいで事は済む」
「あ?!1ヶ月もかかんのかよ!!」
「1ヶ月〝は〟最低でも必要なんだよ。我慢してよ〜!ユキちゃんの1ヶ月分の稼ぎくらいなら僕が負担するしさ!」
服を直し、椿くんは足を組んでソファの背もたれに寄りかかる。視線と意識ははまたスマホに注がれる。しかし画面は真っ暗だ。
そう、まだ早い。シナリオを盛り上げるには、もっとユキちゃんには『幸せ』を知ってもらう必要がある。今北条に捕まってしまっては、おもしろくない。
「怖がる必要はない。最後は必ず、ハッピーエンドだ」
機嫌よさそうな、赤い月が微笑う。
イヤホンから聞こえてくる楽しげな男女の会話に、耳を澄ませる。
◆
【7時23分・楓宅】
「ユキさん、イルミネーション見に行こ」
「え?」
楓くんの家にユキちゃんが居候し始めて1ヶ月がたとうという時のことだった。
季節は12月である。
朝食を準備しているユキちゃんに、起きたばかりの楓くんがベッドの上でぼんやりしながらそんなことを言ったのだ。
エプロン姿でミネストローネの入ったお鍋を混ぜていたユキちゃんは手を止める。
のそのそベッドから降りて、こちらにペトペト歩いてくる彼をポカンと見つめた。
彼は夏でも冬でも寝巻きのトップスは半袖である。彼の頭のてっぺんでひょこひょこ寝癖が揺れている。
「ねぇ、ふふっ……寝癖ついてるよ」
「ん……」
鳥のとさかのような寝癖をユキちゃんが撫でてあげると、まだ眠そうな楓くんが甘えて頭を擦り寄せてくる。ほとんど目を閉じていてまだ夢でも見ているような感じだ。彼は朝に弱いのである。
「んー…」とまだ眠そうな声を出してしょぼしょぼ目を開ける。
「イルミネーション」
「……わ、わかったから。ちょ……ねぇ、ちょっと、くすぐったい!……早く顔洗ってきなよ。もうご飯できるわよ」
「ん゛……」
腰を抱き寄せられて、彼がユキちゃんの首元に顔を埋める。鼻息が首筋に当たってゾワゾワするので、身をよじって彼の胸板を押せば案外簡単に離れた。
彼はユキちゃんに言われた通り洗面所へフラフラ向かう。途中よろけて、ゴツッ、と壁に頭をぶつけていた。
彼の姿が洗面所に消えたのを見届けてから、ユキちゃんはお鍋の火を止める。「はぁ……」とため息を吐き、ユルユルとその場にしゃがみ込んで顔を手で覆った。
あの夜から1ヶ月、2人はなんの変哲もない日常を送っている。
関係はというと、何も変わらない。こじんまりした空間で生活し、同じベッドで寝ているが、何も色っぽいことは起きていない。強いて言えば、寝起きの彼が甘えてスキンシップをしてくる程度。それ以外の接触はほぼない。セックスしたいと豪語したわりにはなかなか耐えている。
それからユキちゃんは無償で住まわせてもらう代わりに、家事全般を行なっている。掃除洗濯を難無くこなし、朝昼晩必ず手作りで一汁三菜、彩りと栄養バランスを考えた食事を作っている。ユキちゃんは元々料理をするのが好きだし得意なのだ。
楓くんは好きな女の子に手料理を振る舞ってもらえるのがかなり嬉しいようで、毎食バカのひとつ覚えみたいに「うまぁ」と鳴き声を上げながらニコニコ食べている。学生の頃は照れて何も言わなかった彼が、今になってこんなに素直になったのは驚きだ。
外に出ることも、全くないわけじゃない。1人で出かけるのは危ないからと、必ず楓くんが一緒に出かけてくれる。スウェットのまま近所のコンビニに行くこともあるし、オシャレしてショッピングしたり、大きな公園で全力でバドミントンしたり、スーパーで特売商品の争奪戦に混じってボロボロになりながら、重たい買い物袋を半分ずつ持って帰ったり。
そんな日々を過ごしていた。
ユキちゃんにとって、小さな幸せが沢山詰まった日々である。こんな生活に、彼女はずっと憧れていた。
なんでもない日々に、幸せを見出したかった。椿くんが相手では無理だとわかっていても、ずっとずっと夢にみていた。
こんな温かい気持ちになるのは初めてで、楓くんとそんな生活をしているうちに、ユキちゃんに少しずつ変化が起きた。
「どったの」
「へっ?!」
急に呼ばれてビクリとする。大きな赤いリボンがついたヘアバンドをつけたカエデくんが洗面所から顔だけ覗かせていた。ヘアバンドはユキちゃんのもので、勝手に彼が使っている。
楓くんはようやく目が冴えたようだ。
ユキちゃんは急いで立ち上がる。
「なんでもない!汚い顔早く洗ってよ」
「もう洗ったわ失礼な。……つかさー、イルミネーション今日行こうぜ」
「え、今日?」
「うん、今日」
「でも今日仕事って言ってたじゃない」
「なくなった。てかなくした。善良な後輩がシフト変わってくれるって言うから」
「いやそれ……無理やり仕事押し付けただけでしょ」
「優しい後輩持てて俺シアワセ。夜は外で食べよ。んでそのまま日比谷のイルミ見にいく。18時出発な」
ヘアバンドを取って洗面所から出てきた彼が、朝食を盛りつけるためのお皿を準備してくれる。スープカップを受け取ったユキちゃんがちっちゃく頷けば、彼は満足そうに笑い、用意された朝食を見て「うまそ〜」と嬉しそうに、子供みたいにはしゃぐ。
ユキちゃんはそんな彼の横顔を見ながら、きゅっと心臓のあたりが苦しくなるのを感じる。
それに気づかないふりをして、ミネストローネを2人分よそった。
【19時17分・日比谷】
「スゲー」
「すっごい棒読みだけど、楓くん感情ある?」
「ばりばりある」
ちょっといいイタリアンレストランで食事を終えて、2人はイルミネーションを見にきた。
ユキちゃんはクラシックなオフホワイトのタイトワンピースに、淡い水色のノーカラーコートを着て、足首がファーで覆われているグレーのショートブーツを履いている。白くてもこもこしたマフラーをしているおかげで暖かそうだ。
一方楓くん。ブラックのニットとタイトパンツを着て、荒いチェック柄の、グレーロングコートを羽織っている。マフラーをしてこなかったので首もとが寒そうだ。
「だからマフラー持って行ったほうがいいって言ったじゃない」
ユキちゃんが呆れたように言えば、楓くんは隣を歩く彼女を見る。それから無言で彼女の手を握り、自分のコートのポッケに入れてしまった。
「これで暖とるからダイジョーブ」
鼻の頭を赤くしながらニカっと笑って言う彼に、ユキちゃんは面食らってしまう。
コートの中で指を絡められて、握られる。
「ユキさんの手、赤ちゃんみたいにあったけぇ」
「……あんたの手が冷たいだけでしょ」
プイと前を向いて、ユキちゃんは彼の手を控えめに握り返す。
マフラーの中に熱が籠って熱い。
色とりどりのイルミネーションを見ながら歩いていると、クリスマスソングが聴こえることに気がつく。そうだ、もう少しでクリスマスだ。仕事をしていても接客業だと曜日感覚が狂って仕方なかったが、仕事をしていないとさらに感覚が狂う。今日何日だっけ、なんて思っていると、ネオンライトに彩られた階段にさしかかった辺りで、握られていた手を放された。
「……楓くん?」
楓くんが俯いてジッと固まっているので、ユキちゃんは不思議に思って彼の顔を覗き込もうとする。
かと思えば、彼はユキちゃんの方を向いて、手を握っていたのと反対のポッケから何かを出した。
水色の、手のひらに乗るくらいの、小さな箱だ。白いリボンで結んであるそれには、『happy birthday』と書いてあるちっちゃなメッセージカードも一緒に括られている。
プレゼントを貰い慣れているユキちゃんには、それが有名なブランドのものだと一瞬でわかった。
「これ……」
「今日、誕生日じゃん」
言われて、ハッと気がつく。
そうだ、そういえばそうだ。すっかり忘れていた。
12月18日。クリスマスの1週間前がユキちゃんの誕生日である。
ユキちゃんは白い息をホッと吐き出し、宝物を見つめるように、小さな箱を見つめた。お礼を言って、それを受け取ろうと手を伸ばし。
「えっ」
「待って!やっぱダメっ!!」
受け取る前に彼が取り上げてしまった。
彼はガクッとしゃがみ込み、塞ぎ込んでしまうのである。
「な、なんで?」
「ダメダメダメやっぱ無理。どう考えても重い」
「………、重いかどうかはあたしが決めることじゃない?」
「それはそうだけど……あッ?!ちょ、だめ!ダメだって!!」
ユキちゃんは一流のスリみたいに、楓くんから素早く箱を取り上げた。また取り上げようとしてくる楓くんの鼻を摘む。
「もう貰ったからあたしのもの。ありがとね」
「んわ゛ーーーッ」
楓くんは観念したようにまたしゃがみこんで顔を両手で覆ってしまう。
さてと、ユキちゃんは今度こそ箱を開けた。開けて、言葉を失った。
指輪だ。0.05カラットのアクアマリンが埋め込まれた、華奢なシルバーリング。
「重い。重いだろ。重いって思うよな。彼氏でもない男から貰うプレゼントがブランド物の指輪は重いだろ。俺もそう思う。いっそ殺してくれ……」
楓くんは顔を覆ったままブツブツ呟く。首から耳にかけて、可哀想なくらい真っ赤になっている。
ユキちゃんは、そんな彼を堪らなく愛おしく思った。指輪を右手の薬指にしてみるとピッタリだった。
どうしてサイズ知ってるのかしら。多分、寝てる時にでもこっそりサイズを測ったんだろう。箱とリボンをちっちゃなハンドバッグに仕舞って、ユキちゃんは楓くんの正面にしゃがむ。
それから結婚記者会見で指輪を見せる女優さながら、彼に向かって指輪を見せた。
「どう?似合ってるか、買った本人に確認してもらいたいんだけど」
ややあってから、楓くんは指と指の隙間からそろりと目を覗かせる。彼女の指で煌めくアクアマリンの輝きを確認し、眉間に皺を寄せた。
「めっちゃ似合ってる……」
「でしょうね」
「え、ちょっ」
ユキちゃんはニヒルに笑った。
それからしっかりと彼の両手首を掴み、邪魔なそれを顔から剥がして
「ッ!!」
キスをした。
楓くんには時が止まったかのように思えた。目を閉じるのも忘れていると、いつの間にか彼女は離れていた。
口を引き結んで石像のように固まっていると、あんまりに間抜けな顔をしているからかユキちゃんが吹き出した。
「な、なん、……」
「やだ、今の楓くん、童貞みたいでカワイイ」
「はぁ?!童貞じゃねぇし!!……おあっ、」
あんまり声が大きくて、周りの通行人にクスクス笑われる。
これ以上赤くなれない楓くんは、顔から煙が上がりそうな勢いだった。
恨めしそうに楓くんが彼女を睨みつけるが、彼女にはなんのダメージもない。クスクスおかしそうに笑うばかり。
今度は楓くんが彼女の手首を掴み返す。
「あ、あのなぁ……」
「ずっとあたしに片思いしてたのに、童貞じゃないんだ……ふーん」
「ッいや、それは!片思いする前に、……てか!片思い中の男に思わせぶりなことするなって!傷つくだろ」
「わかってる。…………でも、思わせぶりじゃ……ない、かも」
「…………、は?」
楓くんは再び押し黙る。
潤んだ彼女の瞳が熱っぽくこちらを見つめている。彼女が自分をこんな目で見つめてきたことなんか、ただの一度だってなかった。
心臓が大きく脈打つ。
信じられない気持ちで、彼女を見つめる。彼女の手首を掴む力が緩み、彼女の指が、楓くんの指先に躊躇いがちに絡む。
ゆっくり、ゆっくりお互いの距離が縮んでいき……。
「あーーっ!チューしようとしてるー!」
「こらっ!見ちゃだめっ!!」
甲高い幼女の声で、ユキちゃんも楓くんもギクリと動きを止めた。
すっかり2人の世界に入っていたが、ここは公共の場である。通りすがりの家族連れがそそくさ横を通っていき、2人は慌てて立ち上がって頭をペコペコ下げた。
それからなんとなく気まずい雰囲気が流れる。
楓くんがなんて声をかけようかと考えていると。
「……ッ、」
楓くんの小指の先に、ユキちゃんの小指が絡んだ。ギギ、と横を見れば、ユキちゃんが恥ずかしそうに目を伏せている。それからチラ、と楓くんを見上げた。
「……続きは、お家で」
【1時56分・楓宅】
ユキちゃんはなんだか眠れなくて起きていた。
暗闇の中で目が慣れて、玄関からベッドにかけて乱雑に散らかっているコートやらワンピースやらショーツやらをぼんやり見つめていた。
せめてコートを拾わないと皺になっちゃうな、とは思うものの、動く気力はない。
なんならカーテンも開きっぱなしで、月夜の明るい光が入ってくるから閉めたいのだが。
やっぱり動きたくたい。布団を抜け出して素っ裸のまま寒い部屋を歩き回りたくはない。
ユキちゃんは諦めて、テーブルに置いてあるスマホに布団の中から手を伸ばす。片腕をまるまる一本出してギリギリスマホに手が届いた。
手に取って、開いた画面は連絡先。
『椿くん』の名前の所で、スクロールする指が止まった。
ずっと、この1ヶ月、彼の連絡先を消せずにいた。情けないことに、今も躊躇している自分がいるのだ。ここ1ヶ月彼からの連絡が一切なかったからよかったものの、もし「会いたい」なんて言われていたらどうだっただろう。のこのこ会いに行ってしまっていた自分がいる気がしてならない。
こんなの、楓くんに対する裏切りに他ならない。いい加減前に進まなければ。
「寝れねぇの」
「ッわ、」
背後から声をかけられて反射的にスマホを伏せる。振り返らないうちに、背後から楓くんに抱きしめられる。
「隠さなくていい。なんとなくわかってたし」
「……ごめん」
ゴロンと寝返りを打つと、彼からおでこにキスされる。泣いている子供を慰めるみたいに、よしよしと頭の後ろを撫でつけられる。
「あたし、こんなに幸せでいいのかな」
「何だよその質問」
「……、」
「幸せじゃなきゃ俺が困るだろ」
「……ほんと、口が上手いんだから」
「昔っからどっかの誰かに言い負かされてばっかだったからな。強くなっただろ?」
優しく宥めるような彼の声が、酷く心地よい。
ユキちゃんは堪らなく胸がキュンとして、「そうね」と肯定してから彼に擦り寄って抱きしめた。
「所で……お兄さん?」
「ん?」
「息子、また元気になってない?」
「……、」
「……流石、お盛んな年頃ですこと」
ユキちゃんはクツクツと笑い、楓くんの上に馬乗りになる。自然と布団が邪魔になり、ベッドの下に落とした。
一気に寒くなるが気にならない。どうせこれからまた熱くなる。
そして月の光に照らされたヴィーナスの、なんと美しいことか。
「あ゙ー……降参」
「ふふ」
男は当然、白旗を上げるしかない。
女神は満足そうに微笑んで戯れ始める。
まるでここが楽園かのように、どこまでも幸せそうに睦み合う。
楽園の終焉が、近づいているとも知らず。
◆
「は、え、なに……?」
【17時36分】
その日は、クリスマスイブだった。
楓くんがシャンパンとクリスマスケーキを買いに出かけてくれて、その間ユキちゃんはディナーを作りながら待っていた。こっそりプレゼントも用意している。喜んでくれるかしら、とか思いながら、彼の帰りを待った。
しかし、1時間たっても彼は帰ってこなかった。メッセージにも返信はない。電話にも出ない。目的地は家から5分程度。心配になって、ユキちゃんは外へ出た。
そこで見つけた人だかりとパトカーと救急車。
家族連れや恋人たちが行き交う都会の街中で、赤いランプが異様に光っていた。
どうしようもなく嫌な予感がした。
全身から冷や汗が吹き出た。
いや、まさかそんな。
「すみませ、通して、通してください」
震える声で人混みをかき分けた。
かき分けて、かき分けた先に、彼を見つけてしまった。
「うそ、いや、楓くんッ!!」
つんざく悲鳴のような声に、群衆は不躾な視線を向ける。
ユキちゃんの視線の先には、今今救急車に担架で運ばれようとしている、ぐったりした姿の彼。意識がないのか、目は閉じていた。
ユキちゃんが規制テープを超えようとすると警察に止められた。
すぐに救急車は彼を乗せて行ってしまって、ユキちゃんは膝からその場に崩れ落ちる。
瞳が震える。呼吸が浅くなる。彼が運ばれてきたのは裏路地からだった。奥には目視で確認できるくらいの血溜まりができていて、血溜まりの中には、クリスマスケーキが入っているであろう箱と、シャンパンが無惨に転がっていた。しかしすぐに警察がブルーシートを貼って見えなくなる。
「お姉さん大丈夫?被害者のご家族ですか?」
「……ヤダ、どうして、彼に何があったの!!」
「落ち着いて、落ち着いてください!」
警察の話によれば、彼は刺されたのだそうだ。その上右腕と左足を折られている。
こんなに人が溢れていたというのに、不思議と目撃した人は誰もいない。
目の前が真っ暗になるような心地だった。
病院に着いた時には、すでに手術が始まっていた。看護師の話によれば、運び込まれる直前まではうっすら意識があったそうだ。
待合室で、ユキちゃんは心臓が今にも止まりそうな心地で手術が終わるのを待った。祈るように手を組んで、ただ待ち続けることしかできなかった。
どうか手術が成功しますように、という祈りをするとともに。誰が彼にこんなことを、という疑問で頭の中がいっぱいになる。
誰、誰、誰。
彼にこんな酷い仕打ちをしたのは誰。
ユキちゃんが座ったまま組んだ手を額に擦り付け、怖いくらいに目を見開き床を見つめていると。
「メリークリスマス♡」
どこまでも呑気な声で、話しかけられた。
冷たい金のカーテンの隙間から、ユキちゃんの鋭い眼光が茹だるように声の主を捉える。
椿くんだ。
赤いチャイナ服に、ふざけたように、サンタの赤い帽子を頭に被っている。彼はのらくらと歩いてきたかと思えば、ユキちゃんの隣に「よいしょ」と腰掛けた。それからバカみたいに明るい声で。
「どう?彼元気?」
そう言った。
瞬間、ユキちゃんの頭の中でブチっと音が鳴る。傍に置いていたハンドバッグから鮮やかな手つきで裁ち鋏を取り出した。護身用に持ち歩いているものだ。そのまま流れるように両手で持ち、椿くんの喉元めがけて振り抜く。
が、彼の喉へ刺さる前に、ハサミを握ったユキちゃんの手首を彼が掴む。
ユキちゃんはそのまま彼の膝を跨ぎ、全神経と力を腕に込めた。ギリギリぶるぶると刃先が震える。
前屈みになって垂れ下がった黄金の髪の中で、夜叉と化して血走った目が、爛々と椿くんを睨みつける。
「ころしてやる」
背筋を刃物の切先が撫であげるような、ゾッとする声。ギラついた殺意が椿くんを突き刺す。
「……ユキちゃんさ、何か勘違いしてない?」
「あんたがやったんでしょ!!」
笑みを崩さず彼が言う。
ユキちゃんは左目だけをギュッと細めて、赤く染まった目で彼を責め立てる。
ググ、と刃先が椿くんの喉元に近づく。
彼はやれやれとため息を吐いた。
「確かに僕がやった。でも君を守るためにやったことだ」
「………は?」
「ユキちゃん、気がついてなかったデショ。彼、すんごい残忍な殺人鬼なんだよ♡」
「……そんなくだらない嘘、信じると思ってるの」
「そう言うと思って……はい♡クリスマスプレゼント♡」
「…………、」
彼がポケットから出した、数枚の写真。
目の前に突き出されたそれらを見て、ユキちゃんは思考が止まった。写真を奪うように取り上げて、よろけるように彼の上から降りる。
ハサミがカシャンと音を立てて床に落ちる。
ふらふらと後ろに下り、ドンと壁に当たってへたり込んだ。
写真に写っていたのは、確かに楓くんだった。楓くんが、見知らぬ家で女とセックスしている写真。ただの女じゃない。女には身体の上半身がない。腰から上が、すっぱり綺麗になくなっている。血に塗れながら、悦に溺れた見たこともない表情の彼がそこにいた。
どの写真もそんな写真ばかりだ。
「まあ、所謂死姦ってやつ?純粋装って超アブノーマルとは、やることエグいよね〜。ユキちゃんの身体が半分こに鳴る前でよかったよ」
椿くんはゆらり立ち上がり、落ちているハサミを拾ってユキちゃんの前にしゃがむ。
声も出せず、ハラハラと涙を溢すユキちゃんの頭を撫でる。今この娘には、なぜこんな写真を椿くんが持っているのかなんて考える余裕はない。ただ目の前の真実に絶望するので精一杯なのだ。
椿くんは笑みを深めて、ハサミの持ち手をユキちゃんに差し出す。
「ユキちゃん、まだ僕のこと殺したい?」
ユキちゃんは何も言わない。
「可哀想に……。彼ね、多分死なないよ。急所は外したし、足と腕を折っただけじゃそうそう死なない。……ユキちゃんが彼にトドメをさせるようにね、加減しておいたんだ。信じていた彼に裏切られて、憎いだろ?だから、あとは君の好きにするといい。ああ、1人になったからと言って悲観することはない。だって君には僕がいるからね」
慈悲深い神のように、彼は優しく彼女に微笑みかける。
母が子を抱くように、優しく彼女を包み込む。
「僕が君を、救ってあげる」
【20時39分・病院前】
「もっしもーし。……えうそ、もしかして寝てた?早すぎデショ!ほんとに男子高校生か疑わしくなってくるね。小学2年生とかの間違いじゃない?」
病院の前にある大きな交差点。
椿くんは信号待ちをしながら電話をしている。相手は最近できたばかりのオトモダチである。
オトモダチの彼は男子高校生だ。まだ21時にもなっていないのに寝ていたらしく、寝ぼけた声がスマホから聞こえてきて、椿くんはケラケラ笑っている。
「ごめんごめん、一言お礼しとかないとと思って電話したんだ」
赤信号が、青信号に変わる。
ぴよぴよ、と歩行者信号特有の音が鳴り、チラホラと信号を待っていた人が動き出す。
椿くんは少し遅れてゆっくり歩き出す。
「ほら、この前僕が教えて作らせたやつあったデショ。あ、そうそうそれそれ!見せたらねぇ、すっごい反応よかったんだ〜!やっぱセンスあるよ。再来週の金曜さー、また港区の家に来てくれない?別件でお願いしたいことがあるんだ〜。うん、そ。よろしく」
ぴーろーぴーろ。
間の抜けた警告音が鳴って、信号が点滅する。
「じゃ、ほんとにありがとね。おかげで楽しめたよ」
椿くんが渡りきったところで、また信号は赤に変わった。
彼は電話を切り、ポケットにしまう。入れ替わりに、しまっていた写真を取り出す。
それをビリビリと破り。
「でも、もういらないや」
宙にばら撒いた。
鼻歌を歌いながら、椿くんは歩いていく。
風に吹かれて、破かれた写真が白い花びらのように舞った。
◆
「やあ楓クン」
「あ?」
その声は後ろから聞こえた。
楓くんは今から愛しい女と2人きりでクリスマスイブを楽しむ予定で、手にはケーキの入った箱とシャンパンが1本入った袋を持っている。
それなのに、呼び止めてきたその声は自分がもっとも嫌いとする人間の声。
思わず眉を顰めて振り向いた。
振り向けば、案の定そこにはメガネをかけた悪魔がいる。
何もクリスマスイブにこいつとエンカウントしなくたっていいだろと、自分の運命を呪った。
「ちょっとー!無視しないでよ、酷いじゃん」
「今すぐくたばれ、クソメガネ」
「息をするように暴言吐くねぇ、君」
無視したが、悪魔はしつこく付き纏ってくる。
「久しぶりだねぇ、2ヶ月ぶりくらいかなぁ。君まだあそこでバーテンダーしてるの?今度うちのお人形ちゃんたちと一緒に遊びに行ってもいい?あ、そうそ!人形といえばさぁ、最近1つなくしちゃったんだよね。お気に入りだったんだけどなあ〜。ま、あの程度のガラクタなら、」
楓くんは悪魔の襟首をムンズと掴み、表通りから裏路地に方向転換する。そのままずるずる暗がりの方に引きずって行き、奴の背中を壁に叩きつけるようにして詰め寄った。
「テメェなんかが!!ユキさんのことガラクタ呼ばわりすんなッ!!」
胸ぐらを掴んだまま、手負の獣よりも獰猛に吠えた。しかし悪魔には何も響かない。ただ白い歯を見せて、寒気のするような笑みを浮かべるだけだ。
餌に食いついた魚を見る目だ。
「あの娘は僕の物だ。惨めで、バカで、哀れな、僕のカワイイガラクタさ!」
「黙れッ!!あの人はお前のものじゃない!!」
「君のものでもない!僕からアレを盗んだ分際で偉ぶるな!!」
ぴしゃりと言われ一瞬言葉に詰まる。ふうふうと息を震わせ、荒げながら、楓くんは奴のメガネの奥の瞳を睨む。
身長は楓くんのほうが高いのに、なぜか奴から見下ろされている心地がした。
「……まだわかっていないようだから、教えておいてあげよう」
吐く息が白くたちこめる。
奴の瞳が、赤い光を宿している。
「僕と関係の切れた人形の末路は、破滅だ」
「……、は」
「モテすぎるのも困りようだよねぇ。僕を憎んでる奴らは裏社会の中に五万といる。奴らはこぞって僕の持っている情報と、僕自身の情報を知りたがってるんだ。彼女みたいに、僕と深く関わりあった人間は、貴重な情報源なんだよ。普段は僕の報復を恐れて手を出してこないけど、僕と関係が切れて、手を離れた瞬間、彼女達は跡形もなく姿を消す。文字通り、跡形もなくね」
「……」
「ユキちゃんはね、そういう世界に足を踏み入れたんだ。北条千聖なんて目でもない。もっと仄暗い存在がそのうち彼女を付け狙う。……君、そうなっても、彼女のこと本当に守れるの?」
胸ぐらを掴む楓くんの手首を、奴はぎりぎりと締め上げるように掴んできた。
が、楓くんは右目の下に僅かに皺を寄せただけで、奴から一瞬だって視線を逸らそうとしない。
好きな女を守るのに、迷いなんて少しもあるはずがないのだ。
「守る!!俺の命に換えてもだ!!」
「……、そう」
奴は一瞬目を丸くする。それから先ほどまでの薄ら寒い笑顔を掻き消し、快活な笑顔を浮かべた。
「じゃあ、証明してよ」
刹那、楓くんは電流を流されたかのような感覚に陥る。
「……ッ、あ゛?」
遅れて、腹部にじわじわとした痛みが走る。
下を向くと、腹部にナイフが刺さっている。
じくじくと刺さった場所が痛み出し、額に脂汗が浮かぶ。せっかく買ったケーキとシャンパンを地面に落としてしまった。どんどん強く感じる痛みに耐えられず、よろけて、壁に寄りかかりながら、ずるずると倒れこむ。
「ああ、それ抜かない方がいいよ。下手すると失血死しちゃうから♡」
壁に背を預けて苦しむ楓くんに、丸い声で悪魔は囁く。それから、なぜか楓くんの靴を片方だけ脱がし始めるのだ。
「どーおー?痛いでしょ〜?もうそろそろ正直に『守り切れそうにない』って白状したら?」
「ふ、…フーッ……ッ」
しかし楓くんは、歯を食いしばりながら、奴に向かって、中指を立てる。
「……バカだなぁ」
悪魔は嗤う。
コンコンと、控えめにノックの音がして、楓くんはゆったりと瞼を上げた。
いつの間にか寝ていたみたいだ。楓くんが入院してから、本日で1週間が経つ。
「……どうぞ」
楓くんが返事をすると、病室の白いドアが横にスライドして開いた。
開いた先に立っていたのは、ユキちゃんだった。金色に眩かった柔らかな髪は、墨を落としたように黒くなっている。ブラックのロングコートに身を包んでいるせいもあって、落ち着いた大人の女性という印象が強くなった。手には霞草とブルースターが混じった花束を持っている。
「お見舞いに花束持ってきたの、飾っておくわね」
「ありがと。……なあ、ユキさん少し痩せた?」
「そうかしら。あたしよりあなたの方が心配。……具合どう?」
「だいぶ元気んなった」
さっきまで悪夢を見ていたけど。
楓くんが力無く笑うのを見て、ユキちゃんは眉を下げて唇を少し尖らせる。
「……嘘ね。今熱あるんじゃないの?」
「……まあ、ちょっとだけ」
「いくつ」
「……38」
「寝て。あたしもう帰るから」
「待ッ……!ッつー…… 」
「やだちょっと、無理して動かないで!」
「じゃあまだ帰らないで」
「……、っもう」
ユキちゃんはコートの袖を楓くんに引っ張られて、大人しく窓際のベッドサイドに置かれた丸椅子に座る。
それから彼が汗をかいているのに気がつき、冷水で冷やしたタオルで軽く拭いてあげた。
「……なんか子供扱いされてるみたいで恥ずい」
「帰らないでほしいなんて、甘える子供も同然よ。怪我人は黙って面倒みられなさい」
「へいへい」
「……寝付くまではいてあげる」
「ん」
「……」
「……」
「……」
「ユキさん」
「なに」
「手ぇ繋いで」
「……いいけど。珍しいのね、こんなに甘えてくること寝起き以外であんまりないのに」
「たまには俺にもこういう時があんのー」
ユキちゃんは右手を差し出して、楓くんの左手を握る。普通に握るのでは満足がいかないようで、楓くんは指を絡めてきた。
「手ぇ冷たくね」
「そりゃ、外歩いてきたから」
「へー。こんな牡丹雪の中?」
「……タクシーが捕まらなかったの。珍しくこんな大雪で、道路が大変なことになってるんだもの」
「……ユキさん、こんな雪ん中わざわざ歩いて俺の見舞いに来るとか、俺のこと大好きじゃん」
「………」
「どうしよ、うれし。俺愛されてんな〜」
「ねぇ、寝る気ある?」
「ない」
「はぁ……」
ぎゅ、と。握る手に力が入る。
楓くんは熱に浮かされながらもぱっちりと目を見開いている。天井の一点を見つめる彼の横で、ユキちゃんは握られた手をぼんやり見つめる。
「ユキさん」
「……なぁに、甘えたさん」
楓くんが、痛いくらいに、彼女の手を握る。
「俺ら別れよ」
しっかりとした声だった。悪夢を見ているわけでも、熱に浮かされて頭がおかしくなっているわけでもなかった。しっかり意思を感じ取れる声に、ユキちゃんは沈黙した。楓くんは、ユキちゃんの方を見ずに言葉を続ける。
「ユキさんさ、俺の目が覚めてから毎日見舞いに来てくれてたけど。ずっと別れ話がしたくて来てただろ」
「……」
「ごめん。気づいてたけど、言えなかった」
「……」
「理由も、なんとなくわかってる。俺のためだって」
「……」
「辛い思いさせて、ごめん」
握られた手が解れて、彼の指が、ユキちゃんの指にはめられている指輪を抜き取る。そのまま固く握りしめた拳に指輪を閉じ込めて。
「俺は1人で大丈夫」
笑ってみせた。
ユキちゃんの手は震えていた。
俯いたまま、声を殺して泣いていた。楓くんはずっと天井を見ているので、彼女の泣き顔は見えていなかった。彼女が立ち上がって出て行く気配を感じた。
楓くんはこの間、グッと奥歯を噛み締めていた。今にも「やっぱりなし」なんて情けなく叫んでしまいそうだから。
ドアが閉まった音を聞いて、堪えていた感情がブワッと湧き上がる。
目の奥が熱くなって……。
「えっ」
バン!とまたスライドドアが開いた。思わず見ると、ユキちゃんが俯いたままコツコツとブーツのヒールを鳴らして近づいてきた。
そのままベッドに横たわった楓くんに、キスをした。
キスの間、楓くんはいつの日かみたいに、目を見開きっぱなしで間抜けな顔をしていた。
彼女の顔が離れると、やっと表情がはっきり見えた。
涙に濡れて、顔を真っ赤にしたユキちゃんが、見たこともないようなクチャクチャな顔をしていた。
それから一言。
「愛してる」
そう言って、今度こそ病室を出て行った。
残された楓くんはしばらく放心していた。放心して、指輪を握っている方の腕を、閉じた両目の上に乗せる。
鮮明に彼女の去り際の顔が、脳裏に焼き付いてしまった。
「最後に、ンなの……ずるいだろ……」
無理やり作った変な笑顔のまま、静かに涙を流す。
嗚呼、なんて、最悪な日だ。
◆
『楓くんが殺人鬼』というバカみたいな発言を、ユキちゃんは当然ながら信じちゃいなかった。
見せられた写真が嘘だと、心の底から信じていた。あまりに精巧な写真なので、確かに驚きはしたが。ユキちゃんにとって真実は『写真』で語れないものなのだ。彼と一緒に過ごした月日が揺るぎない信頼につながっていた。
ではなぜ、ユキちゃんが楓くんと別れるに至ったか。彼を守るためである。ユキちゃんはすでに、椿くんにとっての都合の良いお人形などではなく、石田楓を愛する、1人の女に成長した。しかし彼のそばに自分がいると、彼の命をどうしても危険に晒す。今回のことで身に染みてわかった。
一緒に過ごす幸せな日々よりも、彼の命を優先すると決めたのだ。
今のユキちゃんは、楓くんの為なら何だってする。何せ、愛する男だから。
「もしもし」
『ユキちゃん、1週間ぶりだねぇ。元気にしてたぁ?』
ワタのような雪が静々と降り頻る中、ユキちゃんは眼前を見据えながら力強く雪を踏みしめる。
電話の相手は椿くんだ。
「ねぇ、椿くん、今から会いたいの」
『おや、僕のとこに戻ってくる決心がついた?』
「そんなとこ。今どこにいるの」
椿くんは今、奥方と一緒に新しい住居にいるらしかった。今いる場所から歩いて行ける距離だ。
20分ほど歩き、教えられたタワーマンションに到着。最上階の部屋の前まで行くと、インターホンを押さないうちにドアが開いた。
出てきたのは、ユキちゃんより少し背の低い、 チョコレートブラウンの髪を持つ女だった。
ユキちゃんを見て、まん丸の目をさらにまん丸にしてから、彼女はパッ花開くように華やかに笑う。
「わ、やだ、こんにちは!初めまして!大変、こんなに雪に濡れてしまって風邪を引いちゃう!どうぞ、バスタオル使ってください!コート、お預かりしますね。荷物もお預かりしますか?」
「……ありがとう。荷物は自分で持つわ」
「ふふ、椿の妻です。よろしくお願いします。〝お人形〟の皆さんって貴女みたいに綺麗な方ばかりなんですか?私緊張しちゃう…」
なんて呑気でバカそうな女だろうと、ユキちゃんは思った。社会の仄暗さも汚さも何も知らなそうな、箱入り娘といった印象の女。旦那の浮気相手が遊びに来たようなものなのに、うふうふ照れ照れしながら彼女は「ささ、中へ」と案内してくれる。
黒を基調としたモダンな室内はタワーマンションの最上階というだけあって非常に広い。
リビングとキッチンが一帯となった空間は部屋の大半がガラス張りになっていて、雪化粧を施される東京の街並みが広がっている。
「こんなに降っていると街中で遭難してしまいそう。ユキさん、〝病院から〟ここまで来るの大変だったでしょう?」
「……そうね」
彼女は2階へ繋がる階段を上がっていく。
後に続き、ユキちゃんも2階へ上がると、そこは寝室だった。
寝室も壁がほとんどガラス張りで、外が見える。
ワイドキングの大きすぎるベッドと、窓際にソファーとテーブルが置かれている。
椿くんはソファーに寝そべって、読書をしていた。声をかける前にユキちゃんの存在に気がつき、本をテーブルに置いて飛び起きる。
「ユキちゃん!また黒髪に戻ったんだ〜!」
ユキちゃんの元に歩いてきて、胸元まである豊かな髪を一束掬った。唇を髪に寄せて、「やっぱり似合うね」なんて言う。
ユキちゃんは、すぐそばで彼の妻が見ているのも気にせず、椿くんに擦り寄った。首に腕を回し、グッと近づく、自然とユキちゃんの腰に彼の手が回った。
「貴方に会う為に歩いて来たの。そしたらこんなに身体が冷えちゃったわ」
「そう、可哀想にねぇ」
「ねぇ、温めて」
ユキちゃんの冷たい唇が甘えるように、彼の唇に一瞬だけ触れる。
彼は細い目をさらに細めて笑う。そのまま彼女を抱っこして、ベッドに運んだ。
ユキちゃんが寝そべったその上に、彼が跨る。
彼の妻は入口に突っ立って、乙女のように口元を押さえ、ドキドキハラハラとそれを見つめている。
「……ねぇ。彼女、いいの」
「ん?うん。あ、でもせっかくだし近くで見てもらう?」
「は?」
椿くんは彼女を手招きした。彼女は主人に呼ばれた子犬のようにパタパタとやってきて、ベッドサイドに膝をついて〝お座り〟した。
「そこでちゃんと見ててね♡」
「はい、椿くん……♡」
「……、」
ユキちゃんは顔を引き攣らせた。このイカれた男の妻がどんなものだかと思っていたけれど、ちゃんと妻もイカれている。
椿くんは本当に、そのまま。妻が見ている横でユキちゃんを抱いた。挙句行為中に。
「今どんな気分?」
「とっても辛いわ……♡」
「そっか♡」
なんて会話を、この夫婦はするのだ。
しかしユキちゃんは何も指摘せず、ただ椿くんに抱かれた。
行為が終わった後は、椿くんと一緒にシャワーを浴びて、何をするでもなくベッドに寝っ転がっていた。
彼の妻は夕飯の支度をしに一階に降りて、寝室に2人きりである。そのうち椿くんは眠ってしまった。
「………」
ユキちゃんはゆらり、上体を起こす。
窓の外はいつの間にか雪が止んでいる。
陽が傾いて暗くなり、美しい夜景が広がっている。
ベッドサイドに置いた自分のショルダーバッグを漁り、ナイフを取り出す。
ユキちゃんは、メガネを外して仰向けに寝ている椿くんに跨り、両手でナイフを持つ。
漆黒の髪が恨めしく垂れ下がり、その隙間から殺意の込められた煌めく眼光が覗いている。
殺意が彼女の形をした影になる。
迷いなく、ナイフは振り下ろされた。
「こりないねぇ、君も」
また、ナイフは彼に刺さらなかった。
ブルブルと彼から掴まれた腕が震える。
ユキちゃんの噛み締められた白い歯が、ギリギリと音を出す。
「死に損ないが……」
怨念が地を這うような声。
ユキちゃんは、1週間前のあの日から変わっていない。ただ、愛しい男に酷い仕打ちをしたこの男を殺すために、呼吸をしていた。
椿くんは彼女の腕を最も簡単に押し除ける。
腕を捻り上げ、彼女がナイフを取りこぼした所でナイフを奪った。彼女の身体を横に転がして、今度は自分が馬乗りになる。
彼女の腕を彼女の頭の上でひとまとめに拘束し、白い首筋にナイフの切先で触れる。
「君、彼のこと殺さなかったデショ。あんな酷い写真見てよく耐えるね」
「あんな子供騙しであたしのこと騙した気になってた?とんだ間抜けね」
「あっはっは!バレてたか。いやぁ、持つべきものは優秀な弟子と死姦の趣味がある知人だよ。よくできてたよね、アレ。あの写真合成したの、高校生なんだよ。すごくない?僕の教え方がいいんだろうなぁ」
「キチガイが……」
ナイフを首筋に当てられているというのに、彼女は瞬き一つせず彼をまっすぐに射抜いている。その瞳から殺意の色が薄れることは決してない。
彼は不思議そうに頭を傾げる。
「どうしてそんなに彼に固執するのかわからない。君が結局愛してるのは僕のはずだろ?だから僕に救ってほしくって戻ってきたんじゃないの?」
「……はぁ?」
心底わけがわからない、といったように、ユキちゃんの片眉が上がる。こめかみに青筋を立て、彼女は吐き捨てるように言う。
「あたしが愛してる男はあんたなんかじゃない!!」
「……」
首を浮かせて、噛み付かんばかり。そのせいでナイフが首を傷つけた。プツリと切れて、首から一筋血が垂れる。椿くんはニッタリと微笑む。
「……ユキちゃん、変わったねぇ。何でそんなに変わっちゃったんだろう。僕のこと、あんなに好きだったじゃない」
グッとナイフに力を入れると、さらに血が溢れる。流石に痛いようで、ユキちゃんは僅かに顔を顰めた。
椿くんは押し黙り、考える。何がこんなに彼女を変えたのだろうと。
ユキちゃんは持ってる人形の中でも賢い女だ。
だから今回、妻ができた椿くんから離れた。
絶対に自分が一番に愛されることはないと、自ら踏ん切りをつける理性があった。
しかし見てみろ!今の彼女からはすっかり理性が掻き消えているではないか!力も能力の差も歴然としているのに、まだ殺そうとしてくる。〝本来の〟彼女は無謀なことに挑戦なぞしない。自分で乗り越えられるものを見定めて、慎重に行動し、命の危険があるなら逃亡さえ余儀なくしたはずだ。何故だ、何がここまで彼女を突き動かす。何が……。
「ああ、そうか」
気がついた。
「そうか……そうなんだ……はははっ、君、嗚呼!!そういうことか!!」
クックックッ、と喉を鳴らし、椿くんは盛大に笑う。嬉しそうに恍惚とした笑みを浮かべる。
「君!!彼のこと、本気で愛しちゃったのかあ!!」
壊れた人形のように笑い続ける。
気がついたのだ。愛は人を変えてしまうのだと。そう気が付けたことに、途方もなく喜んでいるのだ。
彼女の殺意は、即ち愛。
彼への本気の愛の証明に他ならない。
椿くんは彼女からナイフを離し、適当にその辺の床へ捨てた。宝石でも眺めるように、彼女を見下ろした。
「素晴らしいよ、なんて綺麗なんだろう……」
愛の込もった彼女の目を見て、悦ぶ。
「君の愛、僕にもっと見せてよ」
◆
朝方。
椿くんの自宅で一夜明かしたユキちゃんは、初日の出を彼の家のリビングで見ることになった。
ユキちゃんが身に纏っているのは黒のブラとショーツだけで、それだけでも十分なくらい部屋は温かい。
ソファで体育座りをして、ぼんやり窓の外を眺めながら、タバコを吸う。
高層から眺める、東京の雪景色。
朝焼けはため息が溢れるほど美しかった。
「コーヒー、いかがですか?」
「………」
寝室から降りてきた椿くんの嫁が、いつの間にかドリップコーヒーを淹れて持ってきてくれた。
ユキちゃんは返事をせず、チラと彼女を一目みてから、彼女が持ってきてくれた大きめのマグカップに自分のスマホを突っ込んだ。コーヒーが溢れてテーブルを汚す。
盗聴・監視をされているスマホなんてゴメンである。
彼の妻はそれを気にした様子もない。それよりも、灰皿に盛り上がった大量の吸い殻を見て、心配そうに眉をへたらせる。
「一晩中、ここにいたんですか?」
「……」
「こんなに吸って、……身体、悪くしちゃいますよ」
「あんたに関係ないでしょ」
突っぱねるように言われて、彼女はショボンとしてしまう。しかしめげずに、背を向けて座る彼女の隣にちょこんと座り、自分用の、桃色のかわゆいマグカップを両手で持って、チビチビとココアを飲んだ。
チラチラと彼女の後ろ姿を見る。彼女はユキちゃんと仲良くなりたいのである。
「初日の出、き、綺麗ですね」
「……」
「……あ!今日椿くんと一緒に初詣に行くんです!ユキさんも一緒に行きませんか?」
「……」
「えと……、は、晴れ着!そうだ、晴れ着を椿くんが3着買ってくれて、よければユキさんも一緒に着ませんか?赤とピンクと黄色があるんです!ユキさんの好きなもの着てください!」
「……」
一生懸命彼女はユキちゃんに話しかけるが、ユキちゃんはうんともすんとも反応しない。
何か話題……と沈黙した空間の中で考えて。それからユキちゃんの綺麗な黒髪を見て、彼女はハッとする。
「あ、あの!髪の毛!とっても綺麗ですよね。黒髪でもこんなに垢抜けて綺麗に見えるなんて、憧れちゃうなあ……」
「………」
「私、黒髪だとどうしても野暮ったくって……。あんなに素敵な旦那様の妻だし、外で一緒に歩いても恥ずかしくないように、せめて垢抜けないとと思って、髪色を明るくして……」
「………」
「あの、以前は髪の色、違ったんですか?ほら、昨日椿くんが『黒に戻した』って言ってたでしょ?な、何色、だったんですか?」
とにかくユキちゃんとおしゃべりしたい彼女は必死になってお話しした。
そんなのどうだっていいでしょ、と返されるようなことばかりしか話せなくて、彼女はちっちゃな汗をピピピと飛ばす。
もっと上手にお話しできたらいいのに。彼女は結構人見知りで、人と会話をするのが下手くそなのだ。
「…………金髪だった」
「え、」
が、しかし。予想に反してユキちゃんは答えてくれた。
ユキちゃんの華奢な後ろ姿を見つめて、彼女はパァ!と一気に笑顔になる。
「き、金髪!す、素敵ね。ユキさん、きっと金髪でもお似合いだったでしょう。ユキさんくらい綺麗なひとだと、きっとどんな色でも似合っちゃうから、髪を染めるにしても迷っちゃいますよね」
「別に……んなことないわよ」
「ふふ……そんな、謙遜しないでいいですよ!えへへ」
彼女はニコニコえへえへしながらユキちゃんの背中を見つめる。
ユキちゃんが会話を続けてくれるのが嬉しいのだ。ユキちゃんがトントンと灰皿にタバコの灰を落とす。
「……あんたの旦那、黒髪が好きらしいわよ」
「へへへ……へっ!?」
突然の情報に、彼女は顔を引き攣らせた。カタカタプルプルと身体を震わせる。
ユキちゃんがフー、と煙を吐き出した。身体の向きを変え、足を床に下ろして組む。
「ほほほ、ほんとですか、それは」
ブルブル震える彼女がチワワみたいで、ユキちゃんは思わず鼻で笑う。
「さあ。ただの噂だから。……あんたの旦那なんだから直接聞けば」
「確かに……!後で聞いてみます……。あの、もしかしてユキさんが黒髪に戻したのって、椿くんが黒髪好きだか……わっ!」
チワワが言い切る前に、ユキちゃんはチワワにタバコの煙を吹きかけた。
ゲホゲホ、とチワワが咳き込む横でユキちゃんは澄ました顔をする。
「あたしが好きな色だからよ」
ツンとして、そんなことを言う。
嘘でも強がりでもない。彼女の本心。
黒は、元々彼女の好きな色なのだ。
椿くんに気に入られたくて黒髪でいた。それを金髪にしたのは、彼への当てつけだった。
けれど、今ユキちゃんが黒髪なのは、間違いなく彼女の意思が宿っているから。
咳き込み終わったチワワは、強くそこに在る彼女を見て、胸を打たれた。とんでもなく痺れるように、かっこよかったからだ。
チワワはユキちゃんの片手を両手で握り、ウットリとして言う。
「ゆ、ユキさん……いえ、ユキちゃん!」
「……、え、何?」
「私とお友達になってください!」
ずる、と。ユキちゃんのブラ紐が片方ずり落ちる。
「あんた……本気で言ってんの」
「本気よ!椿くんがあなたを気に入る理由がわかった気がするの!こんなに素敵な女の子、なかなかいないもの♡」
「……、あのね。あたしあんたの旦那、昨日の夜殺そうとしてんのよ?わかってる?」
「情熱的!!素敵だわ♡感情表現が豊かなことはいいことよ♡」
「………、」
ありえない。
確かにイカれているとは思ってたけど、まさかここまでとは。
ユキちゃんが呆れてポカンとしていると、唐突に2人の肩が抱かれた。
「なぁ〜に2人でイチャイチャしんの!混ぜて♡」
「うわ、ちょ、」
「椿くんおはよ♡」
「おはよ、ダーリン♡」
椿くんがいつの間にか起きてきたのだ。
すぐ目の前で、夫婦らしくおはようのキスをする彼とチワワを、ユキちゃんはウゲ、と顔を顰めて見る。
ユキちゃんは肩を抱いてくる彼の手から逃れ、窓際に立って、彼に向かって中指を立てる。
「ユキちゃんもおはようのキスしよーよ!」
「死ねクソが。今日こそあんたのこと殺してやるわ」
「うふふ、ユキちゃん照れ屋さんね♡聞いて椿くん、私ユキちゃんとお友達になったの!」
「え?!そうなの!?最高じゃないか!じゃあ今から3人で仲良しあけましておめでたセックスでもする?♡」
「しちゃう?♡」
「しないわよバカ夫婦が……」
ほんと、イカれてる。
ユキちゃんは目の下をピクピク痙攣させて、ニコニコ幸せそうに笑い合う狂気的な2人を見つめた。
タバコを咥えて、現実逃避するかのように、窓の外へ視線を逃す。
今日は快晴だ。朝日が街に積もった雪を照らして、眩しく煌めく。
病院のベッドで、彼も同じように空を見上げているだろうか。
今日も三上ゆきは彼を想う。
想いながら、背後で笑っている男を殺すとこだけ考えて、彼のそばに居続けるのだ。
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