魔法のナイフ 最終話

 王子さまは、毎日お姫さまをかわいがって過ごしました。お姫さまのかわいらしさも、美しさも、日ごとにまして見えるのです。ほんの少しの憂いをたたえた瞳はいつでも雄弁で、覗き込めば王子さまをよく映します。

「ぼくが命を助けてもらったときの話は、したことがあったかな」

 お姫さまは首をゆっくり横に振りました。

「ぼくの誕生日パーティをしていた船が、嵐で沈んだことがある。ぼくは運よく浜に打ち上げられて、近くの修道院のひとたちに助けてもらってね」

 お姫さまは強く頷きました。その日のことならよく覚えています。

「その修道院の、きみのような青い瞳の娘さんが、一番にぼくに気がついて助けてくれたんだ。命の恩人だよ。きっとあのひと以上に好きになるひとはいない……」

 王子さまが悲しそうに俯くと、お姫さまも悲しくなりました。間違いなく、王子さまを海で助けたのはお姫さまですが、それを王子さまに伝えることはできません。それに、王子さまが焦がれているのは、丘の上の建物にいた娘であって、お姫さまのことではないのです。

 王子さまは海の中で人魚に助けられたなんて、夢にも思っていないのでしょう!

「きみはあのひとによく似ている。きみがあのひとなんじゃないかって思うときすらある。あのひとにはきっともう二度と会えないけれど、そんなぼくをなぐさめるために、きみがきてくれたのかな」

 王子さまはそう言って、お姫さまのことを強く抱きしめてくださいました。

 お姫さまは喜ぶばかりではいられませんでしたが、それでも王子さまがお姫さまのことを深く愛しているのをよく知っていましたから、この王子さまに一生を尽くして、幸せにしてさしあげようと心に決めました。

 ところが、王子さまに結婚の話がやってきました。相手はお隣の国の王女さまです。お姫さまはその話を聞いて深く悲しんで、挨拶に向かわれる王子さまの袖を弱々しく引っ張りました。王子さまも、あの修道院で出会った娘さんと再会できない限りでは、お姫さまと結婚する気持ちでお姫さまのことをよく愛しているので、お姫さまの細い手をそっと握り返して言いました。

「安心おし。ぼくは王女さまとは結婚しないとも。お父さまとお母さまだって、ぼくにむりやり結婚をさせるつもりではないだろうよ」

 お姫さまはほろほろと涙を流して頷きました。修道院の娘さんの代わりになるのはしゃくですが、このままでいられれば、お姫さまは人間として生きてゆけるのです。お姫さまの夢が、もう少しで叶うのです。

「お隣の国はとても美しい場所だと聞くよ。船に乗ったことはあるかい? 海に出たことは? 海っていうのは、お城の窓から見るよりずっと素晴らしいんだよ。きっと一緒に行こう」

 王子さまはお姫さまの手を引いて船に乗り込みました。船の上で、王子さまは海の話をたくさん聞かせてくれましたが、王子さまよりもずっと海に詳しいお姫さまは、海の話を聞いているのがなんだかおかしくて笑ってしまいました。お姫さまが笑うと、王子さまも幸せそうでした。

 月の綺麗な晩でした。お姫さまは寝静まった船の上から、海に落ちてしまわないように、そっと海の中を見つめました。とても見えるはずがありませんが、懐かしいお城を探しているのです。お父さまの姿が見えるような気がしてもっとよく目を凝らすと、お姉さまたちがこちらに浮かび上がってくるのが見えました。お姉さまたちは海の中から口をはくはくと動かして、何か言っているようでしたが、まだ遠くて聞こえません。

 お姫さまは手を振って、こちらはもう少しで願いが叶いそうですと伝えようとしましたが、お姉さまは海から顔を出すより前に、見回りの水夫がこちらに歩いてきたために、お姉さまたちは海の中へ戻って行ってしまわれました。しばらく待ってもお姉さまたちは海の上に姿を見せてはくれませんでしたから、お姫さまは痛む足で寂しく船室に戻りました。

 あくる朝に、船は港に入りました。

 お隣の国の王さまが盛大に歓迎してくださって、豪華な宴会と、舞踏会が催されました。そして一週間後にようやく、王子さまと王女さまのご対面の席が設けられました。

 なんでも王女さまは、王女に相応ふさわしい教育を受けるために、ある修道院に行っていて、それがやっと国に帰ってきたのだと言います。

 お姫さまは心がざわざわとするのを感じました。

 王女さまはとても美しい方だという噂です。王女さまが通りがかっただけで街中の誰もがため息を漏らすような、誰にも負けない美しさがあるのだと、お姫さまは聞きました。美しさならお姫さまだって負けてはいられませんから、しゃんと背筋を伸ばしてご対面の席に参加します。

 だけど王女さまは噂以上の美しさでした。お姫さまは王女さまの美しさにため息を漏らしましたが、同時に、王女さまとお姫さまが似ているという王子さまの言葉を思い出しました。王女さまの瞳は青空のように輝いていて、髪は絹のようなブロンドです。お姫さまは人間の中では小柄なほうですが、王女さまのすらりと背の高い立ち姿は皆の目を惹きました。

 お姫さまとこの王女さまが似ていると言った王子さまは案外見る目がないのかも、とお姫さまは思いました。

 そんなお姫さまの隣で、王子さまが勢いよく立ち上がりました。王子さまの座っていた椅子が、お姫さまの椅子にぶつかって音を立てました。

「ああ! あなたは、ぼくを助けてくれたひと!」

 王子さまが叫んで、王女さまを抱きしめます。

「なんて幸運でしょう! どうか、ぼくと結婚してください!」

 王女さまは顔を赤くして、恥ずかしそうに王子さまの背に手を回しました。王子さまのご両親も、お隣の国の王さまと王妃さまも、たいそう喜んで、握手をしています。

 お姫さまは呆然とその様子を眺めていました。昨日の晩にお姉さまたちが伝えようとしていたのは、きっとこのことだったのです。

 しょせん、王子さまにとって、お姫さまはこの方の代わりに過ぎなかったのだと、お姫さまにもついに認めてしまわれました。

「ねえ、きみ、祝福してくれるかい。してくれるだろうね。だってきみは、ぼくのことを誰よりわかってくれるもの」

 お姫さまは弱々しく頷きました。王子さまの言っていることがよくわかりません。

「ありがとう。やっぱりきみは素晴らしいひとだ」

 王子さまは踊るような足取りで王女さまの手を取って踊ります。追いかけようとつい動いたお姫さまの足はナイフで刺されたようにずきずきと、このときばかりは心までもがずきずきと傷んで、お姫さまの身体ごと引き裂かれるようでした。お姫さまの流す大粒の涙を拭ってやるひとはおりません。だって誰も、王子さま自身でさえも、王子さまが本気でこの身分も知れない口のきけない娘と結婚するなんて思ってもいなかったのですから。


 さて、結婚式は船の上で行われました。花嫁は浅瀬の砂のように白く美しいドレスに身を包み、花婿の頬は幸せでばら色に色づいています。お姫さまももちろん船に乗りました。王子さまがぜひ参列してほしいとお姫さまに頼んだからです。王子さまの幸せな姿を見届けて、お姫さまは泡にならなければなりません。

 船に乗り込む足がナイフで刺されるようです。この日のために王子さまが特注してあつらえさせた綺麗な靴はお姫さまの小さな足にぴったりで、苦しいくらいでした。

 お姫さまはただ、次の朝に訪れる暗闇について考えていました。

 誰にも知られず死んでしまうのが、恐ろしくて仕方ありませんでした。

 王子さまだって知りません。知ることができないからです。


 日が沈み、船は王子さまたちの国に向かって進み続けます。夜が更けて、お姫さまは賑やかな甲板から少し外れたところで、静かに泣いておりました。そうしていると、波の上にお姉さまたちの姿が見えるではありませんか。お姉さまたちの腰まであった髪はざっくりと根元から切り取られて、お世辞にも綺麗とは言えません。

 お姫さまは目を瞬かせて、お姉さまたちを見つめました。

 お姉さまが、何か叫んでいます。

「このナイフで王子さまを殺すのよ!」

 五番目のお姉さまの声がようやく届いて、お姫さまは驚いて身を乗り出しました。

「わたしたちの髪を対価に、このナイフをもらったの」

 四番目のお姉さまが言いました。海の魔女のことだと、お姫さまはすぐにわかりました。

「これで王子の心臓を刺して、あなたの足に血を垂らすの! そうすればまたしっぽが生えて、魔法は解けて、あなたはお城へ戻れるのよ!」

 ぎらぎら光るナイフをお姫さまに握らせて、一番目のお姉さまは言いました。お姫さまはこのナイフを覚えていました。海の魔女がお姫さまの舌を切ったあのナイフです。

「直に日が昇るわ! 急いで!」

 お姉さまたちのもっと向こうに、おばあさまとお父さまの姿が見えました。お姫さまの涙は止まらなくなって、皆の姿はぼやけて見えなくなりました。

 お姫さまの涙が引くと、もう東の空は白くなってきておりました。お姉さまたちの姿はありません。だけど遠くのほうに小さな影が見えて、そこにいるのだとわかります。お姫さまは大きな真珠の埋め込まれたナイフを強く握りしめました。


 一歩、また一歩と進むたび、お姫さまの足が鋭く痛みます。

 王子さまは、まだ甲板にいるようでした。皆疲れて眠ってしまって、その中心に王子さまも眠っていました。花嫁の姿はありません。部屋に戻って、柔らかいベッドで休んでいるのでしょう。

 お姫さまは王子さまのいるところへ進みます。

 歩幅が自然と大きくなって、痛みもずきずき響きます。

 王子さまは、お姫さまの痛みを知りません。王子さまと一緒になるために声を失ったことも、歩くたびナイフで刺されるように足が痛むことも、王子さまは知りません。王子さまと一緒になるためにお姫さまが我慢をし続けてきたことを、王子さまは知りません。王子さまと本当に結婚したかったことも、人間の命が欲しくてたまらなかったことも、そして今日、日が昇った途端に泡になって死んでしまうことも、王子さまは知りません。

 知ってもらうことができないのは、お姫さまだって承知していたつもりでした。

 お姫さまは両手を高く上げました。

 ナイフが昇り始めた朝日の欠片を跳ね返して、誰かの目に光が刺さりました。

 眩しくて目を覚ましたそのひとがあっと声を上げる間に、お姫さまの振り下ろしたナイフは王子さまの心臓に深く、深く突き刺さりました。

 叫び声が上がりました。船の上のひとたちは少しずつ目を覚まし、お姫さまと王子さまを見て叫んでいます。王女さまも出てきて叫びました。兵隊の男たちが、お姫さまを捕まえようと起き上がりました。

 お姫さまはナイフをしっかりと握って王子さまの身体から抜き取りました。鮮やかな血が噴き出して、王子さまの真っ白な花婿衣装が真っ赤に染まります。

 お姫さまは窮屈な靴を脱ぎ捨てて、ナイフから滴る血を慎重に足に垂らします。

 今まであった痛みがすうっと消えました。

 それは、晴れ晴れとした心地でした。

 お姫さまは軽くなった心で考えます。人魚の魂は一度きりで、人間の魂は永遠です。それならば、お姫さまの魂を大事にしたほうがいいに決まっていました。お姫さまはまだ、三百年のうちのたった十年と少ししか生きていないのです。

 それを、たった一度の、こんな恋で手放すなんて!

「ああ、わたし、なんて、ばかなのかしら!」

 その美しい声に船の上のひとたちは驚いて、固まってしまいました。

 王子さまの目はまだ薄く開いて、走り回るお姫さまを見ています。初めて聞いたはずのお姫さまの声は、どこかで聞いたはずの声だと、薄れる意識で気がつきました。王子さまの目から一筋の涙が流れました。王子さまの隣に王女さまが力なく座りこんでいます。

 お姫さまが海に飛び込むのを、皆が見ていました。

 大きな水飛沫が上がります。

 ふたつあった足はくっついて、ひとつのしっぽになりました。

 船の上の人間たちはお姫さまのしっぽを見て指をさしました。人魚が人間の足を珍しがるように、人間だって人魚のしっぽが珍しくて、気持ち悪くて、恐ろしいのです。

 虹色のうろこをまとって輝くお姫さまのしっぽの美しさは、人間にはわからないのです。


 お姫さまは力強く泳いで行って、家族の元へ戻ります。

 お姉さまたちが、お姫さまを強く抱きしめました。

 お父さまとおばあさまも、お姫さまを強く抱きしめました。

 そうして、お姫さまたちは深い深い海の底の美しいお城へ、仲良く帰ってゆきました。

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魔法のナイフ / 打々須 作 名古屋市立大学文藝部 @NCUbungei

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