魔法のナイフ 第二話
どんどん沈んで、海の上の明るさを忘れてしまいそうになったあたりで、お父さまと会いました。お姫さまがお城を飛び出してから丸一日帰ってこなかったのを心配して、探しに行こうとしていたところでした。
「遅くなってごめんなさい、お父さま」
お姫さまはまだふわふわした心でお父さまに謝りました。
お父さまはお姫さまを叱りませんでした。大きな身体でそっとお姫さまを抱きしめて、
「海の上は楽しかったかな」
と問いかけました。
お姫さまはお父さまの背に手を回して答えました。
「楽しいだけではなかったけれど……とても素敵だった」
お父さまはうん、と一言頷いて、お姫さまを離しました。
お姫さまが帰ってきたのに気がついたお姉さまたちもお城から出てきました。お姉さまたちはお姫さまが何を見てきたのか口々に問いかけましたが、お姫さまはその問いには答えませんでした。口に出してしまうと、真新しい思い出が泡のようにて消えてしまう気がしたのです。
それからも、お姫さまはひとりで海の上に行きました。
白い建物にまた行くと、すっかり元気になった王子さまの姿が見えました。娘たちと楽しそうに話す王子さまの姿を見ると胸が締め付けられるようでした。
王子さまが暮らしているというお城がわかってからは、バルコニーに出てくる王子さまを遠くから眺めるようになりました。柔らかい月の光に照らされた王子さまの姿はとても幻想的でした。
ある日にお姫さまはおばあさまに問いかけました。
「人間というのは、溺れて死ななければずっと生きていられるの?」
おばあさまは首を横に振って答えます。
「人間は人魚よりずっと短命ですよ。人魚は三百年生きられるけれど、人間は百年も生きられない。魂の種類が違うんだ。人魚の魂はひとりにひとつだけど、人間の魂はひとつがずっと巡って、死んだら新しい人間にまた生まれ変わる……そういうふうにできているのよ」
ならば人間の魂が欲しいと、お姫さまは強く思いました。だけどそれをおばあさまの前で言うなんてできません。お姫さまはただ俯いてしっぽを揺らしました。
おばあさまの言葉を頭の中で繰り返しながら、お姫さまはまた王子さまの姿を見に海の上に浮かんでいます。
王子さまはきっとまだ若いのでしょうが、三百年を生きるお姫さまよりずっと早く死んでしまうのです。そんなのは嫌でした。ずっと一緒に生きたいと思いました。だけど人間は海の中では生きられません。人魚も陸では生きられません。
そのときお姫さまははっと思い出しました。人魚の国の隣にある魔法使いの国には、とても力の強い魔法使いがいます。海の魔女と呼ばれていて、大きな対価と引き換えにどんな願い事でも叶えてしまうのだという噂です。行ってはならないと幼い頃から言いつけられていましたが、もしかすると今こそ、海の魔女の力に頼るときかもしれません。お姫さまはいても立ってもいられずに泳ぎ出しました。
海の魔女の家に行くには薄暗い森を抜けなければなりません。森には、そこかしこに人間の白骨がありました。他にも、船の
どうにか進んで、ようやく森を抜けた先に、たくさんの骨でできた大きな家がありました。骨の家の周りは、灰色の砂しかありません。海草も花もありません。寂しくて気味が悪い場所だとお姫さまは思いました。
「おや、案外はやく来たんだね」
骨の家の扉が開いて、ぶよぶよした女の人魚が出てきました。
お姫さまは寒気がするのをぐっと我慢しました。
女は甲高い声で笑います。お姫さまはぞっとしてあとずさりしましたが、いつの間にか近くまで泳いできたウミヘビがお姫さまの背を家のほうへ押しました。
「綺麗な人魚のお姫さま。私はおまえがどうして来たのかわかっているよ。もちろん、おまえの願いを叶える用意もできている。ほら、お入りなさい。そのしっぽを人間の足に取り替えて、えらをなくして、おまえを人間の姿にしてやろうね」
ウミヘビに押されるがままにお姫さまは海の魔女の家に入りました。
家の中にも骨がたくさん見えて、中央には大きな鍋があります。どれもこれも気味悪く、お姫さまは少しだけ、来たのを後悔しました。
「怖いなら帰るかい? お城まで送ってやろうか」
ウミヘビがお姫さまの耳元で囁くと、海の魔女がウミヘビのしっぽを掴んで引き寄せました。ウミヘビがけたけた笑います。
「でも、わたし、幸せになりたい……」
お姫さまがつぶやくと、海の魔女は深く頷いて、小さな瓶を取り出しました。
「そうだ。おまえは今の幸せでは満足しきれない」
海の魔女が指をさすと、大きな鍋の下に火がつきます。お姫さまは初めて火を見ました。赤くて、黒くて、太陽とは違う、不気味な光です。魔法の火はめらめらと燃えて、真っ黒な鍋の中身はあっという間にぐつぐつと音を立てました。
「ああ、お代の話を忘れていた」
海の魔女は瓶を持ったままお姫さまを振り返りました。
「いくらでしょう?」
お姫さまは震える声で尋ねます。
「お金じゃあないんだ、魔法の対価というのはね。このくすりはとても強い力があって、とても貴重なんだから、相応に大切なものをもらわないといけない。そうだね……おまえの声なんか、ちょうどいいんじゃあないかな」
「でも、声がなければ、あのひとと話せないわ」
「声がなくとも、おまえにはその綺麗な容姿があって、上品な歩き方があって、そしてよくものをいう目がある。十分に王子さまをとりこにできるだろうさ」
お姫さまは怖くなってしまいましたが、王子さまを諦めることもできませんでした。海の魔女の濁った色の瞳を見つめ返して頷くと、海の魔女は満足げにほほ笑みました。
「おまえにこのくすりをやるつもりで支度をしていたからね。帰ってしまわれると、もったいなくて困るんだ」
そう言って笑って、海の魔女は鍋を三回かき混ぜると、中身を瓶に移しました。黒いと思っていたくすりは、瓶に入った途端に透明になって、淡い金の光をまとっています。
海の魔女は瓶の口に栓をすると、お姫さまの手に瓶を握らせました。
「さっきも言ったけれど、このくすりはとても強い力がある。これをたった一度飲むだけでおまえはずっと人間のまま。人魚にはもう戻らない」
お姫さまは金の光を見つめました。こんなに
「だけど、そんなに都合のいいくすりなんてのは、魔法の力があっても作れない。おまえはこのくすりで人間の姿になれるけれど、歩くたびに足をナイフで貫かれるような痛みがずっと続くんだ。それに、人魚には戻れなくとも、やっぱり人間でいられるのは永遠じゃない。王子さまと結ばれるためのくすりなんだから、王子さまが他の女と結婚でもしたら、次の朝、おまえは人間の寿命を待たずに泡になって消えてしまう。それでも耐えられると心が決まったら、陸の上でこのくすりを飲むんだよ」
海の魔女はお姫さまの手をくすりの瓶ごと握り込みました。ぶよぶよした手の肉は、案外あたたかいものでした。
海の魔女はとても力の強い、誰からも恐れられている魔法使いですが、実際のところ、悪さを働くような性格ではありません。ただ誰に対しても恐ろしいくらいに平等なのです。悩みと願いを持って訪ねてきたものなら、善人も悪人も海の魔女のお客様なのです。
「もうお代をもらっても?」
海の魔女が静かな声で問いかけます。
お姫さまはこくりと頷きました。
海の魔女は小さなナイフを持って、お姫さまの舌を切りつけました。魔法のナイフがお姫さまの血を吸って、お姫さまの声をとってゆきました。お姫さまが声を出そうとしても、もう口からは泡しか出ません。
「ほら、これで取引は終わりだよ。帰り道は安全そのものだからね、さっさと夢を叶えにおゆき」
お姫さまは魔女に背を押されるがままに骨の家を出て、暗い森を抜けて、熱いどろの上を渡りました。不思議なことに、海の魔女の言った通り、帰り道はとても安全で、恐ろしくもありませんでした。お姫さまの手の中でくすりが輝くと、自然と道が開かれていくのです。
お姫さまはこれからの幸せな未来を胸に、お城へ戻って来ました。お城の明かりは消えているので、きっと皆眠っているのでしょう。起きていたところでもう声の出せないお姫さまにはお別れを言うことができません。悲しくても、海の上へ向かうことはやめられないのでした。
海の上に着いたときも、まだ夜明け前でした。王子さまのお城には、海とつながる大理石の階段があります。お姫さまはどうにか海から出て階段に腰掛けると、いつも王子さまを見るバルコニーのほうを見つめて、瓶の中のくすりを一気に飲み干しました。
お腹の中がかあっと熱くなって、身体中に痛みが走りました。
頭が締め付けられるように苦しくて、気が遠くなって、その場に倒れ込みました。
次にお姫さまが目を覚ますと、太陽の光が心地よくお姫さまの身体を温めていました。
激しい痛みはまだ続いていますが、目を上げると、あの王子さまがお姫さまのことを覗き込んでおりました。
「大丈夫ですか。あなたは、どこから来たのですか」
お姫さまは驚きました。人間の言葉がわかります。それに、よく見てみれば、お姫さまのしっぽは小さな白い足に変わっているではありませんか。あのくすりが効いたんだわ! と感激していると、声を出せないことも思い出されました。
王子さまの問いかけに答えられないのを
「身体を温めたほうがいい。そして綺麗な服も用意しよう。ここは安全ですから、きっとあなたも安心できますよ」
お姫さまは王子さまに手を引かれるまま、お城の階段を上りました。
一歩進むたびに、足に鋭い痛みが走りました。海の魔女の言っていた通りです。だけど王子さまと結ばれるためならば、お姫さまは喜んで我慢しました。この痛みを耐えた先に、理想の幸せがあると信じているからです。
お姫さまの足取りは軽やかで、踊るようでした。このかわいい足にナイフで刺されるような激痛があるなんて誰が想像したでしょう。お城の誰もが、かわいらしいお姫さまに驚いていました。そして口のきけないお姫さまをかわいそうに思いました。
お姫さまは絹でできた立派なドレスを着せてもらうと、髪を丁寧にといてもらいました。おばあさまのことを思い出して涙を流すと、くしを持っていた召使いがおろおろとしながら涙を拭ってくれました。
夜の食事会では、音楽に合わせて踊り子たちが踊ります。綺麗な歌を歌う娘もありました。わたしのほうが上手に歌えるのに、とお姫さまは思いましたが、声を失った今では考えてもむだなことでした。代わりに踊ってみせました。足を使った踊りは初めてでしたが、お姫さまは軽々と踊って、見たひとの心を強く
王子さまのご両親である王さまとお妃さまも、お姫さまのことをすっかり気に入ってくださいました。
王子さまとお姫さまはすっかり仲良しになって、ずっとそばにおりました。お姫さまは毎日がとても幸せで、きっとこのまま人間として死んでしまえるのだと、安心してビロードの布団で眠りました。
だけど時折、どうしても足の痛みがひどく気になって眠れない夜がありました。
そういうときにはお姫さまは決まって、王子さまと出会った大理石の階段のところへゆきます。燃えるような足を海の水に浸して冷やすのです。冷たい水の感触は、懐かしい海の底を思い出して悲しくなりますが、同時にお姫さまの心のざわめきを落ち着かせてくれるのでした。
ある日の晩にも足を冷やしに階段を降りてゆくと、お姉さまたちがお姫さまを待っておりました。お姉さまたちは手を繋いで、ひどく悲しそうに歌を歌います。驚いたお姫さまが手を伸ばすと、お姉さまたちは近づいてきて、お姫さまの手を取って言いました。
「海の底はみんな悲しんでいるわ。お父さまは落ちこんで仕事ばかりしているの」
「おばあさまはお怒りよ。陸に上がっただけでなく、海の魔女のところへ行くなんて……」
「でも本当はあなたが心配なのよ。おばあさまはこれ以上家族を失いたくないだけなのだから」
お姉さまたちの振り返ったほうを見ると、誰かの影が見えました。お父さまとおばあさまでしょうか。陸に今以上に近づかないように、遠くから見ているのです。
「今からでも戻ってきなさいな」
お姫さまは静かに首を横に振りました。
「そんなにあの人間の王子さまが好きなの? 海のわたしたちより、あの人間なの?」
お姫さまはどちらとも答えられません。
帰りたくないわけではありません。海のことは今でも大好きです。だけどあの王子さまと結ばれるには、この方法しかわからないのでした。お姉さまたちはどうしてわかってくれないのかしらと思いました。
お姉さまたちはお姫さまのことを優しく抱きしめました。
お姫さまはお姉さまたちの背にそっと手を回しました。そしてお姉さまたちが海へもぐるのを見た瞬間に、逃げるようにお城の部屋へ戻ってゆきました。
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