魔法のナイフ / 打々須 作
名古屋市立大学文藝部
魔法のナイフ 第一話
透き通った海の底には、人魚の王さまの治める国があります。
人魚の王さまは大きな体を持ち、賢く、厳しい方ですが、六人いる娘たちにはとくに甘いので、親ばかの王さまとして国中から親しまれておりました。
六人のお姫さまたちはお父さまのことが大好きです。仕事のお邪魔にならないよう、昼はお城の庭やさらに向こうのほうへ泳いで遊びに行きます。そして夜はお父さまの元へ帰ってきて、今日はこんなことをして遊んだわ、なんて、その日あったことをぜんぶ話すのです。
王さまのお母さま、つまりお姫さまたちのおばあさまにあたる方は、王さまよりも厳しい性格ですが、やっぱりかわいいいお姫さまたちには甘くなってしまいます。おばあさまはとても高級なお化粧品を持っているのですが、これをお年頃のお姫さまたちに貸して貸してとせがまれると、おばあさまの大切にしている、大きな真珠がたくさん埋め込まれたくしで、お姫さまたちひとりひとりの髪を丁寧にといて、仕上げに庭に咲く花で作った赤い髪飾りをさしてくださります。
お姫さまたちはおばあさまに
おばあさまは昔、お姫さまたちと同じくらいの少女だった頃、お姫さまたちと同じように海の上に憧れていました。おばあさまだけではありません。年頃の人魚たちは皆、陸という未知の世界に強く
ですからおばあさまはお姫さまたちが海の上の話を聞きたがるのをとがめることができません。自分が幼かったあの日のことを、いつだって鮮明に思い出せてしまうのですから。
だけどひとつだけ、おばあさまにも譲れないことがありました。
海の上の話の結びに、おばあさまは決まって同じ文句を言います。
「陸は危険でいっぱいですよ。おまえたちは陸には行かないでちょうだいね。おばあさまのきょうだいは、人間のせいで死んでしまったのだから……」
そうして末のお姫さまに髪飾りをさして、おばあさまのお話は終わります。おばあさまのきょうだい、つまりお姫さまたちの大おじさまがなぜ死んでしまったのかをお姫さまたちはよく知りませんが、大おじさまが死んでしまったということは昔からずっとおばあさまが語ってきましたから、もっと幼いときにお母さまを病気で亡くしたお姫さまたちにも、おばあさまの悲しみがよくわかるのでした。大好きなおばあさまを悲しませるのはお姫さまたちだって嫌なのです。
それでも、陸への憧れは無くなりきらないものでした。
それから月日が経って、お姉さまたちは十五歳になったその日に海の上を見に行きました。お姉さまたちはそれぞれに、星というのが綺麗だとか、氷山というのが冷たくて気持ちがいいだとか、初めて沈んでいない船を見ただとか、泳ぎにくそうな服を着ている人間がいるだとか、まだ海の上を見られない末のお姫さまに語って聞かせました。
十五歳になったお姉さまたちは揃って海の上へ行くようになりました。仲良く手を繋いで、太陽の熱を浴びては海の中に頭を引っ込めて熱いのと冷たいのを交互に楽しみました。
人間の船が嵐に巻き込まれて沈みそうになったときには歌います。
陸には動物がいて、あまり海には近づいてきません。そんな犬や猫にしっぽで水をかけて遊びます。牙を剥かれたら海に飛び込んでからかうのです。初めて見たときにはワンワン吠えられて恐ろしく感じた犬も、今では小魚たちのようにばかでかわいいいと思います。そしてまた手を繋いで海の底へ戻っては、末のお姫さまに海の上の話を聞かせます。
お姫さまは、お姉さまたちが羨ましくてたまりませんでした。
早く十五歳になりたくて、あと何日、あと何年で十五歳になるのかしらと毎日指を折って数えました。
お姫さまがお城の庭で花を摘んで遊んでいるあいだに、お姉さまたちは海の上まで泳いでゆきます。だけど一番上のお姉さまはもう海の上に行けるようになってしばらく経ちますから、陸を見るのが特別でなくなっていました。いつでも行けると思うと、あんなに憧れだった海の上も、なんだか普通のものになってしまいます。海の上で遊ぶより、海の底で綺麗な首飾りを探したり、お化粧をするほうが楽しいと思うようになりました。一番上のお姉さまだけでなく、お姉さまたち皆がそうでした。
そうして、ついに末のお姫さまの十五歳の誕生日になりました。
お姫さまはこっそりと貝殻のベッドを抜け出しました。誕生日の日には陸を見に行くと、ずっとずっと決めていたのです。お城はまだ静まり返っていて、起きているのは小魚くらいです。お姫さまは嬉しくなって小躍りしました。誰かに見つかれば止められてしまうと思ってこんなに早起きをしたのですから、うまくいってそれはもう満足でした。
だけどお姫さまがお城の外へ出ようとしたそのとき、その肩を誰かに掴んで止められてしまいました。
「どこへ行くの?」
お姉さまの声です。お姫さまはお姉さまたちのほうを見ないで答えます。
「だって、やっと海の上に行けるのよ。お祝いなんて待っていられないわ!」
お姉さまたちは顔を見合わせました。
「海の上を見に行くのね」
「パーティの前に行くつもりなんて……」
「おばあさまがなんと言うかしら!」
「お城中が大騒ぎよ!」
いつの間に、お姉さまたちはおばあさまのように厳しくなってしまったのでしょう。お姫さまはがっかりしました。海の上の話を聞かせてくれたお姉さまたちはもういないのだと思いました。
もうお姉さまたちの制止の声なんて聞きません。お姫さまのこの冒険を止められる人魚なんて誰ひとりだっていないのです。お姫さまはお姉さまの手を振り切って泳ぎ出しました。
空に向かって泳ぐほど、お姫さまの周りが明るくなります。真珠とは違う輝きをお姫さまは初めて見ました。海の底に届くのよりずっと明るい太陽の光は、あたたかくて不思議な気持ちになりました。
海の上は、初めて見るものばかりでした。
お姫さまが海の上に出たのは朝でしたから、たくさんの生き物が動き始める頃です。
お城の庭にあるのとは違う赤い花が岸に咲いています。
花の上では虫たちが踊っています。
鳥ががらがら声で鳴いていてうるさいのが新鮮でした。だって海の魚は鳴かないのです。人魚たちの話し声くらいしか音のない海の底と違って、海の上はとても賑やかでした。
太陽が高く昇ると、もっとたくさんの音が聞こえます。たくさんのものが見えました。世界はとても広くて、お姫さまは
遠くからも音がしました。ざああという水の音です。音のほうを見ると、大きな船が泳いでいます。
お姫さまは人間を見たことはありませんが、沈没船のところにある人間の像なら見たことがありました。お父さまとおばあさまには内緒で、お姉さまたちとこっそり行って、人間の足というのはなんて不思議なのかしら、これでどうやって歩くのかしらと言って像をじろじろ眺めたことがあります。お姫さまにとってはお気に入りの場所でした。お姉さまと
それが今、お姫さまのすぐ近くには人間がいます。
お姫さまは船へ追いつくと、一番近い窓から中をこっそり覗き込みました。
そこには、人間の男の子が大人の人間たちに囲まれて立っていました。
男の子は踊り子の魚たちのしっぽみたいにひらひらで真っ白な、綺麗な服を着ています。黒い瞳は喜びに輝いています。歳はお姫さまと同じくらいか、少しだけ上か、とにかく若々しくて格好いい顔立ちでした。
実はこの男の子は、人魚の国から一番近い人間の国の王子さまで、この日は船の上で王子さまの誕生日をお祝いするパーティをしているのでした。
船室の飾りは人魚の国では見たことのないものがたくさん使われていて、どこもきらきらしています。王子さまはたくさんの大人たちと握手をして、豪華に包まれた贈り物をもらっていました。
やがて王子さまたちは甲板に出てきて踊り始めました。海の中で見るのとなんとなく似ている楽器を音楽隊が演奏します。
音楽に合わせて王子さまが歌えば、お姫さまはその声にうっとりと耳を傾けます。波に揺られるままに力を抜いて、透き通った歌声を全身で聴いていると、お姫さまもつられて歌を口ずさみます。お姫さまの歌声は波の音にかき消され、王子さまたちには聞こえていないようでした。
素敵な気分で時間が過ぎてゆきます。いつの間にか、空は暗くなっていました。そろそろお城へ帰らないとお父さまが心配してしまいます。お姫さまは後ろ髪を引かれる思いで海の中へ帰ろうとして、最後にひと目見るつもりで王子さまの姿を探すと、甲板の人間たちがお祝いと別にざわめいているのに気がつきました。
船が大きく揺れています。波が高くなっているのだと、お姫さまはしばらくして気がつきました。船は帆を張りぐんぐんと陸のほうへ走ってゆきます。遠くからごうごうと不気味な音が聞こえます。帆がまたひとつ下ろされて、船は速度を増して走ります。
空が暗いのは雨雲のせいでした。嵐が近づいているのです。
王子さまたちの船は高く持ち上げられたと思えば、波に隠れてしまったりして、お姫さまは同じように波に揺られて楽しい遊びをしているような気持ちでしたが、人間には全くそうではありません。船の上の様子はお姫さまにはよく見えませんが、皆必死でロープを握って、振り落とされないようにしているようでした。
一番大きな波がぐわんと船を飲み込んで、マストの
お姫さまは王子さまの姿を探しました。嵐に気を取られて、王子さまを見失っていたことに気がついたのです。どんどん沈んでゆく人間たちの服は、王子さまの白い服とは違います。お姫さまは流れてくる船の破片を避けながら、沈んでゆく人間の中に王子さまを探しました。あまり近づいてはお姫さまの体に破片が当たってしまいますから、遠くから見ることしかできません。あのひともこのひとも違うけれど、海の底に人間が来るのはなんだか嬉しい気持ちでした。
そして海の中に、とうとう王子さまの姿が見えました。
その瞬間に、お姫さまはすっかり嬉しくなりました。海の底に王子さまもやってきてくれるのは、想像しただけで素敵です。あの瞳に見つめられながら暮らしたらどれだけ幸せかしら! と心が躍ります。
手足をばたつかせる王子さまに、海の中は怖くはないわと声をかけようと思って、お姫さまは慎重に泳ぎ始めました。
しかし途端に、人間が海の中で生きていられないのを思い出しました。おばあさまが言っていたことです。人間はえらを持っていないので、人魚のように海の中で息をすることができないのです。
お姫さまはぞっとして王子さまの元へ急ぎました。人間が海の中でどれだけもつのかわかりません。少しでも早く陸へ上げてやらないと死んでしまうというのだけわかります。
船の破片や、人間たちの荷物や飾りが、たくさん流れてきます。お姫さまはそれが王子さまにぶつからないのを願いながら必死で泳ぎました。そうしてなんとか王子さまの元へたどり着いて、その身体をしっかりと抱きしめました。王子さまはもうぐったりとしていて、手足をばたつかせる元気もないようです。まぶたは固く閉じられて、綺麗な瞳も見えません。
お姫さまは王子さまと一緒に海の底で過ごす想像を押し殺して、海の上を目指して泳ぎました。王子さまを抱いたまま大きな破片を避けるのは大変でしたが、王子さまが死んでしまうのはもっと嫌です。
なんとか海の上に出て、王子さまの頭を持ち上げます。王子さまが生きているのか、死んでいるのか、お姫さまにはわかりませんが、どうか生きていてほしいと祈りながら、波に身を任せて揺られました。
徐々に空が明るくなって、嵐は過ぎ去ってゆきました。太陽の光が海の
もうすっかり海は穏やかになって、周りの様子がよく見えます。お姫さまは向こうのほうに陸が見えることに気がつくと、王子さまの頭を海の上に持ち上げたまま、慎重に泳いでゆきました。白い砂地にたどり着くと、王子さまの身体を、光がよく当たるように、頭を持ち上げて寝かせてあげました。お姫さまのしっぽでは、波のかからないところへ王子さまを連れてゆくことができません。どうにかして王子さまを助けてあげたくても、人間のことは人魚のお姫さまにはわかりませんから、これ以上できることはありませんでした。
近くの丘の上から鐘の音がしました。白い建物から、お姫さまと同じくらいの歳の人間の娘たちが出てきます。彼女たちが王子さまに気づいてくれたら、王子さまは助かるかもしれません。
「こちらに来て! お願い! このひとを助けて!」
お姫さまは叫びました。だけど人間と人魚の言葉は違うので、娘たちには珍しい鳥がぴいぴい鳴いているようにしか聞こえません。お姫さまにもそれはわかっていましたが、王子さまのことを諦めるなんてできません。
お姫さまが声を上げ続けていると、ようやく、ひとりの娘がこちらに気がついて駆けてきました。他の娘たちも気がついて駆けてきます。お姫さまは安心して、そして慌てて海へ戻りました。おばあさまから、あまり人間に姿を見せてはいけないと言われていたのを思い出したのです。人魚の存在は人間の間ではあまり知られていませんから、見つかったときに何をされるかわからないと、おばあさまが心配してお姫さまたちに約束させたのでした。
最初の娘は王子さまを抱き起こすと、お姫さまの姿を探しているのかきょろきょろとしていました。お姫さまは岩の陰で泡をかぶってじっとしていましたから、結局娘には見つからないまま、王子さまを娘たちに助けてもらうことができました。大きな布や包帯が運ばれてくると、王子さまは薄く目を開けて、娘たちと言葉を交わしているようでした。
お姫さまはほっとすると身体から力が抜けて、そのまま海の中にもぐってしまいました。王子さまとお話ができないのは残念ですが、仕方ありません。ふわふわとした気持ちのまま、海の底のお城に向かって泳ぎます。
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