6-3 夜
だらだらつづく坂道の途上、犬を連れた二人づれが街灯から逆光になってシルエットを浮かび上がらせる。ひとりはちいさい。ゆっくり歩くものだからみるみるかれらとの距離は縮まって、街灯の下に明瞭な姿をあらわしはじめる。ちいさな子は三歳ぐらいの男児だ。
手術するたび衰弱していく夢吉をちゃんと見てやることができなかったのは
可能性に賭けて、臨床実験中の新しい治療法を受けるべきだと医師は言った。うまくいって命をあと一年ながらえられるとかその程度の可能性なんじゃないのかとつい
男の子はすわりこんでもう歩けない、だっこしてと泣いている。父親であるらしい男はその子をむりやり立たせようと手を引っぱる。犬は手持ち無沙汰に草の匂いを嗅ぐ。
ふたりと一匹のよこを通り過ぎるまで一朗は顔を下におろすことができない。目には満天の星空――と言いたいところだが、家々が発光して闇を侵食するから星空と言ってもたいした景色ではない。
もう治療はやめて夢吉を楽にしてやろうと言ったとき、はじめ七恵は信じられないという顔をして、それから顔をまっかにして断固反対した。そのときはまだ、たぶんふたりは壊れていなかった。七恵は夫の考え違いを正せることを疑いもしなかったし、一朗は一朗で、話せばわかりあえると信じていた。
なんども話しあううち七恵は激昂していった。それまで聞いたことのない高い声で七恵が叫ぶ言葉のなかにはだんだんに一朗への非難が混じっていった。一朗も負けずに理を尽くし言い返したのだが内心では七恵の言葉のひとつひとつが胸に深く刺さった。
手術のたび体にきずあとを増やしていくのにちっとも快方に向かうきざしの見えない夢吉と、心労のため荒れて二十代らしくない肌をした七恵とを重ね見て、不吉な未来が閃くのを必死で否定した。
「あなたがわからない」
と七恵は言った。
七恵のきもちはわかると一朗は思った。涙でくしゃくしゃになったかのじょの顔をいとしいと思った。だがあれから十六年たって、七恵のきもちをわかると思ったのもいとしいと思ったのも傲慢な思い違いだったんじゃないかといまは疑っている。
父親になかば引きずられる男の子はまだぐずっている。男の子を直視することが一朗にはできない。直視できない理由はわかっているが、認める勇気も一朗にはない。
過去を直視するには、過去はあまりにもまだ生々しい。
一朗と七恵のすべての稼ぎを夢吉の治療にあててもまだ足りなかった。むろん金を
まだ道があるはずだと七恵は言った。人の情けにすがればお金はどうにかなる。親戚じゅうに頼んで、それで足りなければ町に立って寄付を呼びかけもするし、ネットで支援を乞う手もあると七恵は言った。
自力で用意できる金額で治らないのならば、それがこの子の天命なのだというようなことを一朗は言った。さからったって夢吉の苦しみを長引かせるだけだと。
「天命?」
七恵は声を一段上げた。
そんなもの存在しない、在ったとしたってわたしは打ち破ってみせる、あなたは夢吉をころすの? それでも親なの? 七恵は涙を流していた。
きっとこんな言い方をすべきではなかったのだ。しまったと一朗はすぐ思ったがいちど言ってしまった言葉を取り消したところでおそらく手遅れだった。それに問題の本質は言葉のまちがいではなく、諦めてしまった一朗の頼りがいなさにあったのだ。
いらだちをぶつけ合うようにふたりで言いあらそっているうち夢吉は容体が急変し、新しい治療法を試すどころでなくなってしまった。
さいごの夜、夢吉の眠るベッドのうえにはさまざまな新幹線の模型を並べた。週末のたび買ってやったおかげで新幹線はベッドから落ちそうなほどたくさんになっていた。退院したらほんものの新幹線に乗せてあげると約束していた。その日を夢吉は心底たのしみにしていた。
入院すると決まった日に、せめてもの気晴らしにと一朗が買ってきた新幹線に夢吉は夢中になって、元気なときは起き上がりずっと新幹線を眺めていた。青いレールの環のうえを、新幹線は何周も何周もまわった。病室の白い床に青いレールを組んでいくのが一朗の役だった。
夢吉を新幹線に乗せてやればよかった。病院からむりやりにでも連れ出して。
犬と親子はいつの間にかいなくなっていた。サワガニもいまはどこにも見えない。星はあいかわらず数えるほどしか空にない。
列車が線路を揺らす音がとおく聞こえて、背中を振りかえると谷底を二輌だけの列車がちょうど都会へ向けて去っていく。窓から幻想のような光がこぼれる。客車にひとりの乗客のすがたも見えないのが夢なのか現実なのかわからない。
(第6話 おわり)
ユダによる福音書(短編集) 久里 琳 @KRN4
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