かたわれ時

澪上Kiuri

.

 青年を拾ったその日、フクジュは帰路につくため車を走らせていた。


 日が落ちる速さにうんざりしはじめた12月の寒さの中のことだった。暮れた海沿いの道端にこんもりとした何かがあり、それをフクジュの車のライトが半分照らした。見るからに異物のそれをなんとなく無視することができず、わざわざ車を停めて駆け寄って見ると異物の正体はうつ伏せになった男だった。影になった部分は彼の背負っているやや大きめのリュックサックだったらしい。旅人か、酔っ払いか、または酔っ払いの旅人か。一瞬だけそう考えたがアルコールの匂いなどはなく、また酩酊している様子でもないらしい。呼吸を確かめるために抱き上げてみれば明らかに体温を感じたのでどうやら生きてはいるようだ。安堵したものの次第にその体温が正常ではないことも抱き上げている腕の中でわかってきた。額に手を当てずとも確信した、彼は高熱を出している。それも動けないくらいに、だ。

「おにいさん。おにいさん」

 そこではじめてフクジュは彼に声をかけた。意識がもしあったとはいえ、これから彼をどうすればいいのだろう。限界集落と言われてもおかしくない田舎町のここから夜間病院は随分遠く、軽く見積もっても一時間はかかる。だからといってこの道端に置いておくわけにはいかないし、頼れる友も、いないのだ。

「おにいさん」

 彼にどんな言葉をかけていいのかわからず、フクジュはひたすらに同じ言葉を投げかけ続けるしかなかった。するとようやく意識が戻ったのか青年がうっすらと目を開け、苦しそうに咳き込んでから微かに声を漏らした。

「……ごめんな、」

 面食らった。突然謝罪の言葉を聞くとは考えもしなかったからだ。そして「厄介なことに首を突っ込んでしまったかもしれない」と少しだけ思った。その謝罪の言葉の理由を訊く間も無く、青年はまた意識を失った。人間の体の重みと柔らかさを腕に受けながらフクジュは考えた。病院、放置、どちらもダメとなると。数秒の思案ののち、やがて手っ取り早く彼を助けてやれる答えをひとつだけ出すことができた。

 フクジュは青年を後部座席に乗せ、自分は運転席に再び乗り込む。そして速やかに自宅へと車を走らせた。



 幸いフクジュの家は空き部屋があったので、自分の布団を空き部屋に敷きそこに青年を寝かせることにした。真新しい布団一式があれば良かったものの、普段から来客というものがなかったので自前の寝具しかなかった。田舎町の、そこからややはずれに建つ自分の持ち家である平屋は一人暮らしをするにはやたら広く、若干持て余していたので幸いだった。青年の体はまだ熱を持ち、苦しそうに荒い呼吸を繰り返したり呻いたりを繰り返している。自分は今日は適当に厚着をして地べたに横になって夜を越すしかなくなったが、名も知らぬ青年がこれ以上熱に苦しむことが無くなるのであれば構わなかった。敷いた布団に青年を寝かせ、かたく絞ったタオルを乗せるとやがて落ち着いてきたのか咳混じりの寝息が耳に届いてくるようになった。

 なぜフクジュがここまで彼に優しくするのか。フクジュ自身もよくわからなかったが、やはり先程の謝罪の言葉が引っかかっている。彼のその言葉は肉体から絞られていながらもその肉体以上に痛々しさを孕んでいるように聞こえたからだ。腕の中の青年のその寄る辺なさに、自分を重ねたのかも知れない。フクジュは思いついてからというものの、半ば自身の内の得体の知れない感情に突き動かされて行動に出たようなものだった。

 自分の眠りにつく前にもう一度青年の額のタオルを替えてから、コートを着て居間の座布団を二つ折りにしたものを枕にし、フクジュは目を閉じた。



 翌朝、廊下辺りから聞こえた物音でフクジュは目を覚ました。きっと青年が起きたのだろう。眠い目を擦る暇も忘れて廊下に出てみればあの大きなリュックサックを背負った青年が廊下でくず折れていた。フクジュは急いで青年に駆け寄る。

「大丈夫ですか」

 そう声をかけたら青年は黙って頷いた。ただ、その様子を見れば一目瞭然だった。ほんとうは大丈夫ではないのだ。

「だいじょうぶ、だいじょうぶですから……」

 青年は掠れた声で弱々しくそう言った。どうやら風邪で喉もやられているらしい。壁に手をついてなんとか立ちあがろうとする青年を支えてやる。どうにか立ちあがった青年は「お世話に、なりました」と言い、そのまま壁づたいに歩こうとした。おそらく起きたばかりで玄関がどこにあるのかわからないというのに、一刻も早くここから出ようと足掻いているのだ。

「だめです。そんな体調で外になんか出せません」

 フクジュは慌てて彼の肩を掴み引き留める。フクジュの言葉は真実だった。もしこのまま外に出してしまったら今度こそ野垂れ死ぬだろう。彼のことは何も知らないが、見ず知らずの人を見殺しにできるほどフクジュは冷酷ではない。が、青年はゆっくりと歩みを進めてしまっている。

「これ以上、迷惑をかけるわけには」

「そんな……迷惑だなんて」

 体を引き摺るように歩みを進める青年をどうにか留めようとフクジュは慌てた。このまま淡い制止しかしなければきっと彼は自分の手を振り切ってここから出てしまうだろう。

「せめて、せめて風邪が治るまではここにいてください。ね?」

 外は寒いですから、じきに雪だって降ります。とフクジュは付け加えた。

「……わかりました」

 ようやく折れてくれたことに安堵すると同時に青年がその場に倒れ込んだ。言わんこっちゃない。

 青年を寝かせていた部屋に連れ戻すとそこには律儀に畳まれた布団と、その上に『お世話になりました』と一筆添えられたノートの切れ端であろう紙が置かれていた。再び眠れるように布団を敷きなおしていると「すみません。何も言わずに出ていこうとして」と青年が言った。

「良いんです。もし急ぎの用事があるのなら、お兄さんの体調が良くなってから俺が車で送りますよ」

 青年は何も言わなかった。

「どこか目指しているんですか」

 この質問にも青年は応えなかったので、フクジュはそれ以降質問を考えることを止めた。きっと触れられたくない領域の質問だったのだろう。布団が枕や毛布と擦れあう音だけが部屋に静かに響く。

「……決めてないんです。目的地も、終わる時期も」

 布団を敷き終えた辺りで青年がそう小さく呟いた。

「あてのない旅ですか」

「かっこよく言えば、そうかもしれませんね」

 敷いた布団に青年を横たわらせ、額に濡れたタオルを乗せてやる。「じゃあ、何かあったら呼んでください。お手洗いはここを出て廊下を右に行った突き当たりにあります」フクジュはそう言って部屋の襖を優しく閉めた。

「……」

 閉めた襖を背にフクジュは深く深呼吸をした。今日はちょっと忙しくなる。暫く人ひとりが暮らせるための準備をしなくてはならない。寝具を一式と、食器と、その他にもいろいろ。旅人のようだったから服は大丈夫だろう。……そう考えを巡らせながら外出のための身支度を済ませる。

 ちょっと買い物に行ってきますね。と青年に声をかけようしたが、寸でのところでそれはやめることにした。微かではあるが青年が鼻をすすって泣いている声が聞こえる。もっと声をあげて泣けば良いのに、自分に聞かれたくないがために声を抑えているのだ。出会って間もない人にそんな無様な格好は見られたくないだろうと思い、フクジュは静かに玄関へと向かった。


 量販店へ向かうべく車を走らせながら考えていた。きっとあの青年が目指そうとしている場所は概ね検討はついている。死だ。彼は自分が死ぬための場所を求めて歩き回っている。どこに行けば正解に辿り着けるかもわからないままに。北の海沿いにあるこの町には時々そういう人達が来る。もっとも、旅の最中の人に会うのは今回が初めてではあったが。

 彼のことを無理に生かそうとは思わない。死を選択する人の意志をフクジュは尊重したかった。彼が打ち明けても責めるつもりはないし、問い詰めることもしないと心に決めているのだ。自分も似たようなものだから、自分がされて嫌なこと、傷つくようなことはなるべくしないようにしよう。とはいえ、苦しみながら死を手繰り寄せるのもどこか違うとも。

 最終的にフクジュは人ひとりのための生活に必要だと思えるものを手当たり次第に買い込んで、量販店を出た。おかげで助手席から後部座席に至るまで様々な荷物が積まれ埋め尽くされた。エンジンをかけて走り出せば重さのせいで来た時よりも幾分か車の出が鈍い。それはまるで責任のように感じられた。窓の向こうの空は鉛の色をした雲が重く立ち込めていた。もうすぐ雪が降り出すはずだ。

 

 帰宅をし、車の荷物を数回に分けて家に運び込んでも青年を寝かせた部屋から彼が出てくることはなかった。きっと眠っているのだろう。起きた頃に食事を持っていってやろうと思い簡単な卵雑炊を作った。自分が体調を崩した時によく作っている料理だ。卵と出汁の素朴な香りが鼻腔をくすぐる。自分が作った料理を誰かに振舞う日が来るなんて、考えもしなかった。あの青年は喜んでくれるだろうか。

 気がついたら時間は昼を少し過ぎていた。今はまだ眠っているようだが、もう少ししたら青年を起こそう。昨晩彼を拾ってからというものの彼は食事を摂っていない筈だ。腹を空かせているだろう。

 

 卵雑炊がやや冷めた頃、そっと青年が寝ている部屋を覗いた。彼は上半身を起こし、寝床から窓越しに空を眺めているようだった。「あのう」フクジュがその背中に向かって声をかけると少し驚いてこちらを向いた。黒縁眼鏡の奥の控えめな目がフクジュを捉えている。

「あ……」

「ご、ごめんなさい。驚かせてしまったみたいで」

 そこで、フクジュは初めて青年と対峙した。無精髭こそ生えているものの、どことなく自分に厳しそうな(自罰的、とも言い換えられる)面持ちで、こちらを見る眼差しからは元来彼が持っているであろう誠実さが垣間見えた。少なくとも軽薄な人ではなさそうだな、とフクジュはこの数秒の中で理解した。それからまだこの部屋と家主に慣れていない故の警戒心。ふたりの間にわずかな緊張感が走った。 

「……あの、お腹空いてますよね。ご飯作ったんですけど、食べませんか」

 緊張を解くためフクジュは話を切り出した。しかし無理に食べさせようとしていると思われそうだったので「食欲……ありますか」と慌てて付け足す。青年はフクジュの話を聞いて少し考えたあと「すみません、わからないです」と申し訳なさそうに答えた。

「あんまり腹減ってるって思ってなくて……」

「いいんです。ああでも、もしお腹空いたり食べたくなったなら、いつでも言ってください」

「ごめんなさい、ありがとうございます」

 青年は終始申し訳なさそうな表情を浮かべていた。そこで会話はなくなり、沈黙の時間だけが流れた。

「あの、」

 仕方ないと思いフクジュが部屋を出ようとした瞬間、声をかけられた。青年は薄く口を開け、声を発しようとしている。それが何度か続いてから「い、今……もらってもいいですか」と小さく言った。


 ずっと食事中に側にいても食べづらいだろうと思い、フクジュは青年に卵雑炊の入った茶碗を乗せた盆を手渡すと速やかに部屋から引き上げた。

 フクジュは自分の部屋をふたつ持っている。ひとつは寝室。もうひとつは作業部屋と呼んでいる部屋だ。フクジュは木彫り作家で、毎日費やせる時間のほとんどは作業部屋にこもって木片と向き合っている。微調整用の小刀を用意し、製作の途中にある手のひらサイズの木の塊を手にとってくるくると回しながら全体を眺める。完成間近の作品だ。それから余分に思える箇所を定め、細かに削っていく。しょり、しょり、と柔らかい音が心地良い。

「…………」

 フクジュという名前は、作家名だ。本人はあまり自分の本名を言おうとはしない。半ば名前を捨てていると言っても過言ではないくらいに。フクジュと名乗れる場所ではできるだけそう名乗っている。

 木片を削り、丸みを出す。胴体の膨らみ、おおらかで繊細な耳、そして目を作り仮初めの命を宿す。最後に底を軽く削り、机に置いたときの感触を何度か調整する。

「……よし」

 暫くして手のりサイズの小さな熊を完成させ、フクジュは緊張が解けたようにひとつ息を吐いた。ありがたいことに木彫り作家として技術が少しづつ認められ、小規模な雑貨屋や物産展で作品をいくつか置かせて貰えるくらいにまでなった。人と向かい合うのが苦手なフクジュにとってそれは自分に合った仕事のやり方だと思っている。昨日も納品をしに行って、その帰りに青年を拾ったのだった。もし自分があの時車を走らせていなかったらと思うと。……胸のあたりに寒気が襲う。考えるのはやめておいた。彼を拾えてよかったとだけ思おう。


 ばたん、と物音が聞こえた。それからせわしない足音と木製の扉が開かれる音。トイレの方だ。鳴る音の無遠慮さからただ事ではないと感じ、フクジュは慌てて彼を追うようにトイレへと駆けた。開け放たれたトイレのドアの向こうには小さくうずくまる背中があった。

「あ、」

「ごめんなさい、うまく食べられなくて」

 激しく咳き込む青年の背中をさすってやる。服の上から浮き出た背骨の感触が僅かに伝わってくるのがなんともいえず苦しい。その間にも青年の口からは吐瀉物が溢れ、びちゃびちゃと水音を立てながら便器に落ちていく。

「無理に食べなくてもいいんです。頑張ったりしないでください」

 青年は嗚咽混じりの呼吸の合間に鼻を啜っている。そうだろう。泣くほど苦しいに違いない。嘔吐の苦痛のほかにも、食事を用意してくれたフクジュの善意を無下にしてしまったことや、彼に自死という選択をするに至った過去。今のフクジュには完全に理解しきれない様々な理由が複雑に絡まった結果流れる涙だ。

「俺は、怒ってないですから……」

 ごめんなさい、ごめんなさい、と切れ切れに言う彼の背中は小さく縮こまり、今にも消えて無くなりそうな印象をフクジュに植え付けた。彼の罪悪感を少しでも減らせたい一心で背中を撫で、声をかけ続けた。

 彼に生きたまま楽になって欲しいと一人で願うのは、おこがましいことだろうか。


 やがて吐き戻す量も少なくなり、青年は枯れた声で咳をひとつするとトイレットペーパーを2回ほど引き出し口を拭った。それを見たフクジュは台所に行ってコップに水を汲んだものを青年に手渡すと目の周りが涙で濡れたまま「ありがとうございます」と礼を言ってから口をゆすいだ。つくづく思う。彼は律儀な人だ。

 青年が水を便器に吐いたのを見てから、コックを捻って水を流す。そして「落ち着きました?」と訊くと彼は小さく頷いた。

「よかった」

 フクジュがそう言うと青年の目から新しい涙がこぼれた。それは次から次へと流れ、止まらない。しゃくりあげる息の合間に「俺は、こんな優しくされるような、ひとじゃない」と口にした。青年の言葉はひどく自責に満ちていた。

「俺が優しくしたいってだけです」

 声を詰まらせた青年に目線を合わせる。正直なところ、フクジュは人から拒絶されるのがなによりも怖い。出会ったばかりの彼にもいつかは拒絶され嫌われてしまうだろうという冷たい湖のような恐怖を自分の心の奥底に湛えている。それでも、フクジュは人との繋がりを渇望していた。暖かく、強固な絆を自分も持ってみたかったのだ。それらが相反する感情だということも知っていたが止められなかった。

「…………」

「それだけなんですけれども……だめですか?」

 化け物が人を手懐けようとする時はこんな気分なのだろうか。青年の頬を伝う涙を自分の指で拭いたくてたまらなかったが、無理に触れるのは止した。彼はきっと今自分が用意した食事を無駄にしてしまったことを申し訳なく思っているに違いない。青年は慣れた手つきで眼鏡をとり、服の袖を伸ばしてごしごしと涙を拭った。その後である。青年が目を僅かばかり開いて驚いたのは。

「あ、…………」

 まるで何かが無いといった動きで首の周りを手で触れている。首周り、喉、鎖骨の間。そこで青年は小さな声で「ない、」とうわごとのように呟いた。

「首に巻いてた……」

「ストール、ですか」

 彼が首に巻いていたストールのことはよく覚えている。昨晩寝かせた時、眠る時に邪魔だろうと思い外しておいたのだ。防寒のためにつけていると思ったのだが、外してみてわかった。彼の首にはちょうど頸動脈を垂直に切るように皮膚が濃い色になっている。躊躇い傷。刃物を滑らせたが思いとどまった証だ。彼はその傷を隠すためにストールを巻いていたらしい。青年が今動揺しているのは、見ず知らずの男であるフクジュに曝け出したくなかったものを今まさに見せてしまっているからだろう。自殺未遂の痕。ふたりが出会ってから、何度となく顔を合わせているのにフクジュが何も聞き出さなかったことについても青年は疑問を抱いているらしかった。

「これを見ても、なんとも思わないんですか……?」

 青年は指で躊躇い傷をなぞってみせる。声は震えて、不安が混じっている。

「……なんとも」

「どうして、」

 どうしてと言われてもこれといった理由が思い浮かばなかった。フクジュにとって彼の首の傷というものは些細なことでしかなかったからだ。彼の過去に必要以上に踏み込むことに対して無意識的に意味を感じていなかったとも言える。フクジュはどう答えていいか分からずゆっくりと首を傾げた。

「……不思議な人、ですね」

 青年の目の色がころころと変わる。動揺、怯え、不可解。おそらく今までに出会ったことがない反応だったのだろう。フクジュは青年に向かって頭を下げた。

「でも、あなたが人に見せたくないと思っていたものだったのに、勝手に暴いてしまってごめんなさい」

「……あなたが初めてです。これを見ても何も言わなかったのは」

 彼が何時どこから旅を始めてここに辿りついたのか分からない。が、その口ぶりからはそう短くない旅をしてきて、それなりの人数と出会ってきたことが伺えた。青年は驚きの顔を隠せないままフクジュの周りに視線を泳がせている。

「……」

 さて、と半ば話を終わらせるようにそう言いフクジュは手をついて立ち上がる。「布団は汚していませんか? ちょうど新しいものを買ってきたのでついでに交換しますね」寝室を覗くと乱暴に引き剥がされた掛け布団が目立つこと以外は特に変わりはなかった。後ろから足音が聞こえてきたので振り向いて見れば青年がちょうどこちらに来ていたので、彼が通れるように体をどける。青年はフクジュの目の前を通る時に小さくお辞儀をした。新しい布団を用意している間、青年は体育座りでじっと待っていた。彼はまだ借りてきた猫のようにおとなしく、静かだ。

 新しい布団も敷き終わり、自分が元々使っていた寝具を畳んで自室に持って行こうと持ち上げた時「ありがとうございます」と声をかけられた。フクジュはお辞儀を軽くしてから、部屋を出た。

 食事はうまく摂れなくとも、せめて水だけは飲ませようと思い新しいコップに水を汲んで再び部屋を訪れると青年は先程のように布団から上半身を起こし、窓の向こうを見ているようだった。上半身だけを起こしたままでは景色そのものを見るには高さが足りない。景色、というよりは窓あるいは壁をも無視してその向こうの海に思いを馳せているのだろう。

「外が気になりますか」

 フクジュが声をかけると「まあ、」と曖昧な返事が返ってきた。「この辺りに来たのは昨晩のことだったんですか? もう少し体調が良くなったら俺が車に乗せて色々案内しますよ。と言ってもこの辺りなんて、何にもないですけど」

 フクジュが手渡したコップの中の水を青年は少量に分けて何度かゆっくり口に含み、嚥下する。

「何も、といっても海が近い」

 青年はそう返したのを聞いてそういえばそうだな、と思った。ここで生活をしていると潮騒は日常に溶け込んでしまいとりわけ気にも止めなくなる。たしかに耳をすませてみるとかすかに波の音が聞こえる。「茶の間を開けると海が見えますよ」青年と同じ方向、窓の向こうを見ながらフクジュは言う。

「海、好きなんですか」

「特別好きというわけじゃないのですが……途方もない気持ちになりたい時は海を見たくなります」

「……」

「自分の手に負えないものと向かい合いたいというか……すみません、よくわからないですよね。ごめんなさい」

 青年のその答えたその理由にフクジュは面食らった。これほどまで自分と同じような理由で海を求める存在がいたのか、と。心臓に薪がくべられたように体の芯から熱を発し少しづつフクジュを温める。

「どうしました?」

「あ、」

 青年の目はいつしかフクジュに向いていた。「もしかして俺の風邪、うつしちゃいましたか……?」心配するようにこちらを見つめている。何も言わなかったフクジュのことを気にかけているようだ。

「いや、うつってはいないと思うのですが、その」

 思わずフクジュは青年から視線を逸らした。「俺もその理由わかるな、って……途方もない気持ちになりたいっていうの、が」言葉の最後の方はほとんど消えかけていた。なんとなく知られてはいけないような、でも知ってほしいような、今までに抱いたことのない中途半端な気持ちの間で揺れていた。

「……そうなんですね」

 フクジュの言葉を受けて返された青年の声は、突き放すことも過剰に受け入れることもなく、穏やかで柔らかかった。



 青年と少し距離が縮まったような気がして、フクジュは少し嬉しくなった。

 居間でもう少し休んだらまた作業に戻ろう。ふと卓袱台に目をやるとミカンの袋が視界に入った。今朝行った買い出しの中でたまたま目に付き、なんとなくカゴに入れたのだ。ビニール袋に入れられた10個にも満たない小ぶりなそれをひとつ手にとって丁寧に剥いてから一房口に含むと、酸っぱさより甘さが勝る果汁が溢れてきておいしい。昨日今日と慌しかった気持ちもにわかにほぐれていく。いい買い物だったな、とひとりで喜んだ後、ミカンを見ながら考えてみる。果物なら食べられるだろうか。と。

「……」

 青年の寝室を覗き込むと小さな寝息が聞こえる。眠っているようだ。フクジュは寝室の簡素な机の上にミカンをひとつ置き、それから「よかったら食べてください」とメモを添える。部屋を出ようとした時、そういえば彼をどう呼べばいいのか分からないなとここで初めて気がついた。彼のリュックサックの中の財布を見ればきっと名前などすぐにわかるだろうが、無闇に彼のテリトリーに踏み込むのだけはどうしても気がすすまなかった。何もせず、そのまま寝室を出た。


 作業部屋に戻り、再び作業を続けている時のことだった。フクジュのポケットに入っているスマートフォンから静かな振動が発せられる。画面を見てみると自分の作品を置いて貰っているギャラリーからだった。通話ボタンを押し、耳に充てる。

「はい、」

 ギャラリーのオーナーはとても優しい人だ。まだ活動を始めてまもない無名同然のフクジュの作品を気に入り、ギャラリーにも積極的に作品を置いてくれている。ギャラリー経由で自分の作品を買ってくれる人も格段に増えた。自分の作家としての知名度を底上げしてくれた恩人と呼んでも過言ではない。電話口にオーナーはこう言った「隔月で発行している地元の冊子にフクジュの作品の特集を組みたい」と。

「はあ、」

 聞き役に徹しているのもなんだか悪いような気がして、なんとなく相槌を打つ。

 フクジュとしては自分の作品が大勢の人に知れるのは確かにありがたい話ではあった。が、そこにフクジュ自身の細かいプロフィールや経歴、フクジュ自身の写真、作業場の写真なども載せたいとのことだそう。もっとフクジュ君の作品を多くの人に知ってもらいたいんだよ、とオーナーは言った。

 きっとそうした方が今後の自分の作品の売り上げもよくなるし、オーナーもそうなることを信じての今回の相談であることもフクジュにはわかっている。ただ、フクジュにとってそれはあまり居心地の良いものに感じられなかった。なんだか自分の境界線を他者にじりじりと詰められているようで、オーナーの話を聞きながら少しづつ息がしづらくなっていくのがわかる。弾んだ声のオーナーには悪いが、断ることを決めた。

「お話はとても有り難いです。ただ今回はお断りしたいなと……」

 電話口のオーナーは、少し寂しそうな声をしていた。

「せっかく提案してもらったのに、すみません……はい」

 通話終了ボタンを押し、フクジュはため息を吐いた。自身を掘り下げられることには慣れていない。折角用意して貰った話なのに、それを断ってしまった今、どうも居心地が悪い。

「……」

 自分を守ったのだ。そう思い、気分を切り替えるためにタバコを吸おうと思い作業部屋の扉を開けると、彼がいた。

「……ああ、起きたんですね」

「話声が聞こえたので、ここにいるんだと思って」

「あんまりいい会話じゃないところを聞かせてしまってすみません……」

 青年は黙って首を振った。体調の方は、と訊こうとしたが青年の目線はフクジュの背後に移っている。

「……凄い」

「え?」

 思わずフクジュは後ろを振り向く。青年はフクジュの作業部屋を見、感嘆の声を漏らしていた。作業部屋とはいえ材料となる幾つのもの木と、作りかけの木片と、ちょっとした作業机くらいしかない小さな部屋だ。青年は物珍しそうに部屋を見ている。やはり自分のテリトリーに入られるのはなんともいえず胸の辺りがぞわぞわするが、彼にならきっと大丈夫かもしれないと、少しだけそう感じたのもまた事実だ。

「木の匂いだ」

「木彫りをやっているので」

 フクジュはそう言うと、作業部屋の棚に置いてある木彫りの猫の人形をひとつ手にとって青年に渡した。自分が木彫り作家を始めて間もない頃に作ったもので、ようやく自分の納得いく作品が作れた記念に大事にしている。

「……これ、全部自分で?」

「はい」

 青年は木彫りの猫を眺め、それから指の腹で感触を確かめるようにゆっくりと撫でた。

「凄い。……可愛い」

 目を細めて青年は言う。いつも作品はギャラリーや展示会に置いて自分は会場に行かないので、直接そう感想を言われた経験があまり無いフクジュにとって目の前で褒められることに慣れておらず、少しだけくすぐったい気持ちになった。誰かに認められるというのはこういう気持ちなのだろうか。

「……ありがとうございます」

 もっと何か気の利いた言葉を言えば良かったのだろうが、フクジュはひとこと礼を言うので精一杯だった。

「そういえば、ミカン食べられました?」

 そういえばと思いフクジュは慌てたように言葉を繋げた。とはいえ彼がここで初めて何か食べ物を口にしてくれたのなら、とても嬉しい。

「はい、おかげで」

 フクジュは思わず笑みを溢した。

「よかった」

「美味しかったです。とても」

「俺も、あれは美味しかったと思います。まだあるので良かったら食べてください」

「ありがとうございます」

 青年は猫の置物をフクジュに返した。ふと触れた青年の手は温かい。両手で大事そうに作品を持ち、フクジュの掌の中に返した青年はきっと優しい人なのだろうと思った。……彼のことを尋ねるとすれば、今なら許されるだろうか。フクジュは咄嗟に口を開く。

「あ、あの」

 青年がフクジュの目を見た。まっすぐな、綺麗な目をしていた。拒絶されたらどうしよう。しかし言い出してしまった限り、このまま訊くしかない。

「……あなたのことをなんと呼べば良い、でしょうか……」

 名前とは言わなかった。きっと名を名乗りたければ今名乗ってくれるだろう。彼が言わなければ、それまでだ。

「……」

 青年は硬く黙り込む。それから何度か口を薄く開いては閉じる動きを繰り返して何かを言いたげにしていた後、こう答えた。

「本名じゃない名前を名乗っても……?」

「ええ」

 フクジュは答える。その答えを聞いて青年は少しホッとしたような顔をした。

「……ちょっと、考えさせてください。明日までには」

 そう言った後、青年は「おやすみなさい」と頭を下げ、寝室に行ってしまった。

「おやすみなさい」

 青年の背中にそう声をかける。きっと、大丈夫。大丈夫だろうと願う。自分もそろそろ眠ろう。作業部屋の明かりを消すと、雪あかりのせいか窓の向こうがぼんやりと白く光っている。だいぶ積もったようだ。風邪をひかぬよう気をつけないと。

 一日ぶりの自分の布団に潜り込むと、いつの間にか随分疲れていたようで、フクジュは融けるようにすぐ眠ってしまった。静かな夜だった。



 翌日、二人が起き出したのは日ものぼってしばらくした朝のことだった。昨日は幾分か体調が回復していた彼のことだ、とはいえまだ万全ではないのだから、食欲があるかどうか聞いてから何か作ればいいと思い、青年が眠っている寝室を訪ねてみる。青年は起きていた。昨日と同じように布団から上半身を起こして海を見ている。

「……」

「おはようございます」

  フクジュの声を聞いて、青年は体をこちらに向ける。それから「おはようございます」と言いながら軽く会釈した。

「眠れました?」

「はい、おかげさまで。布団、用意してくださってありがとうございます」

 昨日よりも幾分か笑顔だ。フクジュも思わず顔を綻ばせる。

「朝ごはん、食べられますか?」

 青年は少し悩んでから「少しだけ、なら」と小さく答えた。食欲が出てきてよかった。それじゃあ、とフクジュが朝食の準備をするために立ちあがろうとした時のことだ。

「あの……!」

 やや力のこもったその声にフクジュははっとした。青年がこちらを見ている。

「……ソマリ、と呼んでもらえないでしょうか……名前……」

「ソマリ」

 フクジュは彼の言った名前を反芻するように繰り返す。どこかつんとした、いい響きの名前だ。それからその言葉がなんなのかを思い出した。

「猫、ですか」

「……そうです。昔飼ってた、品種」

 どこか恥ずかしそうにぱりぱりと後頭部を掻く。恥ずかしがることなんて無い。彼がそう決めた、自分自身の名前なのだから。

「いいですね、ソマリという名前」

 そうフクジュが言うと、ソマリは薄くはにかんだ。

 窓の外はこの時期には珍しく晴れ間がのぞいている。二人だけの空間に、朝日がわずかに差し込んだ。

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