ブランニュー



 終業のチャイムが鳴った。

 すり鉢状の教室を出ていく大勢の人間を眺めながら、タツキはのろのろ立ち上がる。

「タツキさん」

 一週間前には対角線上にいた人物が、隣で帰り支度をしている。不思議な気分だった。シノギに話したら、たぶんまた笑われるんだろうと思った。

「帰り?」

「私はね。クロガネは六限あるんだっけ」

「ん」

「そっか。じゃあまた明日だ」

 タツキが鞄を肩にかけるのをクロガネはああ、と気遣うように見上げる。

「もしかしたら邪魔するかもしれない。今夜」

「まじで?」

「あんたの知らない奴も行くかも」

「いいじゃん、紹介してよ。さっちゃんに言っとく」

 彼女が乗り気で頷くと、クロガネもわずかに口角を上げた。

 教室を出るまでは一緒に歩いた。

「じゃあまた今夜ね!」

「ん、今夜。また」

 タツキが手を振ると、手を挙げて彼女も応える。

 図書館にはもう寄らない。

 キャンパスを出て、駅前の喧騒を遠くに聞きながら、タツキは裏路地に入っていった。電飾は変わらずちかちかと光っている。

「やっほー」

「あーっ!」

 ドアベルの音に反応して振り向いたのは、ソファ席にいた子供達だ。磨かれたテーブルにノートやらドリルやらを乱雑に広げている。

「ねーおねーさん聞いてー! アタル、めっちゃバカなの!」

「うるさい。バカとか言うなし」

 その輪の中にいるのは、学生服の少年、アタル。

「本気出してねーだけだから」

「そう言ってさっきも間違えてたじゃん」

「次の問題もさ、分からないんじゃね?」

「はああー? 別に解けるし、こんくらい」

「あはは、ファイトー」

 鞄を置いて、脚の高い椅子に座る。頬杖をついたタツキは、ソファ席の様子を眺めた。唇を尖らせながら鉛筆を握る彼に、あの日の残虐性は感じない。シノギ曰く、心の芯を切ったので火が落ち着いたらしい。タツキもよくは分かっていない。火が大きく燃え続けるように、洗脳に近い状態にされていた、とクロガネが補足してくれたが、結局詳しいところは分からなかった。

「おかえりなさい」

「わっ」

 カウンターの奥から出てきたマアカが、タツキに声をかけた。エプロンをしていた。

「あれ、さっちゃんは?」

「オーナーは本日は遅くなるそうですよ」

 マアカが台拭きでカウンターを丁寧に掃除する。

「ですので喫茶ブランニュー、終日マーちゃんシフトです」

 笑顔がぎこちなく見えるのは、彼女の顔が整い過ぎているからだろう。

「タッちゃんも早めに出ますか?」

「あはは。確かに五時までここにいるけどさ」

 タツキは傍のコップに水を注いだ。どこに何があるか、すっかり把握している。

「そういえば夜、鎺が来るかもって。クロガネが言ってた」

「まあ」

「それほんと?」

 聞きつけたアタルが割り込んでくる。

「ノギさんも来る?」

「あの人は来るでしょ」

「やりー」

 子供達が不満そうにアタルの袖を引っ張った。

「まだ終わってない!」

「はいはーい」

 退散していく彼らを、マアカが微笑ましいと呟く。

 タツキが水を飲み干して、カウンターに置く。

「ねえ、もしさ、嫌だったら。帰ってもいいからね?」

 マアカの方は見れず、コップの底を見つめて言った。挙句、声が裏返ってしまった。鎺の監視下に置くことでお咎めなしとなった彼女には、この役回りは酷かもしれないと思ったのだ。

「鎺がいるの、あんまりだったら、先に帰っても大丈夫だから!」

 タツキは気遣わしげに、目線をマアカに送った。マアカは上目遣いで、何か言いたげな様子だった。

 やがて、決心したように彼女が口を開く。

「…………タツキさんこそ」

「え?」

「わたくしや、彼のことが、怖くはないの?」

 彼、のところでマアカはアタルを一瞥した。

「その……不思議なの。どうしてそんなに、そんな風に、接してくださるのか。あ、も、勿論嫌なわけではなくて、本当にただ、凄く、不思議で、よければ、教えてほしくて……」

 マアカの言葉は尻すぼみになって、最終的には何も聞こえなくなった。

 口を引き結んで考えて、タツキは答えを探した。

「うーん」

 怖くないか、と問われればそれは、怖くないと言えば嘘になる。あんな経験はもう二度とごめんだし、だからタツキは、シノギとクロガネからの鎺に入らないか、という勧誘も断ったのだ。

 目をギュッと瞑ったマアカは、子犬のように小さく震えていた。それはもう、可哀想になるくらいに。

 タツキは指をパチンと鳴らした。

「ね、マアカさ、どうしてって質問、シノギさんにもしてたでしょ」

「え、ええ」

 シノギの芯切りが済んだあと、呆然としたマアカが同じことを問うたのだ。すると彼は血塗れでこう言った。

「〝斬って捨てる〟があいつらならば、〝浮かせて守る〟が俺らだからな」

 その後、合流した大石が、シノギの出血具合に目をひん剥いていたのはいい思い出だ。大男が狼狽える様は、虫の息だったタツキですら笑えてくるものだった。

「血も滴るいい男、ってな!」

 シノギがタネ明かしをし、それが仕込んであった血糊だと分かった途端、鬼神のごとき形相で彼を追いかけ回していたのも含めて。うん、いい思い出だ。タツキは生まれて初めて、怒髪天、という言葉がしっくり来る状況を目の当たりにしたのだった。

 思い出し笑いが込み上げてくる。

「あの……?」

 続きを待っているマアカの声で我に返る。

 そうだった、大事な話の途中だ。

「私もね、どうしてって思ったの。初めてここに連れてこられた時も、周りが平気で接してくれるのも。でも、今ならなんとなく、分かる。私も焼きたてのパン、あげるもん、絶対」

「パン?」

「あー、えっと、えっとね。上手く言えないんだけど。私も、そうしてもらったから、かな」

 タツキは左手首のタグに目を落とした。

「それに私たち結構、似たもの同士じゃない?」

 顔を上げて視線を交錯させる。

「だから仲良くなれるって、私は思ってる……よ?」

 自分で言っていて恥ずかしくなってしまい、タツキは居ずまいを正して誤魔化した。ナイフ病、という奇病は尾ひれがついて、もう取り返しのつかないところまで来てしまっていた。世間はこれからもこの病を恐れ続けるだろう。いずれ黒幕の全てを暴くまでは、その真実は大々的には言えないとシノギも言っていた。言ったところで揉み消されるか笑い飛ばされるかだろうと、クロガネも。

 だが、治らない、治せない、と分かった際の絶望よりも、病気ではないと言われた瞬間の、心が軽くなったあの感じ。それでタツキには十分だった。

「お友達に、なってくれますか」

 マアカが顔から火が出るくらいに真っ赤になって、小さく言った。

 勿論、とタツキは頷いた。

「今度の夏さ、クロガネと、シノギさんと、あと先生と。みんなで旅行行くんだ。マアカも来ない?」

「ノギさん行くならおれも行く」

 アタルの声が飛んでくる。シノギのこととなると、恐ろしいほどの地獄耳だ。来月、刑事たちのお見舞いに行くタツキに彼が同行すると聞いてから、自分も行くとずっとゴネている。

 タツキは早とちりしていたが、あの襲撃事件は、幸いにも死者を出さなかったのだ。懸命の救助の賜物である。アタルについては、シノギの保護監視下に置く、ということで手打ちにしたらしい。詳しくは聞かなかった。

 とはいえアタルが病室に登場すれば、確実に彼らを混乱させてしまうので、どうにか諦めてもらう方法を模索中だ。

「はいはい、言っとくね」

「どこ行くの」

「私の故郷」

「へー」

 気のない返事をしたアタルは、また子供達と軽口の応酬を始める。

 マアカが目を瞬かせた。

「……よろしいの? あまり、よい思い出がないのでは」

「うーん、ま、だからこそっていうか。故郷の環境自体は好きだしね。人が最悪ってだけで。五年経ったし、家族にも顔くらい見せとこうかなって」

「そう……ええ、是非、行きたいです。一緒に」

「それにさ、思ったんだよね。私のせいじゃないし、元気いっぱいだし、感染しないから大丈夫って分かってるなら、私が怖がる必要はないじゃない?」

 相手が怖がることに非はないし、それを責めることもない。

「怖い、心配、近寄るなって百回言われても。うつらない、発作が起きても対処できる、無理に近寄らないよって百一回言う。千回言われたら、千一回言う」

 重ねて、打たれて、また重ねる。

「そうすれば届くっしょ、いつか!」

 うーんと体を伸ばした。椅子から転げ落ちない程度に。

「だから大丈夫!」

 重ねて、磨いて、光を宿す。それが言葉の持つ力。

 タツキの信じる正義。

「……ええ、いつか」

 マアカは胸に手を当てた。

「…必ず」

 深紅の瞳が細められる。タツキが屈託なく笑った。

 喫茶ブランニュー。夜になれば、ここは切れ者で溢れかえる。浮かせて守るが信条の友人たち、期待の新人看板娘。知ってる顔も知らない顔も、皆一様に笑顔を浮かべて。路地裏の狭苦しい暗がりでも、そこが彼らの理想郷。

 タツキはその輪の中に混じり、愚痴っては頷き合い、大皿の料理を分かち合い、おしゃべりに花を咲かせながら、飲んで、食べて、泣いて、歌って、踊って騒いで、喧嘩して。そして笑い疲れるまで笑うのだ。

「あれっ」

 タツキは、自身の置かれている状況を省みてから、驚愕の事実に目をまん丸にした。

「なんか。ゴキゲンだな、暮らし!?」

 戯けたタツキの顔と、マアカの顔とが見合わさり、どちらともなく笑い出す。

 手に入れば呆気なく、手にしてもなんてことはなく。腹を抱えて、タツキは続けた。そこに刻まれた傷跡も、今では綺麗さっぱりだった。

「さてはハッピーだな、私!」

 表情筋が痛くなるくらい、笑いは治まってはくれない。

 なんて、なんてチープな詩だ。けれどそれが、彼女の強さ。

 タツキが手にした刃の証。

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タツに突く 山城渉 @yamagiwa_taru

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