追悔



「急患です!」

 看護師の声に、医師たちの顔が引き締まる。

 運び込まれてきたのは、呼吸を荒げた少女だった。

「十九歳、女性。海で素潜りをしていて、溺れかけていたところを一緒に来ていた友人たちに救助されたそうです。本人は、急に具合が悪くなったと言っていたと」

「容体は悪化しているということか」

「減圧症ではないですか」

「素潜りでその深度まで潜れますかね」

「それに、あの島の住人なら、泳ぎは慣れてるでしょう」

 皆が処置を加えながら口々に事故の原因を推測する。

「それと……」

 言い淀んだ看護師に、彼らはあまり耳を傾ける気はなさそうだった。

 ひそひそと尋ねる。

「それと、何でしょう。一旦、僕だけにでも教えてください」

「……友人によれば、水中では出血していたように見えたらしいんです。けど、傷なんてどこにもないし、見間違いかもと言っていましたが、一応お伝えしておきます」

「分かりました。ありがとうございます」

「バイタル安定、ひとまず様子をみましょう」

 皆一様に安堵した表情で頷き合う。

 そこで誰かが言い出した。

「これは、もしかするとあれじゃないのか。ほら、最近出た」

「奇病とかいうやつですか?」

 うんざりして間に入る。

「採血の結果も待たずにそれを言うのは」

「原因不明の体調不良なんだろう?」

「それだけで判断するのは医師としてどうかと。早計ですし、安易に口にしていいものでもないでしょう。ここは病院なんですから」

 説得にぐうの音も出ないのか、沈黙が訪れた。気まずい雰囲気に耐えられなくなったのか、処置に当たった人間が我先にとその場を立ち去っていく。

 一人残った彼は、呆れたように首を振った。

「はあ。医者ですらこうだもんな」

 眉間をほぐす。

 少女の呼吸は安定していた。

「出血」

 もしやと思い、彼女の肌が露出している部分を観察するが、やはり怪我といえそうな怪我はない。

「痛い……私…」

 少女が朧気に左手を差し出す。

「なんかで…手首…切った……」

 驚いて、左の手首を見る。

 確かに傷痕がある。

 しかしこれはどう見ても、かなり回復した、時間の経った傷だ。今日ついた傷ではない。それも、よくよく見てみると、患部の皮膚の内側が、血液というよりもマグマのような色をしたかすかな光を脈打たせていた。

「採血の結果が出ました、竹内先生」

 看護師が入室してきた。

「軽度の……ナイフ病と思われます」

 竹内は絶句した。

「ですので、先生、彼女にタグを」

 怯えるように少女を見て、看護師は言った。そしてタグを埋め込むための器材を置いて、さっさと出ていってしまった。よほど恐れていると見えた。

 ナイフ病。

 医者、研究者を生業としていれば、誰でも一度は、学会や研究発表に訪れたことがあるはずだ。症例や、初期検体の協力で得たデータをまとめた論文も読んでいる。

 恐れ慄くのも無理はないが、あからさまというか、なんというか。

 脈打つ彼女の鼓動を感じる。

 軽度と判断されるのは、血中の金属物質の割合が高いだけで、他に特筆すべき症状の発現がない患者だ。

 少女の左手首を見た。先ほどよりも傷痕が目立たなくなっている。

 彼女は重度か軽度かを判別しづらい罹患者なのか。彼女の症状は、軽度といっても差し支えないと。

 しかしこの目で見てしまった竹内に、彼女を軽症患者だと口にすることはできても、それを心から信じることはできなかった。

 竹内は彼女の左手首にタグを埋め混んだ。切り開かれた皮膚はすぐに、燃え滾る血液がじわじわ広がり、溶岩が固まるかのように、みるみるうちに塞がっていく。

 彼女のタグは数分もしないで、表皮の下にうっすらと見えるくらいに覆われた。

「……すまない」

 医師として、嘘はつけなかった。

 本当に臆病になっているのは、自分なのかもしれない。

 規則正しい脈拍が、電子音になって彼を責め立てる。

 脈打つ彼女の血液は、己を焦がす地獄の業火のように見えた。

 案外、間違ってはいないのかもしれない。今この時の記憶は、一生かけても自分の頭を悩ませ続けるはずだから。

 組織からの定期連絡によれば、そろそろこの場所ともお別れらしい。

 竹内は自嘲を浮かべ、少女から目を逸らした。

「君だけが心残りだ……と」

「……いや、わかるわけなくない?」

 タツキはこれでもかという程、顔を顰めた。

 研究施設からの帰還後。翌日、鎺のアジト、リビングにて。

 何も言わずに出かけたシノギが引き連れてきたのは、竹内雪洋その人だった。

 彼は肩身が狭そうな雰囲気でソファに座っている。その隣に座ったタツキの手には、犬のイラストが施されたミラーがあった。

「冷静に考えたら、気づくか気づかないか、めちゃめちゃ賭けだよね、これ?」

「いいじゃねえ。男ってのは、大博打を前に退けねえもんよ」

 シノギは二人と向かい合ったソファでくつろいでいた。

わんちゃんの顔みっつでナベリウスたあ、中々センスあるよなあ」

 彼の横ではクロガネが紅茶を飲んでいる。

 タツキは不満だと言わんばかりに口を「い」の形にした。

「気づいても気づかなくても良かったってこと?」

「そうだね。あんまり巻き込まれてほしくはなかったから。けれど、どれか一つにでも疑問を持てば、鎺にたどり着けるようにとは思っていたよ」

「俺らとしては助かったよな」

「実際、その計らいのおかげでCASE:712の調査は進展したしな」

「どころか完了しちまったけどな!」

「先生のおかげで痛い思いもいっぱいしたけどね!」

「ご、ごめんね」

 詰め寄られた竹内が平に謝る。

「君には誠実でありたかったんだ」

 そう言って見つめられると弱い。タツキは首を傾げた。

 クロガネがマグを置いて背もたれに寄りかかった。

「で、どうするんだ。事務員、続けるのか」

「いいや。離れるよ」

 それを聞いたタツキが悲しそうに俯いた。

 ふうん、とシノギが鼻から息を抜く。

「賢明だな。尻尾は残さない、それでこそナベリウスだぜ」

「しかし、いいのか。私が言うのもなんだが」

 クロガネが腕を組む。

「妙な感じだ。ナベリウスの奴と鎺が接触してるのは」

「もっと上が繋がっているんだから、小言はあれど、実害はないだろうさ」

「強かだな、あんた」

 意外そうにする彼女に対して、竹内は微笑んだ。

 シノギが体を起こす。

「あんたの次の隠れ蓑について話しても?」

 顎に手をやりながら、シノギが彼の顔を見る。

 彼の申し出を竹内は促した。

「聞かせてもらうよ」

「やあ、なんだ、大したことじゃない。また医者をやりたいってんなら、働き口に心当たりがあるだけさ」

 シノギが手をひらひらさせた。

 かすかに竹内の身が乗り出したのを、タツキも見る。

 彼女がクロガネに視線を飛ばした。説明をするのが億劫だったのか、クロガネは喉をくつくつ鳴らして、タツキにこうとだけ言った。

「もう一人増えるかもしれないってことだ……“たっちゃん”が」

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