庵たつき

 正義とは、なんだろう。

 ぼうっとする意識の中、そんなことを考える。痛い、それどころではないだろうと警鐘を鳴らす自分もいたが、今の私はそういう、どうでもよさそうなことを考えるのに集中していた。

 辛い現状から逃げるのは、脳の正常な反応だろうか、クロガネ?

 血を吐いた。

 私が、クロガネを助けたのは、それが私の正義だからだったのだろうか。先生が私に言った正義の意味は、あの時、刑事さんが私に言った正義とはきっと違うだろう。ジャーナリズムの正義感と使命感は、往々にして野次馬精神と紙一重。刑事さんの正義は、民間人や世間に隠しごとをしているという、背徳と自責の念に後押しされて生まれたのだ。

 正義の在処は、どこだろう。

 シノギさんの信じる正義と、警視総監や大石さんの掲げる正義も、別物なのだろう。どちらも犠牲はつきものと割り切っているからこそ、守るべき枠組みの中にいないものには、徹底的に冷酷だ。だからこそ強く、曲がらず、正しく見える。

 なら私の正義は、どれだろう。

 どれもしっくりこないな、と思った。そもそも正義がよく分からない。

 信条、という言葉が浮かんだ。私が信じられるもの。私の信じる力の源。

「あー、それなら、あるかも」

 掠れた独り言を吐いた時、重くのしかかられたような感覚があった。クロガネのように見えた。

 目をぱちくりさせる。何か、遠くの方で聞こえる気がした。

「祈りなさい。どうせ、無駄なのだから」

 刑事さんたちの顔が浮かんだ。私が殺してしまった。私がその道を選ばせた。治りますようにと、私に祈ってくれたから。

 でも。

「……祈りは、無力じゃない」

 マアカと目が合う。

「無駄かも、しれない。無意味かも、しれない」

 刀が刺さっている部分が痛む。

「でも、無力じゃない」

 途切れ途切れに話すタツキの元に、マアカはゆっくりと歩み寄った。

 タツキはマアカの瞳を見ていたが、どこか虚ろで、マアカのことをきちんと見ているのではなかった。

「なぜ、そう思うの」

「祈ることは、言葉を紡ぐこと、と同じ、だから」

 タツキが瞠目した。

「言葉には、物理的な何かはない。祈りと、同じ。けど、何にもならないわけじゃない。焚きつけて、傷つけて、苦しめて。その逆も然り」

「けれど言葉は命を奪うわ。祈りとは違う」

「それは、違う」

「なぜ。命は尽きるものなのに、祈るのよ」

 タツキは上を向いた。

「祈るのは、命が廻るものだから」

 故郷の星空を、タツキは思い出していた。満点の星と、漣の音。湿った潮風が体を柔らかく通り過ぎていく。

 これが正真正銘の走馬灯だろうか。

「どれだけの年を重ね、たとえその身が朽ち果てようと、想いは、生きた事実は無くならない。行ないを積み上げ、その中で生まれた言葉たちは、海を、空を、時を超える。祈りにも、命にも、言葉の力は宿り、心に灯る導となる」

 言葉の力。

 タツキが信じ続けるものだ。

「詭弁だわ!」

 マアカは激昂した。

 翼が折りたたまれ、マアカを守るように丸くなる。聞きたくない、と耳を塞いでいるかのようだ。

「言葉など、祈りなど、空っぽなだけ。だって、だって!」

 泣きじゃくっている。

「どれだけ言葉を尽くしても、誰も助けてくれないじゃない!」

 小さな子供みたいに。

「どれだけ助けてと言ったって、誰も助けてくれなかったじゃない!」

「ほんとの、芯か……それ、が」

 クロガネがタツキの耳元で呟いた。

 マアカの拒絶を表すかのごとく、翼がぐぐ、と縮まった。刃羽を放つ予備動作だ。

「まずい」

 クロガネの視線は、先ほど手放した刀に注がれていた。

 芯が分かったのだから、シノギが死に物狂いでそれを狙うのは目に見えていた。しかし、あの翼の殻に籠ってしまったマアカに触れるのは容易じゃない。

 彼女が翼を広げるよりも先に翼を斬らなければ。しかし果たして間に合うだろうか。タツキとクロガネの目の前で、翼はどんどんかさを増し、ぎらぎらと輝いていく。床に転がっている刀は、即席のもの。太刀打ちできるかは怪しい。

 だからといって、しっかりと用意してきた刀は現在進行形でタツキの身体を貫いていて、彼女から抜き取って使うというのは。

「くっ」

 クロガネは軋む身体に鞭を打って、霞む視界を必死に凝らし、折られた刀の方へ手を延ばした。

 刹那、その手に温かいものが触れる。

 タツキの小さな手が、彼女の右手をとっていた。

「握って」

 目を丸くするクロガネに構わず、タツキはその手に、刀の柄を握らせる。

 自身に突き刺さっている、刀の柄を。

「ねえ、私、クロガネの詩。好きだよ」

 何を言い出すのかとクロガネが言う前に、タツキは口を開いた。

「──語り部百姓、煙静観」

 タツキが、握らせたクロガネの右手を引っ張りながらそう詠んだ。クロガネは顔を強張らせた。

「──音の間の中で、草子を重ね」

 刀が抜き取られていく。クロガネは息を呑んだ。

 彼女の傷口が、燃えている。少なくとも、クロガネにはそう見えた。まるで炉のようにあかあかと、目が眩むくらいに。そしてそこから、クロガネが記憶しているより、幅も厚みも一回り、いや二回りは大きくなったかという刃がゆっくりと、姿を現す。

「いてー……!」

 目から涙が溢れようとも、タツキはやめない。

 痛くて、熱くて、マジ最悪。

 でも、この気持ちには換えられない。

「想いは届く。言葉に乗って」

 マアカがいるであろう、その場を見つめる。彼女は力強く言い放つのだった。

「どこまでも遠く、彼方へ」

 タツキがクロガネを見た。

 クロガネも、タツキを見た。

 彼女は血だらけの顔で、にやりと笑った。

「……分かってるさ。あんたのファンだからな」

 クロガネは刀を握る手に力を込めた。

 頼もしいな、とタツキは思った。シノギが彼女に寄りかかる理由が、分かった気がした。

 クロガネは言った。いつものように。

「──六界六道悉皆衆生、在るべき処に此レを帰せ!」

 タツキが被せるのは、いつか聞いたあの詩になぞらえて。

「──いつか言おう否今言おう、然るべき心を研ぎ澄ませ!」

 二人が声を合わせ、別々に詠う。

 呼吸を整え、そして、一息。

 クロガネがタツキから刀を引き抜き、その太刀を閃かせる。


「──綺麗礼賛!」

「──Kyrie eleison!」


 抜刀と同時に繰り出された斬撃は、見事にマアカの翼を打ち破った。

「……ははっ、どうだ」

 やり切ったという晴れやかな顔をタツキが浮かべる。

「見たかよヘンタイ」

 タツキは、あの講師に向かって嗤った。

「ラッパー舐めんな」

 言いきると同時にタツキの体が力なく床に倒れる。

 鋼鉄の翼が崩れ落ちる轟音の中、呑気な声が三人の耳に届いた。

「さすが、センスあるなあ」

 傾く視界の中にタツキは大胆不敵な立ち姿を見た。ハッとマアカが背後を振り返った時には既に、シノギが彼女にナイフを振りかざしている刹那であった。

「いただくぜ、お前の芯」

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