縋り



 研究所内を探り回っていたシノギが、物音を耳にしたのは、つい先ほどのことだった。音の出所は恐らく階下、方向を考えると、屋内演習場。独自で情報収集をしていた彼も、さすがにこれが耳に入った直後には駆け出していた。

「他にも刺客がいたとはねえ」

 隠密に徹するはずだったクロガネとタツキを不憫に思うと、走る速度も上がる。

「しかし分からねえな、なんだって、寺仲をわざわざ誰かに始末させるんだか。まさかCASE:712に罪を着せようってんじゃないだろうな」

 仕入れたばかりの情報で、脳内のパズルを埋めていく。

 彼が直接手を下したがらないのはいつものことだが、ナベリウスが寺仲の抹殺を大々的に行なう、その意図は掴めない。となると、警視庁襲撃における責任の一切を寺仲に追わせ、ナベリウスから追放することで、彼の主導で動いていたCASE:712の研究をナベリウスから切り離したいと考えるのが妥当か。

 CASE:712にはやはり何かあるのだ。

 シノギは地下三階、屋内演習場でいえば二階のギャラリー部分に通じる扉を開け放った。程なくして、彼の周りを血の匂いが通り過ぎていった。

 シノギが拳を握りしめる。血溜まりに伏しているのは老人に見えた。寺仲宣仁だろうか。演習場を縦横無尽に飛び回っているのは、恐らくCASE:712だろう。それは鋼鉄の翼を生やし、鱗にも羽にも見える刃を放って攻撃している。

 避けに徹しているのがクロガネだ。

「タッちゃん?」

 居ないのかとも思った。クロガネのことだ、その場から逃がしていても不思議ではない。しかし彼女はその戦場にいた。蹲るようにして、徐々に床を這いずっていっているのが見える。

 シノギはそこで初めて、タツキの身に何が起きているのかを理解した。

 怒りから生まれるクロガネの刃が、タツキの身体を貫いている。クロガネが防戦一方なのは、タツキの壁となるためだ。手すりから跳躍したシノギがCASE:712に飛びかかる。彼女はシノギを一瞥して、後方に下がった。

「シノギ!」

 握った刀で刃羽を跳ね返しながら、クロガネが悔しさを滲ませた。

「悪い」

 彼女の体には無数の切り傷がついていた。鎌風にでも吹かれたかのように、細かくて小さな傷。避けきれなかった刃羽につけられたのだろう。

 一方でタツキには刀が刺さっている以外に傷は見受けられない。

 シノギは何も言わなかった。ただ彼女と目を合わせ、クロガネが頷くのを待つ。

「ん、分かってる」

 飛んできた刃羽を両断して、彼女は頷いた。

「マアカだが。恐らく祈りによって刃を顕現させてる」

「ふうん。マアカっつうの」

 クロガネが顎で指し示したCASE:712を、シノギが観察する。

 修道女の服を身に纏い、背中から翼を生やす彼女は、一見神々しくもあった。ぎらついた羽に似つかわしくない、清楚な雰囲気の女性だ。

 身軽に動いて刃羽を躱しつつ、シノギは彼女との差を詰めていく。

「ああ。羊飼い。あなたとは仲良くできそう」

「光栄だな。もしよければ、なんでこうなったか教えてくんない?」

「迷える羊を真っ直ぐに、贄の道へと誘うのよ」

「俺が? お前が?」

「羊飼いはあなた。あなたのあとに続くのは、みな羊」

 会話を交わしている間も、構わず彼女は刃羽を飛ばす。

「凡て。例外なく。羊」

「ナイフ病って羊にも感染すんの?」

「あなたも昏きを見たでしょう。星の海の深淵を」

 避けても避けてもキリがない。

「父なる天より堕ち、母なる海へと抱かれる。注がれし神秘は、人を強きたらしめんとする神からの楔であり、禊」

 打たれた翼をナイフで弾き返す。

「受け入れるのです。抗ったとて、苦しみが増すだけ」

 弾かれた片翼の反動でマアカの重心はわずかに後ろに傾く。

 その隙に、殻のごとく彼女の体に覆い被さっていた、翼の内側に踏み込んだ。

「カミサマってのはもっと優しいもんだと思ってたよ」

「神は祈りの前に平等。ただし公平ではない。羊飼い、あなたの刃がそうであるように」

 深紅の瞳がシノギの視線とぶつかる。

 彼女はそれから、シノギの手にあるナイフを見た。シノギの背筋にぞくりと嫌な予感がして、半ば反射で膝を曲げた。瞬間、屈んだ彼の頭の上で、風を切った音がした。あと少しでも遅ければ、マアカの翼の尖端がシノギの胸を突いただろう。彼がナイフで、マアカの身体に触れる前に。

「賢明ね、さすがは羊の統率者」

「俺を知ってる?」

「勿論、羊飼い。あなたのことは全て知っている」

 懐に誘われ、片翼に包み込まれているシノギを救おうと、外からクロガネが跳んでくる。

「初めの羊たちも」

 マアカは顔色ひとつ変えずに斬撃を翼で受け止め、その翼をバネのように一気に広げて、クロガネの体を吹き飛ばした。

 素早く身を翻したシノギが再びマアカにナイフを向ける。

「無駄よ。わたくしの芯は、信仰によって縒り合い、祈りによって紡がれた、強固な糸。あなたの刃ではわたくしの心を折ることはできない」

「おっと参った、そこまでバレてるか」

「あなたのナイフで斬れるのは、一つの想いで張り詰めた糸だけ」

 しぶとく胸部を狙い続けるシノギの腕を、マアカが掴んだ。

「羊飼い。あなたはわたくしの次に授かった。ゆえにその刃は尋ね、見出す」

 華奢な腕からは想像もつかないくらいに強い力で、シノギの腕を抑えている。

「わたくしと、あなたと。それからもう一人。それらが真に、神の寵愛を受けし者」

 彼の腕の骨が悲鳴をあげた。

 しかし、当のシノギは、冷や汗をかきながらも、愉しそうに考えを巡らせているのだった。

「求めよ、さらば与えられん。ってやつだな。それならキサキが三人目?」

「いいえ」

 彼女がちらとクロガネを見やった。

 吹き飛ばされ、壁に叩きつけられたクロガネは、呼吸を整えて再び、マアカに攻撃を仕掛けた。白髪が赤く染まっている。流血など微塵も気にしていない様子だ。

「彼女は羊。猛り勇む、賢く獰猛な羊」

 刃羽を飛ばしたマアカは、クロガネが避けるであろう位置に先回りして翼を打ち込む。だが彼女は致命的な場所に撃たれた刃羽だけを弾いて、そのままマアカに向かって突っ込んだ。クロガネの腕や脚に刃羽が突き刺さる。弾いた刃羽の破片が、彼女の耳と頬を切り裂いていく。

 それでもクロガネは意にも介さないという涼しい顔で、静かに刀を振り下ろした。

 予想外の行動に、マアカは飛翔し、どうにかことなきを得る。

 シノギの前に立ち塞がるクロガネを、マアカは慈しみの目で見つめた。

「最も、羊飼いに近しい羊」

「お前が言うように」

 クロガネが血を拭い、口を開いた。

「これが神からの贈り物なら、寺仲の告白は真実ではないということだ。科学と宗教の戦争に口を挟む気はないが」

「あの男や、ナベリウスの研究は正しいわ。羊はみな、彼の者たちが解き明かした通り。ただし、わたくしと羊飼い、そして門を叩く者はその限りではない」

「それはつまり、私はMTPによって金属物質を生成する身体を持っているが、シノギやお前は違うと」

「MTP?」

「マルチタスクプロテイン、の略だそうだ」

「ははあ。海洋生物が特殊な環境下で適応するために生み出す物質だ」

 シノギは腕をさすりながら立ち上がる。

「じゃあやっぱ、病気じゃないんだな」

「そうらしい」

 クロガネが頷きつつ、刃羽を叩き落とす。シノギに向かって不満を漏らした。

「……“やっぱり”?」

「やあ、価値観の問題だよ。別に知ってたわけじゃねえ」

 彼女が身体から刃羽を引き抜いて、シノギに渡す。

 手のひらに収まるサイズの、菱形に似た、鱗とも羽ともつかない金属片だ。持っていても、鋭利な箇所があるわけでもなく、皮膚は切れない。

「わたくしの刃は、敵対するものを滅ぼす。敵意のある者に傷をつける」

 マアカがシノギに向けて刃羽を放つ。

 間に入ったクロガネに撃墜されても、彼女はまたそれを放つだけだった。

「私を狙え」

 クロガネに対し微笑みを向けるマアカを、シノギが見据える。

 戦闘に関しては、刀の扱いに長けたクロガネの方が、一枚上手だ。刃に物理的な殺傷能力がなく、本来の力すら脅威にならないと分かっているはずのシノギを、どうして優先して狙うのか。

「……」

 思案するシノギの表情を見て、クロガネはやるべきことを決めたように一つ息を吐いてから、彼女はまたマアカに斬りかかった。

 激しい剣戟の中、シノギの思考が邪魔されないように、これまで受け流していた刃羽を、マアカを狙って弾き返すようにする。さらには体に突き刺さった刃羽を抜いて、苦無のごとく投げつけた。マアカの攻撃の手に、シノギを狙う隙を与えないように。

「ああ、本当に。素晴らしい羊ね、あなた」

「牧羊犬くらいに思っててくれ。できれば」

 彼女の尽力が功を奏し、シノギの脳内のパズルは凄まじい速度で組み上がっていった。祈りによって刃を顕現しているようだと、キサキが言った。マアカ自身も、祈りと信仰によって紡がれると宣言した。

 信仰。祈り。羊飼い。

 求めよ、さらば与えられん。

 マルチタスクプロテイン。

 昏きを見た。星の海の深淵。

 父なる天より堕ち、母なる海へと抱かれる。

 神からの楔。

「……うっそ」

 完成したパズルを、シノギはバラバラにしてやりたくなった。たどり着いた答えはあまりにも現実離れしていて、しかし真実味を帯びている。そして何より、シノギ自身の過去がそれを証明していた。シノギの手は自ずと彼の脇腹に触れていた。彼の上半身には大きな挫創痕がいくつもあった。サーフィン中に巨大な波に飲まれ、岩や海底の砂利によってついた傷だ。

 たくさん水を飲み、意識が薄れる中で、ああ、死ぬんだなと冷静に考えていたのを覚えている。暗闇から目が覚めるとそこは病院で、身体中が痛み、側にいた医者からは生きているのが奇跡と言われた。特に脇腹の傷は深く、今でも時々引き攣るような痛みがある。

 その大波を引き起こしたのは、世にも珍しい犯人だった。

「隕石」

 シノギは弾かれたように顔を上げた。

「なあ、キサキ!」

「何だ!」

 クロガネが聞き返した。

「もっと大きな声で頼む」

 激しい斬り合いに挑み続ける彼女には、視界に入る血を拭う暇もないのだ。マアカにも疲労の色が見えるのが、クロガネが手を緩めない唯一の理由だった。

 全身をまさぐって、シノギがぶつぶつと言い始める。

「元々MTPは海洋生物にみられる物質。どこでMTPを獲得したかはみんな一緒だ。海に関係する何かしらの要因でMTPを体内に取り込み身体に適応したやつ。これが羊」

「確かに、それなら私は、説明がつく、な!」

 刃羽を返しつつ、器用にもクロガネが後退してきた。シノギの話をよく聞くために、だろう。

「あの海難事故で死にかけた」

「それも重要だ、生死に関わる状態にあったかどうか。恐らくそれが症状の差を、軽度と重度の差を生んでる。では、奴の言う、羊とそれ以外の差は、何によって生まれたか」

「ああ」

「それがつまり、どこでMTPを獲得したかではなく、どこのMTPを獲得したかの差なんだ」

 シノギは半笑いで上を指差した。

「地球上にあったMTPか、宇宙から来たMTPか」

「はあ?」

 さすがのクロガネからも、素っ頓狂な声が出る。

 それまでマアカから目を逸らさなかったクロガネも、ふざけてるのかと言いたげにシノギと目を合わせた。

「なしじゃあないぜ。少なくとも俺は当てはまってる」

 シノギがマアカを見た。

「宇宙には地球上にない物質がいっぱいあるらしいぜ。地球に落下した隕石がそれを含んでることもある。お前の言う、羊か、そうじゃないかは、体内にあるのがこの星に存在しているMTPかどうか。違うか?」

「柵を超えることをも恐れない。優秀ね、羊飼い」

「五年もびっくり人間やってりゃあな」

「信じるに信じられないが」

 クロガネが口内に溜まった血を吐き出す。

「病ではないと判明したのも、つい先ほどのことだ」

「んで。俺ばっかを狙うのは、恐らく、無意味だ。意味はない。なあんにも」

「そうなのか? てっきり訳があるのかと」

 シノギの言葉にクロガネが眉を顰めた。

 かすかにマアカの指先が動いた。

「やあ、ないな。ただの自己満足だ。羊以外の特別な存在は邪魔なんじゃないか。神の寵愛を受けるなら、特別なのは自分だけがいいもんなあ」

 シノギはううん、と伸びをした。

「それに俺らはCASE:712の正体と、ナイフ病の真実を知っちまった。お前にとっては都合が悪いだろ。病だなんだと踊らされている、無知な羊を哀れむのを、安心してできなくなるからなあ」

 マアカはそれまで崩さなかった笑顔を歪ませた。

「そうして自分を保つのに、そのためだけに、刃を振るうんだもんなあ」

「……に」

 マアカの声が震えた。

「…たに……」

 胸の前で組んだ手を離し、顔を覆った。

「あなたに何が分かるというの!」

 その激しい動揺ぶりに、クロガネは後ずさり、シノギは一歩前に出た。

「どれだけ痛みを耐えても、どれだけやめてと訴えても、この身体中、穢れてる!」

 悲痛な叫びが、びりびりと彼らの体を伝った。

「祈りは空しく、願いは塵屑、ずっとずっと虐げられ、ただ無駄なことだと思い知らされてきた、理由も分からず!」

 彼らは見た。マアカの背中にある一双の翼の下から、もう二双、翼がぴしぴしと音を立てて生えてくるのを。

「シノギ」

「……紡いだ太い一本が祈りの糸でも、縒られる前の細い糸にはもっと違う想いも混じってる」

 注意深くシノギが周囲を見回した。

 空気が引き詰まっていくのが分かる。

「これ以上、わたくしにどうしろというの、これ以上わたくしに、同じ仕打ちを受けろというの!」

 見る間に六枚の羽を手に入れた彼女は、ただ悲痛な胸中を打ち明けていた。

「どんなに祈っても、祈っても、祈っても! 神はお与えになっただけ。その先に苦痛があろうと、試練だと、乗り越えなさいと、それを和らげてはくれない!」

 マアカが顔を上げ、血のように紅い瞳からとめどない大粒の涙を流しながら、シノギとクロガネを睨めつけた。

「だからわたくしは祈り続ける! 信じ続ける! それが無意味なことであると、救いなどないのだと、わたくしが示し続ける!」

 彼女は六枚の翼を広げた。

「この身をもって、絶望を謳い続ける、高らかに!」

 それまでとは比にならない数の刃羽が二人を襲った。クロガネはタツキを守るために即座に後方へ飛びのいたが、間に合わない。構えた刀すら、凄まじい速度の刃羽によって折れてしまった。

 刃羽が彼女の体を貫通する。倒れ込むようにして、彼女はタツキに覆い被さった。

 シノギもまた、タツキを庇おうと動いた。ただ、クロガネと同じように、段違いの数と切れ味を持った刃羽に全身を射られ、膝をつく。

 マアカが飛翔し、シノギに急接近した。翼の先端が振りかざされる。その刃羽が、シノギの肩口から腰骨の辺りまでを斬った。鮮血が噴き出し、彼の身体がぐらりと傾く。

 苦痛に歪んだシノギの表情に、マアカがぽつりと言った。

「祈りなさい。どうせ、無駄なのだから」

「……祈りは、無力じゃない」

 小さな、小さな声。

 泣き腫らした深紅の瞳が揺れた。視線を感じた。 

 ごぼごぼと液体の混じったような呼吸を繰り返しながら、タツキの眼が、マアカを見据えていた。

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