CASE:712



「こっち」

 暗闇の中を、クロガネは迷いなく進む。大石から懐中電灯をもらっておけばと何度後悔したことか。タツキはスマホのライトで足元を照らしつつ、彼女にぐいぐいと引っ張られるまま、気づけば研究所の地下に辿り着いていた。

「今のが近道?」

「む」

 タツキが息も絶え絶えに訊く。

 クロガネは半分頷きかけて、少し考えてから言った。

「一番の近道は、本当はダクト」

 そこを選ばなかった彼女に、タツキは英断だと心から感謝した。もし私ではなく、シノギと行動していたのなら、迷わずそちらを通ったんだろう。

 廊下が明るい。放棄されているらしいが、辺りにゴミが散乱しているとか、割れた何かしらがあるとかもなく、整然としている。四年間、人の手が入っていないままとは考えにくい空間だ。

「ねえ、上の階、電気点いてる」

 タツキが指差したのを、クロガネは否定した。

「職員の休憩所、だった。行ったところで資料はない。この階か、一個下のが望みがある」

「詳しいね」

「そりゃあの時は散々調べ回ったから。ここから出るために。今はその逆を行ってる。妙な気分」

「クロガネ、さん達は、何階にいたの?」

「居住階は地下五階」

「そんな下!? 牢獄じゃん」

「囚われてたと言うとまた変わってくる。屋外演習があったから。研究施設の敷地外に出られないというだけ」

 クロガネが両開きの大きな扉を開ける。そこは吹き抜けになっていて、両端と上のギャラリーに出入り口が見えた。体育館のような場所だ。

「屋内演習場」

 バルコニーからクロガネが跳び降りる。

「ここは地下三階と四階が繋がってる。階段以外にも、道はつくっておく」

「ないよりいいもんね」

 彼女の言葉に納得し、タツキもあとに続く。クロガネのように華麗な着地はできないが、これくらいの高さなら慣れっこだ。

 跳び降りると、足がじんじんと痺れた。しゃがんだままの姿勢で足首をさする。

「痛めてないか」

 心配そうにクロガネが手を差し延べた。その手を掴んで立ち上がったタツキは、腕に力こぶをつくって胸を張った。

「痛めても、すぐ治るし」

「慢心は、よくない」

 クロガネはそのあとも何度かタツキの足首を気にかけている様子だった。

 地下四階は、クロガネが望みがある、と言ったようにまさに資料室という様相を呈していたが、手放されているだけあって、有用な文書は見当たらない。更に、地下三階と違って電灯が点かなかった。

「なあ、あの時。錯乱、と私が表現しただろう」

「へっ?」

 ファイルやらデスクトップやらを漁っていると、クロガネが突然そんなことを口にした。

「覚えてるか」

「え、え、いつ?」

「あんたがアジトで走馬灯だと思っていたやつ」

「ああ、あれね」

「いい夢だったか」

「なんでそんなこと聞くの?」

「あんたの裂傷を編み直した奴が……そういう奴なんだ。有髪の生臭坊主なんだが。恐怖に人一倍敏感だからこそ、それを解きほぐすのが上手くてな。あいつにかかると、意識の有無に関わらず皆が穏やかな顔をする。あんたも」

「私も? へー」

 タツキが左手首に視線を落とした。

「慈悲深いんだね、その人」

「私にはそうは言えないが」

 それを聞いたクロガネから、ごにょごにょと愚痴らしきものが零れた。詳しい内容は聞き取れなかったが、総じて不服そうだった。

「……ん。言えないな、口が裂けても。だが奴はそれで救われるのならと念仏を唱えているから。あんたの助けになったなら、あいつにそう伝えておきたい」

「じゃあ今度お礼言っといて。けっこー嫌なこと思い出させてくれたおかげで目が覚めましたって」

 クロガネは驚いて目を瞬き、一呼吸おいて笑いだした。

「な、何? 成仏しなくて良かったじゃん、マジで」

 タツキの眉間に皺が寄る。

「あれ、もしかして、そういうことじゃない?」

「いや…いや、そうだな。そういえばあんた、悪夢を見たんだったな。伝えておこう」

 なおも笑いを抑えられない様子で、クロガネはキーボードをカタカタ打ち込む。タツキはタツキで、携帯のライトを当てながら周囲の書類を吟味していた。

 その時である。

「何かお探し?」

 即座にクロガネがタツキを背後に引き寄せた。

「例えば……CASE:712について、とか」

 音もなく入り口で佇んでいるのは、修道女のような格好をした女性だ。年若く見える。もしかしたら同い年くらいかもしれないとタツキは思った。

「怯えないで。警戒も、ひとまず解いて。案内します、彼の元へ」

「お前は何者だ」

 クロガネの問いには答えず、修道女は踵を返す。二人は顔を見合わせてから、慎重に彼女に着いていくことにした。

 彼女の向かう先が屋内演習場であることに気がついたクロガネが、警戒を強める。戦闘の修練の場だ、資料など何もないはず。そもそも地下三階から訪れた時に、何もないことを確認している。

 修道女がやはり演習場に入っていき、その先にもう一人、人間がいたことで、クロガネは更に殺気立った。

「お連れしました」

 彼女が頭を下げた男は、やはり寺仲宣仁であった。

「ああ、感謝する。マアカ」

「マアカ?」

 用心して彼女を観察する。その名はタツキには聞き覚えがあった。警視庁襲撃の際、少年が話していた言葉だ。

「まずは、ご苦労だった。ここまで来るのはいささか面倒だったろう」

 寺仲はクロガネを品定めするように見据えた。

「君は初期検体だな。記憶にある顔だ」

「CASE:712について調べている」

 彼の話に付き合う気は毛頭ない、とクロガネが態度で示した。

「感情発露症候群。これがナイフ病に関連があるものかどうか。あるのであれば、なぜそれを表に出せないのか」

 ぴくりと寺仲が顔を引き攣らせた。

「知りたいことは山ほどある。まずはCASE:712の居場所について教えてもらいたい。ここを選ぶのなら、お前に戦闘の余地はないと見えるが」

 表情ひとつ変えずに、彼女は手のひらから刀を生み出してみせた。床に鮮血が滴る。彼女の翠色の瞳が、力づくでも教えてもらうぞ、という強い意志を放っていた。

 寺仲は尻込み、ため息をついた。

「おお、怖い怖い。そう急くな。CASE:712なら既に、君たちの目の前にいるだろう?」

「何?」

「そんな気がした」

 タツキはこっそりとクロガネに言う。

「警察のファイルを持ってったあいつが、マアカの名前を出してたもん」

「ということは、草稿に使われていたインクは、お前の血か」

 クロガネに問われた修道女は、ゆっくりと頷いた。

 寺仲を睨みつけるようにタツキが顔を出す。

「ひっど。女の子から血を採ってインクに使うなんて、最低」

「いえ、それは、わたくしの提案です」

 修道女もといマアカが手を挙げた。

「わたくしには、己の血が離れた場所にあろうと、それを感じ取ることができましたので。さすがに地下深くで厳重に取り扱われては、難しいですけれど」

「なんでそんなこと」

「なぜと問われれば、研究の一環、としか。感じ取ることができると分かったのは、草稿が散り散りになってからのことですから」

「変態には変わりないってことね」

 タツキは言いながら何度も頷いて、寺仲に視線を戻した。

「てか、なんでCASE:712のレポートを世に出さなかったの? 感情発露症候群がもっと研究進んでれば、ナイフ病ももっと研究できたでしょ」

「そのレポートに誤りがあったからだ」

 寺仲は忌々しげに首を振った。

「だから、世には出さなかった」

「誤り?」

 クロガネが首を捻る。

 寺仲の言葉の真意を探りあぐねている様子だった。

「そうとも」

「ねえ、そういう込み入った話は後でもいい?」

 もったいつけるように寺仲が言うので、タツキは鬱陶しくなってしまった。

「私は、ナイフ病の治療法について探ってる。あなたの本も何回も何回も読んだ。感情発露症候群には症状を緩和する手段はあった? あったなら……」

「……は、はははは! 何を馬鹿なことを!」

 タツキの言葉を遮った寺仲は、おかしそうに腹を抱え、笑みを浮かべた。醜悪な笑いだ。クロガネが険しい顔をした。

「治療? 治す? これだから困るのだ、知識のない奴らの勘繰りは!」

 寺仲は人差し指をクロガネに突きつける。

「君たちのそれは! 病気などではない!」

 そしてクロガネに詰め寄った。

 彼が声高に告げる。

「いいかね。君たちは、全く新しい人類なのだよ!」

 寺仲の指先はクロガネの首元に向いていた。初期検体は総じて、そこにタグが埋められている。広い演習場には、彼の声だけが響いていた。

「MTPという物質を知っているかね。マルチタスクプロテイン、そう名付けられたタンパク質だ。これまで、一部の海洋生物の体内にあることが分かっていた、一つで多数の役割をこなす非常に優秀なタンパク質だ。君たちの中には、それがある!」

 彼は興奮していた。

「ある研究では、君たちの身体に確認されたMTPには、体内の金属物質や組織と結びついて、金属濃度の高い質量のある物体を生成する働きがあるとされた。特に、脳が一定の強さの感情を抱いた時、MTPはより金属を結びつけやすくなるという。感情発露症候群と私が名づけた病気は、なんのことはない、これと全く同じ原理を持つ現象だったのだ。私の研究に興味を持った彼らから声がかかるまで、私はMTPによる新人種の誕生に気がつけなかった。ゆえにあの草稿は誤りであり、それが判明した時点で葬ったのだ。だというのに!」

 寺仲が大仰に振り返ってみせる。

「それを何かあると勘違いした連中が、私の草稿を探し始めたのだ。どいつもこいつも、要らぬ想像力を働かせおって!」

 汗をかき、顔を真っ赤にして寺仲は怒り狂っていた。

「おかげでこの私はナベリウスから不要と判断され、始末されようとしている。警察官百人殺しの罪まで着せられてな!」

「待ってよ」

 タツキは混乱していた。

「じゃ、じゃあ、ナイフ病なんてほんとはなくて、私達は、私は、治らないの?」

 嘲りと憤怒に囚われた寺仲の笑いがタツキに向けられた。

「治療など、できるものか。病気とは原理が違う。一度その現象が体内で発現したのなら、君は死ぬまでそのままだ!」

 下品な笑いが演習場にこだまする。

「いいじゃないか。君の身体は、人間が新たな力を手に入れたという証明。実に素晴らしい。誇っていいのだ、それは生物の生存能力の獲得、人類の進化なのだから!」

「いいえ」

 突如、寺仲の声が途切れ、涼やかな声に変わる。

 寺仲は息を呑んだ。

 マアカだ。

「進化などではありません」

 寺仲のすぐ後ろで、マアカがそう言った。

 彼はついぞ、自分の身に何が起こったか理解できなかった。暗転する視界の中で、マアカはただじっと前を見つめているだけなのが見えた。

 寺仲を刺したのは、彼女の刃だ。祈るように手を組んだマアカの背中から、大きな銀色の翼が一対、生えている。その羽は一枚一枚がカミソリくらい薄く、菱形の鏡のような形をしていて、それらが連なり重なり合ってはためいている。

 血溜まりに倒れる寺仲に、彼女は目もくれなかった。

「海にて深きを臨み、天にて父と邂逅せし者」

 彼女の紅の目が捉えていたのは、クロガネだ。彼女が刀を構えると、マアカが目にも止まらぬ速さで羽ばたく。

 激しい金属音が何度かしたのち、マアカは突然狙いを変えた。

「これは祝福。神の与えたもうた奇跡」

 マアカが翼をタツキめがけて振りかぶる。

 クロガネの反応が一瞬、遅れた。自分に覆い被さろうとする彼女を、タツキは逆に庇った。

 驚いたクロガネが体勢を崩す。

 マアカが目を細めた。

「そうね。心ある人の善行とは、そういうもの」

 彼女はそれを読んでいた。

 だから、刀を握るクロガネの手が緩んだのを見逃さなかった。いつも捧げる祈りを口にするのと、全く同じ声音で呟く。それはクロガネやタツキに対してではなく、自分のためのものだった。

「祈りなさい」

 片翼でクロガネの腕を斬りつけ、彼女の刀を奪う。それを振りかざすマアカの姿は、宗教画のように美しく、残酷で、冷たかった。

「試練とは、乗り越えるためにあるのです」

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