白金鎬



「ここに戻ってくることになるとは」

 鬱蒼と茂った木々に隠されるようにしてそびえ立つ研究所を前にして、クロガネがぽつりと言った。

 周辺は雑木林、加えて建物内から明かりが漏れたりといったことはなく、日が落ちた現在時刻だと、その暗さに拍車がかかっている。

「機能してるのか、本当に」

「あの方曰く」

 大石が懐中電灯で照らしても、クロガネにはただの廃墟にしか見えなかった。

 感慨深げにシノギが見上げる。

「あいつらがいたら、なんて言うかな」

「偵察じゃ済まないのは確か」

「違いない。思い出の場所だからなあ。うっ、思い出すだけで吐き気が……」

「えっやめてよ。シノギさんが言うと、発作なのかそういう表現なのか分かりづらい、それ」

 タツキが呆れた顔で彼を見やった。

 周囲を窺った大石が口を開く。

「あの方は、寺仲は自身の研究所としてではなく、CASE:712の隠れ家のようにしてここを使っているのだと、仰っていました。警備はいない可能性が高く、いても数名だと」

「ふうん、据え膳だな」

 シノギは顎をなぜた。

「おっさんの絵図通りってわけだ。別にいいけどよ。俺ら、おっさんの兵じゃねえし」

 シノギはずっと、彼を怪しんでいる様子だった。

 大石がムッとしたのを、クロガネが察知する。

「誰も止めないぞ、二手に分かれたら」

 それは、ここへくる前に四人で決めたことだった。

 一方はCASE:712についての資料及びナイフ病に関する研究資料を捜索する。もう一方は警備兵がいた場合接敵し、寺仲をおびき出してCASE:712を捜索する。調査班はタツキとクロガネで担い、陽動班はシノギと大石が引き受ける。

「仲良くしろ、今だけでも」

 彼女の言い分は正しい。

 大石はまだ納得がいっていないようだったが、とりあえず頷いてみせた。

「しかしこの調子だと、四人で固まったままでも行けんじゃねえの」

「そううまくいくならいいけど」

 タツキは厚底のスニーカーでその場を踏みならした。ぬかるんでなくて良かったと思った。闇に紛れるような人気のない研究所を見ていると、シノギの呑気な台詞も現実味を帯びてくる。

 四人はあっさりと研究所内に侵入することに成功した。

「この警戒心のなさ。警視庁を襲撃した刺客は、ほんとにそいつの犬なのかねえ」

「守りを固めて大所帯になっては本末転倒だからでは」

「バレるかどうかをビクビクするより、バレても大丈夫なくらいにしとくのが、黒幕の常套手段」

「貸し出されてるだけ」

 クロガネがあの時の少年を思い出すように、タツキを見る。

「本部の肝煎り」

「ああ、お前と同じタチか。じゃあ、強いな」

「ん」

 タツキは腹部に手をやった。

 少年の言い方と、状況を鑑みるに、撃たれたのだと思う、あの時。体内で留まったのか、貫通したのかすらも分からない。感触があった。痛みも。けれど今となっては、黒のタンクトップの下に、傷跡やそれらしきものはさっぱりない。

 超回復、と大石が評したように、タツキの身体には常人離れした自然回復力が備わっているのかもしれない。自分の身体ながら空恐ろしくなって、思わず側にいたクロガネの服の裾を掴んだ。

 彼女はタツキに頷いてみせた。

「心配ない。私達は隠密。資料を見つけて、帰る。ここには慣れてる」

「うん」

 シノギが暗い所内に目を凝らした。

「ここまで上が静かだと、メインは下の可能性が高いな」

「また地下?」

 うんざりしたようにタツキは腕をあげる。

 少し得意げなクロガネがシノギと目を合わせた。

「もっと慣れてる」

「だな」

「行こう、タツキさん」

 タツキの腕をとって、クロガネは外を指す。

「一回出た方が近い」

「そ、そうなの?」

 引っ張られていく彼女を、シノギがひらひらと手を振って見送った。

 大石の顔は険しい。

「大丈夫なんですか。部外者を、それも一般の女性を」

「置いてったところで、体に噛みついてでも着いてくるぜ、ああいうのは」

「だからといって、彼女ら二人だけでは」

「おっ、今からでもチェンジする? 俺は大歓迎。お前はタッちゃんと留守番な」

 シノギが、お荷物なのはお前も同じだという顔で大石を見る。

 実際のところ、それが最善策だと考えていた。一人はナイフ病の一般女子学生、一人は非罹患者の大男。どう考えても、隠密行動には向いていない。刺客と遭遇した場合にも、守ることを優先すれば動きが制限されてしまう。

「棚に上げるなよ。あの子にタネ明かししたのはお前だぜ」

 この場所が未だに使われていること。それが寺仲であるということ。彼がCASE:712を匿っている張本人であること。

 タツキの気迫に押されて、大石はそれらの情報を彼女に伝えた。

「勝手に着いてきたっつうのは、ちょおっと厳しい言い訳だな」

 シノギが地下に通じる階段を示す。

「ネタをバラしちゃったら同じ手品は通じないんだぞ」

 階段に二人分の靴音が反響する。

 大石はそっぽを向いた。

「あそこで彼女に対して首を横に振ったら、私自身の正義が折れます。どれほど嘘で塗り固められた真実があろうと、彼女のまっすぐな想いは答えへ辿り着く…辿り着くべきだと、思ったので」

「よっ、熱血漢」

「治りたいだけですよ、彼女は。他意がまるでない。陰謀や思惑に絡めとられそうにもない。本当にただ、知りたいという純粋な想いだけで動いている」

「は、それは俺らも同じさ」

 薄く笑って、シノギは声のトーンを落とした。俺ら、というのは鎺ではなく、罹患者全員のことを指していた。

「おっさんが天秤の真似事なんぞしなけりゃあ、こんなことにはなってねえ」

 彼の発言は、大石を揶揄いたいわけでもなんでもなく、ただ事実を事実と言っているだけであった。反論したい気持ちを大石はグッと堪えた。

 地下一階を通り過ぎ、地下二階へと差しかかる。警戒したシノギが足を止めた。

「明るい」

 彼の言葉通り、地下二階には電気が通っているようだった。

 しかし他の階と同様に人の気配は感じない。

「うっ」

「ちょっと!」

 慌てて大石がシノギの口を抑えた。

 スリルを感じることがトリガーなのは聞いていたが、ここで発動されてはたまらない。というか、今この状況で何を楽しんでいるんだ?大石は変なものを見るような目で彼を見た。

 シノギが大石の手を何度か叩く。放せ、ということだろう。

 大石が手を離すと、彼は苦しそうに浅い呼吸を繰り返した。

「こんな所で吐かないでください!」

「やあ、わりい。緊張しちゃって……興奮…うぷ」

 シノギが足音を立てて駆け上がる。大石は物音を立てたことを本能的にまずいと判断し、彼を追いかけた。

 二人は入ったのとは別の扉から外へ出た。

「おえー!」

 大石は息を荒げながら、膝をつくシノギの背中に、叱責を飛ばした。

「何をやっているんですか」

 あんなに隠密隠密と言っておきながら、とてつもない騒音を立てた挙句、振り出しに戻った。

「貴公は本当に。ふざけているのですか」

「はあ、はあ、はは……ふざけたビョーキだ、全く」

 彼はふらりと立ち上がり、吐き出したナイフを尻ポケットにしまい込んだ。

「おまけに俺のは、使いどこが限定されてるし」

「ものは言いようですね」

 彼の吐き出すナイフには人体への殺傷能力がないと、あの方も話していた。つまりは武器として使えず、結果、彼は兵器としても使えないのだ。クロガネのように物質に干渉できない。

 手品で用いるものと同じ、子供騙しのガラクタだ。だから、シノギの場合は重度とはいえ、ただ苦しむだけの症状なのだ。憐憫の眼差しを彼に向ける。

 一方のシノギは辺りを見回して、小首を傾げていた。

「ふうむ、あんなの無かった、いや、あったのか。分からないな、こっち側は来なかったからなあ」

 彼に倣って、周囲に懐中電灯を向けると、ここは庭園のようだった。花壇やら噴水やら、温室らしきガラス張りの建物も見える。

「見覚えが?」

「ない」

 シノギが特にこだわっているのは、レンガ造の建物だった。時計塔、いや、礼拝堂だろうか。彼はそちらをじっと見たあと、すたすたと礼拝堂に向かっていった。

 大石が引き留める。

「そんな所へ行っている場合ですか、観光じゃないんですよ」

「どっこい、気配がする」

 シノギが小声で振り返った。

「誰かいるぜ」

 大石は礼拝堂とシノギとを交互に見て、彼のあとに続いた。

 礼拝堂の中は、外よりも涼しく、空気は籠っている感じがした。横幅の長い木製の椅子が静かに並んでいる。その最前列に、人影が見えた。それは大石とシノギが近づいたのに合わせて立ち上がる。

「あれ?」

 そう言って、こてんと首を傾げたのは、学生服を身に纏った少年だった。歳は十五、六くらいに見える。

「なんだ、クロガネキサキじゃないんだ。おれ、折角待ってたのに」

「成程。つまりお前が、警視庁を襲撃した刺客ってわけ」

「ぴんぽーん」

 研究所の礼拝堂に明るい少年の声が響くという異質な状況に、大石は背筋が寒くなった。それもただの少年ではない。

「お前はなんでここにいんの?」

 大石とは対照的に、シノギはのんびりとした口調を崩さなかった。それどころか、傍の長椅子に腰を下ろしてくつろいでいる。

「なんでだと思う?」

「上の命令」

「なーんだ、知ってんの。つまんねー」

「喩え逃げ延びても、お前がトドメを刺すんだろ」

「せんせーね。そーゆー命令だからね。ほんと本部って、人使いが荒くてさー」

 少年は残念そうに笑ってシノギを見た。

 そして子供が銃を構えるような仕草で、指先をシノギに突きつけた。拳銃など持っていないというのに。大石の体に悪寒が走る。

「知ってんでしょ、おまえも。初期検体だもんね、せんぱい?」

「俺を知ってる?」

「おまえだけじゃなくて、鎺をね。おれらの中じゃ有名人だよ。本部を裏切った烏合の衆」

「上とは違った矜持を持ち合わせてたもんでね」

 シノギはあくまで世間話といった様子で両手を広げてみせた。自分のこめかみに少年の手が当てられていることなど、気にもしていないようだった。

 少年は体勢を変えず、彼の脇に立っていた大石を見上げた。

「はーあ。つまんねー。おまえ達どっちも、殺しちゃいけないんだよね」

「それも、上の命令?」

「そー。だから……」

 少年がシノギのこめかみに当てていた右手を下ろす。大石が息をついた次の瞬間には少年は大石に向かってもう一方の手を向けていた。

「ばーんてされても、死なないでよ」

「大石、伏せ!」

 いち早く勘づいたシノギが少年を突き飛ばす。その衝撃で弾道がずれ、少年の指先から発射された弾丸は大石に当たらず終わった。

 長椅子が木片となって吹き飛ぶ。シノギが物凄い剣幕で大石に叫んだ。

「すっこんでろ!」

 本来ならば、警察官としてのプライドが邪魔するはずだった。しかし、突然の命の危機と、有無を言わさないシノギの態度に、大石は小刻みに頷くしかなかった。長椅子の下に頭を潜らせる。

 少年がシノギに対して怒りを募らせた。

「ちっ、邪魔すんなよ」

「いいだろ、どっちが相手でも」

「おまえは特に、傷つけると怒られんの!」

「へえ。怒られるの嫌い?」

「誰だって嫌いでしょ!」

 少年の指先は大石ではなくシノギを狙っている。好都合だと彼はほくそ笑んだ。これでしばらくは大石に追撃はいかないだろう。

「当たらねえな」

「じゃあ避けんなよ!」

「ちゃんと狙ってるか?」

「むかつく!」

 礼拝堂内は銃撃を受けて、無惨な姿になっていく。

 窓や、壁、照明が、弾丸によって削りとられ、瓦礫となって崩れていく。

 なぜわざと激昂させるようなことを言うのか。大石は頭を抱えた。ナイフ病の中でも特に多いのが、負の感情で発作が起こるというもの。激情になりやすい感情は、症状の悪化が著しい。兵器として重用されているあの少年も、確実にそういった類の罹患者である。神経を逆撫ですることは強化させることに等しい。なぜそれをしているのか。

「キサキのが強いな」

 煽りでもなんでもなく、シノギが溢した。少年の所属している場所は彼の元鞘。受けた訓練がどういったものか、知りに知り尽くしている。

 現にシノギは、あくびまじりに少年の攻撃を躱していた。

「なあ、こうして折角、三人揃ったんだしよ。話でもするかあ」

 相変わらず呑気な声で彼が言うと、少年が訝しげにシノギを睨めつける。大石もまた、三人と自分が入っていることに驚いて顔を上げた。

「おまえと話すことなんてない」

「奇遇だな、俺もだ。だから黙って聞いとけ」

 どんどん傷ついていく礼拝堂の中で、シノギが身を翻す。

「おっさんには、警察とナベリウス、二つの勝ち筋がある」

 その名をいともあっさりと口にするので、少年は動きを止めてしまった。

「おっさん…警視総監どのと言った方がいいか? まあいいや。まず、警察に身を置くおっさんにしてみれば、警察の正義は一般市民と共にある。先の警視庁襲撃事件において、警察官が犠牲になるということは、それを示すのに打ってつけだった。ナイフ病患者の脅威を世間に強烈に知らしめ、ナイフ病罹患者への規制をより強化しようという流れを生む。声高に言うのさ。非罹患者が安心して暮らせる社会を! ってな」

 身軽な動作で梁に上った彼が、ミュージカル俳優のように両手をあげた。

「鎺と真っ向から決別しようってわけだ。あるいは、表向きにはそう見せておく」

「それを行うことがあの方になんの得があるというのです」

「知ってるくせに。警察内部の動きを統率しやすくするためさ。表できっぱりと鎺と対立する構図をつくっておきゃあ、秘密裏に鎺について探る奴はいなくなる」

 少年が壁を伝って梁を走る。そして、シノギに近接戦を挑んできた。狙っても避けられることに苛立ちを募らせたようだった。殴りかかる彼の勢いをいなし、代わりに後ろ手で彼を掴まえて、地上に落とす。

「言っちまえば、鎺を守りやすくするためだな」

 シノギは不本意そうだった。

 少年は再び跳躍し、彼と組み手を交わす。

「で、なんでそれをおれに聞かせるわけ」

「分かんねえなら、それでいいよ」

「まじ腹立つ!」

 少年の攻撃は、シノギがいなすか、躱すか、避けるかで容易く受け流されていく。

「一方で黒幕の一端の座に着くおっさんにしてみても、警視庁襲撃事件は都合が良かった。さっきも言ったように、市井のナイフ病に対する恐怖が増大したからだ。ナイフ病を兵士や兵器として用いて裏社会を牛耳ってんだからな。より権威が強まるってわけだ、めでたしめでたし。そして晴れておっさんは、天秤の真似事を続けられる」

 ぱちぱちと拍手をしてみせるシノギに、大石は開いた口が塞がらなかった。

 青い壁に導き出されたあの相関図を目にした時から、ただものではないと分かってはいたが、まさかここまで自力で。白金鎬は聡い人間だ。指令を受けた際に、あの方からそう言われたことを、大石は思い出していた。

「正義とは停滞だ。好転しない代わりに悪化もしない」

 記憶の中であの方が言ったことと、全く同じことをシノギが唱える。

 少年がハッと手を止めた。

「それ……」

「聞き覚えあるだろ? ナベリウス本部、お前の上官の口癖だ」

 尻ポケットから取り出したナイフを少年の首に当てがう。

「お前も、大石も、おっさんが寺仲を消すために差し向けた刺客なのさ。そして勿論、俺もな」

「ではなぜ、争わせるようなことを……」

 大石がスーツの埃を払う。

「立場によるものでしょうか」

「やあ、俺が邪魔なんだろ、単純に」

「さっき自分で、鎺を守るとか言ってなかったっけ」

 しれっと言うシノギを、少年が鼻で笑った。

「あとこれ、外してよ。おまえのナイフに切れ味ないのも有名だから」

「なんだ、どっか矛盾してるかあ?」

 少年の首からナイフを離し、シノギは目を丸くする。

 梁の下で大石が二人を見上げる。

「鎺を守るためと言っておきながら、こうして争わせるのは奇妙だと言いたいのでは」

「ああ、成程。けど、おかしなことはないぜ、何も。奴が守りたいのは鎺という存在であって俺らじゃない。俺がお前に殺されようが、鎺が続くならそれでいいのさ」

 シノギは少年に真っ直ぐ指を差した。

 少年が深く息を吐く。

「なら」

 彼は一気に間合いを詰め、指先の照準をシノギの眉間に合わせた。

「手加減しない」

 この距離なら一撃で仕留められる。本人の言質があれば、殺したとて少年の非は少ない。殺してもいいというお墨付きをシノギ自身がしたのだ。

「おまえを殺しちゃっても、おれ悪くないんだもんね!」

 咄嗟にシノギがナイフを構えたのを嘲る。

「切れないことが分かってるナイフなんか怖がるわけないじゃん!」

「そう、それが大事なんだ」

「は?」

 少年は彼の言葉を負け惜しみだと思った。やられたあとで、何か講釈を垂れるつもりなんだろうと。

 だがそれは違った。

 少年が弾丸を放つよりも先に、シノギのナイフが少年の胸に当たる。当然、斬れたような痛みはない。だがシノギの顔は、それが悪あがきだと思えるほど腑抜けた表情ではなかった。

「お前の芯、頂くぜ」

 シノギが腕を振り抜いた。

 大石には、シノギが少年の胸を斬り裂いたように見えた。しかし時が経っても、鮮血が噴き出したり彼の身体が真っ二つになったりといったことは起こらなかった。

 何が起こったのか、少年の動きは止まっていた。

「人体に傷をつけられないってのは」

 シノギはゆっくりとナイフをさげた。

「確かにその通り」

 唖然としている少年は、ただただ胸を押さえている。くるくるとナイフを手で弄びながら、シノギが大石を見下ろした。

「芯切りって知ってるか」

 大石が首を振る。

「和蝋燭でなあ、炎の揺らぎを美しく保つためにするんだ。炭化した芯が中にあると、火はでけえわ中は黒いわで、あんまし綺麗じゃねえだろ。じゃあどうするかっつうと芯を切りとって、火を落ち着かせんだ。俺の刃は、それと同じことをする」

「はあ……?」

 いまいち理解が及ばないといった様子の返事に、シノギはケラケラと笑った。

「それが、今の彼の状態と、どういった因果関係が?」

「切れ者は、感情が昂れば昂るほど宿す刃が強くなる。てことは、ナイフ病の発作を起こすきっかけの部分、心の芯を切れば、うまいこと能力を発現できなくなる」

 シノギが放心状態の少年を抱き上げて、梁から下りた。

「こいつの場合は、いい子でいようとする心、怒られたくないって気持ちが引き金になってた。だからそこを切り取った」

「つ、つまり貴公は、ナイフ病の症状を無効化できると?」

 大石は何度も何度も瞬きした。

「それは貴公が……ナイフ病の兵との戦闘において、無類の強さを誇るということでは」

「やあ、そうもいかねえ。制約があるし、トリガーが恐怖感情の患者の場合はあんま効かない。恐怖の炎は、形なんか整えてないで、鎮火する方が早いからな。それが得意なやつは他にいるし」

「は、はあ……」

 非罹患者である大石には十全には理解し得ない感覚であった。

「制約というのは?」

 大石が少年に目を向ける。シノギが芯を切った、と言ったのが正しいかのごとく、茫然自失、といった様子であった。

「マジックでよくあるだろ。ワン、ツー、スリーっての。あれは実際にことが起こるスリーよりも、前のワンとツーの段階を踏ませるのがミソなんだ。俺がやってるのはそれと一緒。切れないナイフだと知らしめる。本当に切れないナイフだと確認させる。この時点で芯を探す時、恐怖の線が消える。最後に、芯が分かったらそこを切る、これだけ」

 シノギが眉を上げた。

 彼の言葉が頭に反響する。

 これだけ、だと。もはや大石は、この白金鎬という男に畏敬の念すら抱いていた。対峙する相手の心の深くまで瞬時に入り込む、並外れた観察眼と洞察力が、彼にはあるということだ。

 簡単に言ってのけるが、そんなことは普通の人間には不可能だ。無傷のシノギと少年とを交互に見る。大石は、己が無意識に罹患者への軽蔑を行なっていたことを思い知った。

「んじゃ大石、あとはよろしく!」

 拳を握り締めた大石に向かってへらりと手を振って、シノギが駆け出す。礼拝堂を出て、クロガネたちの元へ向かうつもりのようだ。

 大石も続きたかったが、ナイフ病罹患者が牙を剥いて来た時の自分の無力さと、目の前で座り込む少年をこのままにしておけないという気持ちが彼を礼拝堂に留めおかせた。

「おれ、何されたの」

 少年がぽつりと呟く。

「せんせーとか、本部とか、上官とか、同僚とか。大好きだったのに。なくなっちゃった」

 胸の中を手探りするようにかきむしる少年の肩をそっと抱く。少年が涙をこぼした。

「殺されちゃったの、おれ」

「ある意味では」

 静かに大石が答える。

「またある意味では、生まれ変わったとも」

 少年はゆっくりと大石を見上げた。

 ステンドグラスから、色とりどりの光が差し込んだ。あの戦闘の中でも無傷だったようだ。

 月の光。雲が晴れたのだ。

 明るいと、大石の顔がよく見えてしまう。大石は、強面の顔をなるべく柔和にすることに全力を注いだ。

「立てますか」

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