ナベリウス



 寺仲にとって、それは輝かしい日であった。

 自身の未発表にして最大の生き恥である草稿を奪還することに成功したからだ。警察だか国家権力だかなんだか知らないが、人の過ちを掘じくり返すのはやめてもらいたいものだ。これで残るは、あの夜に逃げ出した初期検体たちに奪われたバインダーのみとなった。

 ライターの火を当てて、黒ずんでいくファイルを眺める。

「せんせー」

 暗闇から聞き慣れた声がした。燃えさしとなったファイルを何度か踏みつけてから、寺仲は歩きだす。

「なんだ」

「マアカが呼んでる」

 その名を聴くと、自然と彼の頬が緩む。少年は簡潔に要件を述べた。

「いつもの礼拝堂で待ってるってさ」

 そうか、と返事してから一寸おいて。人の気配が消え失せたのが寺仲にも分かった。彼は哀れみとも嘲りとも取れる息を漏らした。

「そのためだけにやって来るとは殊勝なことだ」

 研究所から借りた優秀な検体であることは承知の上だったが、彼の躾がされすぎていることに、寺仲は彼のことを少々気味悪く思っていた。

 放棄された研究所。

 あの日、初期検体が脱走したこの場所を、他の研究者達は不吉として寄りつきたがらない。寺仲には好都合であった。この規模の、それも当時の最先端の技術を集結させた研究所の存在を知っていながら、それをみすみす手放すことは、彼にはできなかった。

 廃墟を装い秘密裏に研究を行なっていれば、初期検体の連中も好き好んでここへ戻ってこようとは思うまい。寺仲の目論見は全てうまくいっていた。

 寺中は咳払いをした。

 往時から異質な存在感を放っていた礼拝堂は、古ぼけているように見えるが、一歩足を踏み入れれば、よく手入れのされた荘厳な造りをしている。

 彼の発した音に、振り返る者があった。修道女のような服装をした、美しい女性だ。彼女は恭しく寺仲に向かって頭を下げる。

「おめでとうございます」

「おや。何かめでたいことがあったかな」

「あったと……存じておりますが」

 彼女は祈るような仕草で胸に手を当てた。

「わたくしの力がお役に立ったのならば幸いです」

「ああ、草稿のことか。無論、君の力がなければ回収できなかったことだ。感謝している」

 女性は綺麗に微笑むと、再び頭を下げた。

 所作の隅々まで美しい。寺仲がしばし見とれているのを不思議に思ったのか、彼女はゆっくりと首を傾げた。

「あの……?」

「あ、ああ、いや、なんでもないよ、はは」

「左様ですか」

 咳払いをした寺仲は、彼女に向き直った。

「マアカ」

「はい」

 真っ直ぐと深紅の瞳に射抜かれる。

 寺仲が彼女と出逢った時から、寺仲の心は彼女に奪われてしまった。艶やかな紅の髪と、同じ色の瞳。慎ましやかで献身的な彼女と過ごすうち、老齢で未婚の彼には、彼女と共に過ごす時間が何よりも満ち足りているものとなっていた。

 続く言葉を探していると、寺仲の携帯が鳴った。

「お仕事ですね。それでは」

 一礼して、マアカが踵を返す。寺仲が来る前と同じように、神に祈りを捧げるのだろう。二人の時間は終わり、とばかりに。

 憎々しげに電話をとる。

「私だ」

「寺仲。私だ。夜分にすまない」

 声の主を察した寺仲はいっそう不機嫌になった。

「警視総監どのが何の用だ」

「何の用も何もないだろう。本日警察が受けた襲撃についてだ」

 電話の向こうの彼はほのかに怒気をはらんでいるようだった。

「なんだ、そのことか。お前の部下が私のことや初期検体のことを裏で調べ回っているせいで、私達に不利な状況が改善しないらしいというから、その気を削いでやる、と、事前に説明しただろう。あれ以上のことはない」

「草稿を渡すことは承知したが、部下達の命まで奪われるとは聞いていないぞ」

「私は草稿を回収してこいと命じただけだ」

 暗に人殺しと詰られたような気分になって、寺仲の語気が強まる。

「そもそも。素直に渡さないそちらの落ち度だろうが」

「警察があの資料を保持することを認めたのはそちらだろう」

「私を奴らと一緒にするな。あれらが貴様に許可したところで、私は認めない」

「だとしても、君にはこの件に関して一切の責任がを負う必要がある。勝手に計画を変更し、予定になかった殺戮を犯した。それが事実であり、君の罪であることにに変わりはない」

 寺仲は頭をがしがしとかいた。白髪が何本か抜け落ちる。

 耳を打つしわがれ声に嫌気が差した。

「やれるものならやってみろ。頭を一つ落としたところで、死に絶えはしないぞ!」

 怒りに任せて携帯を地面に叩きつけた寺仲は、肩で大きく息をした。画面が暗くなっているが、通話は繋がったままだった。

「……何か、勘違いをしているようだが。我々がかの悪魔の名を冠するのは、喩え一つが思い違っても、他二つで食い殺せるからだ。君が言ったような意味ではない、決してな。それに」

 彼の声が怒りから無感情なものへと変化していくのを、寺仲はただ聞いていた。

「自分がその頭に相当する、とは思わないことだ。思い上がりは寿命を早める」

 通話は切れた。寺仲が切ったのだ。

「貴様に何が分かる!」

 彼は顔を真っ赤にして怒りを露わにしていた。

「……あの?」

 寺仲の怒号に驚いた様子で、マアカが表に出てきた。

「どうか、なさいましたか」

 彼女は眉尻を下げ、不安げに寺仲に歩み寄った。地面で冷たくなった携帯電話をそっと拾い、寺仲に差し出す。

「わたくしには分かり得ぬことでしょうが……元気を、出してくださいね」

 寺仲は丁寧にそれを受け取り、彼女に向かって無理に笑顔をつくってみせた。

 携帯は問題なく点いた。通話終了画面に、己の皺が映っている。

 私にはマアカがいる。彼女を世話しているのが私である限り、彼らは私には手出しできまい。そう思って高を括っていたが、彼だけは違うようだ。

 携帯電話を握り締めた寺仲の視線がマアカに注がれた。

「マアカ」

「はい」

「力を……貸してほしい」

 彼女は目を伏せ、また頭を下げた。

「ご随意に。あなたに救いの手が、差し述べられますよう」

 寺仲の口角が吊り上がった。

 徹底的に抗戦してやる。寺仲は歳に似合わない野心を滾らせた。彼から差し向けられた攻撃を跳ね返せれば、彼らの中での私の評価も回復するはずだ。失われた威厳を取り戻すのだ。

 寺仲はマアカに向かって手を合わせた。

「感謝する。私の女神……いや、私の……」

 それ以上言うことは憚られた。

 似つかわしくない。この美しい女性に、獣の魔物の名前など。

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