バランサー



 アジトへ帰宅した一行は、気絶している男をシノギの部屋に拘束しておくことにした。というのも、外から施錠できる空間がそこだけだったからである。

 彼が目覚めるのを待つ間、クロガネはキッチンでパンを温めていた。一緒に温めるかタツキに訊いてみたが、お腹が空いていないからと断られてしまった。彼女の紙袋は今、カウンターの上に置かれている。

 クロガネの体はカウンターにもたれてかかっていた。オーブントースターを真剣に眺めている。彼女の眼差しには、暖炉の火やあるいは焚き火を眺めるのと同じであろう気持ちが見え隠れしていた。

 タツキがダイニングテーブルの上に、何やらポーチの中身を広げていた。

「やばい、信じられない」

 彼女はそんなようなことをしきりに繰り返している。

 シノギが部屋を出て、鍵をかけた音がした。彼は廊下からやって来ると、タツキの横に腰を落ち着ける。手のひらほどの大きさの鏡を一心不乱に覗き込む彼女は、刀工とも遜色ないような集中ぶりを見せていた。

「忙しそうね、タッちゃん」

「メイクは忙しいの」

「へえ」

「起きて拭き取りシートしただけでマジのすっぴんだったんだよ。それで一日中いたとかもう信じらんないっていうか、信じたくない。最悪」

 タツキは憤っていた。

「なんで気づかなかったんだろ。あーもう、こんな顔で人と会ってたなんて恥ずかしすぎる」

 まつ毛を挟んで上げるタツキの動きを、シノギが至極興味なさそうに目だけで追う。軽快な金属音を鳴らしたオーブントースターから、少し焦げた匂いがした。クロガネがいそいそとパンを取り出すのを見て、彼は腕を延ばしてテーブルの上のコスメ道具を一気にタツキの方に寄せたのだった。

「いいじゃん、可愛いんだから」

「はい出たー。そういう問題じゃないんですーう!」

 シノギに音を立てて移動させられたメイクグッズ達を、タツキが一つ一つ労わるように整える。

「たとえば」

 クロガネはテーブルの空いたスペースにこんがり焼かれたパンが乗った皿を置いてから、シノギの向かいに座った。

「冷めている方が美味しいと評判のパンだろうと、温めてから食べたい。私はな」

 彼女が口にパンを詰める。傾けたマグからは紅茶の香りがふわりと流れた。クロガネはタツキの方を向いた。

「それと同義。違う?」

「さっすがクロガネ!」

 指をパチンと鳴らしたあと、タツキは気まずそうに目を伏せた。

「……さん」

「ふうん、そういうもん?」

 シノギは顎に手をやった。

 パンで頬を膨らませたクロガネが、そういうもん、と頷いてみせる。

「タツキさんのすっぴんが可愛いなら、化粧したらもっと可愛くなるんだから、していたいに決まってる」

「そうそう、そうなんだよ。マジそれ。分かってるー」

 クロガネは無気力にこちらを指差す彼女に苦笑した。何かのスイッチがが入ってしまったのか、タツキの舌の回りが加速していく。

「男ってよく、すっぴんのがいい、とかすっぴんの方が好み、とか言うけど、それって絶対、可愛い子がやるすっぴん風メイクに騙されてるだけだよね。ガチのすっぴんなんてできれば誰にも見られないままで墓に入りたいし。そもそも自分の狙ってる男ほどガチすっぴんなんて見せたくないんだから、女は」

 タツキが唇にリップを引く。

「女子にもメイクこだわるイコール好感度上げようとしてるとか言う子いるけど、ある方が得するものを儲けようとしてることのどこに批判要素が生まれるのか全然意味わかんないし。誰が相手だろうと、人前に出す自分を、自分の納得できる形で見せたいって、考えれば分かる普通のことじゃない? 全裸より服着よーってなるのと一緒なんだけど、感覚的に」

 鏡を閉じた。

「ただでさえ、ハンデあるんだしさ」

 皮肉るような口ぶりのタツキから、クロガネは目を逸らす。

「うん、タツキさんは可愛い。学校でも有名」

「へえ」

「そうなの!?」

 初耳だったらしく、タツキは立ち上がる勢いで両手をテーブルに叩きつけた。

「ああ。タツキさんが言ったような妬み嫉みは、女子学生からよく聞こえてくる話題だ」

「あの人と仲良いのムカつく、ちょっと顔がいいからって調子乗らないでほしー、みたいな?」

「そんな感じ」

 割り込むようにシノギが両拳を顎の下に寄せてぶりっこの真似をすると、クロガネは静かに拍手した。

「シノギ、上手。男子学生もよくタツキさんの話をしている」

 初めこそ舞い上がったタツキだったが、クロガネの話を聞くうち、それらを鼻で笑うようになった。

 しまいには大きなため息をテーブルに撒き散らす。

「私は学生生活送ってるだけですし。恋愛しに学校通ってないんでー。自分の好きな男を振り向かせられないの人のせいにしてる時点でそいつら恋愛弱いし。いつまでも私のせいにしてチャンスをチャンスとも気づかずに棒に振り続けてればいいよ。男だって、小さくて弱そうだから守ってあげたーいなんて庇護欲を押しつけたいだけの勘違い野郎共でしょ。そんなもん持て余してるなら、ボランティアでもやればー?」

「キレッキレだな」

 彼らの会話は、はたから聞いていれば実に若者らしい話題で、状況から考えれば全くもって場違いなものだった。

 けれど、誰もこの話を終わらせようとはしない。クロガネはパンを嚥下しながら、三つ目に手を伸ばす。

「タツキさんは可愛いから、好意を向けられた経験が多いんだろう。ポケットティッシュみたいに」

「ポケティ?」

 尻ポケットからくちゃくちゃのものをシノギが出してみせる。

「これぇ?」

「そう。それを差し出す側は、受け取ってくれるなら誰でもいい。受け取る側は必要ならもらうし、いらなければ無視する。それで言えばタツキさんは、いらない奴からいらないポケットティシュを無理やり持たされたことがありそうだから」

「まあ、好きでもなんでもない奴からの好意ほど、置き場に困るものってないものなあ」

 シノギはティッシュを包んでいたしわくちゃのビニールを暇つぶしに伸ばした。同情にも似た同意は、彼自身の経験からくるものなのだろう。

 タツキは再びため息をついた。

「で、捨てるでしょ、結局」

 ポーチの蓋を閉め、テーブルの隅に寄せた。鏡はポーチの傍に置いておく。

「ポケットティッシュはタダだからまだいいけどさ。恋愛感情は頼んでないのに売りつけられんだよ、勝手に諸々上乗せされて、アホみたいな超高額で」

「成程。恋愛のぼったくり」

「わお、パワーワード」

「俺にしときなよって言ってくる恋愛転売ヤーもいるしね」

「はは!」

 クロガネの洒落に乗っかったタツキを、シノギがケラケラ笑った。

「語彙選びのセンスが光るなあ」

「私がナイフ病だと知ったら、血相変えて逃げるくせにね」

 彼女は自分の左手首をさすった。

「笑える」

「……そういえば」

 紅茶を飲んでいたクロガネが、そこで気がついたようにタツキを見た。

「怪我の具合はどうだ。変えたか、包帯」

「うん、大丈夫。家の救急箱にあったから、それ使った」

「へえ?」

 シノギが口を挟んだのは、違和感を覚えたからだった。

 タグが埋まっていたおかげで骨にこそ届かなかったものの、あの傷は浅いというには痛々しいものった。あの夜、ペンを持つのにすら涙を流していたのだから。

 しかしその左手首を、彼女は今日全く気にしていなかった。出歩いて、支えにしたり持ったりの動作は勿論のこと、レースゲームでハンドルを握り、走るのに腕を振り、バドミントンでは思いきりスナップを利かせていた。

 にも関わらず、気にするそぶりも見せなかった。一度たりとも。今も痛みはないのか、彼女の表情はけろりとしていた。

「タッちゃんさあ、前に俺が言った、重度の症状を持つ患者の特徴覚えてる?」

「急になに」

 タツキが顔を顰める。

「私、抜き打ちとか嫌いなんだけど」

「いいから、答えて。なんかに書いてたろ」

「あ、見ていいの? じゃあ、えーっと……待ってよ」

 彼女が鞄からノートを取り出すのを、シノギは微動だにせず見つめた。

 タツキに埋め込まれたタグを発見した時から、シノギの頭を悩ませていた謎がある。それを、彼は紐解こうとしていた。

「あった…重症と判断されるには、血中の金属物質の割合だけでなく、精錬された金属の体外での発現が認められることが必須」

「うん、正解。じゃあ、平時に重度の患者と軽度の患者を見分ける方法は?」

「えそれ子供達の話の時に言ったんだけど……露出しづらい、身体の中心辺りにタグを埋め込まれてるのが軽症患者。逆に先端の方に埋め込まれてるのが重症患者」

「ご名答。俺は首に埋められてるし、キサキは手の甲に埋められてる」

「ああ、それ」

 クロガネが背もたれから体を起こす。

「私も引っかかってたんだ」

「あら、気づいてた?」

「だからあの時訊いたんだ。このタグがナイフ病罹患者以外に用いられることはないよな、と。タグが手首にあるなら重度の症状を持つはずなのに、それについて知らないようだったから」

「ああ、そういう意味だったのね。吐いてて頭回ってなかったわ、ごめんな」

 シノギはタツキの手首を指差した。

「キサキの言ったように、俺らが気になってたことってのは、タッちゃんのタグが埋め込まれてる位置」

「これ?」

「正式にナイフ病と判断できない、いわゆる軽度の兆候しか見られない人間のタグがこの場所に埋められるのは、かなりおかしい」

「うん」

 クロガネも一緒になって頷く。

 タツキは手首をまじまじと見た。二人の怪しみようが、彼女には大袈裟に思えた。

「都会ならそうかもしれないけど、そんなの追いついてない田舎だったからね。見世物にするためでしょ。私が故郷出るまで、罹患者も私だけだったし」

「それが変なんだよなあ。病の危険性を訴えて村八分にするのが目的なら、言いふらした方が早いだろうに。わざわざ見えやすいとこにタグを埋めるだけに留めた」

 彼女は左腕をテーブルに乗せた。

「そう言われれば、そうかも」

「傷はまだ痛むか」

「全然」

 クロガネの問いにタツキは首を振った。

「なんならもう、治ってるかも」

 そう言って包帯を巻き取り始めた彼女を見て、クロガネはシノギに視線を送る。彼は何も言わず頷いた。あの時の裂傷の程度から見て、そんなすぐに塞がる怪我ではないことは分かっていた。だが、それにしてはタツキがものともしていないのも事実である。

 二人は彼女を制止せずに見守った。タツキは包帯を取り去ってから、綺麗に傷の閉じた手首を見て、安堵の表情を浮かべた。

「ほら。昔っから治りが早くてさ」

 クロガネの目つきが厳しくなった。

「田舎育ちの新陳代謝ってやつ」

「それは……ナイフ病と診断される前から?」

「そう、子供の時から」

 シノギは彼女の傷口をじっと見た。

 正確には、傷口だったであろう箇所を、だ。傷痕として残ってしまってもおかしくない怪我だったはずが、何事もなかったかのような綺麗な皮膚だ。切り傷らしい何かの跡形もない。

 彼女の自然治癒力は人体の持つそれを超えていると言わざるを得ないものだった。

 黙り込む二人の視線が注がれていることに気がついて、タツキはおずおずと左前腕を胸に抱える。

「な、なに。もしかして、私が重症患者だって言いたいの?」

「大正解」

 まさか。声にならない否定を述べて、タツキは頭を左右に振った。彼女が驚愕の表情でシノギを見ると、口を開いたのはクロガネだった。

「タツキさんに、話しておくべき奴がいる。一人」

「あと、もう一人もな」

「……そろそろ、意識が戻る頃合いかもな」

「よっこいしょ」

 シノギの視線が廊下へ移動したのを見たクロガネは席を立つ。

「行こう、タッちゃん」

 促されたタツキは、懐疑の目で手首を見つめたまま、椅子を引いた。テーブルに置かれたノートは開きっぱなしだった。

 クロガネが扉の前で待っている。胸ポケットから鍵を選り出したシノギは、慣れた動作で扉を開けた。

「よう、起きてるか」

 男は部屋に入って数歩のところで正座をした状態で後ろ手を縛られていた。シノギのかけた声に顔を上げる。

「ごめんなあ、要らない一撃を入れちまって」

「てっきり襲われていると思って」

 シノギの背後からクロガネが現れると、男は俯いた。

「悪いが私は謝らないぞ」

「鉄鋒。貴公でしたか」

「知ってるのか」

「やあ、こいつは多分、鎺の連中を全員知ってる」

 そう言ってシノギは彼の拘束を解いた。加えて、彼からとりあげたスタンガンも返却してやる。

 男は意外そうな声をあげた。

「よろしいのですか、自由にしてしまって」

「もう噛みつく気はねえだろ」

 クロガネが照明を点けた。彼女のあとに続いて、タツキも部屋に踏み入れる。そして目を疑った。その部屋は、人が住んでいる空間と呼ぶにはだいぶ、いや、かなり雰囲気が異なっていた。

 唯一の家具といえる左右のセラーには、びっしりとワインボトルが詰まっていた。ドアのそばに置かれた観葉植物は埃をかぶってしまっている。他に家具といえるような家具はなく、床にはナイフやらトランプやら観光ガイドやらが散乱し、隅には山のように本が積み上がっていて、どこで寝るんだと言いたくなるくらいに足の踏み場がない。

 タツキはルービックキューブを蹴り飛ばしてしまい、つま先を押さえた。

 入って右側の壁には、サーフボードとビーチの描かれたパネルがかけられ、ほったらかしの観葉植物と併せてこの部屋が元はアメリカ西海岸風のテイストだったのだという名残りを見せていた。だがその壁にも、ダーツ盤、人のシルエットをした射撃の的、何に使うかわからない金属部品といった邪魔者が幅を利かせ、物置き部屋という印象に拍車をかけている。

 最も異様なのはその対角にある青い壁だ。タツキは眉を顰めた。

 巨大なスクリーンと見紛うほどの大きな地図と、その上から意図を持ってその位置に貼られたと分かる何者かの顔写真、加えて膨大な量の文字が書き込まれている。

 何かの相関図だろうか。あんなもの、創作の中だけにある舞台装置だと思っていた。

 タツキはもう一度、ぐるりと部屋を見渡した。

 ここを一言で表すとすれば。

「なんか…ぐちゃぐちゃだね」

「片付ける気がないからな」

 タツキが天井でゆっくりと回転するシーリングファンを見上げながら素直に述べる。肩をすくませ、クロガネは鼻から息を抜いた。

「センスはあるんだが」

 言ったそばから彼女が足下で何かを蹴りとばすも、クロガネはそれを意にも介さない。彼女にとっては慣れっこなのか、はたまた諦めているのか。

「というかこれが正位置なんだ、シノギにとって」

 クロガネはすたすたと正面の窓際まで歩いていき、セラーをくぐり抜けて、広縁のようになっているそこに胡座をかいて座った。そこがお決まりの場所のようだった。

 タツキはどこかに座れる所はないかと部屋をうろついた。

「そちら。拝見しましたよ、白金鎬」

 男が青い壁を顎で指す。

「素晴らしい洞察力をお持ちだ」

「どうも」

 縄は解かれているのに、男は正座を崩そうとしなかった。この空間に一ミリでも自分を接地させたくなさそうだった。

「私が何者なのかも、とっくにお気づきのようでしたね」

「おっさんの私兵だろ」

 シノギは本の山に腰かけた。何冊かが床に滑り落ちる。

 男は不快そうに片眉を上げた。

「不敬ですよ」

「先に無礼を働いたのはそっちだけどなあ」

「その件につきましては平に謝ります。しかし、あの方の名誉のために申し上げておきますが、あれは私が独断で行なったもの。あの方の命令ではございません」

「そりゃそうだ」

 どうでもよさげな様子でシノギは腕を頭の後ろに回した。

「言いたいことはそれだけかあ?」

「終わったなら、こちらの話をさせてもらう」

 彼があくびでもしそうだったのを、クロガネが引き取る。

「タツキさん」

「はいっ?」

 突然呼ばれたタツキは声が裏返った。彼女はちょうど、セラー用の梯子にのぼって腰かけたところだった。

「あんたに言った、一人伝えておくべき奴のことだが」

 男が首を回し、タツキを確認した。びたりと視線が彼女で止まり、居心地悪そうにタツキが目を逸らす。

「庵たつき」

「……」

 久々に苗字を言われた彼女の胸が焦げつく。

「名を入れるなら性は抜きで呼んでください。性で呼ぶなら名はつけないで」

 彼女が強く出たのに意表を突かれたのか、男はおや、と腕を組んだ。シノギはビーチチェアでくつろぐような体勢のまま、うんうんと頭を何度も縦に振った。

 あくびは止まらないらしい。

「知ってるよな、そうだよなあ。百の犠牲が出た中で、百一にならなかった謎の少女、だもんなあ」

「警察が絡んできたのはそういう理由か。何かあると踏んだんだな」

「ええ。しかし一日追っていた様子だと、あの方の予想に反して、彼女は本当にただ巻き込まれただけのようですね」

「そうとも。そう思ってもらうために尾けさせたんだ」

 男がシノギを睨めつけた。 

 クロガネはさほど気にしていないようで、平然とタツキを見上げた。

「話を戻すぞ」

 タツキが頷く。

「あの夜、あんたが気を失ってる間。このアジトにはいたんだ、もう一人」

「あ?」

 シノギが飛び起きた。

「聞いてねえぞ」

「言ってないからな。その時いたそいつは、刃を編むという症状を抱えてる」

「編む?」

 タツキは青ざめ、手首を握った。

「縫ったの?」

 そこまで深い傷ではなかったはずだ。それに、起きてすぐ感じた激痛の中には、皮膚が引っ張られたり、引き攣ったりしているような感覚はなかった。だから縫合されている可能性など、これっぽっちも考えていなかった。

 愕然とする彼女に、クロガネがいや、と手をあげた。

「少し違う……ふむ」

 クロガネはどう表現するべきか言いあぐねていた。

「そいつはそいつが触れた、別の何かの組成を変えるんだ」

「はあ?」

 タツキの理解の範疇を超えている。

 クロガネも彼女と同じ方向に首を傾げた。

「うーん、分かった。あんたに何が起きたか説明しよう。そいつがあんたの傷口に触れる。すると傷口部分の組成が変わる。そいつは、あんたの傷口と皮膚を目に見えないくらい細かな網目状に編み直す。体組織から金属物質を紡いでかさぶたをつくるイメージだ」

「……荒れた唇に薬用リップ塗るみたいな感じ?」

「そんな感じ。そいつが止血の処置をして、傷口を塞いでる時に、言っていた。少なくとも一ヶ月くらい傷は残る、軽症の患者が金属物質のかさぶたを体組織に吸収しきるにはそれくらいかかる、と」

「だけど」

 シノギがタツキの手首を指した。

「タッちゃんの傷は綺麗さっぱりなくなってる」

「ああ。加えてタグの位置の話と傷の治りが早いと聞いたのとで、余計に」

「余計に?」

 クロガネは言葉を切った。

「何?」

 タツキが急かす。

 予想はついていた。

「余計に、あんたは重度のナイフ病罹患者である線が濃厚」

 クロガネの意見を、奥歯で噛み締める。

 重症。

 となれば、完治までの道のりが遠のいたことになる。それも、絶対に治してやると意気込んでいたナイフ病の症状が、自分の身体を治すものだとは。なんの因果か知らないが、世界は私が嫌いなのだろうか。

 タツキは左手首をぎりぎりと握り締めた。

「うん、俺もおんなじ考え」

 賛同したのはシノギだ。

「現場で応急の止血をした時、タッちゃん、血が固まるのが早かったんだよな。人よりちょっとなんてもんじゃなく、異常な速度だった。あれはそういう症状ってことだろう」

「受けた傷がすぐに塞がる……つまり、超自然治癒力?」

 男までもが驚きを露わにしてタツキを見る。

「もしや貴公、警視庁襲撃の際、無傷であの場を去ったわけではないのでは」

「っ!」

 タツキの目が大きく見開かれた。

 シノギとクロガネが同時に男を咎める。

「おい!」

 男が身体を跳ねさせた。

「踏み込みすぎだぜ」

「無理に思い出させるな。辛い記憶は閉じ込めておく。脳の正常な反応」

 シノギはタツキを見た。

 彼女の体が小刻みに震えだす。

「……遅かったみたい、まじぃぞ」

 駆け寄ったシノギに、タツキは縋るようなそぶりを見せた。

「タッちゃん、平気?」

「……私」

 記憶がフラッシュバックする。

 そうだ。

「持ってたやつ以外は、どーでもいいってことね」

 少年はフロア内に鉛玉を乱射した。

 思い出した。

 あのけたたましい轟音のさなか。

「ねえ」

 タツキの体に衝撃が走った。何かに貫かれたような衝撃。

「死なないでよね。命令違反になっちゃうから」

 そう言った少年が、指先をタツキに向けたまま、歪んだ笑みを見せたのを。

 それは、クロガネが突入する、直前の出来事だった。

 腹部を押さえてぶるぶる震える。

「タッちゃん。朝お腹さすってたの。腹減ってたんじゃなくて、ほんとに風穴開けられてたのね」

 シノギが思案を巡らせるように目を細める。

 震えの止まらないタツキを見てか、男が動揺を見せた。

「も、申し訳ない。軽率だった」

「反省しろ」

 クロガネが広縁から出てくる。彼女は自分の背丈をゆうに超える大男に対して、微塵も臆さず鋭い視線を送った。

「お前、名前は?」

「大石と」

「オオイシ。なぜシノギが事件の話題を出さなかったと思う」

 クロガネは男の顔に指を突きつけた。

「いいか、彼女は鎺じゃない。一般人。ただの罹患者。被害者だ」

「キサキ」

 怒りのあまり彼女が刀を生み出しはしないかと、シノギは若干、心配になった。

 肩に置かれたシノギの手を握り返して、タツキがふらりと立ち上がる。

「……私、分かった。CASE:712の居場所」

「は…?」

 突然宣言したタツキの顔には血色がなく、支えてやらねば今にも頽れそうだった。

 しかしその瞳には、変わらず強い光が宿っていた。

「あのファイルを見せてほしい、もう一回」

「……どうする」

 クロガネは反対だと言わんばかりにシノギを見る。見て、そして、シノギの口の端が吊り上がっているのを見て、何かを堪えるように視線をずらす。

 壁一面の相関図。

 この青い壁は、シノギの執念だ。

 CASE:712の情報、各研究施設の分布または位置予想、実験の指導的立場にある研究者の関係。いわばこれは、彼が四年かけて穴を埋めてきた宝の地図なのだ。

 タツキに治りたくないのかと問われた時の、シノギのあの顔ときたら。治せるもんなら治してほしい。彼が口にするからこそ、その響きは誰よりも重い。届かなかった宝の在処が分かったのなら、それは喜ばしいことだ。

 だが、これ以上タツキを巻き込むのは。

 彼女は十分すぎるくらいに失った。シノギが今日、この町の罹患者とタツキを引き合わせたと言っていたのも、罹患者として、いや罹患者でも平穏に過ごせるようにしてやりたかったからだろう。

「大丈夫。守ってくれるもんね」

 タツキが弱々しい声で、強気に放った。

「クロガネ。さん」

 名を呼ばれた彼女はハッとタツキを見た。鎺の預かり知らぬところで問題を起こしても、助けてやれないから。だから協力しようと提案した。元はといえば、クロガネがそう提案したのだ。

「任せろ」

 気づけばクロガネはそう口走っていた。

 タツキは十分すぎるくらいに苦しんだ。それでもまだ、つま先は前を向いている。信じていなかったのは自分の方だと、クロガネは心の中で謝罪した。

「一人が二人になるだけだ」

 クロガネが部屋を出ていこうとし、ドアを閉めかけたところで、何を思ったかもう一度素早く開けた。

「オオイシ」

「何か」

「今からシノギがナイフ吐くと思うけど、気にしないで」

「はい?」

 聞き返した大石には答えない。

 パタンとドアが閉まる。彼女がリビングで本棚に向かっていると、大石の絶叫がアジトに響き。

「確かに」

 クロガネは肩を揺らした。

「警視総監どのの犬にしちゃ活きがいい」

 窓の外を見やり、彼のしわがれ声を追憶する。

「あんたも思ってるんだな。決着がつくと」

 ナイフ病の起源。答えによっては、築いてきた社会の根幹が揺らぎかねない。

 クロガネはファイルを胸に抱えた。幕切れは近い。

 ダイニングがにわかに騒がしくなる。シノギがふらふらと水を飲みに、その後ろから大石がタツキを支えながらテーブルまでやってくると、甲斐甲斐しく彼女を座らせる。タツキは先ほどと同じ位置に座った。

 彼女は、開かれたノートに視線を落とす。

「持ってきたぞ」

 クロガネが、彼女のノートに重ねるようにファイルを置いた。

 コップ一杯の水を飲み干したシノギは揚々とテーブルに両手をつく。

「さあ、それで。タッちゃんの意見を聞かせてもらおうか」

 タツキは彼の視線に応えず、ノートの上でファイルを開いて、ペラペラと捲り読みをした。

「それは」

「それは」

「これから見つける」

「……は?」

 シノギが心底間の抜けた声を出した。

 大石もシノギまでとはいかないが、顔を歪めて眉間を寄せた。

「先ほど、貴公自身が、居場所が分かったと言ったのだが」

「そうでも言わなきゃ見せてくれないでしょ」

 彼女は飄々と言ってのける。

「前にも言った。戦う術はあるって。私の武器はこの口なの」

「はは!」

 笑いだしたのはクロガネだ。

「いいな、本当。世が世ならあんたきっと、有史屈指のファム・ファタルだぞ」

「治療法を見つけるためならなんだってする。今までそれは私の美徳だったけど、今はそれが私の覚悟」

 タツキはツンと鼻先をそっぽに向かせ、また紙面に向き直る。

 大石は内心舌を巻いていた。事件の顛末を聞いた際には、クロガネのごとく大石も、可哀想に、ひ弱な一般市民の被害者よと嘆いたものだ。

 しかし実際の彼女はどうだ。自分の病を治したいという一心で、危ない橋を渡ってみせる。自分を指すわけではないが、ただ図体がでかいだけの人間なんぞよりも、よっぽど芯が通っている、と彼はタツキの評価を改めた。

 大石がシノギを盗み見た。彼はまだ開いた口が塞がらないようだった。当然だ。吐くほど期待していたのだ。それをハッタリだったとすかされれば、気が抜けてしまうのも無理はない。

「あでも。安心して、闇雲でもヤケクソでもないから。手がかりがなんにもないわけじゃない」

 タツキは手書きの草稿がシノギの視界に映るようにテーブル上を滑らせる。

「草稿のインクからは、金属成分が検出されたと刑事さんが教えてくれた。それを地上に移動した途端、あの少年に襲撃された。つまり黒幕の中には、インクを索敵として使える持ち主がいるはず」

「インクの持ち主」

 クロガネが思案しながら文字をなぞった。

「……そいつの血液だと?」

「地下の資料庫から持ち出したことで、その者の索敵範囲内に入ったということか。ファイル奪還のために、急襲を仕掛けたわけだな」

「や。それは、違う」

 ようやく己を取り戻したらしいシノギが、大石の意見に異を唱えた。

「あれは黒幕とおっさんの示し合わせた筋書きだ」

「なんだと」

「まあ最後まで聞けよ」

 肩を怒らせた大石はなおも不満そうだったが、口を噤んだ。

 シノギは何か言いたげにタツキを見てから、視線を外す。それから彼女を指差した。

「タッちゃんの推理は、おっさんの思うつぼ。警察側が迂闊だったと見せることで、民間人のナイフ病罹患者への脅威を知らしめ、恐怖をより増大させるためだ」

「なんでそんなことするの?」

「そうすりゃあ、世間のナイフ病罹患者への目はより厳しくなるだろう」

「だから、なんでそんなことする必要があるの?」

「それが警察の勝ち筋だからだ」

 彼はそれ以上言わなかった。

「どっちの先導かは分からねえが、あの一帯の記録媒体を凍結させるにはそれなりに時間がいる。あの襲撃は計画されたものだ。それだけは間違いない」

 なぜそこまで自信を持って言いきれるのか、タツキは分からず視線を落とした。

 しかし彼の言うことにも一理ある。短時間で使用されている全ての機器を無力化できるとは思えない。少年は一般入庁者の名札を提げていた。ただ奪って逃げるだけなら、装う手間など省くはずだ。

「それで、名探偵。お次の推理は?」

 試すような笑みを浮かべてシノギがタツキを見つめる。タツキにもう手札がないことを理解した上での挑発だ。彼の向けるにやつき顔には、仕返し、と書いてあった。

 タツキは口を尖らせた。

「ちょっと糖分補給!」

 彼をわざと押し退けて、カウンターに手を延べる。

 朝にもらったパンはすっかり冷えていた。

「温めるか」

「ううん、大丈夫。このまま食べる」

 彼女が紙袋を漁るのを横目に、クロガネはファイルを見た。そしてふと、その下のノートの一部分に首を傾げる。

「なんだこれ。暗号?」

「先生のデタラメだよ」

 星型のパンをかじり、タツキはため息をついた。

「意味ありそうと思ったけど、マジ全然ない」

 シノギが振り返る。

「先生ってのは、例の事務員?」

「うん、竹内先生」

「竹内?」

 大石が顔を上げる。

「もしやその人物、竹内雪洋という名では」

「えっ、なんで知ってんの、大石さん」

 予想外の方面から的中させてみせた彼に、三人の視線が集まった。

「調書で見た名です。大学講師による女子学生斬りつけ事件。貴公らも勿論知っていると思うが」

「なんでそれに先生の名前が出てくんの」

「容疑者の供述にありました。その男が、竹内雪洋に唆されてナイフ病を偽装していたらしいと」

「じゃあやっぱ、俺の推察は当たってたわけね」

 シノギが頷いた。

 タツキの表情に翳りを見たクロガネは、気遣わしげに彼女に寄り添う。タツキは慌てて笑顔を作った。

「私は大丈夫。最後の最後で先生、自分が悪い人だって教えてくれたから」

「自供したのですか」

 大石が一歩前に出た。

「現在、警視庁襲撃の被害によって、そちらの事件の捜査も滞っている状況です。もし彼が罪を認めたのなら……」

「あ、いやいや! 罪を認めたっていうか、学校だったし、一分も話せてないし。けどその時、鏡を渡されて。私が見ていた彼は虚像だってことを、伝えてくれたのかなって」

「へええ。さすが、センスあるな」

「ロマンチストなの。それで、なんだかんだ面倒見いいんだ、お人よしでさ」

 シノギが面白そうに腕を組むのに合わせ、タツキは俯いた。

 ゆっくりと二回。瞬きをしたクロガネが呟く。

「鏡……ふむ」

「あ、見る? これ。この鏡」

 そう言ってタツキがポーチの脇の鏡を渡す。彼女の化粧中に使っていたものだ。特になんの変哲もない、スタンド式の鏡。じっとそれを見つめながら、クロガネが呟いた。

「…………その人が、あんたにレポートの一ページ目を預けたんだよな。妙な話だ」

「あれ、そういやそうだったよなあ」

 意表を突かれたようにシノギが返事をし、ファイルに目を戻す。

「今までどこを探しても出てこなかった一ページをポンと出せるなら、黒幕側の人間だろお?」

 彼に問われたタツキはパンを食べる手を止めた。

「私にはそのページしかあげられないって言ってたから、そうだと思う……でも、そういえば、そのページいらないって言ってた。あの男の子」

「刺客が?」

 クロガネが聞き返す。

「そう。だから、捨ておいていい情報しか載ってないページなんじゃない?」

「このページしか渡せない……他に、何か言ってなかったか」

 クロガネは深く考え込んでいる様子だった。

 タツキが頭に手を当てる。

「うーん。ナイフ病と関係あるんじゃないかって言ってたのと」

「おおう、白々しいな」

「全くだ」

 シノギが大石と顔を見合わせる。

「あとは……前に言った、ナナ、イチ、ニでナイフ病って読めるから、それが名前の由来なんじゃないか、みたいな話しかしてない」

 くだらない語呂合わせをしてウキウキしていた彼を思い出して、タツキはやはり彼を憎めないと苦く笑うのだった。

「分からないな」

「そうね。なんでそんな嘘言ったのか」

「単純に考えれば、真実を話せないというだけなのでは」

「大石さんに賛成。私を煙に巻くためだと思ってたけど」

「そうじゃない」

 クロガネがかぶりを振った。

「タツキさんはただの学生。警察でも鎺でもない。探られたくないなら、巻き込みたくないのなら、渡さなければいいだけだ、こんなもの」

 パンを両手で持ったまま、タツキがレポートに目を落とす。

「……私に、何か伝えたいことがあった?」

「そう考えるのが妥当だ」

「立場の関係上、直接話してしまうわけにもいかねえから、ヒントだけ与えて高飛びしたってことかあ?」

「ふむ」

 クロガネの目が、手の中の鏡と、ファイルの一ページ目、開かれたままのノートを順繰りに追った。そしてクロガネは、おもむろに鏡をノートの上に立てた。

「デタラメじゃない」

 タツキを真っ直ぐに見てクロガネは言った。

 彼の残した暗号はこうだ。


 ≠“1111

 POdP

  OId


 クロガネ以外の三人が鏡を覗き込む。初めに声をあげたのはシノギだ。

「もしかして最初のこれ、ハバキ、か?」

 彼の驚いた声に、クロガネは頷く。

「彼が大学講師の事件を画策したのは、鎺を誘き寄せるためかもしれない」

「なぜです。彼が研究者なら、天敵でしょうに」

「あんたと鎺を引き合わせるためだ」

「私?」

 タツキが鏡と睨めっこする。

「じゃ、じゃあ次のは…q b O q……いや、ごめん全然意味わかんないんだけど」

「デジタル表記の数字として見るのでは?」

「だとしてもなんだよ、9609って」

 クロガネがレポートを指す。

「そこで語呂合わせだ。712をナイフと読む例があるならば、9609はク、ロ、マ、ク」

「黒幕」

 大石が弾かれたように上体を起こした。

「とすれば次に示されているのが、黒幕に繋がる暗号」

「タッちゃんが鎺という組織と関わり、黒幕へ導かれるように?」

 半分馬鹿にするように、シノギは首を回した。

「随分と希望的観測に頼ってんな」

「いや。恐らくこれは彼の自己満足だ。タツキさんから離れる前に、自分は彼女にできるだけのことはしたと踏ん切りをつけるための。本当にこの通りになるとは彼も思ってないだろう。真実は小説より奇なり」

 クロガネはタツキを見た。

「彼が誠実で助かった」

 彼女の言葉に、タツキは口角を上げる。

「最後のOIdは610だね。ム、ムイマ?」

「なんです、それ」

「分かんない」

 大石は呆れ顔で、タツキからノートへと注意を戻す。彼の太い指が暗号をなぞった。

「最後の記号はなんでしょう」

 それはdの次に書かれた記号で、点が五つ打たれているものだった。

 タツキがパンを咀嚼しながら答える。

「あ、そういえばここで取っちゃったんだよね、ノート。先生もなんか書いてる途中みたいだったし、まだ続きがあったのかな?」

「素直に点を結べば五角形ができますが、これはどう写してもシンメトリですからね」

 大石は腰をストレッチさせた。屈んだせいで体が凝り固まってしまったらしい。

「ううむ。書いてる途中だったってんなら、これより更に長いことを綴りたかった可能性もある。そうなるとこの先を知るのはむつかしいな」

 シノギも体をテーブルから離した。

 タツキだけは、未だ鏡を覗き込んでいる。むしゃむしゃとパンを頬張りながら。

 大石が彼に言った。

「貴公ならばあの相関図からでも何か割り出せるのでは」

「お前も見たろ。俺の今はあれで限界。その先に行くには新しい情報がないと」

「それを推察してみてはいかがと」

「何ようるさいね。ああ、分かった、とっとと終わらせてさっさと帰りたいんだろ」

「邪推はよしてください。私がここへ伺ったのは、警視庁襲撃事件について庵さんに話を聴くためです」

「それなのに喧嘩売ってきたの?」

「得策とは言えないな」

 クロガネも彼に賛同する。

 大石は口を開いたが、視線を泳がせてからそれを閉じたものだから、シノギは再び嘲るような顔をした。

「言うに言えないだろ」

「……私が何を言おうとしたか、貴公に分かるとでも?」

「分かるさ。俺は白金鎬だもの」

 彼は大石との距離を詰める。

「お前は報告役。手を下すのは鎺に任せる。そのために俺らを黒幕とかち合わせようとする。おっさんの考えそうなことだ。あの夜に研究者共を壊滅に追いやることだって可能だったのに、それをしなかった。これまで四年もの歳月、自ら膠着状態を保ち続けた。世間に対するナイフ病への不安が肥大化するのを待って」

「あの夜?」

 右から左へと聞き流していたタツキが反応した。視線は鏡の中に注がれている。ともすれば、化粧をしていた時よりも集中している様子だった。

 クロガネは彼女の隣に座った。

「初期検体が研究所から脱走して、鎺を結成した夜」

 タツキは顔を顰めた。

「なに、初期検体って」

「ナイフ病の発見から一年の間に確認された重度の症状を持つ患者。シノギや私のような」

「じゃあ、CASE:712も?」

「さあな。私達は行動を制限されていたし。あそこはもう放棄されてるから確認のしようがない。それに」

 そこにCASE:712もいたと考えるのが定石なのではないかとタツキは思ったのだが、クロガネがそれを否定した。

「鎺がCASE:712について知ったのは、脱走したあと」

「その研究所はどこにあったの?」

 シノギは水をコップに注いだ。

「東京二十三区外ってことしか」

「自然がいっぱいの方ね」

「ざっくり言えばな」

 彼の部屋にあった相関図のマップも、東京の左側に写真が集中していたことを思い出す。上京してから学校と家を往復するだけの生活だったタツキに、それ以上のことは分からないが。

「おっさんが情報を、堰き止めてんのさ」

「いい加減にしてください」

 わざと遅く言う彼を睨めつけ、大石がずんずんとシノギの元へ歩いていく。恰幅のある彼の体が、ダイニングテーブルとキッチンカウンターの間をすり抜けようとした拍子に、タツキが座っていた椅子をずらして行った。

「失礼」

 ちょうどパンを一口齧ろうとして口を開けたタツキは、指まで噛んでしまった。

「我慢の限界です、白金鎬。あの方がどのような思いで」

「おいおい、仲良くしようぜえ」

 大石がシノギの胸ぐらを掴んだ。

「こら、二人共」

 彼らを止めに入ろうとクロガネが席を立つ。

 タツキは手元を見やった。指がまだそこにくっついていることに、安堵の息を漏らす。彼女が見た指の先、食べかけのパンに注意が向いた。焼きたてを入れてくれた、新商品。

 タツキは閃いた。

「お星さま?」

 鏡の中を指差す。

 大石とシノギも彼女に意識を取られ、その隙にクロガネが二人の距離を離す。

「星?」

「五角形じゃなくて、星を描こうとして点を打ったのかも」

「だとして、続く数字の意味は」

 大石の問いから逃げるようにタツキが目を逸らす。彼女がその次について考えていなかったようだと判断すると、大石は鼻から息を漏らした。

「庵さん。思いつきで場を乱すのは」

「で、でも。9609はクロマクってすぐ読めるけど、610はムイマ以外にも読み方考えられるじゃん。ムヒゼロとか、ロクジュウとか」

「では、それにどういった意味合いが?」

「う、うーん」

 タツキが腕を組んだ。

「でもでも、絶対すんなり読ませると思うんだ、先生なら!」

「……ロクト」

 考えを巡らせていた様子のクロガネが口走る。

「星」

 それを間近で聴き取ったシノギは、パッと彼女に顔を向けた。

 二人の息が合った。

「六都科学館」

「多摩六都科学館?」

 大石が信じられないといった様子で首を振る。

「まさか。あの場所がなんだというのです」

「調べてみる」

「おう」

 急ぎスマホを操作するクロガネに頷いて、シノギはポケットを探った。部屋の鍵を取り出そうとしていた。

「ただの博物館ですよ。研究所でも、企業の所有物でもない。土地の学習機関だ」

「違ったら、また考えればいい」

 大石の静止をクロガネは取り合おうとしなかった。

「わざわざ東京の施設を暗号に使うとお思いか。庵さんに土地勘がないことなど、竹内は分かっていたはずでしょうに」

「けど、鎺は違う。二十三区外には詳しい」

「散々嗅ぎ回ってきたからなあ。俺、ちょっと見てくる」

 クロガネが了解、と小さく言った。

 部屋に駆けていくシノギの背中に、大石が投げかける。

「冷静さを欠いているとしか思えませんよ!」

「あはは、冷静でいりゃあ答えが出るってんならそうするさ!」

 廊下に彼のおかしそうな声が響いた。

 画面を慎重に送りつつ、クロガネは再びタツキの隣に腰かけた。

「指で入力するのは苦手」

「どこにあるの、それ?」

 タツキが身を乗り出して、彼女のスマホを覗き込む。公式によるホームページのようだった。

「西東京市」

「東京の左側?」

 タツキは、だからシノギが部屋に行ったのか、と思った。あの青い壁を確認しに行ったのだろう。クロガネはいや、と彼女を否定した。

「中心くらいだな、どちらかというと」

「そ、そうなの?」

 確かに、アクセスの欄には、知っている駅名も載っていた。まるっきり目にしたことのない場所というわけでもないらしい。

「ややこしいね、東京って」

「問題は、タケウチがここから何を導きたかったか」

「黒幕の次に書いたんだから、その正体なんじゃない?」

「創設に関わった人間に怪しいのはいない」

「なんか有名なものとかあるの?」

「プラネタリウム。ここのシンボルにもなってる」

「ああ、それで星マークか。けどさすがに天文学はナイフ病とは関係ないよね」

「あったぜ」

 そう言ってシノギが部屋から戻ってきた。タツキが顔を上げる。

「え、関係あったの?」

「関係?」

 シノギが目を丸くする。彼はタツキの言っている意味が分からないようだった。その証拠に、彼がテーブルに出してみせたのは、一部のパンフレットだった。

「科学館の館内マップ」

「そんなのホームページに載ってるのに」

「キサキよりは早かったろ」

 クロガネの操作がおぼつかないのを知っていたらしい。

 シノギがパンフレットを広げる。

「食べてしまった方がいいぞ、それ」

 クロガネの指摘で、手にずっとパンを握っていたことを思い出したタツキは、椅子に座り直して、また黙って食べ始めた。

「一階は休憩室で、プラネタリウムがあんのは二階かあ」

「エントランスと順路が地下にあるんだな」

 壁に体を預け、遠くから様子を窺う大石は、真剣にパンフレットと向き合うシノギとクロガネに、侮蔑にも似た視線を向けていた。

 全くもって馬鹿馬鹿しい。一縷の望みにも賭けたいという気持ちがあるのは分かるが、だからといって、庵たつきの思いつきに翻弄されすぎではないか。これがナイフ病初期検体の二人、鎺のメインブレインだというのだから、彼らもたかが知れている。

 大石には正直、なぜ警視総監ともあろうあのお方が、鎺などという烏合の衆を懇意にするのかを理解できなかった。彼からCASE:712の居場所を聞かされていた大石は、もしシノギが自分よりも弱い人間であったなら、それを自分が教えてやってもいいと思っていたのだ。青い壁を見た際も、シノギが自力であそこまで導けたのであれば、鎺が全ての黒幕に辿り着くのも時間の問題だと思えるくらいには素晴らしい出来だった。しかし度重なる警視総監への侮辱や警察という存在への軽視が癪に障り、大石は語らないことに決めたのだ。

 シノギの頭脳は、大石がCASE:712の居場所を知っていることも考えついているだろう。だから、彼が非礼を詫び、警察に協力してほしいと懇願すれば、教えてやらないこともないと、そう思っていた。

「ごちそうさまでした」

 タツキがパンを嚥下し、手を合わせた。

「そこは地下が入り口なんだ?」

「ああ。何かと縁があるな?」

「地下に? 確かに」

 タツキがくすくす笑って席を立つ。シンクで手を洗うつもりのようだ。

「二人と出会ったのは大学の地下で、警察のファイルがあったのも地下だもんね」

 洗剤を手につけ、流水で泡立てる。

 シノギが眉間に皺を寄せた。

「食器用だろ、それ。手え荒れるぞ」

「丈夫だから平気ですー。ハンドクリームあるし」

 彼女はシノギに向けて手を広げる。

「で、地下には他に何があんの?」

 タツキはかかっていたタオルで丁寧に水気を拭いたら、冗談めかして言ってみた。

「駐車場? 資料保管庫?」

「やあ、エントランスとイベントホール。インフォメーションに、ミュージアムショップに、あとは展示室だな」

「普通だね」

「展示室の名前はなかなかセンスあると思うぜ。チャレンジの部屋を一番最初に持ってくるとことか」

「チャレンジの部屋?」

「体験型施設を謳ってるから、それに慣れてもらうための導入なんだろう」

 クロガネは関心を寄せている様子だった。こういった施設を訪れるのが好きなようだ。

「あと地下にあるのは、チャレンジのとは別に、展示室が二つだな」

 シノギが何気なく言う。

「からだの部屋ってのは中々興味深いなあ。ナイフ病についても取り扱ってくれてっといいいんだけどな」

「ないだろ」

「行ってみなくちゃあ分からないだろ」

「シュレディンガーのからだの部屋」

「お、センスあるなあ」

「はあ、貴公ら。本当にCASE:712を見つける気があるんですか」

 大石は彼らの会話に耐えきれなくなり、口を挟んだ。

「もっと建設的に話を進めるべきですよ。庵さんの発言に振り回されすぎです。こんなもの、なんの意味も成さないと分かったでしょう」

 彼がテーブルからひったくったパンフレットを床に放る。乱雑に手放されたそれは、空を舞ったあと、席に戻ろうとするタツキの足元に落下した。

「白金鎬。貴公が警察への侮辱を撤回し謝罪すれば、CASE:712の居場所を……」

 タツキは目の前のパンフレットに注意を削がれたため、それより先の大石の話は彼女の耳に届かなかった。

 折れ目を伸ばしながら拾いあげる。地図には、シノギが言った以上の情報はなかった。あるとすれば、彼に他二つと括られた展示室の正式名称くらいだ。

 からだの部屋と、しくみの部屋。

「からだ……しくみ?」

 目に馴染む文字列だ。どこかで見ただろうかと、既視感の正体を探る。頭を捻ったタツキは、唐突にハッと息を呑んだ。

「からだの仕組みとナイフ病!」

 指をパチンと鳴らして叫んだ。

「ナイフ病のあらわれ!」

 あの図書室から何度も借り出し、すり切れるほど読んだ二冊だ。つまり、あの少年が先生と呼んだのは。点と点が線で繋がった気分だった。

 バタバタと慌てふためきながら鞄からそれらを取り出す。どちらも著者は同じ。帯の文句を引用する。

「ナイフ病研究を牽引してきた第一人者、寺仲宣仁!」

「ははあ、知ってる名前」

 シノギは、顔にくっつかんばかりに突きつけられた表紙を退けた。

「初期検体の研究施設に関わった、ごまんといるうちの一人だな。俺が追ってた創設メンバーではなく、のちに合流した研究者。全ての黒幕という可能性は低いが、自分のラボを持ってたはずだ。CASE:712を匿ってる可能性もなしじゃあない」

 クロガネがスマホを閉じた。

「……成程、暗号として一級だ。タケウチからタツキさんに向けてしか機能しない」

「鎺の連中がナイフ病の本なんて読まねえものな、今更。盲点だったぜ」

 シノギは脱帽したのか、タツキの肩を叩いた。

「お手柄だ、タッちゃん」

「でも、本当にそうかどうかは」

「本当にそうかどうかは、こいつが教えてくれるさ」

 シノギは大石をかえりみた。

「なあ、警視総監の私兵どの」

 彼の勝ち誇ったような笑みに、大石がぴくりと血管を浮かせる。

「大石さん」

 タツキが本を胸に抱いて、彼に駆け寄った。

「これは私にとって一番初めに読んだナイフ病の手がかり。彼の元にCASE:712がいるのなら、そこに行けば……治す方法も分かるかもしれない」

「不治の病ですよ」

「それが?」

 彼女は声を荒げず、ただ神妙な面持ちで彼を見上げる。

「あなたのところの百人、私が殺したようなもの。ただの一般人、ただの罹患者の世迷言。それでもそんな私の心を汲んで、情報を私に与えると決めてくれた、彼らの命の上に私は立っている。この身体を蝕む病を治すまで、私は進む。進みたい。だから、」

 タツキの強い意志に射抜かれ、大石はごくりと唾を飲んだ。

「道をあけて」

 彼女の迫力に気圧される。

 大石は自分でも気づかぬうちに、自らの腰を折っていた。

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