苺の旬
シノギに連れられてタツキがやって来たのは、アジトからほど近い場所のパン屋だった。散歩中にタツキも前を通りがかったことがある。まだ開店していないような店構えだったが、シノギは気にしていない様子でシャッターを四回ノックすると、店の脇に回った。
「おはよお」
施錠されていないことを知っているのか、彼はすんなりと鉄扉を押し開けた。止めるに止められなかったタツキは、彼のあとにひっそり続いた。
「あれ」
奥からかごを持って出てきたのは、人のよさそうな男性だった。三十くらいにみえる男性は、可愛らしい苺のマークが描かれたエプロンを着ていた。
「おはよう、シノギくん」
男性がタツキに気づく。
「この子はタッちゃん」
「タッちゃん。おはよう、初めまして」
「初めまして……」
きょろきょろと辺りを確認するタツキの様は、まるで天敵の居場所を探ろうとしている小動物のようだった。
店内は小麦の香りで満ちていて、彼女は思わず深呼吸をする。
「いいにおい」
「わあ、嬉しいな、ありがとう」
「いっち、今日のおすすめは?」
「しょうがないなあ」
お決まりのやり取りなのか、男性は慣れた手つきでかごの中からパンを取り出した。シノギは受け取ったパンを早速、頬張る。
「うん、うまいな。生地の食感が俺好み」
「ふふっ、ありがとう。シノギくんは褒めるのが上手だね、嬉しいよ」
それから、彼の手に握らせたものとは別のパンを、タツキの手を取って握らせた。
「はい。タッちゃんには、こっち」
「ありがとうございます…いただきます」
タツキはぺこりとお辞儀をした。
丸みを帯びた、太った星型をしている。近づけると、ふわりと甘い香りに包まれた。一口食べてみる。ふわふわの口どけで、嗅いだ匂いと変わらない、優しい甘味が広がる。二口、三口と、タツキは夢中になって食べ続けた。
「お星さまのパンだよ」
目を輝かせて食べるタツキに、男性は両手を握って、祈るようなポーズをとってみせる。柔らかな笑顔だった。
「きみに、よいことが訪れますように」
「はは、よかったなタッちゃん。これでツキが回ってきたぞ」
「シノギくんは早く、ぼくから借りたお金返してね」
「あっちのパンも旨そう」
「あっ、こら。話を逸らさないの」
「食っていい?」
「しょうがないなあ」
焼きたてのパンに舌鼓を打ちながら、男性の貸した金はもう戻ってこないのだろうなと、タツキはぼんやり考えていた。
「ごちそうさまでした」
「すごい、もう完食してくれたの?」
「とっても美味しかったです」
「ありがとう。新作なんだ、そのパン。自信はあったけど、結構ドキドキでさ。タッちゃんが、世界で初めて食べてくれて、美味しいって言ってくれたお客さんだ。そのパンにとって」
男性はかごに入ったパンを見つめた。
「よかったねえ」
糸のように細い目が弧を描く。
どう返せばいいのか分からず、タツキはただぺこりと頭を下げる。
「あ、そうだ。ちょっと待ってて」
男性はそう言ってパタパタと奥に駆けていく。次に戻ってきた時には、手に紙袋を携えていた。それをシノギに渡す。彼が紙袋の端を折って封をしようとしたのを、男性がやんわり止める。
「まだ焼きたて。キサキちゃんによろしく伝えといて」
クロガネとも面識があるようだった。中を覗いたシノギが頷いた。
「だめだよ、全部食べちゃ」
「食わねえって」
若干ムキになったようにシノギが言うと、男性がくすくす笑った。
その様子を眺めていたタツキは、ふと、自分と先生とで繰り広げる、お馴染みのやり取りを思い出した。あの学生服の少年が先生と呼んでいたのは、タツキの思い描く先生と同一人物なのだろうか。
遠い目をしたタツキの前に、男性がぬっと影をつくる。
「タッちゃんにも、おみやげ」
「え、あ」
断ろうと出した手に、ぽんと紙袋が乗せられた。
「甘いのと、しょっぱいの。どっちも入れてあるからね」
「ありがとう…ございます」
懐かしい紙の匂いと焼きたてのパンの香りが鼻をくすぐる。男性の大きな手がタツキのそれと重なった。温かくて、しっとりとしていた。タツキはほんの少し、気分が和らいだように思えた。
「じゃあな、いっち。また来るぜ」
シノギがタツキの肩を抱いて、鉄扉の方向に振り返らせる。
「うん。またおいで。タッちゃんも」
男性は胸の前で手を振り二人を見送った。タツキはもう一度お辞儀をした。
店を出ると、太陽は更に眩しくなっていた。シノギが身体をめいっぱい伸ばして、ううん、と唸った。
「んじゃあ次、行ってみるかあ」
「えっ?」
「ええ?」
帰るものだと思っていたタツキが声をあげ、それを聴いたシノギの眉が上がる。
パン屋の男性が持たせてくれたおみやげを示す。
「だって」
「ああ、いいのいいの。いつものことだから」
紙袋の上辺を片手でつまんで、シノギはタツキの背をぐいぐい押す。
「お天道様もまだまだ東」
細身の割に力があるのか、それとも体格差が如実に現れたのか、抵抗も空しく彼女の体は前へ前へと歩いていってしまう。
「今日は始まったばかりだぞ」
やけに楽しそうな様子を見せるシノギに、タツキは首を傾げるばかりだった。ただ、激しく拒絶する気も起きず、彼女はシノギに押されるまま、朝の街を進んだ。
木々の緑に、道路舗装のレンガ、道行く人の服。タツキの目は新鮮な色の数々を映していた。遅い時間の授業を取り、散歩と言ったら夜中に出歩くのが常の彼女にとって、それらは普段黒い影としか認識していないものだった。彼女は目を見張った。
夜に映える色とはまた違う、どれも生きていて、落ち着く色をしている。
タツキの足取りが軽くなったのを見計らい、シノギは彼女の背から手を離した。
「ここ」
シノギがタツキを呼び止める。
彼の指差す先を見ると、細い路地裏の暗がりに、電飾が光っていた。店の看板のようにも見える。そこには店名と思しき文字も。
「ブラン…ニュー」
路地に吸い込まれるようにしてシノギは彼女の先を行く。引き戸を開け、タツキに入るよう促す彼の耳にドアベルの涼しげな音色が届いた。
足を踏み入れたタツキは、小さく感嘆の声を漏らした。外の寂れた雰囲気から一転、中は豪奢で上品な空間となっていた。ウッド調でまとめられた調度品に、暖かみのあるオレンジの照明が、まるで高級寝台列車にいるかのような気分を助長する。
「そこ座んな」
シノギが指したのは、カウンターの一席だ。脚が高くて座面の狭い、バーでよく見るタイプの椅子。低身長のタツキには座るまでに少々工夫が必要だったが、なんとか登頂に成功し、愉悦に浸って室内を見回した。
品がいい、の一言に尽きる。飾られている絵をはじめ、壁紙、床材の細部に至るまで、ここの持ち主は非常に美的センスがあるのだと分かる。
「いいとこだろ」
正面から声が飛んできたことに驚いて首を戻すと、カウンターを挟んだ向こうで、シノギが何やら調理器具を吟味していた。
恐る恐るといった様子でタツキが質問した。
「シノギさんのお店?」
「やあ、店主は別にいる。そのうち帰ってくんじゃねえかな」
「え。じゃあだめじゃん、そっちにいちゃ」
眉間に皺を寄せたタツキが咎めても、シノギは平気平気、とヘラヘラ笑ってその場から動こうとはしない。
「鎺の連中は好きに使っていいってお許しが出てんのよ」
「へえ……」
いまいち腑に落ちていないタツキだったが、シノギがサイフォンを端から滑らせて近づけたことで、興味がそちらに移ったようだった。
「コーヒー?」
「食後はやっぱりな」
シノギが小さくつけ加える。
「キサキもいないことだし」
「クロガネ?」
「うん、あいつは紅茶派だからね」
そう説明しながら彼は背後の棚から、注ぎ口が細長いコーヒーポットを取り出す。銅色をした、使い込まれたポットに見えた。
「店主は鎺を懇意にしてくれててね」
シノギが布巾でポットを拭く。こう見ると、カウンター越しの彼はなかなか様になっていた。
「外で飾りがチカチカしてただろ」
「うん」
「あれが光ってたら、鍵は開いてるよ、ご自由にどうぞって合図。昼だろうと夜だろうと、朝だろうと、いつでも」
慣れた手つきで熱湯をサーバーからポットに移す。
「タッちゃんはコーヒーでいい?」
「いつもラテしか飲まないけど」
大丈夫、とタツキは言おうとした。
コーヒー系統にしても、ティー系統にしても、いつも彼女はラテかオレだ。苦味も渋みも得意ではない。だが、せっかく淹れてくれるのだから、無碍にもできない。
パン屋さんがくれたパンと一緒に飲めばいいだろうと結論づけ、大丈夫、飲んでみる、と伝えようとした。シノギがふうん、と含みのない相槌を打ったことによって、合間に隙ができるまでは。
「なら、ラテにしようか」
いとも平然と彼はそう言った。
「俺あれできるよ、ラテアート。やったげる」
楽しげに体を揺らすシノギに、その時、これまで押さえつけていた心が救われた気がして、タツキはなんだか癪だった。
そして思い知る。ナイフ病に罹ってから、我慢することに対して、いつの間にか辛苦を覚えなくなっていたこと。不平不満を詩に込めるだけ込めておきながら、反面それを自分の感情として向き合ってこなかったこと。タツキの手は自然と彼女の胸に当てられていた。
チリンチリン。ドアベルが鳴った。
「ただいまー……って、シノギちゃん!」
「うわ、帰ってきた」
ドリップを行なっていたシノギが顔を顰める。
声の主はつかつかとヒールの音を踏み鳴らした。
「んもう、シノギちゃん、こんな朝っぱらから女の子連れて!」
掴みかからんとする勢いでシノギに詰め寄る彼女は、この内装にぴったりの装いをしていて、一目でここの主人なのだと判明できる。
「ウチで不純異性交友なんて許しませんよ。断固反対ですからね。そんな風に使うなら金輪際ここへ来ないでちょうだい!」
頰を膨らませて、手を腰に当てている彼女は、五十代くらいの女性に見えた。少女のような仕草に違和感を覚えないのは、彼女の丸めで幼い顔立ちの働きだろうか。まさに、マダム、という言葉の似合う人物だった。
「そういうのじゃねえから、安心しろって」
「あらそう?」
鬱陶しげにシノギが手を仰いでみせる。目をぱちくりさせた彼女は、そこで初めてタツキに真っ直ぐ向き合った。
「あら、あらあらあら。よく見たら初めましてのコじゃない。ごめんねぇ、うるさくして」
「あ、いえ、お構いなく……」
「いやよ、構っちゃうわ」
彼女はウィンクをすると、さっさとタツキの隣の席に着いた。
「シノギちゃんとはどういうご関係?」
「えと、私は」
「あらアナタ、最近のコにしては日に焼けてんのね。照明のせいかしら。でもいいと思うわ、活発な感じがして!」
「あ、ありがとうございま」
「髪も独創的でいいじゃない。学生さん? あ、もしかしてそこの大学に通ってらっしゃる? そしたらアナタ、キサキちゃんのお友達?」
「ストップストップ」
シノギが口を挟んだ。怒涛の問いかけに目を回しかけていたタツキを見かねてのことだ。
「タッちゃんが困ってるだろ」
「へーえ。タッちゃんっていうのね、アナタ」
しかし彼の牽制も、女性にはさっぱり響いていない様子だった。
「アタシは、ここのオーナー。昼は喫茶、夜はバー。アタシがいない時でも、アタシが認めた人なら好きにしていいわって感じのお店。アナタ風に言うなら、そうね。アタシのことはさっちゃんって呼んでちょうだいな」
タツキがシノギに目で助けを求めると、彼は頭を左右に振った。諦めろ、ということだ。
「さあ、呼んでみて。さん、はい!」
「さっちゃん……さん」
「さんはいらない!」
「さ、さっちゃん」
「うふふ。いいわ。タッちゃんアンドさっちゃん。もうアタシたち、ソウルメイトね」
女性は口を両手で覆い、淑やかに笑った。
「マスター、素敵な出会いにぴったりの一杯をお願いするわね」
「ただいまコーヒーの方ご用意させていただいております、オーナー」
恭しく礼をしつつも、シノギの声の抑揚は大袈裟だった。
女性は再び肩を揺らした。
「うふふ、嘘くさい。下手くそねぇ」
「胡散臭くてそれっぽい、が一番ウケんのよ、マジシャンは」
女性に同調して頷くタツキを睨みつけながら、彼は不貞腐れ気味に言った。そして、ソーサーの部分を持って彼女達の前に差し出す。
「はいできた」
「あら、ありがとう。こちらは何かしら」
「ラテでございます、オーナー。そちらのお客様のご希望です」
「タッちゃんの? そう、ありがとう。いただくわ」
真っ白のソーサーとカップのセットは、これまた気品のある花の意匠が施されていた。大きめのカップから、コーヒーとミルクの匂いが立つ。
けれどタツキの目はいずれでもなく、ラテアートの部分に釘づけだった。
タツキは数秒動きを止めたあと、震える息を漏れさせた。
「ふ、ふふ……へたくそ」
歪んだそれは、何を表しているのか全く分からない。
タツキが肩を小刻みに震わせ続けるので、シノギは口を尖らせた。
「アートだよ、アート」
「なになに?」
持っていたカップを見るも、既に一口飲んだ彼女のラテアートは、原型を留めていなかった。女性は体を乗り出して、タツキのカップを覗き込む。
そして唸った。
「何、これ?」
「そういうもんだろ。アートってのは」
なおもタツキは静かに笑っている。
首を捻った女性が、閃いたように指を立てた。
「分かった耳だ。耳」
「は、く、ちょ、う!」
シノギは一音ずつ区切って、むくれながら言った。そっぽを向いて、自分用のカップに口をつける様は拗ねた子供のようだ。
「ふ、あははっ」
とうとう堪えきれなくなったタツキが笑い声をあげた。心の通り道にできた固結びが解けたような。女性はそんな彼女を、慈愛に満ちた瞳で見つめた。
「ねえ、タッちゃん」
「はい」
「女って、大変よねぇ」
「ふ、ふふ……そりゃあもう!」
目に涙を浮かべてタツキは笑う。
ラテを飲みながら、二人はガールズトークに花を咲かせた。シノギはその間、時々話に混じり、時々じっと外を窺うようにしながら、脳内では警視総監の思惑について思考を巡らせていた。
「またいつでもいらっしゃいな。アナタなら顔パスよ」
店を出る時、女性はタツキにこっそり耳打ちした。
「アタシと一緒にカウンターに立ってほしいくらいだわ」
そう言ってウィンクする彼女に、タツキも頷きを返した。
タツキとシノギが路地裏を抜けると、街はすっかり昼間になっていた。出てきた時間帯よりも車や人の往来は少なく、大学が閉鎖している影響か、ことさらに静かに思えた。シノギはまた伸びをした。
「ううん、ちょっと長居しすぎたかな」
「今度こそ帰る?」
「やあ、まだまだ」
紙袋に目を落とすタツキの肩を、シノギが後ろから押す。
「もうお昼だよ。帰った方がいいですって」
「これからこれから」
そうやって何度か彼女の言及を躱したシノギだったが、何が、とは一切言わなかった。一体なんの目的があって彼がタツキを連れ出しているのか、タツキ自身には皆目見当もつかない。
線路の高架下に、ゲームセンターがある。さほど大きくもない、レトロな空気を醸し出すそこは、平時から大学生すら近寄らない、地元民だけが知っているような寂れた場所だ。
シノギはそこで足を止めた。彼が入っていくので、タツキも着いていく。
「ここのレースゲームが好きでさあ」
埃っぽくはなかったが、薄暗かった。タツキにはあまり馴染みのない空間だ。
「ああ、あれあれ」
二人が並んで座って、競うもののようだった。
「勝負しよう、タッちゃん」
「えっ」
「さあ座った座った」
無理やり座席に押し込められる。
「こういうのやったことないんだけど」
「いいよ、技術も知識もいらないから」
もう一方の座席に着いたシノギがコインを入れた。
タツキは仕方なく紙袋を足元に置いた。
初期ゲーム機を想起させる電子音と、ドットのグラフィックが、より昔懐かしい雰囲気を出させている。
結果はタツキの勝利だった。というか、圧勝であった。
「負けた負けた」
「弱すぎない?」
生まれて初めてやる相手にあの大差で負けるとは。
タツキは若干、引いていた。
「いいんだよ。白熱しちゃあまずいから」
シノギが首を片手で握るような仕草をした。そういえば、ヒリついてしまうとナイフを吐いてしまうのだった、とタツキは思い出す。
「それなのに、好きなの?」
「うん。勝つ負けるよりも、ここで競うのが好きなんだ」
なぜ、と聞こうと口を開きかけた時、答えが自ら、彼女達のところにやって来た。
「あーっ!」
ゲームセンターに声が響き渡る。
見ると、猛ダッシュでこちらへ駆け寄ってきている、五人組の姿が見えた。背丈や体格の違いはあるが、どれも小学生だろう。
「ノギにい、遅いじゃんかよ」
「もう今日は来ないと思ってた」
「はやく遊ぼう」
シノギを座席から引きずり下ろして、次々に彼によじ登る。そのうちの一人が、はたとタツキに気がついた。
「ノギにい、彼女ー?」
「知り合い」
「えー、知り合い?」
「わたし、大人はそうやってはぐらかすってママに聞いたー!」
「残念でした。ほんとの知り合い」
子供を引っつけたまま、シノギはふらふらとタツキに近づいた。しかし子供達の興味が彼の言葉だけで尽きるはずもなく、彼らはタツキの周りをぐるぐると回りだした。
「おねえさんこんにちは!」
「初めまして、おねーさん」
「お姉さん、すっごくかわいくて、大人っぽい。いいなあ」
若者と括られ、十歳以上差があっても気にせず遊び回っていた故郷での思い出が浮かぶ。タツキは面倒見がいい方ではなかったが、子供を見るのは好きだった。犬や猫が遊ぶのを眺めている感覚に近い。
「ほらほら、今日は何で遊ぶんだ?」
シノギの問いかけに、五人が弾かれたように彼を見る。
「鬼ごっこ!」
「バスケ!」
「ゲーム!」
「おかし!」
一番体の大きい、活発そうな男子が、少し考えてから手を挙げた。
「ねえ、せっかくならさ、おねーさんも入れてできる遊びにしない?」
「私?」
「あ、じゃあじゃあバドミントンしたーい!」
「バドミントン?」
どう考えてもここではできそうにないのだが、シノギは乗った、と手を叩く。
「諸君、第二会場へ、駆け足」
「おーっ!」
彼のかけ声に拳をあげて応えた五人は、再び来た時の猛ダッシュでゲームセンターを出ていく。
「そういうことだから」
シノギがタツキを返り見る。彼は悪戯っぽく舌を出した。かと思うと次の瞬間、颯爽と走り去っていった。
「タッちゃんも、駆け足!」
そう言い残して。
「え、ええ……?」
訳も分からないまま、紙袋を丁寧に抱えあげ、走りだす。早く行かないと彼を見失ってしまう。タツキは焦って、少し走る速度を上げた。
「ここ、走るの、初めて」
駅前は散歩コースだが、こんな速さで駆け抜けたことはない。それどころか、この身で走ったこと自体が何年ぶりだろうか。いつもと違う景色に見える。新しい発見だった。なかなか悪くない。タツキの口角は自然と上がっていた。
「もっと、自然でいっぱいのとこ、走りたいな、ほんとは」
故郷の海辺を、というのは紛れもない本音だったが、その景色すらもはや苦い思い出でもある。
追っていたシノギの背中が、徐々に大きく見えてくる。後方確認のために速度を落としたらしい。彼はタツキの姿を見るとびっくりした表情を向けた。
「マジ?」
シノギは面白がるように手を叩いた。
それから二人は数分走り続け、手を延ばせばシノギに触れられそうになったくらいで、バッティングセンターの文字が目に入った。バドミントン。確かにそこなら、できるかもしれない。
タツキの手がシノギの背中についた。厳密にいえば、腰に。というのも、タツキの頭のてっぺんはシノギの胸の高さくらいのため、タツキが素直に前に手を出すとその位置に触れるのだ。
「タッちゃん、速すぎ」
それほどの身長差がありながら、タツキは彼に肉薄した。彼女の駆け足の速さは、シノギにとっては信じられなかったらしい。
「陸上やったりしてた?」
「やってない」
砂浜を何時間も駆け回ったりはしてた、と心の中でつけ加える。
中に入ると、朗らかな老人が二人を迎えた。
「おー、シノギくん。子供らはもう来とるよ」
「爺さん、薬は飲んだ?」
「勿論、勿論。シノギくんが毎日言ってくれるから、忘れないよ」
座って、両手で杖にもたれる老人と二言三言交わしたのち、彼は立ち上がった。タツキを連れだって、バドミントンのコートへと案内する。
「ここも、さっきのゲーセンも、あの爺さんのなんだぜ」
タツキは感じ入った様子で、もう一度老人を見た。
「俺の師匠」
なんの師匠なのかこれっぽっちも情報がなかったが、随分と冗談めかした言い方をしたので、深く考えなくてもよさそうだとタツキは適当に流した。
「おっけー。師匠ね」
コートには既に先ほどの五人が集結していて、ネットの張り具合やらシャトルの綻びやらを入念にチェックしていた。
「あ、来た来た」
「遅いー!」
「大人はね、全力で走れないんだって」
「残念、必死に走ってこれだよ。あ、そうそう」
シノギはタツキを指さした。
「このねえちゃん、めっちゃ足はええから、覚悟しとけよ」
「えーっ!」
子供達の視線が、一様に尊敬と羨望へ変わった。
「カッケー」
「すげー」
「ノギにい負けたのー?」
「引き分けくらい」
「ええっ、やべー!」
「ぼくら誰も勝てないのにね、ノギにい」
スカートを履いた女子が、タツキにラケットを渡す。彼女がそれを手に取ると、女子がもの凄い勢いでタツキの腕に自分の腕を絡めた。
「はいわたしたち女子チームでーす」
「ずるいぞ」
「ずるくないもーん」
女子がタツキを見上げる。
「ねっ」
「じゃあオレら男子チーム」
「ぼくら男子チームⅡ」
「俺があまるじゃねえか」
すかさずシノギがツッコミを入れる。
子供たちは楽しそうにケラケラと笑った。
「ノギにい、審判ねー!」
「しょうがねえなあ」
口ではぶつくさと文句を垂れていたシノギだったが、体はさっさとコートの脇に向かっていた。
「疲れてるんでしょ」
タツキが訊くと、彼は自身の唇に人差し指を当てがった。静かに、の意味だ。驚いた彼女はシノギをまじまじと見つめる。どうやらもう、すっかり審判モードに入っているらしい。
「それでは試合を始めます。選手は位置について」
ふざけていた子供たちも、彼の声に背筋を伸ばした。こうやって本気で遊びに付き合う彼だからこそ、懐かれているのだろう。
「第一試合。女子チーム対男子チーム」
「うおお、勝つぞー!」
「負けないぞー」
「よーし、がんばるぞ」
「うん」
タツキも気を引き締める。今日は色々と釈然としていないまま、ここに立っている。しかし、この場で思いっきりやらないのは、大人として恥だと思った。握り締めた手を差し出したタツキに対して照れたように、女子もちょんと拳をつき合わせた。
「勝とうね、お姉さん」
そうして一時間経った。コートでは、シノギ一人に対して子供四人という、ルール無用のバドミントンが行われていた。シノギは虫の息だった。
「もう勘弁……」
ヒイヒイ言いながら彼が倒れ込むと、四人がネットをくぐって肉弾戦に繰り出す。
「いけいけ!」
「突撃ー!」
タツキがその様子を、コートの端で眺めていた。
「おねーさん」
声の主は、タツキの隣にいた。彼女と共に観戦していた少年だ。
細い絆創膏が膝や肘といった関節にたくさん貼られている。まだ出会って少しの間しか接していないのだが、それでも彼がいかに活発で、生傷が絶えないかというのがよく分かる。元気な年長の男子だ。
「おねーさん、強くていいなあ」
「子供たちが相手だったからだよ」
「ノギにいにも勝ってた」
先の試合結果の話をされ、タツキは頰をかいた。全戦全勝はさすがに大人げなかった気もする。ペットボトルを傾けた。入り口にいた朗らかな老人が差し入れてくれたのだ。男子は思案するように視線を彷徨わせていた。
「あのね」
何か言いたいことがあるのだろうか。タツキは身構えた。往々にして子供は純粋で、だからこそ痛いところを突いてくるものだ。大人としてあれはどうかと思う、とか諭されたらどうしよう。
「いじめられっ子同盟なんだ、オレたち」
そう言う彼の声は至って明るく、しかし真実味を帯びていた。
「おねーさん、オレたちと遊んでくれたから、特別に教えてあげる」
「そう、なんだ」
内緒だよ、と釘をさす彼からは、悲しさや寂しさといった憂いは微塵も感じられない。彼女は曖昧に返事した。
タツキは内心疑問に思っていたのだ。低学年は早めに終わるのだろうと思っていたが、それにしても年長の子はどう見積もっても高学年にしか見えない。なぜ彼らがこの時間帯にこうしているのか、こうも残酷な理由をはっきりと宣告され、タツキの表情は曇った。
「あ、で、でもでも、大丈夫だから!」
それを察して、男子はあわあわと言葉を紡いだ。
「心配しないで。オレたち毎日笑ってるし、ノギにいもいるし。勉強も、家でちゃんとしてるし!」
彼は体が口なのかと思うくらいに大きな動作で喋る。タツキが小刻みに頷くのを見てから、ようやく男子は腕を下げた。
「学校に居場所がなくても、楽しく生きれるって、ノギにいが教えてくれたんだ」
「へー、あの人が?」
「そうだよ。元々は、みんな別々だったんだ。学校に行くのが嫌で、公園にいたり、家にいたりね。そうだったのを、ノギにいが集めたの」
あんな適当な
「最初はね、みんなあんまりだったんだけど、ノギにいと遊んでたら、仲良しになってたんだ。面白いよね」
「ふーん」
良くも悪くも、巻き込むのが上手いのだろう、シノギは。納得したらしく、タツキは体育座りの姿勢を崩す。コートの中で揉みくちゃになっている彼と、子供達とを、微笑ましげに眺めた。
「みんなあの人が大好きなんだね」
「そうだね。学校に行けないってこと、オレもおかーさんも、ダメなことなんだって思ってた。きっと他のみんなも、みんなの家族も。けど、ノギにいがそれは違うよって。魚は土の上で息できないし、花だって急に自分がいる花壇に魚が来たら、仲良くはできないだろうって。魚は水の中にいればいいし、花は土にいればいい。誰も魚に花壇で生きろとは言わないでしょって。みんな多分、それでノギにいのこと好きになった」
合わないら、無理に合わせなくてもいい、ということだろうか。魚の命を考えるなら、魚の排除をしないよう花に求めるよりも、魚をさっさと水に戻してやった方が得策だから。タツキはその言い回しを気に入ってしまった自分に気づき、少し悔しがった。
「そっか。なんかすごい独特。当たり前のことなんだけど、不思議とそうだねってなる」
「うん、面白いよね、ノギにい。オレたちも最初はよく分かんなかった」
「今は分かるの?」
「前よりかはね」
「すごいね」
へへ、と男子は腕を組んでみせる。
「みんな、ノギにいのおかげで強くなったんだ。あ、ケンカじゃなくて、カラダの中のほうね」
タツキは心で噛み締めた。カラダの中のほう。
詩はひとりぼっちに優しい、というのが彼女の持論だ。人ひとりから生まれ、組み立てられ、創られるもの。しかし誰かとの対話を通してこうも活きた言葉に出会えるのなら。考えを改めるべきなのかもしれないと、タツキは胸の位置で拳を握った。
創りたい詩がいくつも脳内に貯まっていた。
「おーい!」
女子がスカートをはためかせながら駆け寄ってきた。わらわらとシノギに群がっていた他の子供たちも、備品をカゴの中に片付けているようだった。シノギ本人はといえば、まだコート上に寝転がっていた。
「そろそろ帰らない?」
壁の時計は三時前を指している。
「おやつの時間に遅れちゃう」
「本当だ、大変!」
男子は勢いよく立ち上がった。そして片付け中の三人の背に呼びかける。
「みんな、おやつの時間だぞ!」
「おー!」
「あ、おやつね、今日ぼくんち来ていいってお母さんが言ってた」
「やったー。一回帰って宿題持ってこー」
忙しなく動きながら、彼らは次の予定を立てていく。
「じゃあ、みんな三時にまた集合だね」
「よーし、一旦、解散!」
五人はかけ声をあげながら、すばしっこく去っていく。
「ノギにい、またねー!」
「おう」
子供たちがこちらを向いて一斉に手を振った。横になったままのシノギは、肩から先だけを無気力にあげて振り返した。
「おねーさんも、また遊ぼうね!」
「うん、またね」
彼らの姿が見えなくなると、タツキはシノギに歩み寄った。
「ねえ」
「お?」
シノギが頭を上げる。
彼の傍にしゃがんだタツキは、厚底スニーカーの靴紐をいじった。
「今日会った人、みんな〝そう〟なんでしょ」
「そう?」
「……罹患者。ナイフ病の」
「あら、なかなか鋭いねえ」
彼は体を起こし、髪を整え、服を叩いた。埃が舞う。
あの五人組がいじめられっ子となった最たる原因はそれだろう。それしか考えられないとまでタツキは思っていた。
よっこいしょ、と立ち上がったシノギが、屈んでいるタツキを見下ろした。
「帰り道でタネ明かしするつもりだったんだけどな」
「さっき、見えたから。あの子達の背中と腰の間くらいにタグが埋められてるの」
見つかりにくい場所にタグが埋まっているのは、軽症患者である証だ。重症患者が首元などの露出しやすい部分にタグを埋められるため、それと区別しやすいように。さすが都会、タツキの故郷と違って、気遣いじみたルールがしっかり制定されている。
「なんで私に引き合わせたの」
シノギは周囲を見渡す素振りを見せた。
「ついで、かな」
「なんの」
「まあ、これから話すさ。俺らにはちょうどいいおやつもあることだし」
そう言って彼が紙袋を小突いた。それは朝食の時間にもらったものだし、彼が持っている方についてはクロガネへの土産なのだが。
「ほら行くぞ」
訝しげな視線を送るタツキには目もくれずに、シノギはさっさと歩きだす。これだけ連れ回しておいて、帰るとなったらこれだ。
「タネ明かしは?」
紙袋を手に、急いで追いついた彼女の顔はむすくれていた。
シノギは前を向いたまま口を開く。
「さっちゃん。分かるよな」
「うん、あのお店のオーナーさん」
「あれはああ見えて町医者でね。ナイフ病の罹患に関係なく診療するってので随分ありがたがられてる」
「このご時世に?」
「肝っ玉が据わってっからな。周りに何を言われてもそこだけは曲げねえ」
罹患者はナイフ病以外の診療には医療費を上乗せされたり、診察や薬の処方を後回しにされたりするのがまかり通る。患者側も異を唱えたりしない。それが、暗黙の了解となっているというのに。
「すごい。自分も罹患者だから?」
「それもあるだろうが、地がお節介焼きなんだよ。さっき散々思い知ったろ」
ああ、とタツキが苦笑いを浮かべる。
「その甲斐あって、鎺はこの町の罹患者を把握してる。切れ者たちが折れないように、それとなく協力してんだ。それぞれができることで、な」
「この町には多くいるの?」
「切れ者? さあ、どうだろうな。他の町を知らねえからな。けど増えてはきてる」
「おお、シノギくん。お疲れ様」
出入り口には、変わらず杖にもたれている老人が座っていた。タツキがぺこりと頭を下げたのにも、丁寧に返す。
「今日は終わりかい」
「うん、ありがとうな、爺さん。また来るぜ」
「はいはい。待っているよ。お嬢さんも、またあの子らと遊んでやってね」
「はい」
彼女が頷くのを見た老人は、心底嬉しそうに顔を綻ばせた。
昼下がりの商店街には、一日で一番の賑わいがやってくる。
「この町の住人が罹ってるってよりかは、切れ者がこの町にやって来てるって印象だな」
シノギはわずかに声を落とした。耳をそばだてていなければ雑踏に紛れていってしまうくらいの、微妙な声量だ。
「いい水場なんだね、きっと」
彼が思わずといった調子でタツキを凝視する。突然そんな顔をされたので、タツキも仰天してしまった。
「なに。シノギさんがあの子たちにしたんでしょ、花と魚の生きる場所の話」
なんだその話か、とシノギは息をつく。
一体他に何があるというのか。タツキが首を傾げた。
「分かりやすい?」
「狡賢い」
「ええ、どこが」
「だって、花と魚なら確かに当てはまる話だけど、ナイフ病は人間同士の問題じゃん」
シノギが笑ったので、怪訝な顔で訊いた。
「笑う要素あった?」
「やあ、そうだなあ……」
珍しく彼が言い淀んだ。
「むつかしいことを喋るよ」
そう前置いてシノギは歩みを緩めた。
「いっぱいいる人間がね、みんな同じ種じゃないか、話し合おう、必ず理解しあえるってのが、人っつう生き物としての良識だろ。相互理解がゴール。けど、それを善しとするせいで、その善を成そうとするせいで、争いが生まれてんだと、俺は思ってる」
主語が大きい。タツキは眉間に皺を寄せていた。壮大な思想の話が始まりそうだ。あまりそういう類の話題は好きじゃない。
彼女は話半分で相槌を打つことにした。
「それで?」
「もし、人間みーんなが、人ってのはいっぱいいて、それぞれみんな違う生き物、そういうややこしい種なんだ、けど仲良くしてみようぜって意識で生きてれば、こじれずに済むはずなんだ、色んなとこが」
彼の軽い口調のおかげで、タツキはなんとか聴いていられた。
「相互理解からスタートする。そんで最終的に、俺たち全然違う生き物だけど、これが好きでこれが嫌なのは一緒だったね、ってな具合に理解が深まる。関係が発展する。これが知性と理性ある生物の健全な姿」
「言いきるね。でもどっちにしろ争いは生まれると思うけど」
「同じ生き物のはずなのに分かりあえないから。違う生き物が分かりあうために。争うことに変わりなくとも、欲しているのは排除か融和かだ。さあクイズ。どっちが酷くならないでしょう」
「……そりゃ、平和に終わるのは融和じゃない?」
「うん。俺もそう思う。めでたしめでたしで締め括るには、誰かが笑顔、じゃ味気ない。誰もが笑顔、じゃなくっちゃな」
虫のいい話だ、とタツキは思った。めでたしめでたしで終わられてしまったら、犠牲はどこにゆくのだろう。
「だとしたら、花と魚のやつは、また違う話になってくるでしょ」
「おお?」
「だってあれは住み分けの話だもん。別に仲良しになって終わってないし」
「そうね、俺が今言ったのはあくまで、全てがいい塩梅にいってる人間の世界のお話。目指すべき場所かもしれないが、現実から見れば夢のまた夢、アトランティスだ。それを、今いるこの世界で、なるべくそっちへ舵を取ってみようとすると、花と魚のお話になるわけよ」
「魚は花とは理解しあえないから、無駄なことしてないで死ぬ前に水に逃げろって?」
「随分いじわるな風に言うね。適材適所だ、要するにな」
「……」
シノギの結論は、タツキの腑には落ちなかった。
「違う気がする」
「軍場の心得さ。安全で脅かされる心配のない場所を確認しておくこと、魚にとっては水場だな。不利な場所で無理やり戦おうとしないこと、土の上じゃ息できないからな。一番大事なのは、己が脅かす側であるという自覚を持つこと。望んでいようがいまいが、先に花壇を荒らしたのは魚だ、それを忘れちゃいけない」
「耐えがたい仕打ちを受けても?」
「だからこそだ」
「逃げるなってこと」
「やあ、逃げていいさ、泣き寝入りもたくさんしていい。けど、どれだけ逃げたって、泣いたって、限界はある。逃げた先で、涙が枯れたあとで、その時どうするか」
商店街を抜けると、賑わっていた人々の声がだいぶ遠くに聞こえてくる。二人の間を通っていった風も、かなり冷たく感じた。
「茎が曲がっても潰れても、時期がくれば花は開く。水に根を張れるのだっている。長い時間をかけて肺を獲得した魚や、ヒレが発達して海底を歩けるようになった魚もいる。なら、人は、お前はどうするって。そーゆーお話」
穴が多いように感じるが、間違ったことは言っていない。タツキはどっちつかずな頭の揺らしかたをした。
「自責の念はいらない、責任と覚悟だけ持ち、必ず果たせ。まあ、もうここまで来ると、つわものの矜持だから、あんま関係ないけど」
パン屋が見えてくる。
「おっ、盛況だな」
シノギに倣ってそちらを見ると、店の外まで人だかりができていた。漂ってきた香ばしい香りに、その場の全員が頬を緩める。もうすぐでアジトだ。
着いたら、今日感じたこと、思ったこと、すぐにメモに残そう。タツキのはやる気持ちが、その足取りを速める。鎺のアジトがある通りは陽が西に傾くと陰になる。そのせいか人気はなく、シノギとタツキの靴音が大きく聞こえた。
「さて、俺が柄にもなくこんなことを宣ってみせたのも、タッちゃんを一日中連れ回したのも、朝からずうっと追いかけてきてくれてた熱心なお友達がいたからなんだが」
「えっ?」
辺りを素早く確認するタツキとは対照的に、シノギはあっけらかんとしていた。
「どゆことシノギさん」
「おかげで考えごとに決着がついた」
タツキは首を回して周囲に目を凝らしていた。
そして、見つけた。アジトへの道を塞ぐようにして暗がりから現れた、黒服の男を。明らかに友好的ではなさそうな存在の登場に怯えた彼女は、シノギの袖を掴んだ。
「ちょ、ちょっとシノギさん、早く逃げないと!」
「逃げるったって、ねぐらが割れてちゃなあ」
呑気にシノギが言っている間にも、男は迫ってくる。
距離が近づいたことで、男が筋肉質で逞しい体の持ち主だと分かった。その手にスタンガンが握られていることも。
「あら物騒だこと」
シノギもさすがに険しい顔つきになり、タツキを自分の背に庇う。紙袋を託された彼女は、見たい気持ちと見たくない気持ちで板挟みになり、結局シノギの体から顔を半分だけ覗かせた。
男が真正面から向かってくる。タツキは彼の服にしがみついた。
「シノギさん、シノギさん! あなた一番最初の罹患者なんでしょ! ナイフとか吐いて戦ってくださいよ!」
「バカ言うなよ。俺のは身体への殺傷能力はない特殊なやつなの! あと、とかってなんだとかって。俺はナイフしか吐けねえよ」
男が敵意をむき出しにして襲いかかってくる。スタンガンが、ジジジと唸った。
タツキはそれ以上見ていられなくなって、完全に彼の背後に引っ込む。突進する男の気迫に押されてか、シノギがじりじりと後退する。
「大人しくしろ!」
男はそう叫んでスタンガンを突きつけた。
シノギは軽い身のこなしで攻撃を避けると、男の太い手首をガッチリと掴んだ。
「こっちの台詞、だっ!」
彼は自分のものより倍は太いかという男の腕をたやすく捻り、スタンガンを手放させることに成功した。
落下するそれを反対の手で取ったシノギが、なんの躊躇もなく男の体に当てる。
「ううっ!」
腕をさらに捻られ、体に電流を流された男が倒れ込んだ。
それでもシノギは許さない。
「降参?」
「っ、」
男が頷いたのを見て、ようやくシノギはスタンガンを離し、彼を解放した。
タツキが恐る恐るシノギの後ろから出てくる。見ると、紙袋はかなり潰れてしまっていた。
「俺のが上」
起きあがろうと体をよじらせる男に向かって、シノギは悠々と言った。
「オーケイ?」
男は何か言い返そうとしているようだったが、思うように喋れないのか口をぱくぱくさせるのみだった。
「余計な真似するなよ。お前がどこのどいつが飼ってる犬か、おおかた見当はついてるからな。にしちゃあ、躾がなってねえような気もするが」
「シノギさん、パン潰れちゃったかも」
安全だと分かった途端、タツキはタツキで呑気に眉尻を下げていた。
やっとのことで男が立ち上がる。
「無礼は、百も承知。これは貴公の力量を測るための」
そこで言葉は途切れ、男は再び地面に伏した。
どさり。
倒れた彼の背後から現れたのは、クロガネだった。
「わあお」
シノギの顔が引き攣る。
気の毒そうに男を見つめる彼とタツキに、クロガネはかぶりを振ってみせた。
「心配ない。峰打ち」
「う、ううむ。追い討ち」
シノギが視線を遊ばせる。言われた彼女は手にした刀に目を落とし、不思議そうな顔をした。笑うしかないといった風にシノギは手を叩く。
「まあいいや、みんな生きてるし」
タツキに向かって紙袋は持ったままでいるように指示した。彼女の承諾を得たシノギは、男の体を引きずっていく。そのあとに続いて歩くクロガネに、タツキは紙袋の一方を手渡した。
「これは」
「パン屋さんから」
「ああ、イチゴ」
中を覗いたクロガネは大切そうにそれを持ち直した。苺のパンなんてあったかな、とタツキは疑問を浮かべる。記憶を辿ってみたが、覚えているのは、パン屋の店主のエプロンに苺のマークがあったことくらいのものだった。
「ねえ、クロガネ…さん」
「なんだ」
「苺の旬っていつだっけ」
「ふむ」
藪から棒に問われた彼女は二回、遅めの瞬きをした。
「季語は夏、本来の植生では春から夏。寒冷地域では夏から秋。いちご狩りの最盛期は晩冬から初夏。スイーツでいえば冬から春先にかけて。つまり……」
「つまり?」
「苺による」
クロガネは息を継いだ。
「いっぱいあるから、苺は」
「……そう、だよね。種類もめちゃくちゃあるし」
「ああ」
頷いたクロガネがアジトに入っていく。
「…………」
彼女の後ろ姿が消え、扉が閉まってもなお、タツキはそこから動かなかった。
いっぱいあるから、苺は。なんとなく、その答えが嬉しかった。
「いっぱい、ある」
鼓舞に似た胸の高鳴り。
彼女は小さく繰り返した。
「いっぱいある…ふふふっ」
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