軍場



「ううん、負けた負けた!」

 生暖かい春風に迎えられる。

 ゲームセンターから出る時の、現実に引き戻されるこの感じ。幸せな夢から醒めた時の喪失感に似ている。一歩出ただけで、聞こえてくる音も、漂う匂いも、何より周りのスピードがまるで違うのがリアルだ。向かいにあるパチンコ屋が夕闇に呼応するようにネオンを点滅させていた。熱心な視線を送るものの、シノギは己を諌めるように首を振った。だめだめ。あっちは昂りすぎるんだから。それに、あっちで負けたら、あとが怖い。

「号外でーす」

「お」

 胸に押しつけられた新聞紙をしげしげと見る。警視庁舎襲撃さる、という文字が大々的に印刷されていた。

「あーらら、物騒……ナイフ病の罹患者が一般入庁者を装って侵入、他の民間人がいる二階部分で銃と思しきものを乱射……おいおい、ほんとに物騒じゃねえか」

 読み進めていくうち、シノギの表情は厳しいものに変わっていった。

 何者かの電波ジャックとハッキングにより事件発生時刻の前後、およそ二時間にわたって警視庁舎周辺のセキュリティシステムの記録媒体は無力化。犯人は記録に残っておらず、また事件当時現場にいた職員は犯人によって全滅、よって目撃者なし。詳しい職員の安否や容体は分からず。犯行が一人によるものか、グループによるものかは捜査中。犯人の目的についても不明。警察内部の被害者は百人を超えるとされ、警察は威信をかけてこの事件解明に乗り出すと発表。

「はは、凶悪」

 そう片づけたシノギは新聞を適当に折りたたみ、尻ポケットに突っ込んだ。

 ここまで大ごとにするなら、十中八九CASE:712絡みの事件だろう。CASE:712の研究レポートは、権力者、特に著名な医師や研究者が所持している。手書きの草稿を含む数ページが警察という国家権力の下に保管されていることも、シノギはずっと前から認知していた。だからこの事件が、件のレポートを回収したがっている黒幕か、その刺客が起こしたものだろうというのも、すぐに想像がついた。

 はやる気持ちを抑えつつも、足取りはやはり軽くなる。寄り道もそこそこにアジトへ帰り、いつもの調子でドアを開けた。

「ただいまあ」

「うああああああああああ!」

「!?」

 耳を劈いた絶叫に、シノギは目を白黒させた。

「な、なんだなんだ」

 身をすくませ、開けかけたドアを一度閉める。この時期は人間みんなが忙しく、鎺の連中もその例に漏れず。アジトにいるのはシノギとクロガネだけのはずだ。シノギはおずおずと問いかける。

「キサキ?」

 だが、扉の外まで貫く泣き声が大きすぎて、他の何も聞き取れそうになかった。観念したシノギは耳に手を当てたまま、家の中に入った。わあわあと泣きじゃくる声におっかなびっくりしながら、廊下を進んでいく。

 リビングを覗くと、泣いていたのはクロガネではなく、タツキだった。

「タッちゃん?」

「もうずっとこれでな」

 振り返ると、クロガネの戸惑うような顔と視線が合う。シンクにもたれて水を飲んでいた。わずかに疲労の色が見えた。

「おかえり、シノギ」

 クロガネにただいまと返し、彼は珍しく真剣な眼差しをした。

「……説明する」

 そんなシノギの様子を察してか、クロガネは頷いてカップをゆすぎ始めた。

 タツキを背中越しに窺う。あの泣き喚き方はどう見ても異常だ。ここでクロガネが話し始めたところで、重要なところを聞き逃しそうなほど。

「変えるかぁ、場所」

「分かった。私の部屋でいいか」

 シノギの了承を得たクロガネは、踵を返す。

 クロガネの部屋は、相変わらず暗かった。間接照明はどれも暖色の光を放ち、小さなテントが隠れ家のように建っている。クロガネはテントの中に胡座をかいた。定位置だ。シノギはベッドに腰かけ、尻の違和感に気がついた。

「そういえばこれ」

 号外の新聞を広げて突き出すと、クロガネは遠い目をした。

 それから顔を伏せる。

「……なあシノギ。私達は随分と、科学と医学の食い物にされたよな」

「え? 何よ急に……まあ、そうね、俺らは特にね。初期検体だったからねえ」

 シノギが、クロガネに突き出したまま受け取られない新聞に哀れみを向け、自身の傍に置いた。

 初期検体というのは、最初の患者であるシノギを筆頭に、発見から一年間で重篤症状を認められた罹患者のことだ。

「軍事利用まで見据えた政府によって、色々と常人離れしたこともさせられた」

「いわゆる、※特殊な訓練を受けています、ってやつね」

 現在の鎺の構成員も、数人を除いた全員が初期検体の罹患者だ。タツキが鎺になることを力不足と彼が拒否したのは、そういった意味もあった。しかし、クロガネがなぜそんな話を突然始めたのか、その真意はまだ見えてこなかった。

「あの時、力を悪用する奴らの抑止力たろうと、鎺を名乗った。ナイフ病に罹ったから、力を得た。たとえ不条理に翻弄されたのだとしても、自分が初期検体だったことを誇りに思っている。少なくとも、私は」

「そうね。俺もそうよ。手に入れた力とは、手に入れるべくして手に入れたんだ。持て余してないで、使わなくっちゃ」

「だが彼女は違う。ナイフ病に罹って、故郷も家族も友人も知り合いも、何もかも失った。特殊な力も、訓練で培った経験も、自信を持って仲間といえる存在もない。ただの女子学生だ」

 クロガネの憐憫に、シノギも頷いて同意する。

「彼女には、凄惨すぎたんだ」

 床に置かれた新聞紙が、二人の焦点にあった。

「何をやらかした?」

 いつものことながら言葉が足りない。シノギは眉間に皺を寄せた。さっぱり分からないという顔をしてみせると、クロガネはお返しとばかりに呆れと懐疑の顔をした。

「一応訊くが……お前、昨日の夜どこに行ってた」

「いつものバーで飲んで」

「ああ。それで?」

「明け方くらいに雀荘行って」

「それで」

「昼くらいからゲーセン行って、で、帰ってきた」

「だろうな」

 元から期待していなかったとでも言うような口ぶりだ。

「まず、私が起きた時、彼女は脱走してた」

「脱走」

「ああ。信じてもらえなかったみたいだ」

 クロガネが寂しげに足をぶらつかせた。

「帰宅したんだろうと推測した。であれば、警察に保護されるはずだ。ナイフ病にまつわるでかい事件は捜査一課の管轄」

「保護」

「現場から血液が検出されたらしいからな。二年目の患者からは症状が軽度でもデータベースに登録されるのが義務づけられた。警察は彼女の身元を割り出せる」

「んで」

「私は警視庁に向かった」

「向かった」

「私の推理が外れていたら、他を探す必要が出てくるだろ」

「行方不明のタッちゃんの居場所を知っておきたくて?」

「彼女が不利になるような調書をとられるのは忍びないと思って」

 とられてたとして身一つでどうする気だったんだよ、とは言わなかった。

「警視庁舎の近くまできて、異変に気づいた。二階の窓が割れていた。外から彼女の姿が確認できた。だから突入した」

「突入した」

「傍にいた少年から嫌な雰囲気を感じて」

「切れ者の勘ってやつ?」

「刺客だった」

「さすが、鋭いな。じゃあ狙いは機密資料?」

「ん」

 彼女が頷くのを見て、ふうんと頷く。

 シノギの声音は、普段とは別人のように真剣だった。

「そんでそいつ、逃がしたの。お前ともあろうものが」

「ああ、窓からな。無論、挨拶はしておいた。そいつはファイルを奪っていったが、あの場においてはその方がよかった。おかげで私は混乱に乗じて彼女を連れ帰ることができたし。女子大生切りつけ事件の捜査も暫く止まるだろう」

「CASE:712の捜査も、な。これで警察はコースアウトだ」

 本来の計画とはかなり違っているが、競合であった警察を蹴落とせたなら、よしとするべきか。シノギは顎を撫でる。そもそも彼らには荷が重すぎる標的だったのだ。罹患者でもなんでもない人間が、刺客に太刀打ちできるはずがない。黒幕の息がかかった刺客は、兵士として有用な罹患者揃いだ。もはや生物兵器の域に達している者もいる。そんな奴らが一般人を蹂躙することなど。赤子の手を捻るよりも簡単だ。

 百人という被害者数は、シノギから見れば少ない方だった。

「その一部始終を間近で見てたわけだ、タッちゃんは」

 精神を保てないのも無理はない。シノギは彼女に同情した。

 クロガネもシノギと同じ気持ちにあるのだろう。眉尻を少し下げて言った。

「すぐには快復しないよな」

「無理だな。まあ、ほっとけば泣き疲れて寝るんじゃない」

「お前の部屋に寝かせるか」

「勘弁」

 シノギが眉を吊り上げる。クロガネはくつくつ笑った。

「あれ、そういや授業は?」

「ここ一週間は、出された課題だけこなしておけと」

「ふうん。ちゃんとやれよ」

 シノギはのびをしてベッドに寝転んだ。

「俺ここで寝ていい?」

「いいよ」

 テントから這い出たクロガネが立ち上がる。

「私はお前のベッドで寝る」

「つれないね。一緒に寝ようじゃねえの」

 ハグを待つように両腕を広げ、体をくねらせる。

「互いの息遣いと心音を聞きながら、体温を交換し合おうぜえ」

「はぁ。うるさくて眠れないだけだろ」

 図星を突かれ、シノギは不満そうに口を尖らせた。

「一辺倒なんだよ手口が」

 クロガネはやれやれと言って部屋を出た。このアジトが本来の使われ方をされている時も、シノギはよくこう言って誰かを道連れに、喧騒から逃れようとしているのだ。残念なことに撃沈しているところしか、クロガネは目にしたことがないが。

 タツキのいる部屋には踏み入れずに様子を窺う。まだ慟哭のさなかだった。びりびりと壁が共鳴していた。リビングの電気をそっと消して、キッチンにマグカップを置いておく。喉が渇いても、これで水分を補給できるはずだ。

 今してやれることはこれくらいか。

 部屋に戻ると、シノギは嬉しそうに彼女を見た。

「ああ、やっぱりお前は唯一無二だぜ」

「誰にでもそう言ってる」

 ため息をして、全く真に受けないというようなクロガネの表情に、シノギは心外だと反論した。

「相棒と躊躇なく言いきれるのはお前だけよ」

「そいつはどうも」

 クロガネはノートPCを手に持って、壁に接地している側のベッドの角に陣取った。胡座をかいた彼女の脚を、シノギが待ってましたとばかりに枕にする。彼女は、開いたノートPCの眩しさに眉間を顰めた。

「シノギは特別。私にとっても」

 クロガネは画面に集中していて、その目も顔も、彼の方など微塵も向かない。

 それでも十分伝わると、分かっているからだ。

 シノギが長く、長く息を吐いた。

「ありがとな、キサキ」

 いつになく誠実な響きを帯びていた。

 キーボードを叩く小気味いい音が、シノギの瞼を重くする。数分も経たないうちに、彼は寝息を立てていた。

 その夜、シノギは夢を見た。

 あの頃の夢だった。

 シノギはいつも通り、マジックバーにいた。他愛ない話に花を咲かせ、時には手品を披露して、夜を明かすのが彼の生きる愉しみだった。そこでは若い世代が珍しかったのか、シノギは客からも店員からも可愛がられていた。シノギの十八番は、ナイフを使ったマジックだった。ナイフ投げの腕前も相当のもので、常連とダーツに興じる際も、彼だけナイフで参加していたほどだった。

 周りの客が酔い潰れ、マスターがカウンターの奥で静かに作業をしていた午前四時。異変は起きた。シノギは手持ち無沙汰になって、ナイフゲームを始めた。手を開いて机に置き、指と指の隙間を順にナイフで突いていく遊びだ。最初はマジック用のものでやっていたが、段々と物足りなくなってくる。シノギは本物の、切れ味のあるナイフを取り出した。慎重にやっていたのが徐々に速くなっていく。彼はいつの間にかこの度胸試しに夢中になった。もし刺さったらという危惧の中、痛みに備えながら、精巧かつ素早い動きが求められる。一瞬たりとも気を抜けず、精神がすり減っていく感覚。

 このスリルはシノギには堪らないものだった。

 そのうち彼は、アイスピックに目をつける。突いて刺すならナイフよりも優れている。誘惑に抗えずに手に取ったそれでゲームを再開した。鼓動が速くなって、全身に血が行き渡っていく。

 彼の集中を邪魔したのは、唐突に襲った吐き気だった。アイスピックを放り出して口を押さえる。バタバタと慌ただしくバーから退散した。

 道端に手をつき数回荒い呼吸をしていたシノギの目に生理的な涙が込み上げてきて、身体からはズルズルと力が抜けていった。四つん這いになる。酒はさほど飲んでいないはずなのになぜと思いながら、吐き気に従ってえずく。

 カランカラン、と音がした。

「はあ……あ?」

 シノギには信じられなかった。鈍く光を放つそれは紛れもなく、ナイフだった。

 瞬きをすると、周りの光景が変わっていた。どこを見ても白い壁。すぐにどこだか分かる。先ほどとは違った吐き気がした。

 初期検体の研究施設だ。彼の服装も被験体に着せられるボディスーツになっていた。懐かしくて、忌々しい。

 不意にスピーカーから声が響いた。

「新しい協力者だ、君にとっては仲間といえるな」

「仲間?」

 彼が缶詰にされていた味気のない病室に、ベッドが一つ増えていて、そしてそこに、そう、あの感情の読めない顔をした誰かが胡座をかいて座っていた。シノギよりも年下に見える。

「名前は?」

 ゆっくりとこちらを向いて、同じくらいにゆっくり瞬きする。蝶が羽休めしている時の仕草に似ていると、あの時もそう思ったのだった。

「……クロガネキサキ。鉄に鋒と書いてそう読む。あんたは?」

「俺はシノギ。白いに金に、しのぎを削るの鎬で、シロガネシノギ」

「そうか。お互い難儀だな」

「色々とな」

「よろしく頼む」

 包帯の巻かれた手と握手をすると、シノギの手が掠れた赤に染まる。

「悪い。汚した」

「いいよ、あとで拭きゃあいいんだもの」

「よくない。貸せ」

「ははは、頼もしいこと」

「君らは、一生をここで過ごすつもりかね?」

 背後から問いかけられ、シノギが振り向くと、再び景色が一変する。施設の屋上、夕焼けでシルエットと化したその男はしわがれた声で続けた。

「本当にそれで、悔いはないかね」

 シノギは答えることはせず、じっとその真っ黒な男を見つめた。

「私の元に来るといい。特殊部隊でも私立スパイでも、秘密組織でもなんでもござれだ。もっと自由に戦えるようにしてやろう」

「うえ、まっぴらごめんだね。あんたの下につくなんて」

「簡単に下るタマだとは思っとらんよ。まずもって私が、君らを従えられるような人間ではないし、そもそも私にはもっと従順で優秀な部下がいることだし。そうではなくてだ。君らが一対の、新しい翼として羽ばたけるように、飛び方の指南や宿木の用意を、私が買って出ようと言っているのだ」

「何それ。俺らだけ得してるじゃん」

「そんなことはない。これは先行投資だ。君が前に話してくれたように、今後、常人とは違った力を持った人間が、悪意をもって世間を脅かすことが増えてくるはずだ。その時に、君らのような存在が対抗勢力として立ち上がってくれるというのなら、その功労は、価値は、計り知れないものだ。どうかな、私をいいように使って好きに翔ぶというのは」

「……動機は」

「老いぼれが君らの青さと熱意にあてられただけさ」

 男はしわがれ声で笑った。

「純に君らが好きなんだよ、人として」

 シノギは黙りこくる。男の向こうに広がる夕焼けを眺めて。

 両者とも口を開かない時間が続いた。

 紫色の空が群青へ、群青から濃藍へと移ろう。

「名前はもう、決めてあんだ」

 シノギの言葉が、暮れゆく街に吸われていく。

「鎺ってえの」

 この瞬間の胸の高鳴りときたら。もう少しで吐き気がするところだった。夕空を浴びながら瞼を下ろして、再び開ける。

 そこは薄闇だった。

「…………ああ。夢」

 意識が覚醒していくのに合わせ、ここがクロガネの部屋であることを理解する。頭に少し沈んだ感触があるのは、そうだ、クロガネを枕にしていたからだ。上体を起こすと、クロガネは胡座をかいたまま、壁にもたれて眠っていた。電源は消えているものの、ノートPCも開けっぱなしで彼女の前に鎮座している。

 タツキの叫声もそういえば聞こえてこないので、昨夜彼が予想したように疲れて果てて寝ているのだろう。

 シノギはまず、クロガネを起こさないように細心の注意を払ってベッドを下りた。そして、ノートPCをいつも置かれている机の上へ戻す。次にクロガネの体をベッドに横たえてやる。彼女は身じろぎしたが、目覚めはしなかった。眠りを妨げずに済んだことにホッと胸を撫で下ろす。

「これでよし」

 達成感に浸っていた彼の胸ポケットが、突如、振動した。スマホを入れたままにしていたのだ。メッセージの通知かと思いきや、数秒震え続けているので、不思議に思って画面を見てみると入電の報せだった。発信者名を一瞥し、クロガネの部屋をそっと去る。そのままシノギが靴を履いてアジトの外へ出るまで、彼のスマホは鳴り続けていた。

 夜明けはまだのようだったが、空が白んできている。

「よお」

「白金か、こんな時間にすまないな」

「ちょうどあんたの夢を見てた」

「私の? 奇妙なことも起こるものだな……今、周りに人はいるかね」

「いないとこで出る決まりだろ」

「そうか」

「何かご用?」

「訊きたいことがある」

「奇遇だねえ、俺も、おんなじこと思ってた」

「……ほう」

 電話の相手はそこで一呼吸おいた。

「先日の、警視庁襲撃の件についてだ。百を超える職員が犠牲になり、CASE:712に関する研究レポートをまとめた機密資料が奪取された」

「らしいね」

「君らの仕業というはずはないだろうが……君なら、その犯人について心当たりがあるかと思ってな」

「俺に訊く必要ある?」

「ふー……」

 息を吐くのが聞こえた。

「やはり、そうか」

「これで諦めついた?」

 シノギは嘲るようにスマホを揺らした。

「そっちこそどうなんだよ。ファイルは厳重に保管されてるとか言ってなかったっけ。わざわざ取り出しちまったら、どうぞ持ってってくださいとでも言ってるようなもんじゃねえの」

「返す言葉もない」

「あんたともあろう者が、なぜだ。みすみす捕り逃がした挙句にあれまで奪われちゃあ、戦線離脱もいいとこだぜ」

「全くだな」

 妙に歯切れがいいのが不気味だった。百人の部下を失ったことを、なんとも思ってないのだろうか。

 シノギはハッタリをかましてみることにした。

「言っとくが俺は知ってるからな。あんたがあいつらとも繋がってんの」

 彼の言うあいつらとは黒幕、つまりCASE:712の草稿を書いた張本人。あるいはそれに付随する研究者達。号外の新聞は持ち出して来ていた。紙面を再び読んだシノギは、この事件を予定調和に感じていた。準備が良すぎる。裏で糸を引いている者でもいない限り。

 この男のことだ、鎺に加担する傍らで、どうせ研究者とも繋がりがあるのだろう。鎺の力と研究施設の力が常に拮抗するように、情勢を操っているに違いない。というか、そんなことできるのは彼くらいのものだ。

「…………敵わないな、君には」

「天秤は警察の役目じゃねえだろ」

 シノギの鼓膜をしわがれ声が打つ。

「笑いごとじゃないんだけど」

「すまない。いや何、少し嬉しかったのさ」

「百人も殺しといてよく言うぜ」

 いやむしろ、百人で済むようにしていたか。この男なら、そうなるように手配していてもおかしくはない。

 皮肉めいたシノギの辛辣な言葉にも、彼は淡々とああ、と返す。

「万事を長い目で見なくては、我々の柱が折れてしまうからね」

「大変ねえ」

「お気遣い、痛み入るよ。しかし、これは君らにも通じることと存じているがね」

「俺ら?」

「そもそも、君らはなぜ彼らを追っているのかね。四年前、やっとの思いで逃げ出したというのに。新たな刺客を生み出されたくないのか、それとも研究そのものをやめさせたいのか。他にも理由はあるだろう。だがあの時のように、皆の足並みを揃えなければ、彼らの隙を突くことは難しいぞ。目指すものの違いは、最後の最後で痛手となり得る」

「ご忠告どうも」

「少々喋りすぎたかな。では、そろそろ切らせてもらおう」

「はいはい」

「君の意見が聞けてよかった。失礼するよ」

「ええ。ではまた、警視総監どの」

 通話を終える。

「正義の下僕ってのは大変だなあ」

 同情を込めてシノギは言った。通話画面を閉じる直前に、彼はふ、と笑った。

「あんた、だからこそ、鎺に焦がれたのかもな」

 余韻も何もなく、シノギのスマホは再び胸ポケットに放り込まれた。

 ひやりとした空気が肺に届いて、シノギは腕をさすった。春とはいえ、この時間はまだ肌寒い。彼は駆け足でアジトに帰った。

 声に出すか出さないかくらいのただいまを言う。

 靴を脱いで、踵の縁部分を引っ張りあげる。出る時に急いだせいで履き潰してしまったのだ。丁寧に直して納得のいく出来になったところで、シノギはリビングに向かった。

 ことは大きく動いた。これまでぎりぎりのところで保たれていた三勢力の均衡が破れた。こうなりゃ全面戦争だ、と湧き立つ己を諌めつつ、実現可能な勝ち筋を構築し始める。

 シノギの部屋はクロガネの部屋の向かいだ。電話口で受けた忠告を反芻する。

 足並みを揃えなければ隙をつくことは難しい。

「いいや。よく訓練され統率された、心の髄まで躾けられた奴らが相手だからこそ、足並みの揃わない鎺でも勝てる戦だ」

 以前にクロガネも危惧していた点だが、そもそもCASE:712の調査を担当としたのはシノギとクロガネの二人のみだし、そう決めたのもシノギだ。最小人数で切り込みに行くのは、研究施設の壊滅よりも先に果たすべき目的があるからに他ならない。

「君らはなぜ彼らを追っているのかね」

 彼がそう訊いたのは、鎺の掲げる正義に反していると受け取ったからなのだろう。けれど、鎺には正義などない。鎺とて悪であると、彼ら自身が理解している。世間から義賊と称えられようと、誰かを除け者にし、笑いものにしてきたのだから。

 研究施設を探っているのは、正義のためなんて高尚なものではなく、ひとえに彼らの信念から来るものだ。どれだけ散り散りになろうと変わることのない、鎺の根っこの部分から。

 シノギは床に散らばっているナイフの中から手頃なものを取り、壁にかかったダーツ盤に向かって投げつける。

 それは見事に突き刺さり、金属音を震わせた。

「人間だ、切れ者だって。鎺はそう訴え続けてやる」

 独り言だった。

 酷い重症患者の中には、己の生み出した刃で命を落とした者もいた。恐怖によって症状を出してしまうがために、精神が壊れてもなお身体から延々と金属を生み出し続ける患者もいた。軽症患者ですら心ある人の扱いを受けられない者もいる。タツキのように。

「だから、それを証明するために、真実が知りたい」

 ナイフ病の真実を解明する。鎺がその名を冠した瞬間から今まで、なによりの目標として掲げていることだ。病の根源、身体へ影響が及ぶ詳しい仕組みと順番、それらがなぜひた隠しにされているのか。症状を和らげる療法は、完治に至る薬は、本当に存在しないのか。

 しかし、肝心の研究施設の居場所や、黒幕の正体に繋がる情報が少ないせいで、調査は行き詰まっていた。

 あの男が研究施設と結びついていたとして、その理由はなんだ?

 警察を正義の象徴のように見ている奴が、犠牲の天秤にそれをかけた理由は?

 百人殺して、何を得た?

 悩んだ末に、一つの仮説が浮かびあがる。

 シノギはするりと顎を撫ぜた。

「……なしじゃない。それなら警察にも勝ちの目が出てくる」

 リビングから、人の動く気配がした。タツキが起きたのだろう。彼は部屋を出た。

 クロガネはまだ眠っているようだった。

 日差しはシノギが外へ出ていた時よりも強くなっていた。

「……」

 タツキは毛布の山の中から上半身だけ覗かせ、ぼんやりと虚空を眺めていた。

 なるべく優しく。と彼は心がけた。

「タッちゃん」

 ぎくりと肩を揺らしたタツキの焦点が、シノギの方に合っていく。

「あ…シノギさん……」

 彼女の声はがらがらに掠れていた。

 何度か咳払いをして、シノギに向かってぺこりと頭を下げる。

「おはよう、ございます」

 きっとまだ、意識が混濁しているのだろう。

 シノギが明るく挨拶を返すと、タツキは腹の辺りをさすった。

「おなか空いた?」

「……はい」

 食欲があるのはいいことだ。

 タツキのすぐそばまで歩いていったシノギは、まだ虚ろな瞳でいる彼女に手を差し延べた。

「じゃあ行こう」

 その手を不思議そうに見つめたタツキを、無理やり立ち上がらせる。

「腹が減ってはなんとやら、だからな」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る