第10話 ギターを買おう。ギターを鳴らそう。

 ロスガには現在ニ名のスタッフが常駐している。名前を田村と中村という。男性スタッフが田村で、女性スタッフが中村である。スタッフは時折俺の家に来て所用を、特に仕事とかをこなしていくことがある。彼らの仕事は俺の世話とかもたまに含まれていたりする。苦労するよな、本当に。申し訳ない。



「神野さん、またエナジードリンクの缶を捨てないでそのままにしたでしょ。洗濯機も回してない。服を入れただけ。それと、昨日はちゃんと風呂かシャワーは入りました? 神野さん?」



 ロックンロールというのは人生で鳴らすものであり、人生があるからこそ鳴らすものなのである。こんな世界は嫌いだ、と言いながら、世の中とか世間とか人間関係とか、仕事とか学校とか、うんざりするものや大嫌いなものから逃げるように、逃げ込むように掻き鳴らすのだ。



「神野さん?」




 俺だって人間である。嫌なことだってある。いや、嫌なことばかりだ。神様みたいだなんて言われたりすることがあるが、しかし神様ではない。人間だ。腹も減るし、飯も食うし、トイレもする人間だ。



「神野さん! また本を積み上げて。どうするんですか、これ」



 渋滞という素敵な言葉を知っているだろうか。渋って滞る。それで、渋滞。意味合い的に滞るのはわかるのだが、しかしその理由が渋っているからだというのはいただけない。渋るというのはその人本人の気持ちというか心持ち次第ではないか。積み読とは一つの罪であり毒であり、渋滞なのだ。しかし辞書で調べたらトドコオルという意味もあるらしいので、トドコオル渋、トドコオル滞で渋滞とするとなると、ふむ、それは確かに同じ意味の言葉が並んだ熟語ということになる。読みが滞っているのだな、俺の場合。



「神野さん!」



 彼はどうやら何かしらのことを俺に期待しているようであったが、しかし残念なことに自分にはなにもない。何も残っていない。特技なんてないし、歌が歌えるのとギターが弾けることくらいだ。そんな人はいくらでもいる。ごまんといる。他人から認められることでしか自分を認めることの出来ないとても弱い人間なのだよ。いつも震えていて、怯えて怖がっている。内には何も無いのだ。外側にしか、自分の外部にしか自分の価値を見いだせず、認めることが出来ない。そんな弱くて醜い人間。神様と崇められることでしか生きる価値を見いだせない、ずるくて、ずっとずるい。そんなやつになんの用があるってんだよ。



「神野さん! あっ、こんなところにいた。もう、何してるんですか」


「作詞の思考中」


「そうですか。もっと、部屋の広いところでやればいいのに」


「部屋の隅の方でやりたいときもある。あまり精神が安定していないと言うか、不安定というか、揺らいでいると言うか、まあ、つまりだな、しばらく放って置いてくれ。これでも仕事中なんだ」


「そうですか。まあ、それはそれでいいとして、でもですね、それでも、最低限の生活はしてください。神のさん。生きるためにやるべきこと、生活のことはちゃんとしてください。社会人というか、人間としての常識ですよ」



 常識を疑われてしまった。人間としての。



「あっ、ちょっと待った」




 俺はスマホを取り出して、メモ機能にすぐさまそれをメモする。それだ、それだよ、それそれ。と。ふとしたことはふとした時に降りてくるものである。まさに天啓である。



「ちょっと風呂に入ってくるよ。いまからわかしたんじゃ、時間かかるな……近くの銭湯に……」


「そう思って、風呂沸かしておきましたよ。さっさと入っちゃってください」


 

 なんと。なんと、まあ。なんと気が利くこと。なんてこと。いや、ほんとさすが。十年も俺のマネージャーやってるだけある。すいません、すいません。ありがとうございます。俺は丁寧に頭を下げて、それから風呂へ飛び込んだ。



 ふぅ……。



 風呂に浸かりながら、俺は思った。



 my new gearしたい……と。



 my new gearとは、新しく機材を手にしたときに発する言葉で、ネットスラングの一つである。この欲望は際限なく有り新しく手に入れたら、また次の新しいのが欲しくなるのだ。俺の場合はギターとか、ギターエフェクターとかがそれに該当するんだが、今はギター本体が欲しくてたまらない気分だった。そしてそれは青がいいのであった。青いギター。漆黒の青に塗られたどこまでも澄んで美しい青のギター。そんなのを想像する。青がいい、いや、青でなくてはだめだ。青いギターはすでに持っていて、いつも鳴らしている一本のうちのひとつなのだが、メーカーが異なればそれだけ雰囲気は違うし、作られた個体が違ければ、音も変わってくる。曲を作り、新しい曲を考えると新しいギターが欲しくなって、そしてそれらを考えること自体が、また同時に楽しくて仕方なかったのだった。これはギターを弾いている者の宿命であり、一番の欲望として顕現するものなのである。さあ、ギターを買おう。ギターを鳴らそう。音楽をやろう。それはきっと素晴らしいことで、人生を豊かにしてくれる。彩り豊かにしてくれる。そしてそれを表現するライブは、とても楽しいものなのだ。



 アーティストのライブでよく、知っている曲をやった、やらなかった、知らないマイナーな曲が多かった、つまらなかった、などと言う意見を聞くことがあるのだが、しかしそれは違う。勘違いをしている。大きな勘違いだ。



 ライブは知ってる曲の答え合わせではない。



 演奏者が次にどんな音を出すのか楽しみにして、その音を、耳を通し、目に通し、体全体で受け止めて、脳で聴く。それがライブの音楽だ。好きな曲が聞きたければ、シーディーを買って無限再生していればいいのだ。今どきで言うならば、ストリーミングサービスか? まあ、何にせよ、テレビでもラジオでもなんでもいいけど、一人で聞けばいいのだ。それはきっとその人の人生を孤独を豊かなものにしてくれるだろうよ。一人で、ひとりきりで音楽を聞いてひとりきりになることはとても良いことだ。その時間は奪われてはいけないし、大切にされなければいけない。一人の音楽の時間は人生を最も豊かにしていく。



 ライブはその場にいるみんなで、全員で、みんなで同じ時間を共有することに意味がある。体感して、共有して、共感していくのだ。だから時にアーティストはみんな今日はありがとう、みんな聞いてくれ、みんなの声が嬉しい、みんな、みんなと、繰り返すのだ。コール&レスポンスに見られるように、その場を作るのはアーティストだけじゃない。主役であってすべてじゃない。お客さんという、オーディエンスがいてこそのライブなのだ。繰り返すが、ライブは知ってる曲の答え合わせではない。お客さんの自己満足だけでは成り立たないし、アーティストの自己満足だけでも成り立つことはない。アーティストが一方的に聞かせて終わるだけのライブもあるが、しかしそれでも相手がいての自分だ。小説家の文章が読まれる読者あっての小説であり、小説家であるように、音楽を聞いてくれる人がいて初めてアーティストであり、ライブ活動ができるということを、アーティストはイチミリも忘れてはいけないのだということを常に胸に刻み続けなければいけない。売れても、売れなくても、自己満足でひとりきりで終わらせるのでない限り、どこかへ発表して発信しているのであれば、そこに相手がいるということを忘れてはいけないのである。当たり前で、当然のことなんだけどな。でも、だからこそ忘れてしまいそうになる。当たり前だから。




 風呂から上がって、支度を終えた俺は海外の缶ジュースをプシュッと開けて、半分ほど一気に飲んで床に置いた。ギター片手に座り、チューニングを済ませる。アンプから流れる音を一つ聞いて安心して、その手にした自分の青いストラトのギターを眺める。それから防音室で一人、曲のコピーをしながら音楽に浸る時間を作るのであった。




 本日のコピー曲:UNISON SQUARE GARDEN「ラディアルナイトチェイサー」「5分後のスターダスト」「さよなら第九惑星」

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神様のロックンロール 小鳥遊咲季真【タカナシ・サイマ】 @takanashi_saima

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