敵
河村 塔王
第1話
<国境>と言う名の不可視・不可侵の<境界>の先、量子観測機の照準に捕捉された<敵>の後姿。
遥か消失点の彼岸に存在する<敵>の後頭部に銃口を向け、数か月が経過した。
<俺>はひとり<房>と呼ばれる遮断膜に籠り、命令が下る瞬間を待っている。
狙撃手である<俺>に下される命令は、次の二種類しかない。
この任務が解除されるか、<敵>に向かって引鉄を引くか。
だが、軍に徴発された時点から、今日この瞬間に至るまで、幸か不幸か<俺>にはそのいずれの指令も発令されていない。故に<敵>はこの数世紀、量子観測機の照準に己が生命の営みを捕捉されたまま無事に生き存え、<俺>は一方的な生殺与奪の権利を掌握したまま、片時も視線を逸らさずに<敵>の日常を観察している。<敵>の観察も、狙撃手に与えられた重要な任務だからだ。
量子観測機の照準の中で、<敵>は今日も、己が前方の更なる<敵>に対して、その後頭部に銃口を向けている。
<敵>もまた<俺>と同じ狙撃手なのだ。
<俺>同様、<国境>と言う名の不可視・不可侵の<境界>の先、遥か消失点の先に存在する<敵>の後頭部に狙いを定め、<房>と呼ばれる遮断膜に籠り、命令が下される瞬間を待っている。
イタチごっこにも似た、この不毛な状況は、もう何世紀にも及んでいる。この奇妙な緊張状態が、何時、どの様にして始まったのか、知る者は最早誰もいない。狙撃手を務める<俺>は勿論、時の為政者さえも、狙撃手としての<俺>の存在意義、任務の意味を的確に答えられないに違いない。
戦争とはそう言うものだ。始めるのは簡単だが、終わらせるのは難しい。かくして<俺>と<敵>の様な狙撃手が、互いに無縁の兵士の命を絶つ構図が作られている。遊戯盤上のコマの様に。実験檻の中のマウスの様に。
<俺>は量子観測機の照準を<敵>の頭蓋に定め、引鉄に指を掛け続けている。
<敵>の正体や、自分の存在意義に疑問を抱いたり、余計な憶測や想像に精神を消耗する必要は無い。全思考を停止させ、<敵>の一挙一投足に全神経を集中させる。
銃が拡張された身体の器官ならば、引鉄は延長された脳神経であり、弾丸は凝結した思念だ。<俺>は純粋な兵器であり、純粋な機械である。無心で<敵>を唯ひたすらに臨み続ける。
この世界の終わる、その瞬間まで。
──数年後。
遥か消失点の先に存在する<敵>の頭蓋に銃口を向け、<俺>は変わらず<房>に籠り、命令が下るその瞬間を待っている。
例によって、軍に徴発された時点から、今日この瞬間に至るまで、<俺>には何の指令も発令されてはいない。故に<敵>もまたこの数年の間、量子観測機の照準に己が生命の営みを<俺>に捕捉されたまま生き存え、<俺>は一方的な生殺与奪の権利を掌握したまま、片時も視線を逸らさずに<敵>の日常を観察し続けていた。
量子観測機の照準の中で、<敵>もまた前方の<敵>に対して量子観測機の照準を合わせ、その頭蓋に銃口を向けている。遥か消失点の先に存在する<敵>の頭蓋に狙いを定めて<房>に籠り、命令が下るその瞬間を待っている。この<俺>と同様に。何時発令されるとも知れない、そのコマンドを。
突 如
二発の銃声が周囲の空間を震わせた。
<俺>は量子観測機による<敵>の観測を中断し、<房>の周囲を確認する。すると隣の<房>の狙撃手が、頭部を吹き飛ばされ絶命していた。<敵>の狙撃による戦死だ、と理解した<俺>は隣の<房>へと侵入した。
狙撃手の頭蓋は完全に破壊され、脳漿が<房>の内壁全体に飛び散っている。これでは<敵>の狙撃方向と距離を把握するのは難しい。
<俺>は覚悟を決め、狙撃手の量子観測機を覗き込む。すると、前方にこの憐れな狙撃手と同様に、頭部を吹き飛ばされた<敵>の死体が確認出来た。発砲音の間隔から、二人はほぼ同時に発射した、と考えられる。だが、どちらが先に発砲したかは判らない。そして、発砲は命令によるものか、長期間に及ぶ緊張状態に耐えられなくなった狙撃手の判断によるものかも不明だ。唯一確かな事は、精確な射撃に対する精確な応射が、二人の狙撃手を落命させた、という事だけだ。
一般に兵士、少なくとも<俺>は死を懼れていない。死は生者にとって唯一絶対の終わりであり、この世界、この現実、この状況から逃れられる唯一絶対の救済手段だからだ。死と言う終極があるからこそ、人間は何時まで続くとも知れない人生を生きられるのではなかろうか。
だから、<俺>には永遠の生命を冀う者の気持ちは理解出来ない。
永遠狂の人人は永遠を望むあまり、永遠に憑りつかれて精神を病み、気が狂ってしまった者達なのではないか、と思う。
真に懼ろしいのは終わる事ではない。終わらない事なのだ。
今の<俺>の様に──。
<俺>は一足先に戦況を離脱した二人を羨ましく思いながら、己の<房>に戻った。そして軍の司令部に一連の状況を報告すると、遺体の回収を依頼した。
暫しの後、医療班と記録班、工務班の計三個小隊が現れ、隣の<房>で軍の手引書通りの後始末を精確に為し終えると、何事も無かった様に、新たな狙撃手を補充した。戦争は未だ終わらず、<俺>への命令も未だ下されない。
──更に数年後。
遥か消失点の先に存在する<敵>の頭蓋に銃口を向け、<俺>は未だひとり<房>に籠り、命令が下るその瞬間を待っていた。
しかしながら、軍に徴発された時点から、今日この瞬間に至るまで、<俺>には何の指令も発令されてはいない。故に<敵>はこの数年の間も、量子観測機の照準によって己が生命の営みを捕捉されたまま生き存え、<俺>は一方的な生殺与奪の権利を掌握したまま、片時も視線を逸らさずに<敵>の日常を観察し続けていた。
量子観測機の照準の中で、<敵>もまた前方の<敵>に対して量子観測機の照準を合わせ、その頭蓋に銃口を向けていた。遥か消失点の先に存在する<敵>の頭蓋に狙いを定め、ひとり<房>に籠って、命令が下るその瞬間を待っている。<俺>と同様に。何時発令されるとも知れない、そのコマンドを。
不 意
一発の銃声が周囲の空間を震わせた。
<俺>は再び<敵>の観測を中断し、<房>の周囲を確認する。すると、以前と反対隣の<房>の狙撃手が頭部を撃ち抜かれ、絶命していた。<敵>の狙撃による戦死だ、と理解した<俺>は亡くなった狙撃手の死体を検分した。
狙撃手の頭蓋に穿たれた、後頭部から前頭部に貫通する銃痕。しかも、その弾丸は更に<房>の防護壁を貫き、遥か前方に霞む消失点の先にその軌跡を描いている。
<俺>は亡くなった狙撃手の量子観測機を覗いてみた。すると、前方に見える狙撃手の死体もまた、後頭部から前頭部に銃痕が貫通している様子が確認出来た。死体の損壊状況と発砲音の数から、二人は互いの後方の<敵>の精確無比な一撃によって、ほぼ同時に落命した様であった。
<俺>は直ちに自分の<房>に戻り、量子観測機の照準を後方に反転させた
途 端
<俺>の眉間に銃口を向ける<敵>の姿を確認した!
<俺>は慌てて<房>を飛び出した!
瞬 間
一発の銃声が周囲の空気を震わせた。
脊髄反射で振り返ると、後方から前方に<房>を貫通する銃弾の軌跡が見えた。
<俺>は死を懼れていない。死は日常だ。生者にとって、死は最も身近で、有り触れた現象だ。世界は死に充ち溢れている。終わりの無い始まりが無い様に、死の無い生も無い。
だが、量子観測機に映っている二人の死体──<敵>の姿は、無限に分岐・存在する平行宇宙の中の、有り得たかも知れない<俺>の姿であり、在り得るかも知れない<俺>の姿であると言える。<俺>はその重ね合わせの可能性を懼れている。
0と1とその間に横たわる、全ての可能性を。
<俺>はその無限の可能性から逃れる様に<房>に戻った。
そして、<俺>は量子観測機を介して<敵>の姿を臨む。
引鉄に指を掛け、照準を<敵>の後頭部に合わせた。
──更に数年後。
あれから幾人もの狙撃手が<敵>の狙撃によって命を落とした。
ひとり、またひとり、と死者の報告をする度、次は<俺>の番だ、と何度も夢想した。繰り返し想像する<俺>の死。或る哲学者によれば、人間は死を体験出来ないが故に、人間は死なないのだと言う。真理だ。死の無い生は存在しないが、生者は生きている間、決して死そのものを知る事は叶わない。死して尚、死を体験する事は出来ないのだろうか。そんな事を考えていた
瞬 間
<俺>に狙撃命令が下された。
<俺>は無心で引鉄を引いた。
<敵>の後頭部に銃孔が開き、頭蓋が破裂する。
砕け飛ぶ頭蓋骨。
噴出する血液と髄液。
飛び散る脳漿。
中空を舞う眼球。
その瞳孔が<俺>を睨んだ
途 端
<俺>の後頭部に鉛の塊が着弾した。
空間を切り裂き一直線に進む弾道が、脳を抉る。
やがて弾道は前頭葉を突き抜け、額から飛び出す。
砕け飛ぶ頭蓋骨。
噴出する血液と髄液。
飛び散る脳漿。
中空を舞う眼球。
回転する視界。
その端に、ちらりと見えた後方の<敵>。
それは紛れもなく<俺>の姿だった。
と、判明した次の瞬間、<俺>の意識は絶対の闇に閉ざされた───……。
敵 河村 塔王 @Toh_KAWAMURA
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