【短編小説】赤信号を渡って

綿来乙伽|小説と脚本

赤信号を渡って

「今、弱みに漬け込もうとしてる」


 誰も通らない午前三時の車道。貴方は私の手を取って赤信号を渡った。


 白い線を踏みながら渡る私達を轢き回す車も、正義を振りかざして赤信号の中車道に飛び出した私達を注意する人も、不吉な黒い野良猫も、いなかった。目の前には紅く染まった道路と、白と白の間だけ宙に浮く貴方と、それを真似する私だけだった。

 その数秒が、その一瞬が、私にとっては幸福で、安心だった。たとえそれが、信号を使って人々の動きを制限出来る世界の違反行為だったとしても、貴方と繋いでいるこの手が醜いと馬鹿にされるとしても、これが私の全てだった。


 ああ、このまま名前が付かない世界に、二人でいれたら。


 朝は明るかった。

 南側に窓がある部屋は、いつも太陽が差し込むので日当たりが良いですよ。洗濯ものとか朝の目覚めがよくなりますし、洗濯物がよく乾きます。不動産屋のお姉さんが教えてくれた言葉は聞いていなかったけれど、あの人は用心深く聞いていてくれた。君は寝起きが悪いから、この部屋なら楽しく起きられるんじゃないかな。あの人が私にくれた言葉は本物で、寝起きが悪い私を、太陽がいつも叩き起こしてくれた。おかげで叩かれた目や額が痛い。引っ越す前より肌が黒くなった気がした。それでもあの人が決めてくれたこの部屋が、私とあの人を繋げてくれる気がしていた。布団を剥いだまま枕とは逆方向に頭を置いて、正座して目を閉じる。そして数分後に足が痺れて起きる。私の日常が始まる。


 寒いと分かっていながらも、夜は出来るだけ服を着ないで過ごしたい。夜は太陽がいなくなって、部屋には自分だけになるから、世界と自分の境界線が無くなり一緒になることが出来る。寝巻や乾き切っていない髪から流れた少量の水、あの人の好きな色が施されたペディキュアでさえ、世界との壁に思えて仕方が無い。出来ることなら全てを引っぺがして世界と一つになりたいと願う。そうして目覚めた朝がどれだけ不快かを、前日の私ではなく冷たくなったノースリーブ一枚の今の私から伝えられる。結局布団を被ってしまえば、薄い布と、無くなりかけのキスマークしか私の世界に残らなかった。


 冷えた浴室でシャワーを浴びた後、曇った鏡に熱湯をかけた。私の全身が鮮明に見え、私は私と睨めっこをした。首にしか無いと思っていた優しい痕は、ノースリーブの下にある腹に幾度となく広がっていた。


「わざとか」


 あの人がいる時に気付かないように、私一人になった時に初めてあの人からの愛情が確認出来るように、自分の証をここに残していた。あの人が私に込める愛情は、私にしか見せてはいけない。



 歯磨き粉はいつも多く出し過ぎてしまう。


「出し過ぎだって」


 二人で立つのがやっとな洗面所。私を包み込めるくらい大きなあの人が私の隣に来ると、朝七時の満員電車くらい狭くなった。私が歯ブラシを取って、あの人も新品の歯ブラシを取る。私が自分の歯ブラシに歯磨き粉を付けて、あの人の歯ブラシにも歯磨き粉を付ける。あの人がいつも言うその台詞が欲しくて、揶揄うような笑顔が欲しくて、私の頭へ伸びる左手が欲しくて、私は何度だって歯磨き粉を多く出した。あの人が近くにいるような気がするからだ。私は自分で自分の頭に手を置いた。あの人の大きさや温かさは自分では生み出せなくて、空しくなって、口に入っていた白濁を全て吐き出した。


 スマホはあまり使わなかった。友達がいないからだ。あの人からの連絡を待つためと、あの人からのメッセージを消すためにしか使わなかった。



「これ、俺の連絡先」


 あの人から連絡先の交換を迫られた時、私は使い古された雑巾のようだった。ようやく入れた会社も派遣で、いつ切られてもおかしくない、明日生きられるかも分からない世界を見て見ぬふりをしていた。自分の将来にすら希望が持てない。生きているだけで死んでいた私の前に、あの人は現れた。あの人はそんなこと知らなかったかもしれないけれど、あの人が休憩室で隣に座ったあの時から、私の人生に色が付けられた。


「あの、どうしたら」

「友達と連絡先交換したこと無いの?」

「……はい」


 あの人は笑った。大声で、休憩室に響き渡るくらい大きく笑った。


「そっか。じゃあ俺が初めてかな」


 初めて。

 人に初めてを捧げることが幸せなことなのだと初めて知った。あの人は私のスマホを手に取って、私にスタンプを送った。近くにある自動販売機がコーヒーを作る音にかき消された通知音は、どんな音楽よりも心に響いた。私のスマホにあの人の全てが入った。スマホに表示されたあの人の名前が見える。私は自分の端末にさえ羨ましいと思ってしまった。私の中に、私の人生にもあの人が入り込んでくれたら、そう思った。


 あの人以外の言葉や情報は、私のスマホに入れたくなかった。だから私のスマホはいつも裏返しだ。


 百均で買った透明のカバーを眺めていると、スマホが震え出した。裏返すと、あの人の名前が表示された。


「電話は四コール目が鳴り終わったら出てね」


 あの人に会えなくても、あの人がくれた言葉は忘れない。私は着信を数える。


「二、三……」


 四コール目を息をのんで待っていると、電話が切れて彼の後姿に設定した待ち受けに変わった。四コール目は鳴らなかった。スマホを睨みつけて数十秒、もう一度彼の名前が表示された。さっきの着信が三コールで終わった。次は四コール目から数えれば良い。


「四、」


 四コール目が終わった瞬間、私は画面をタップした。電話が始まる。あの人から電話があった日は、あの人の第一声を待ってから発言する。


「今井璃子さんですか?」


 あの人の声ではなかった。聞いたことのない女性が、彼のフリをして彼のスマホで電話を掛けている。


「あ、え、」

「岸部の妻です。お話したいことがあります。午後六時、レストラン○○、△△店でお待ちしてます」


 通話画面が消えて、あの人が写る。その姿はとても悲しげで、いつも笑顔だったあの人では無かった。


 時刻は午前八時半だった。



「亡くなったんです」


 テーブルには、コーヒーと、チョコレートパフェ、私とあの人の写真が三枚置かれていた。


「え、っと」

「交通事故で。主人の信号無視です。赤信号を渡って、大型のトラックに」

「へえ……」


 ファミリーレストランに似合わない写真と、妻と名乗る女性の表情、どちらにも目を向けられなくてチョコレートパフェの頂上に位置するウエハースを見つめていた。


「貴方を呼んだのはお金を貰おうとか、謝って欲しいとか、そういうのじゃないんです。そんなこと全員にしてたらキリ無いんで」


 私の安定を保っていたチョコレートパフェのウエハースが、彼女の口の中に入り込んだ。私の居場所が無くなってしまった。


「連絡先、消してもらえますか」

「え」

「それだけで良いんで。この場で消してもらえたらそれで良いので」


 彼女はウエハースを掴んだ右手を私の目の前に出した。私はまだウエハースの名残がある親指と人差し指を見つめる。


「スマホ、持ってるでしょ?」


 私は我に返って、何も入っていない鞄からスマホを取り出した。彼女は私からそれを奪った。


「パスワードは?」

「09、」


 彼女は私の全てを睨み付けた。私は二つの数字を言って、口が動かなくなってしまった。彼女は0と9を打ち込んだ後、少しして0と7を打ち込んだ。開いたスマホを数秒操作した後、私のスマホから彼を消し、スマホをテーブルに投げ捨てた。音を立てて転がったそれは、私とあの人の関係を打ち砕いた。


「以上です。主人がお世話になりました」


 彼女が深くお辞儀をしたので、咄嗟に同じ動きをしてしまった。この行動の意味を知ることなく、ファミリーレストランの端にいる私は頭を下げたまま暗い夜に沈んだ。



 気がつくとあの人と並んで待っていた信号機の前に着いていた。青信号が点滅して、赤信号に変わる、あの時と同じだ。


「今、弱みに漬け込もうとしてる」


 あの人の温もりを左手に感じた。車道側を歩いたり、私の何も入っていないトートバッグを持ったり、タクシーだとすぐに着いてしまうから歩いて帰ろうと言ったり。冷めきって無くなりそうだった私の心はあの人のおかげで十分温かくなっていた。私の左手が彼の右手によって温かくなっていく時、体中が彼に包まれて直接温もりという愛を感じた気がした。


「君が俺を好きになるように、僕の中に引きずり込んでいるんだ」


 あの人の文学的な表現は、現代文の成績が悪かった私には理解出来なかったけれど、きっと私のことを好きだと言っているのだろう。


「卑怯で臆病で弱い俺を、好きでいて欲しいと思ってる」


 私を掴む力が強くなった。あの人の手は温かいのに震えていて、優しいのに怖かった。今にも彼の中に引きずり込まれ、紅く照らされたあの人の横顔と、目の前を通る救急車のサイレンにかき消された私の「好き」が、世界に馴染んでいって一体化していくのが分かった。あの人は、私の気持ちを何一つ考えない卑怯者だ。あの人は、人から見えない所にしかキスマークを付けられない臆病者だ。あの人は、私と手を繋がないと信号を渡れないこの世の弱者だ。私は、そんなあの人のことが好きだ。私の全てだ。私はあの人と、世界と一つになることを望んだ。だから私はあの人の手を握って、赤信号を渡ったんだ。


 金曜日の午後七時。

 見知らぬ人の話し声や、ふらふらと歩く酔っ払い、タクシーがそこら中を走り回り、ビルの光が辺りを燦々と照らした。街はこれからだと言わんばかりに鮮やかで、数時間前の自分の姿を忘れるように楽しむ人々が蠢いていた。信号に照らされてやっと色を持った、白と黒だけで構成された私を悉く仲間はずれにした。でも仕方が無い、あの人がいない世界は、私にとっては仲間はずれも同然であった。


 ねえ。

 どうしてこの世界から消えてしまったの。どうして二人だけの世界を作れなかったの。どうして私に好きになって欲しいと言ったの。どうして、貴方だけ先に行ってしまったの。赤信号の遠く、もう渡り終わったあの人の後姿が見えた。彼は人混みの中に消えていく。私と渡った赤信号は、あの人にとってはただの信号無視だった。


 行かないで、連れて行って。


 車通りがまだ盛んで、人だかりがあちらこちらに存在する月の見える良く晴れた夜。

 私は赤信号を渡った。









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