壁を叩く

月浦影ノ介

壁を叩く




 これは西村さんという、三十代後半の男性から伺った話である。


 今から十年程前、西村さんはとある地方都市の単身者用アパートで一人暮らしをしていた。

 アパートは三階建てである。その二階の五号室が西村さんの部屋だった。部屋は六畳一間。他にキッチンとトイレ一体型のユニットバスがある、ごく普通のアパートだ。


 ある日の夜、部屋でテレビを観ていると、玄関チャイムがふいに鳴った。

 時刻は十時を少し回った辺り。こんな遅くに訪ねて来るような人物に心当たりはない。警戒しつつドアチェーンを掛けたままドアを開くと、ドアと壁の隙間から、一人の男が顔を覗かせた。

 三十代半ばぐらいの、小柄で眼鏡を掛けた、見るからに大人しそうな人物である。

 男は申し訳なさそうな表情を浮かべて、西村さんにこう言った。

 「あの・・・・夜分遅くすみません。隣の六号室に住む島田といいます。実は部屋の鍵を失くしてしまって部屋に入れないものですから、申し訳ありませんがベランダをお借りできないでしょうか?」

 要するにベランダ伝いに隣のベランダへ移動して、そこから部屋に入ろうというのである。

 

 島田と名乗る男の顔に見覚えはない。廊下で擦れ違ったことがあるかも知れないが、そもそも隣にどんな人物が住んでいるかなど、特に気にしたこともなかった。

 島田は何度も頭を下げて、西村さんに頼み込んだ。管理会社に連絡したが繋がらないという。その様子から察するに、本当に困っているようだった。

 もし自分が女性なら断っているところだが、西村さんは高校時代、柔道部に所属し、大柄で力も強かった。万が一、島田が良からぬことを企んでいたとしても、いざとなったら取り押さえる自信はある。

 「・・・・そういうことでしたら、良いですよ」

 西村さんはドアチェーンを外し、島田を部屋に招き入れた。

 島田は何度も「すみません、すみません」と頭を下げつつ、脱いだ靴を手に西村さんの部屋を通り抜け、ベランダに出た。 

 隣室とのベランダの境には仕切り壁がある。島田はベランダの柵を乗り越えると、猿のような身のこなしで隣室のベランダへと移って行った。

 西村さんはその様子を見て、見掛けに依らず身軽だなと意外に思ったという。


 事が済んで、やれやれとベランダのガラス戸を閉じたところで、西村さんはあることに気付いた。そういえば隣室のガラス戸の鍵は開いているのだろうか。鍵が掛かっていたら、結局は部屋に入れないではないか。

 そのとき、パリンッ!とガラスを叩き割るような音が響いた。それから戸をスライドさせる音がして、部屋に踏み込む足音がする。

 どうやら島田は窓を割って、外からガラス戸の鍵を開けたようだった。ずいぶん思い切ったことをするなと、西村さんは驚いた。

 大人しそうな外見からは、ちょっと想像が付かない乱暴さである。後で管理会社から怒られるのではないかと、まったく関係のない西村さんが心配になったほどだ。


 何にせよ夜中の意外な訪問者は、無事に自分の部屋に入ることができた。島田という男の人物像に微かな違和感を覚えつつも、西村さんはソファに腰を下ろすと再びテレビを観始めた。



 それから二週間ほど過ぎた頃のことだ。

 西村さんは物音に目を覚ました。枕元の時計を見ると、夜中の一時半過ぎである。

 物音は隣の六号室から聞こえて来るようだった。先日、ベランダを貸してくれと突然訪ねてきた、島田という男の顔を思い出した。

 ドンッ、バタンッ、と何かを叩いたり倒したりするような音が響く。何を言っているのか聞き取れないが、ボソボソと話し声もした。

 「こんな夜中に何だ? 迷惑だな」

 しばらくして物音が聞こえなくなり、西村さんが再び眠ろうとしたときだった。


 いきなり、バンッ!という大きな音が響いた。


 壁を叩いたのだ、と気付くまで数秒掛かった。

 それからまた、バンッ!という大きな音が響く。西村さんが驚いて身を固くすると、さらにもう一度、バンッ!と壁を叩く音が空気を震わせた。

 「ううっー!」という、くぐもった叫び声のようなものが聞こえた。壁が何度も何度も叩かれ、その合間に悲鳴とも怒声とも付かない声が混じる。隣室には複数の人間がいるようだった。

 壁越しのすぐ向こう側で、何か異常なことが起きている。激しく暴れる音が、震動となって伝わってくる。


 いったい何事か。西村さんは身じろぎもせず、じっと隣室の様子を伺った。

 バタバタと暴れる音はなおも響いたが、それは徐々に小さくなり、やがてピタリと止まった。先ほどとは一転して、シン・・・・とした静寂が辺りを包む。季節は秋で、虫の鳴く声が遠くに聞こえていた。

 警察に通報した方が良いだろうか。西村さんが迷っていると、いきなり玄関チャイムが鳴った。

 心臓が跳ね上がるかと思った。チャイムの鳴る音は一度で終わらず、二度、三度と続けざまに西村さんを急き立てる。

 西村さんは寝床から立ち上がると、鍵を外しておそるおそるドアを開けた。ドアチェーンは付けたままだ。

 そこには先日「ベランダを貸してくれ」と訪ねて来た、隣室の島田という男が立っていた。


 島田は恐縮したように頭を下げた。

 「お騒がせしてすみません。友達が酔っ払って暴れ出したもので、必死に宥めてたんですが・・・・起こしてしまいましたよね?」

 「ああ・・・いや、目が覚めましたけど、大丈夫ですよ。大変でしたね」

 西村さんがそう応えると「なにしろ酒癖の悪い奴なもんで。本当に申し訳ありません」と、島田がさらに深々と頭を下げる。

 西村さんは微かな違和感を覚えた。確かに深夜の大騒ぎは迷惑だが、だからと言ってすぐに隣室を訪ねて来るだろうか。相手は気付かず寝ているかも知れないのに。謝罪するにしても、翌朝にするのがマナーというものだろう。

 島田が下げていた頭を起こす。その際の、じっとこちらを窺うような目付きに妙な冷酷さを感じて、西村さんは思わず背筋がゾッとした。


 島田が立ち去ったあと、西村さんは玄関ドアを閉め、鍵を掛けた。

 隣の部屋からはその後も何やら物音が聞こえて来たが、西村さんは携帯の音楽プレイヤーを作動させ、イヤホンを耳に付けると、それに一切構わず寝てしまった。



 それから数日後のこと。

 夜七時頃、西村さんが会社から帰宅すると、アパート前の敷地にパトカーが複数台停まっていた。

 何事かと驚いていると、腕に腕章を付けた背広姿の中年の男が近付いてきて、警察手帳を見せた。県警の刑事だという。

 「このアパートの住人の方ですか?」

 「・・・・そうですが」

 「何号室にお住まいで?」

 「二階の五号室です」

 すると刑事は一枚の写真を西村さんに見せた。写真には二十代前半ぐらいの男の上半身が写っている。髪を金髪に染めた、目付きに険のある、あまり人相の良くない男だ。見た目の印象だけで言うなら、関わり合いになりたくないタイプだと思った。

 「この人に見覚えはありますか?」

 「いいえ、まったく」

 そう言って首を横に振ると、刑事は西村さんの顔をめ付けるように覗き込んだ。

 「本当に見覚えありませんか。一度も会ったことがない?」

 「だから知りませんって。その人がどうかしたんですか?」

 しつこいなと思いつつそう答えると、刑事は意外なことを口にした。

 「この人は二階の六号室に住む島田明弘しまだあきひろという人で、あなたとは隣同士なんですが」

 えっ、と驚いて西村さんは写真を食い入るように見つめた。先日、ベランダを借りに部屋を訪ねて来た男とはまるで似ても似つかない、まったくの別人である。

 驚いた西村さんは、島田と名乗る男が訪ねて来たときのことを話した。その証言に、刑事が強い関心を示した。

 刑事の質問はさらに続き、西村さんはそのときの記憶を辿りながら、島田と名乗る男の容貌やどんな会話をしたかなど、思い出せる限り答え、さらには数日前の夜中の大きな物音についても話した。

 「ちょっと部屋を見せてください」

 刑事に促され、西村さんは二階の自分の部屋へ向かった。隣の六号室の前に見張りの警官が立っている。室内には複数の刑事がいるらしく、どうやら現場検証をしているようだった。


 さらに別の刑事も加わり、西村さんに対する事情聴取が続いた。その間に別の刑事が西村さんの部屋に上がりこみ、ベランダに出て何やら調べている。

 どうやら自分の部屋を訪ねて来た島田と名乗る男が、隣室の住人である本物の島田と別人なのは間違いないようだった。それなら自分が会った、あの男は何者だったのか。

 いったい何があったのかと西村さんが訊ねると、刑事が「ニュースを見ていませんか? この近くの河川敷で死体が発見されたでしょ」と答えた。そういえばそんなニュースを見た記憶があるが、この市内で殺人事件なんて珍しいなと思っただけで、詳細はあまり覚えていなかった。


 数日前の早朝、市内を流れる川の河川敷で、若い男の死体が発見された。第一発見者は、犬を散歩させていた近くに住む主婦だった。死体は全裸で、首に絞められた痕があったという。

 刑事の説明を受け、西村さんが日にちを確認すると、隣の六号室で大きな物音がした、その翌朝のことだった。

 刑事は男の写った写真を、目の前でヒラヒラさせながら言った。

 「その死体で発見されたのが、この島田という人なんですよ。状況から見て、我々は殺人事件と断定して捜査しています」

 事情聴取はさらに続き、やっと解放されたときには夜九時を過ぎていた。


 その数日後、刑事が西村さんを訪ねて来た。そして一枚の写真を見せる。三十代半ばぐらいの、眼鏡を掛けた、見るからに大人しそうな男が写っていた。

 それはあの日、ベランダを貸してくれと訪ねて来た、偽者の「島田」だった。

 西村さんがそう答えると、刑事は「本当にこの男で間違いないんですね?」と、執拗なぐらい何度も念押しして帰って行った。



 それから一週間ほど経った頃、河川敷に死体を遺棄した容疑で、三人の男が逮捕された。そのうち主犯格とされるのは、西村さんにベランダを貸してくれと頼んできた、あの偽者の「島田」だった。

 しかしその男の本名は斉藤といって、暴力団関係者だという。

 あの小柄で見るからに大人しそうな男が暴力団員だったとは・・・・。テレビのニュースを見ながら、その意外な正体に西村さんは驚いた。

 斉藤と島田の間には金銭や人間関係のトラブルがあったそうだが、その詳しい動機については特に報じられることもなく、話題はすぐ別のニュースへ移ってしまった。



 それからしばらくして、また刑事が訪ねて来た。以前と違ってひどく愛想が良い。この度は捜査へのご協力ありがとうございましたと礼を言われ、近くの喫茶店で珈琲をご馳走になった。そしてその際、刑事から今回の事件の詳しい経緯いきさつを聞かされることになった。



 島田明弘殺害の容疑で逮捕された斉藤は、とある広域暴力団の構成員で、市内で風俗店の店長を任されていた。被害者の島田はその店の従業員で、なおかつ斉藤が所属する暴力団の準構成員だったという。

 数週間ほど前、島田は深い仲になった店の風俗嬢と駆け落ちをした。その際、店に置いてあった多額の現金を持ち逃げしたのだった。

 斉藤ら三人は、島田と風俗嬢の行方を追ったが、なかなか見付けることが出来なかった。斉藤が名前を偽って西村さんの部屋を訪れ、島田の部屋にベランダから忍び込んだのは、その最中さなかのことだ。島田と風俗嬢の居所を突き止めるための、手掛かりを得ようとしたのだった。


 一方の島田は別の街に潜伏していたものの、今度は駆け落ちした風俗嬢に、店から奪った金をすべて持ち逃げされてしまった。島田はその風俗嬢に惚れていたが、彼女にとって島田は利用して捨てる価値しかなかったのだろう。

 失意のなか、一文無しになった彼は、なぜか自分の部屋に戻って来た。そして待ち伏せしていた斉藤とその仲間に捕まり、壮絶なリンチの末にロープで首を絞めて殺害されてしまった。それが西村さんが聞いた、隣室の物音の正体だった。

 

 島田の遺体は服を脱がされ、丸裸で近くの河川敷に棄てられた。遺体には身元を示すものは何もなかったが、島田に傷害の前科があったことから身元が判明し、そこから関係者を洗い出して捜査を進めた結果、斉藤ら三人の逮捕に辿り着いたのだという。

 

 刑事の話を聞き終えて、西村さんは青褪めた。ということはあの日、自分はまさに殺人が行われている現場を壁越しに聞いていたことになる。

 「あの・・・・殺害現場は本当にあの部屋なんですか? 普通、被害者は必死になって抵抗するものでしょう? そりゃあ暴れるような物音は聞こえたけど、やめろとか助けてなんて言葉は全然聞こえて来ませんでしたよ」

 刑事は少し黙ったあと、西村さんにこう打ち明けた。

 「被害者の男性ね・・・・実は聾唖者ろうあしゃなんです。だから何も喋らなかったんじゃなく、喋れなかったんですよ」

 

 もしかしたら裁判で証言して貰うことになるかも知れませんので、そのときはご協力をお願いします。そう言って、刑事は帰って行った。



 それから一ヶ月もしないうちに、西村さんは別の街へと引っ越した。斉藤らが容疑を全面的に認めたため、裁判で証言台に立つことはなかったが、警察の捜査に協力したことで、暴力団関係者の報復を懸念したからというのもある。

 そもそも殺人現場になった部屋の隣に住み続けるのも、あまり良い気はしない。壁越しに行われていた殺人に気付けなかったという、罪悪感もある。しかしそれ以上に、引っ越しを余儀なくさせる深刻な理由があった。


 「夜中になると・・・・隣の六号室から、バンッと壁を叩く大きな音が聞こえるんです」

 時計を見ると、決まって夜中の一時半過ぎ。ちょうど島田が殺害された時刻だ。

 「それも一回や二回じゃない。何回も何回も、繰り返し壁を叩く音が聞こえるんです」

 隣の六号室は事件以来、空き部屋になっている。つまり誰もいない部屋から、その音は聞こえてくるのだ。

 その音を聞いてると、なんだか責められている気分になるんです、と西村さんは言った。

 あれは助けてくれという、島田の必死の訴えだったのだろう。「ううっー!」という、くぐもったような叫び声もまた、言葉を話せない彼にとって死物狂いの命乞いだったに違いない。

 そのあと主犯格の斉藤が西村さんの部屋を訪ねて来たのは、謝罪のためではなく、自分たちの犯行がバレていないか、その様子を窺うためだった。もしあのとき西村さんが事件に気付いていたら、下手をすると口封じに殺されていたかも知れない。

 

 壁を叩く音はその後も毎晩のように続いた。その音に悩まされた西村さんは、とうとう引っ越しせざるを得なくなった。


 あれから十年が過ぎたが、今でもときおり壁を叩く音が聞こえることがあるという。

 耳元でバンッ!という大きな音がして、目覚めると夜中の一時半過ぎ。無意識に潜んだ罪悪感が、そのような幻聴を引き起こすのだろうか。しかし西村さんには、それだけが理由とも思えなかった。


 「彼は今もまだ、助けてくれという必死の訴えを無視した、私を恨んでいるのかも知れません」


 話を聞き終え、筆者は西村さんに同情した。彼はヤクザ同士のトラブルに、一方的に巻き込まれたに過ぎない。それで恨まれるのは理不尽というものだ。そもそも隣室で何が行われていたかなど、西村さんはまるで知らなかったのである。

 

 さすがに気の毒に思っていると、西村さんがふと曰くありげな表情をした。

 こういうとき、相手はまだ言い足りなかったり、何かを隠していたりすることが多い。積極的に話したい訳ではないが、黙っているのも何だか居心地が悪い。「切っ掛けさえ与えられれば、話すのもやぶさかではない」という感じだ。

 筆者がそれとなく水を向けると、案の定、西村さんは躊躇いながらも口を開いた。

 「・・・・これは警察にもずっと黙っていたことなんですが、もう十年も経ってるし、そろそろ打ち明けても良いですかね。まぁここだけの話なんですが」

 そしてフッと、悪戯っ子のような表情を浮かべた。


 「本当はね、気付いてたんです。夜中に隣の部屋で、何度も壁を叩く音が聞こえたとき。ああ、これはリンチが行われているなって。なにせ物音とか息遣いとか気配とかが異常でしたから。そういうのって、何となく察せられるものなんですよ。え、なんで警察に通報しなかったかって? だって怖いじゃないですか。通報したことで加害者に逆恨みされたら。あとでどんな報復をされるかわからないし。他人より自分の身の方が大事ですからね。仕方ないですよ。まさか殺人にまで発展するとは思いませんでしたが。なので河川敷で死体が発見されたニュースを見たときは、もしかして隣りの人かと思って焦りましたよ。あ、犯罪を知りながら通報しなかったのって、何か罪になるんでしたっけ? でも犯人にも警察にも、知らない振りして上手く誤魔化せたんで、自分の演技力もなかなかのもんですよね」


 その無邪気で屈託のない表情は、先程まで罪悪感に悩みながら語っていた西村さんと、とても同一人物とは思えない。

 筆者が絶句していると、西村さんはにこやかな笑みを浮かべて、最後にこう締めくくった。


 「それに被害者も加害者もヤクザ者でしょう? どちらも反社会的な人間のクズですよね。それが一人は死んで、三人は刑務所に入ったんだから、結果的にはきっとこれで良かったんですよ」

 


                   (了)



 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

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