Epilogue-2- Paradis

 

 よく見る夢があった。


 いつも同じ景色で始まって、同じ人が出てきて、同じ音楽が流れていて、最後にその人が同じ台詞を言って…そこで目が覚める、夢。

 夢のことを誰かに話したりはしない。詠だけの宝物で、詠だけが知っていればそれでいい…と、そう思っていた。

 

 その夢は、最期の日にも現れた。


  とても幸せな人生だったと思う。

 大好きな音楽を続けて、大して名前が売れたわけではなかったけれど。仕事をしながら細々とやり続け、詠の音楽を好きだと言ってくれる人たちに沢山出会えた。特に詠の代表曲である「あまりある残像」は、沢山の人に愛される楽曲になった。

 この曲を作った時のことだけ、何故か思い出せないのだけれど。

 人並みに年を重ねて、引っ越した先で数は少ないけれど友人も出来て。結婚はできなかったけれど、その友人家族が詠と本物の家族のように接してくれた。

 美味しいものを美味しいと感じながら食べて、年に一、二回自分の知らない街を旅しに行った。旅先で音楽を作ると、なぜかいつもよりもいい曲が書けたから。

 たまにふと、真っ白い誰かの背中が脳裏に浮かぶ時があって。

 昔旅先であった誰かだろうか…と頭を捻るけど。それらしい人は思い浮かばなくて。でも、その影を見るたびなぜか温かい気持ちになった。

 そうやって、長くて短い人生を全うして。


  詠はきっと、今日。この世界から去る。


 故郷の病院の一室で、詠は目を覚ました。

 真夜中だった。赤い月が、窓から見えて。

 届くような気がして、しわくちゃになった手を伸ばす。かざした手の向こう側で、月はただ静かに輝くばかりで。

 その瞬間、なぜか目尻から涙が零れた。どうして自分は泣いているんだろう。

 悲しい夢なんて一つも見ていないのに。

 幸せな人生だったのに。

 暫くベッドの上で、ぼんやり月を眺める。


 …月。


『…詠。』


 誰かが呼んでいる。耳元で囁かれた、その声が蘇る。


『この楽譜を君に託すから。いつか、君の大切な人のために…使って』


 託された楽譜のメロディー。耳の奥で何度も反芻したその言葉。

 誰に貰ったかは覚えていないのに、ずっと大切に宝物の箱の中にしまってあった楽譜。名前も思い出せないその人のことを、少しずつ書き足して、やっと完成して。

 何度も何度も見返して、覚えてしまったその歌。

 命の火が燃え尽きる寸前の今、たった一人の旅人の名が思い浮かぶ。


「…時雨、」


 その名前を口にして。頭の中で、そのメロディーを、紡いだ言葉を口ずさむ。

 誰にも届かない声で。小さな、弱々しい声で。

 最後の瞬間まで。

 永遠の歌…Paradis、そう書かれた楽譜の歌を。


 目を閉じて。真っ白い光の中に、詠は落ちていく。


 雪が降っている。

 目の前に落ちてきた雪の結晶を、掌に乗せた。

 音もなく、結晶は崩れて水滴だけが残る。

 その、手の平にそっと。冷たい手が重なる。


 碧い眸の旅人が、驚いた顔で立っている。

 ずっと大切に持っていた楽譜を。詠はその手にそっと返す。


「…詠」

「時雨…ありがとう、またね」


「Paradis」

 そう記された、楽譜が旅人の手に渡った時。一生を全うした詠は、その命を旅人へと一緒に返す。

 瞼にふっと雪が落ちて、旅人は目を瞑る。


 再び旅人が…時雨が目を開けた時。そこにはもう誰も居なくなっていた。

 


Fine

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吟遊詩人の人生録 酔シグレ @yoishigure2021

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