密やかな“Je te veux(あなたがほしい)”

あゆみ

密やかな“Je te veux(あなたがほしい)”

 202×年@ピアノ教室。ピアノの先生と生徒。


「ねえ先生、次に練習する“Je te veux”、これさあ、学校で掃除の時間に流れる曲なんだよね。だからちょっと嫌なんだけど」

「そう?私は好きなんだけどな。エリック・サティの上品なワルツ」

「たしかに皆でホウキ持って踊ってるけど」

「でしょ?まあ、ちょっと練習してみてよ」

「はあーい」


 200×年@高校の音楽室。学校の先生と生徒。


「あれ、珍しい人がピアノ弾いてる…」

「なんだよ、国語の教師だってピアノを弾けたりするんだぞ」

「そうなんだ、さすが元W大学出身、チャラいじゃん」

「それは関係ないって」

「それ、掃除の時間にかかってる曲だよね。実は有名な曲なの?」

「うん。エリック・サティの“Je te veux”。サティは知ってる?」

「中学の音楽の授業で習ったけど、あんまり覚えてない…」

「フランスの作曲家でね。かなり前衛的だったから、音楽史からは一時期閉め出されていたらしいよ」

「へえ〜。でもシンプルできれいな曲だね」

「何を想像する?」

「なんだろう。舞踏会のダンス?」

「そうだね。男女が踊っている」

「きれいに踊っていそう」

「見た目はね。でも内心は違うかも」

「そうなの?」

「この曲には、男性の歌詞と女性の歌詞があってね」

「あれかな、やっぱり男性が女性に愛をささやく感じ?」

「どうかな。女性の歌詞をイメージして弾いてみると……♬(ピアノの音)……」

「うわ、強め!なんか強め!」

「そう、女性は男性に『あなたが欲しい、私の言いなりになって』と言っている」

「うわ、男前だね」

「そうかい?そういう女性もいいと思うけどね。で、男性の歌詞はこんな感じ……♬(ピアノの音)……」

「甘いね…甘々ね…」

「男性の歌詞は『君をくれ、君が欲しい。僕を支配してくれ』という感じ」

「支配されたいんだ…」

「君はどっちが好き?女性と男性の歌詞」

「え……どっちだろう。私は女だから…」

「ちなみに、僕は女性の歌詞のほうが好きだよ。いいじゃん強引で」

「そうなの?先生は男性なのに?」

「別に性別が好みに優先されるとは限らないからね」

「……。先生はどういうときにピアノを弾くの?」

「そうだなあ。思っていることをまっすぐに伝えられないときかな」

「だからピアノに託すの?」

「そう。思いを託すの。特に、まっすぐに伝えられない思いは」

「そっか……。さては先生は好きな人がいますね?」

「そりゃ僕だって大人だからね。でも伝えられないから。いろいろあって」

「聞かないほうがいいやつ?」

「お、いいじゃん。大人の対応。よし、そろそろこのピアノを譲ろうかな」

「そうよ、私はピアノを弾きに来たの。ピアノの発表会が近いから」

「お前、ピアノを習ってるのにこの曲知らなかったの?」

「失礼な。知識より技術を磨く派なの」

「そうかいそうかい。じゃ、がんばれよ」

「先生も……がんばれよ」


 202×年@ピアノの先生宅のリビング。先生と家族。


「……♬(ピアノの音)……」

「ただいま〜。お、“Je te veux”弾いてる」

「おかえり。今日の生徒さんの次の課題曲がこれでね。懐かしくなって弾いちゃった」

「あなた本当にこの曲が好きだね。高校の思い出の曲」

「うん。国語の先生が弾いてくれて、ちょっと先生のことを気になっちゃって」

「でもそのまま好きにはならなかった、と」

「だって、私そのとき好きな人がいたから。それに先生が好きだったのは、体育の先生だった」

「皆にカミングアウトしたんだっけ」

「そう。男性同士だからかなり話題になった。私はそのとき音楽の専門学校に進学してたのに、噂がばっちり聞こえてきたほど」

「まあ、話題になるよね」

「でもあのとき、先生が『ピアノに思いを託す』ことを教えてくれたから、私なんとかがんばれたかも」

「心が折れずに済んだ、と」

「そう、密かに好きだったの、あなただったから」

「うわ〜、懐かしいな〜。私たち、たくさん話したし、たくさん悩んだね。将来のことなんてあまり思い描きたくもなかった」

「こうして一緒に住んでいるのが嘘みたい。そうそう、その国語の先生、結婚式に来てくれるって」

「お、嬉しいね!会うの20年ぶり?」

「そう。彼と一緒に来てくれるって。なんだか嬉しいな」

「ある意味、私たちをつなげてくれたキューピッドだね」

「え、その『キューピッド』ってなんか古くない?」

「え、そう?もうアラサーだからな〜」

「いやまだギリギリ34だから!アラウンドしてない!」

「はいはい、じゃごはんの支度するね〜」

「ありがとう〜……♬(ピアノの音)……」

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密やかな“Je te veux(あなたがほしい)” あゆみ @ayumi_tomo

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