第13話
仕事のこと、家族のこと、自らの体に生じはじめた老化のこと、一時間ほど話すと、話題がなくなった。
しばらくの間、二人は寿司や刺身をつまんだり、日本酒を飲んだりに専念した。
「あ、そういえば、おまえ、あのおばさん、覚えてるか?」
基晴が急に高い声をあげた。
「おばさんって誰だよ」
基晴の身内の誰かだろうか。秀行は頭をめぐらす。
「小倉の予備校の裏で売春してた、あの香水まみれのおばさんだよ」
秀行は民子の記憶を引き出す。それは思ったよりあっさりと引き寄せることができた。
民子の顔は思い出せないが、強烈な香水の匂いと、吸いつけられるような白い肌の記憶の断片が浮かび上がる。
男も初体験の相手をおぼろげでも覚えているのだと不思議に思った。
「どした?」
「いや、覚えてるけど」
「死んだらしいぞ」
「え?」
「何で知ってんだよ」
「・・・」
基晴が黙りこむ。
「おまえ、まさか通ってたのか」
「通ってはないよ。何年かに一回かだよ」
秀行は黙って基晴を凝視した。たまらなくなった基晴が言い訳する。
「開業とか、子供の受験とか、どうしても不安になるときがあったから、ついな。そんなの関係ないって思っても、なんか、やっぱ俺みたいなもんでも国立の医大に受かったってゆーのは、やっぱりあのおばさんの力だと思うんだよなあ」
「おまえ、しょーもねーなー。いつまでもそんな都市伝説を」
自分達はもう四十一だ。医大や歯科大に受かりたがって苦しんでいる二十代ではない。
秀行の口調は若干の厳しさを含んだ。
「なんだよ、いいじゃねえかよ」
照れからか、基晴が黙りこむ。
基晴の気持ちもわずかだが理解できた。
年を重ねても、うまくいかないことばかりだ。何かに願いたい、すがりたい思いは、むしろ年々強くなるのかもしれない。
秀行はゆっくりと、噛み締めるように言った。
「俺は、なんていうか、あのおばさんの業の深さみたいなもんが怖くてさ」
「業の深さ?」
「業っていうのかなあ、なんていうのか、しょってる人生みたいなもんがさ」
「どういう意味だよ」
「俺、あのおばさんから聞かされたんだよ、自分の身の上話みたいなもんを」
秀行は民子から聞かされた、民子の人生の断片みたいなものを基晴に話して聞かす。
「なんだよ、それ。俺は聞いたことないぞ」
「知らねえよ」
秀行が学生に戻ったような口調で基晴を跳ね除ける。
「なんだよ、それ。俺のほうがよっぽど常連で、あのおばちゃんを崇め奉っていたってゆーのによ」
秀行は苦笑する。
崇め奉るという基晴の言葉が大袈裟だったからだ。酔うと基晴は全てが極端になる。
「どっかで自分は幸せになっちゃいけないって思ってる女が、自分を抱いた男たちをあげていくなんて、なんか悲しいな」
男は勝手だと思う。
それは何十年も前にわかっていたことだが、今では馬鹿だということもわかっていた。
「ああ」
基晴が同意する。
対して女はどうだろう。
勝手で馬鹿な女は山ほどいる。
しかし、男のために自分を律し続けられる女も、また確かに居るのだった。
「それがおばさんの幸せだったのかもな」
基晴がぽつりと言う。
顔全体がほんのりと赤くなっていた。目も据わりはじめている。
もう少し経てば、カウンターに突っ伏して眠るだろう。
「そうかもしれないな」
そんな心境はこれからどれだけ長生きしてもわかりそうにはなかった。
それは自分が男だからで、民子が女だからなのか、その答えも秀行にはわからないのだった。
香水女 梅春 @yokogaki
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