怪人

Slick

怪人

 怪人はよく、今宵のような晩に姿を現します。

 月が満ちているからか、町のガス灯はこぞって空っぽです。思わず舌打ちしたくなるような寒さこそ、怪人の好みでした。

 マスカレイドの夢から抜け出たようないで立ち。つば広の帽子と、小粋にステップを奏でるステッキ。人気なき夜を散策する怪人紳士の足元に、供となる影は潜んでおりません。

 怪人はどうも、人の生に憧れてしまうきらいがございました。

 パラフィンライトが揺らめくバーを通り過ぎ、馥郁たる香りを閉じ込めた古書店の窓を一陣の夜風が摩(さす)ってゆきました。

 

 怪人の逍遥の終着点は、郊外にある鋼の檻のような森林です。鬱蒼とした木立の奥が、怪人紳士のねぐらなのでした。

 閉じた暗闇の中を、漂白されたマスカレイドの仮面が亡霊のように滑ってゆきます。轟々と不吉にざわめく葉擦れの音は、あるじの帰宅を歓迎しているようにも、また余人の侵入に警告を発しているようにも思われました。

 木々の合間より一匹のこうもりが舞い現れますと、怪人の手元に二つ折りの紙片を落としました。窪んだ瞳をそれに落とし、次いで怪人は仮面に笑みを湛えます。

 それは来客の知らせだったのです。

 さらに進んだ森の中央には、そこだけ忘れ去られたようにポッカリと小さな空き地がございました。広場の中央には、苔むした晩餐長卓と凝った装飾の古椅子が誂えてあります。伸び放題の下生えに囲まれたそれは、太古の昔から怪人の登場を待ちわびていたように見え、その周りだけが不思議と月明かりに浮かび上がっておりました。

 そしてその対面に、一つの影が腰かけていたのです。

 淡い月光を僅かに透かすその身体は、明確な輪郭を持ち合わせておりません。唯一顔と思しき部位には、澄んだ一対のアメジストの灯がチロチロと揺れているばかりでした。

 その影は徐ろに立ち上がりますと、外見に似合わぬ丁寧な仕草で会釈をしました。あるじたる怪人も衣装の裾をひょいと持ち上げ、二人は差し向かいに掛け直します。

 暗闇の奥で、物の怪の会談が始まったのです。



「よくぞいらっしゃいました。ご機嫌はいかが?」


 怪人紳士が、細い線の入った舞踏仮面の奥から云いました。つば広のハットを脱ぐ物腰は洗練されており、滑らかな声色はまるで仮面越しとは思えぬほど透き通って響きます。


「ご親切痛み入ります。突然お邪魔した無礼をお許しください」


 対する影は、か細く軋むような声でそう答えました。それはまるで、猫が人語を喋ったかのようでした。

 影の正体は、エスプリと呼ばれる霊の一種です。その丁寧な言葉遣いから、生前は教育を受けた人物だったのだろうと怪人は推測しました。


「めっそうもありません。依頼人はいつでも大歓迎、それが萬屋(よろづや)ですよ。私の助手とは、もうお会いになったようで」


 折よく背後の林間から、こうもりがヒラヒラと舞い現れました。その翼がパッと弾けた次の瞬間、それは人間の姿に変わっていたのです。

 依頼人と呼ばれたエスプリは、淡いアメジストの瞳を揺らしました。


「……噂には聞いていましたが、こうもり男を見るのは初めてです」

「あれは生来無口な男でしてね。頼れる右腕なのですが」


 苦笑する怪人紳士の脇を、こうもり男がスッと音もなく歩み出ますと長卓にティーカップを並べました。


「それでは、御用向きを伺いましょうか」


 助手にステッキとハットを預けた怪人紳士は、背もたれに凭れながらそう云いますと、長い指で仮面の顎をなぞりました。

 依頼人のエスプリは、どう切り出すべきか思案するよう顔を傾けます。怪人を真似て一口だけティーカップを啜ると、静かに口を開きました。


「依頼は、私の墓標を他所に移してもらうことなのです」



 翌朝、怪人はさっそく助手を伴って町に繰り出しました。

 エスプリが昨夜告げた行き先は、町の反対側の郊外です。早朝に出かければ、夕刻までには着けることでしょう。

 怪人は、むろん今はマスカレードの装いではございません。彼は若々しく線の細い青年の容姿をしておりました。とはいえ、これも怪人が数多持ち合わせる『仮面』の一つに過ぎません。

 ですが怪人にとっては、それ以上の価値がありました。

”霊界と人間界を行き来できるのは貴方だけです“

 昨晩、エスプリの云ったことを怪人は想起します。

 それもまた、怪人が執着する理由の一つでした。

 

 長旅に備えるべく、怪人と助手はちょうど開いたばかりのパン屋に立ち寄りました。助手が買い物を済ませている間、怪人は外のベンチに腰掛けて待っています。

 その時、通りの向こうから、よく通る老婆の声が聞こえてきたのでした。


「さぁさぁご覧あれ。今朝一番のお噺は、古の王女と貴公子の愛の物語だよ」


 どうやら、子供向けの紙芝居小屋のようです。早起きな少年少女たちに囲まれて、一人の老婆が木枠を抱えながら座っておりました。


「では始めようかね。――昔むかしあるところに、それは美しい王女様と、その婚約者だった若い貴公子がおりました」


 サッと紙が捲られれば、次の絵が滑らかに浮かび上がります。描かれていたのは綺羅びやか王宮の舞踏会で、美しく着飾った男女が手に手を取ってワルツを踊っておりました。

 青年の姿をした怪人は、僅かに目を細めてそれを見つめました。


「――二人の恋は順風満帆でした。しかし何ということでしょう、ある日王女様の下に一人の魔女がやって来ると、こう云ったのです。自分なら王女に永遠の若さを与えることができる、と」


 ぞくり。

 怪人の背筋を、密やかな悪寒が滑り落ちました。


「魔女の企みに気づいた婚約者の貴公子は、勇気を奮って禁忌の魔女の森に分け入り、攫われた王女の元に辿り着きました。そして魔女にこう持ちかけたのです……代わりに自分が魂を捧げるから、王女の命だけは助けてほしいと。魔女はそれを飲み、彼は婚約者の身代わりとして『永遠の生』という名の呪いを掛けられました」


 それ以上は聞いていられず、怪人青年は思わず耳を塞ぎます。


「その貴公子は数百年の時を超え、今なお王女を恋い慕っているということです。そして常にマスカレードの仮面を着けているのです。初めて王女と出会った、あの仮面舞踏会を忘れないために」


 ガタン!

 怪人青年がベンチから立ち上がるのと、パン屋のカウベルが鳴るのがほぼ同時でした。


「マスター……どうしたんですか?」


 心配げな瞳をした助手に、怪人青年は珍しく取り乱した様子で頭を掻きむしりますと、ぶっきらぼうに一言、


「何でもない」


 と云うばかりでした。



 その後二人は、幌馬車を借りて目的地を目指しました。御者は怪人青年です。怪人は生前、馬術の訓練も受けていたのでした。

 カタカタと音を上げて馬車を走らせるうち、周りの景色はどんどん寂れてゆきます。レンガ造りの建物は藁葺きの一軒家に取って変わり、ついにはボロボロの廃屋しか見えなくなりました。荒れ果てた田畑には、人の生活の痕跡もありません。

 そして遠くより、古い王城が見えて参りました。奇しくも旅の目的地はそこなのです。

 ここは、およそ二百年前の王都でした。まだこの国が王国だった世のことです。

 且つそれは怪人が生まれ育った時代でもありました。


 川辺の木陰に馬車を停めますと、怪人と助手は徒歩で王城へと向かいます。

 かつて栄華を誇った王都ですが、今は見る影もございません。革命が起こり、繁栄は過去の記憶となったこの山野で風化してゆくばかりです。

 やがて、古びた王城が細部まで見極められるようになりました。

 ツタの垂れ下がったバルコニー。折れた王家の旗棒。錆びついた時計鐘。

 全て怪人の記憶通りでありながら、その一つ一つが物悲しい滅びのバラードを奏でているように思われて、怪人は目頭が熱くなりました。その動揺を隠すように、怪人は目元にそっと両手をかざしますと、マスカレイドの出で立ちに切り替えました。

 二人は堀をぐるりと周回し、ギアの弾けた桟橋を渡りますと、ひんやりとかび臭さの漂う薄暗い城内に足を踏み入れます。入ってすぐ右手の壁面には、いくつもの肖像画――いくらかは戦いの火で焦げていましたが――が飾られておりました。

 その一つが目に入り、怪人はふと足を止めました。

 王女と貴公子。

 ――サスカティア・シェフィール侯爵子息。

 肖像画に描かれる古風な装いは、もはやこの王城にふさわしくありません。怪人はマスカレイドの仮面を強く引き締めました。彼の生前の姿も、滅んだこの城では意味がない。

 回廊を滑るように進んでゆきますと、暗がりの中にいくつもの影たちが浮かび上がって参りました。彼らもまた、この王城に凄みつく亡霊たちです。無実の罪で処刑された者、政争に敗れた者たち、毒殺された忠臣。彼らは皆、王城と王家に消せぬ怨念を抱く霊魂たちです。

 二人を認めた数多の影は、しかしこぞって怪人のために道を空けました。

 確かに怪人は貴族の出自、それも王女の元・婚約者です。しかしその尊き愛と自己犠牲の逸話は、時を超えて生者、死者に関わらず称賛の的なのでした。

 怪人は立ち並ぶ亡霊の一人に、目的地の霊廟の場所を尋ねました。亡霊は無言で一つ上の階を指さしますと、敬虔な臣下の礼を取りました。

 怪人の脳裏に、ふとエスプリの言葉が蘇ります。


『私の墓標は、古い王城の奥深くにあるのです。そこは誰も参ってくれない、閉ざされた暗闇の中』


 破れた絨毯を進む二つの影法師が、やけに大きく回廊の壁に映りました。

 遠い記憶も辿りつつ、怪人と助手は迷宮のような回廊を渡って、遂にその部屋までたどり着きました。巨大な両開きの扉は固く封じられ、表面には剣を抱えたイーグルの紋様が刻まれています。

 怪人は、はっと瞠目しました。

 それはシェフィール侯爵家――彼の生家の家紋だったのです。

 震える手でそっと触れますと、まるで怪人を待っていたかのように扉は苦も無く開きました。

 広い部屋の中は霊廟になっていました。部屋いっぱいに大きな人工の池が波々と水を湛え、その水面は緑色にぬらぬらと明かりを反射しております。

 この部屋は生前、侯爵家子息が王女のために作った庭園でした。とはいえ、今は見る影もございませんが。

 池の真ん中には、小さな人工の島がございます。そこに、鋭く屹立するオベリスクが立っておりました。

 あれが墓標なのでしょう。

 怪人は、金の刺繡が入った群青のタキシードが濡れるのも構わず、その島を目指して池に足を踏み入れました。

 サプン。

 一歩進むごとに、忘れかけていた記憶が溢れてきます。

 太陽に似た王女の笑顔。

 サプン。

 遠い日の二人だけのワルツ。

 サプン。

 交わした約束。守れなかった約束。

 サプン――


 魔女の罠に嵌められたこと。

 呪いから王女を救い出せなかったこと。


 長いようで短い刻が過ぎ、怪人は島にたどり着きました。

 こうもりの翼を使って一足先に着いた助手が、主人のために場所を譲ります。

 オベリスクに刻まれた名前。それは、それは――


 あれは遠い日の逢瀬のこと。まさにこの場所で、可憐な少女が青年に笑いかけました。

『私が死んだら、この庭園に埋葬してくださいね。二人がいつまでも一緒にいられるように』


 思い出は儚く、遠く、永久とわにそこに残り続けておりました。




「――御足労ありがとうございます。ご依頼を達成しました」


 翌日の晩、森の奥深くで怪人はエスプリと会談をしておりました。


「オベリスクは分割式になっていたようで、亡霊たちの手を借りて王城から運び出しました。馬車に積み込むのは一苦労でしたがね」


 気さくに手を振る怪人の背後には、石材が山のように積まれております。


「何と! 貴方と手伝って頂いた霊の方々には、感謝のしようもありません」

「こちらこそ、お役に立てて光栄です。この仕事も永久とわに死ねない者の道楽ですので」


 その言葉に、エスプリは少し身を強ばらせました。

 影はゆっくりと俯きますと、何かを決意したように顔を上げてつぶやきます。


「実は、私も同じような身なのです」


 音もなく立ち上がりますと、エスプリは長卓を回り込んで怪人の傍らに寄り沿いました。

 すっと伸ばされた影色の指が、マスカレイドの仮面をなぞります。


「初めてお会いしたとき、気づいたのです。貴方の仮面には見覚えがありました――」


 その両手が仮面に掛けられ、そっと外そうとした刹那――

 その顔は、若々しい青年のそれに変わっていたのです。

 これも仮面の一つ。ですが怪人にとっては、世界でただ一人に捧げる仮面なのでした。

 怪人はエスプリの手を取ると、そっと口づけを落とします。


「――あれからもう二百年ですね。長かったですが、ようやくお会いできました。私の姫よ」


 視線の先にあるアメジストの瞳から、空色の煌めきが一筋流れ落ちます。


「私……私は、あの日……」


 皆まで言わせずに、怪人青年は小粋に唇に指を当てました。


「あれからお互い、色々と変わりましたね。掛けましょう、積もる話がありますから」


 かつてサスカティア・シェフィールという名だった貴公子は、かつての婚約者の手を引きながら、そう微笑んだのでした。




 紙芝居小屋の老婆の朝は早いです。

 カタコトと俥を引き、早起きな子どもたちに朝の小さな楽しみを届けるのです。引退後の暇つぶしとして、これ以上のものはございません。

 澄んだ風が、まだ人気の少ない朝の町を流れてゆきます。

 その刹那、老婆はハッと顔を上げました。

 長い刻を経て、ついに環が繋がったのを感じ取ったのです。


「……ようやく再会できたのかい、お姫様?」


 小さく微笑むと、老婆は俥の奥にある、思い出のとんがり帽子に目をやりました。

 彼女も若い時分は、あちこちで人間に悪戯を仕掛けたものです。


「でも、きっと最後は大団円でなくちゃあね」


 早くも集まり始めた子どもたちに笑いかけながら、老婆はそう楽しげにつぶやいたのでした。


(終)


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