11. or you(未来)




「ローイア?」


 みずうみの底で目をとじている。ゆらいで、ゆらいで、くらく、くらい。うっすら目をひらくと、遠い水面のほうで、淡い光がゆれている。声がきこえた。

 だれかが、わたしを呼んでいる。


 肩をたたかれて目をひらくと、ミクス.ラムが寝台の傍にかがんで、わたしの顔を覗き込んでいた。その、薄灰色の目に、やせ細ったわたしの姿が映っていた。


「おはよう。なにか、食べたいものは?」

「……おはよう…とくには……」


 どうして、そんなことを?

 初めてかけられた言葉に戸惑った後、すとん、と腑に落ちる閃きがある。わたしは靴を履くと立ち上がる。窓辺に行くと、にわかに手が震えた。

 なるべくいつもより丁寧に、となりにいるミクス.ラムと、カーテンを開けた。

 沈黙が流れて、わたしは、よるべを失った子どものように、おずおずと顔をあげた。

 窓の端に、氷柱のような人影がある。ふいに目が合った。

 最後になる、朝の仄暗い内側で、ミクス.ラムは、冬の氷が溶けて春になるように笑った。




  11




 凍てつくような朝だった。リビングに降りると、窓から雪の降り積もるのが見えた。この間までの温かさは幻のよう。パチパチ、となにやら焔の弾ける音がする。音の方を見遣ると、暖炉に火がついていた。ミクス.ラムを見上げる。その人は何も言わない。わたしもなにも言わない。けれど、知っている。わたしがもう火を見ても大丈夫だってことを。


 朝食の支度をする音がする。湯が沸く音、陶器が重なる音、足音、パンの軽さ、もうすっかり耳になじんだそれらの音をききながら、わたしは、息が白く染まる家のなか、だれかの描いた、つたない聖像画の前に立っている。灰色の影に覆われた絵は、紙のずっとその奥にまで、壁のその奥にまで、世界が広がっている気がした。

 木箱の花は、あふれそうになっていた。

 あの箱の中がいっぱいになるまでには、死ぬというわたしの勘は外れたんだな、となんだかおかしくなった。


 朝食にはいつものメニューに増して、お菓子が用意されていた。これといった会話はなく、向かいの人は、いつもどおりカップに紅茶を注いでいる。わたしのカップに、今朝は砂糖を三つ、もうひとつのカップには空だったので、わたしがひとつ入れておく。文句はなにも言われなかった。角ばったさとうが、温かい紅茶に浸されほどけていくと、底のほうに、砂金めいたきらめきを宿す。ティースプーンでかき混ぜ、それをソーサーに置くと、淡々と食事をとる。ひさしぶりに食べるお菓子は、格別のおいしさだった。わたしは、さみしくなった。


 部屋があたためられていく。食器がさげられると、寒暖差のためか、窓が曇った。人差し指で線をひくと、その隙間から、降り積もる雪の町が見えた。

 よく食べたな、そう思って、腹部をさする。痩せたじぶんのお腹を。赤ちゃん、産んでみたかったな。ふと、そんなことを思う。


 ほどなくしてミクス.ラムは戻ってきた。手には裁縫道具を携えている。なにをするのだろう、と訝しめば、その人は慣れた手つきで針に糸を通し、わたしの前に屈むと、ボロボロになったわたしの服を縫い始めた。


 外では雪が降り積もっている。音はなく、静かな朝だった。こんなに静けさに満ちた朝というのを、わたしはこれまで知らなかった。

 わたしは、縫われる服の裂け目と、繋がった個所とに目を落としていた。雪のように白く、生気のない指が、機械のような滑らかさをもって絶えず動いている。まるで、指そのものが意思をもっているかのようだ。

 そんなことを考えていると、自分の頬に冷たさを感じた。

 ミクス.ラムの指に、透明なしずくがぽつん、と落ちる。

 わたしは、自分が泣いていることに初めて気づいた。


「終わったよ」


 糸を切って、顔をあげた死神が、やはり日陰に咲く花のように笑った。

 わたしはうん、と無言で首を縦に振った。

 堰を切ったように涙があふれだして、自分でも途方に暮れるほどだった。

 実際、向かいの人は呆れ果てているように見えた。


「なにか、こわいことが?」

「ええ」

「いったいなにが」

「なにもかもが」



 ねえ、世界は悲しいね。だれも報われないね。わたしたちは、どうすればよかったのだろうね。



「なにか歌おうか」


 雪のように軽やかに、やわらかい声が鼓膜の底に降り積もる。わたしは涙をふいて、糸の切れた人形のように、ちからなく頷く。


「……そうね、なにかうたって」



 春を迎えられなかった子どもの歌。忘れ去られる子どもの歌。神から捨てられた子どもの歌。救われなかった子どもの歌。

 大丈夫、怖くないよ。ミクス.ラムは言った。初めて痛みを知った赤子をあやすような母の口調で。大丈夫、大丈夫だよ。これでようやく楽になれるね。


「うん」


 涙がかわいてゆく。暖炉の焔に濡れたあなたの顔を目に焼き付けたままほほ笑む。暗がりの中、ゆらゆらと揺れる焔。高台で見下ろした焔。あなたと歩いた闇路。真珠のような夜明け。白い部屋。花と紙、神さま、ごめんなさい。ありがとう、わたしを形作ったすべてのもの。ホーギャン、騙してごめんね。わたしは人間だったけれど、あなたが思うよりかは悪い女よ。ミクス.ラム。おやすみなさい。わたしの唯一の、たった一人の神さまはあなたよ。


 歌がとぎれる。白い手に摘まれた裁縫針が静かに光るのを認め、わたしは震えを制するように、ゆっくりと目蓋を閉ざした。


 冷たくするどい針先がわたしの体内に侵入すると、内部が奥から崩壊してゆくのを感じた。せかいがどこまでも静かに、そうして透明になっていく。わたしと世界を隔てるものがなくなって、わたしたちは水のように融けあった。かたちの無くなった世界で、強いひかりが瞬く。ひどく温かいものと出会う。生まれ変わった、ママを見た。しあわせそうに、母の腕に抱かれている赤ん坊が、こちらを見やり目を細めた。伸ばす手はなく、わたしはかわりにほほ笑んだ。ママ。おかあさん。わたしの知らない世界で、わたしの知らない人と、しあわせになってね。わたしたち、幸せには生きられなかったんだね。ひかりが収斂していく。赤子の笑みが遠ざかっていく。わたしは、からだのなくなったからだで、した唇を噛む。——さようなら、えいえんに。


 すべてきえる。その寸前に、ほほ笑むあなたと目が合った。声はきこえない。その口の動きを、ともになぞる。


 ——さようなら、えいえんに。



 わたしの見れなかったすべての未来をあなたに。

 わたしの見れなかったすべての景色をあなたに。

 わたしの知らなかった、すべての感情をあなたに。

 


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