夢幻



「副業はどうしたの?」

「きみが死んだら再開する」


 新聞をめくりながら、こちらに一瞥を向けることもなくミクス.ラムが答える。


「殺したらの間違いでしょ」

「一緒だよ」


 さりとてわたしも彼に背中を向けているので、失礼なのはお互いさまだ。暖炉のなかは白い灰が積もったまま埃を被っている。わたしはその灰に目を落としながら、忘れもしない、あの夜のことを思い出している。そうして、こう考えるのだ。どうしてあなたは、わたしの前に現れたのだろう、と。


 そうして次に、マントルピースの上に飾られた、白い海の写真を眺めた。——まじまじと見つめるのは、初めてだった。というよりかは、あまりにも平凡だったので、気づけなかったのだ。真ん中に飾られたそれは、ひどく古い写真だ。白い空と、地平線、白い海、砂浜。たったそれだけの、飾るには物足りない、ごくありきたりな光景だ。

 希薄なその一枚の写真におさめられた光景が、わたしの目を惹きつける。

 波がゆれている。そんな気がした。


「ねえ、これはどこ?」


 何気なく振り返ると、いつの間にか新聞を捲るのをやめたそのひとが、テーブルから海の写真を眺めていた。わたしは、なぜだか無性に鳥肌が立った。思わず身を捩るのをやめ、立ち尽くす。ミクス.ラムは、口を開かない。ただただ、静かな沈黙が降り積もる雪のように、わたしたちを取り囲みはじめていた。


「思い出せない?」


 薄灰色の瞳の奥に、海が見えるようだった。眇められたその瞳の中で、海面が揺れている。悲しさに満ちた声だった。どこかで、この声を聞いたことがあるような気がした。

 口を開けなくなったのは、わたしの番だった。


「昔のことだものね」


 つめたい。つめたい。つめたい。

 息を吐いて、夜の帳がおりるように、深く目蓋を閉ざす。ザザザ、ザザザ。鼓膜の内側で、波の音が再生される。ザザザ、ザザザ。ザザザ。


「……なんの話をしているの?」

 遠くで、笑い声が聞こえた。

「君が死んだ話だよ」


 真冬の海水の冷たさが背後から伝わると、わたしは薄く目をひらいた。覚えている、とも、覚えていない、とも、言っていけない気がして、ただ口を閉ざす。マントルピースに飾られた白い海の写真を眺めながら、わたしたちは祈るように、もう一度だけ、目を閉じた。無音の世界のなか、呼吸の音すら殺して、みじろぎ一つしないで、信じる者が報われますようにと祈りを込めて。




  10

 


 夢を見た。夢の中のわたしは年端もゆかぬ少女で、着の身着のまま、緩やかな風が吹きつける暗い山麓の高台に立っていて、そこから眼下の焔を見下ろしているの。


 焔は麓にあるひとつの邸宅を丸ごと呑み込んでいる。それはさながら地獄の様相だ。大きく膨れ上がった焔はまばゆいばかりの光を放ち、轟々と音を立てながらひとりでに燃え盛っている。わたしは未だ燃え尽きないその焔を、だれかとともに、静かに見下ろしているの。

 そのとき、となりから呻き声が聞こえた。わたしは顔をあげる。

 黒焦げになった、ママがいる。髪の毛は縮れ、顔は真っ黒で、足は太ももまであるけれど、その先はない。わずかに空いた口の中は真っ暗で、眼球のあった場所には二つの窪みがあるだけ。

 ママの面影はまるでなかった。けれど、わたしははっきり、ママだとわかった。わたしはその手を握った。

 さくり、と音がして、炭が散った。わたしの手はやけどを負った。


「ママ」


 呼びかけると、焼死体がゆっくりとこちらを振り返る。足元では、やはり焔がごうごうと燃えている。焼け落ちた片方の腕が、わたしの頬に向かって伸ばされると、ママの口が、不便そうに開かれた。


「オーイ、ア。こっちへおいレ」


 暗い声だった。

 わたしはほほ笑んだ。


「うん。」


 今行くよ。ママ

 ひどいことをして、ごめんなさい。





 「死神さんへ

  昨日は、大切なものを奪ってごめんなさい

  新しいものを贈ります。

  明日からは、これをつけてね。

  もう誰も死ななくてもいいように。」




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