9. or you (過去)


  9



 嘘となんど唱えたら、果たしてこの現実は嘘になるのだろう。


「うそよ。うそ。そんなこと、ありえないわ」

「ほんとうよ。証拠だってあるのだもの。……で、ローイア。次はわたしたちなのよ」

 

 倉庫にいた。誰にも聞かれないようにと配慮したママの采配だった。ただ、物陰の多さにぞくりと背筋が粟だった。そばにだれかがいる気がする。だれかが、わたしたちを見ている気がする。

 それはママの荒唐無稽な話によって、より恐怖を増した。

 その話とは、こうだった。パパは子どもを売っている。そういった組織に属している。

 パパは所属する組織からは逃れられない。また、抜けるつもりもないように、ママの目には映っている。家族が安全で、幸せに暮らすためには、わかっている。パパは言った。ぼくは死ぬしかない。けれどぼくは、死にたくはない。君たちと生きていたい。

 ねえ、どういうこと、あなたはなにを言っているの?


「どの口がぬかすとおもう? ねえローイア、あなただってそう思うでしょう? パパの行いのせいで、いったいどれほどの子どもが、つらい思いをした? 悪魔が人間にあこがれたのよ。自分の身の程もわきまえないで、家庭をもった。信じていたのに。愛していたのに。

 ねえ? ローイア? おまえは違うわよね。おまえは、ママの子だものね?」


 まくしたてるママのかたわらで、わたしは視界が妙にクリアになって、静かになっていくのを感じていた。ママは取り乱して、挙げ句の果てには泣いている。


 悪魔を感じたことはあるだろうか。わたしにはあった。このとき悪魔は、卑しく笑いながら、わたしの耳元で、こういった。

 ——生まれる前から終わっていた人生だったのだ、と。



「おまえはちがうわよね?」


 うだるような暑さのなか、わたしはすこしずついろんなことを理解しつつある。家の中がおかしくなりはじめていること、もうおそらく、パパは帰らないということ、前には戻れないのだということ、わたしがどんな返答をしたとしても、運命のメッキがもう剥がれ始めているのだということ。

 ママの最大の不幸は、パパと出会ったこと、そして、わたしを娘にもったこと。

 最初こそ口にしなかったものの、わたしは彼女がそう後悔していることをありありと認識した。時間が経つにつれ、それは確信へと変わった。ママも明言するようになった。わたしは自分の存在が、ママを苦しめていることに罪悪感を覚えていた。


 

 季節が巡る。ママが日に日に憔悴していくのは明らかだった。信じていたものたちに裏切られ、命はあやうく、かといってどこにも逃げる場所はなく、また逃げた先でなにが起こるかわからない、そんなおもくるしい恐怖。枯れゆくさまは水のない花のようだった。あるいは、水の中で腐る茎のようだった。どろどろと溶け、腐臭をはなち、空気を汚染する。その手は絶えず震えていた。表情は生気をなくし、乾いて割れたくちびるはわななき、しかし目には危うい光が宿った。ママは服を着替えなくなった。髪を梳かさなくなり、身なりを整えなくなった。かつての綺麗な洋服も装飾品も、クローゼットに仕舞われたまま、日の目を見ることはなくなった。薬を服用して、酒に逃げ、あらゆる暴言と暴力のちからで現実を閉ざした。閉め切ったカーテンから光が漏れだしただけで気が触れる。奴がくる、奴がくると叫び、ピストルの弾はなくなり、家の中は蜂の巣になった。


 わたしは、いまならこう思う。ママがおかしくなったのは、パパがどうのこうのという話は単なるきっかけに過ぎなかったのだと。決定的だったのは、きっと、自分の話を、たったひとりの娘が、真剣に聞き入れなかったこと。はなから嘘だと決めつけたこと。いつも通りのヒステリーだと、気違い扱いしてしまったこと。そうしてそれは、現実を受け入れたくない、わたしの弱さからきていたのだということ。そんな小さな、けれど絶対に避けなくてはならなかった、かなしみ。


 だけれど、この家という箱庭のなか、濁流のさなかにいるわたしたちにはもう、右も左も、上も下も分からない。身も心もボロボロで、お腹は空いていて、傷は痛みすら感じなくて、目に映るのは、気の触れた女とゴミの山、耳に入るのは、怒声と金切り声と汚い言葉。もう、なんにも考えられなかった。この生活は、いったいいつまで続くのだろう。大人になるまで? ママが死ぬまで? わたしが死ぬまで? ねえ、それって何年さきのこと?



 やがて、嬲られるがままだったわたしを見るママの目が変わった。彼女はいつしか、わたしと目が合うと怯えるようになった。なにせ、わたしの瞳はパパと瓜二つで、形も色も、縁取るまつ毛もおんなじだったから。ママはずっと、わたしたち二人のことを、生き写しだと言っていたのだ。それか、はたりと我にかえって、自分の行いが恐ろしくなったのかもしれない。報復を恐れたのかもしれない。わたしに夫を見出したママは、「殺すしかない」と呟いた。カエルの子どもは、カエルの子。悪魔の子どもは、悪魔の子。わたしには、もう感情がなかった。ただ、にぶい心の痛みだけが、たえず心をずたずたに引き裂いている。何を言われても涙はでない。ただ、すこし胸がうずくだけ。


 ママのピストルにはもうとうに弾がなかった。ママはわたしを手にかけようと躍起になって、わたしは反射的に、着の身着のままで暗い外へと飛び出した。



 ——神さまたすけてください。

 ——神さまたすけてください。


 わたしたちは家のなかでふたり溺死しかかっていた。ただただ流されるほかなかった。行きつく先を受け入れるしかなかった。たとえそこが地獄であったとしても。そして、地獄からは抜け出せない、と深く絶望しながらも、一方で、わたしは分かっていた。すべてを解決する方法を誰よりもよく知っていた。これしかないことも分かっていた。


「どちらにする?」


 月光の陰、葉叢の向こうの暗がりから、声が聞こえる。


「生きるか死ぬか、どちらにする?」


 見覚えのある姿だと思った。その姿は、たとえるなら、幽霊だ。質感のある幽霊だ。出会ったことが、どこかであるはずだ。けれど、茫洋とした意識では、それがもう、どこでなのかが分からない。

 山の麓、獣の咆哮が闇に呑まれる草陰で、隠れていたわたしをあなたが見つけた。


「死ぬ」


 現れたあなたは笑った。追い詰められていたわたしたちは、せまい箱庭のなかで、互いの体と心をいたずらに食いちぎった。もう十分、いのちを尽くし合った。

 深く昏い闇のなか。未来はみえない。過去は足かせ。現在は地獄。わたしはたしかに、悪魔の子どもなのだとおもう。


 神さま、あなたはもう必要ない。




 すっかり夜が更けた街の中を歩く。月明かりが綺麗だった。夢のなかを歩くようだった。もう、襲われて殺されるかもしれない、という心配は毛頭なかった。

 家に帰ると、暗がりの中で灯芯がちいさな明かりを灯していた。その明かりの中に、ママの眠った顔が浮かびあがっている。わたしは近づき、ママが服薬の際に使うカップが、ダイニングテーブルにあるのを確認する。

 家中のカーテンを開けて、月光が射すようにした。皮肉にも月は満ちていて、家の中がよく見えた。

 道具はすべて揃っていた。煙突の中にあらゆるものを詰めて空洞をふさぐ。家中に油を仕込む。木床にガソリンを撒く。暖炉に火をつけ薪をくべて、火が立ち昇るのを待った。

 ママはよく眠っていた。焔の明かりに照らされ、やつれた頬や、皺が濃く刻まれているのがはっきり見えた。もう生きるのに疲れたような、そんな顔をしていて、わたしの中の憎しみが揺らいだ。この顔で、確かに笑っていたときもあった。美しいときもあった。優しくわたしを呼んでくれたこともあった。二人で、あるいは三人で食卓を囲んだこともあった。

 未来を疑わなかったときがあった。紛れもなく幸福だったときがあった。


「ママ、愛していたわ」


 室内に黒煙が満ち始めた。ママはうっすら、目を開いたあと、再びゆっくり目蓋を閉ざす。

 そのときわたしは、なぜ外に出てしまったのか分からない。家の内側から火をつけるつもりが、最後に見届けたい気持ちが芽生えて、外にでた。窓を少しあけ、その隙間から火を放つ。

 焔はしだいに轟々と燃え盛った。もうすっかりママの顔は見えない。バリン、と音を立ててガラスが割れた。熱風が吹き、身体中が焼き爛れるかのようだった。家の柱が食い尽くされた。わたしはその場から駆け出した。



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