8. or you (悔恨)



  8



 春がくる。遠く遠く川の向こうから、暖かい光を乗せて春がやってくる。今はまだ冬の気配を残すこの町に、春の先ぶれがやってくる。寝室の窓から見える木の梢には緑の芽がついている。窓を開けると一陣の風がなだれ込む。その中にひっそりと春の子どもがいる。ミクス.ラムの家の中に迷い込んだ、小さな小さな、春風の子どもが。


 ホーギャンの死から数日経った。わたしは、アメジストのブローチを外して、緑のブローチをつけるようになった。いつしか大切なものとなってしまったその装飾品は、最初こそためらいを覚えたものの、いまではわたしの凍え切った胸の中をほんのりと温めるようになった。人の温かな感情というものを、この期に及んで知ってしまったことは、幸福なことなのか、はたまた不幸なことなのか。どういった意図があって、わたしに用意されたのかは分からない。ミクス.ラムは、きっと知っているだろうに、そのわけを説明しない。


 知りたくない、と言えば嘘になることはいくつかあった。贈り物の意味、ママの遺体の行方、燃えた家の後のこと。だけれどわたしはもう、考えないことにした。意味をさぐることは幻を追い求めることにちかく、またミクス.ラムに窘められるのも嫌だった。ただ目の前に広がる単純な、物質だけの世界を選んでいくこと、ただその一点に努めた。少しでも務めを怠ろうとすれば、わたしのそばにいる亡霊の、深淵のような眼窩と目が合った。マグマのような後悔は、いつでも口を閉ざしてそこにいた。わたしを更に堕落させようと、更に陥れようと機会を窺っている。だからわたしは、無心で過ごした。結局、それがわたしの最善と思われたからだった。


 そうして毎日のごとく、花と静寂を紙に写し続ける。日々の成果か、いつしか、あれだけ苛まれていた幻聴が、春の予感と共に緩解しつつあるのを感じて、悲しいような、さみしいような、罪深いような、複雑な気持ちに陥った。


 わたしはペンを置くと、小指を休めるかたわらで、ぼんやりと、家族のことを考えた。優しく多忙であったパパと、パパにいつまでも恋をしていたママと、その子どもであったわたし。

 パパは、生きているのだろうか。

 紙に落ちた、つめたい墨色の影をみて目を細める。

 死んでいるのだろう。娘だから、なんとなくわかる。そんな気がした。

 ミクス.ラムは、最近では、フクギョウの仕事を控えているのか、家にいることが多かった。だから、ふと気づくと、わたしの視界のうちに、花瓶の影のように佇んでいる。そうして目が合うと、ほほ笑む。

 死神らしくなってきたな、内心そんなことを思って、微笑み返す。



 先日、ひっそりホーギャンの墓参りへ出かけた。道中で、花売りを見つけて花を買った。ミクス.ラムから貰ったお小遣いは、これで全部使い果たしたことになる。

 町の果てにある広場を抜けて、教会の敷地に入り、墓場へ向かうさなか、司祭に会った。自分に後ろめたさがあるせいかも分からないけれど、その態度がひどく落ち着いているのを目にして、不気味に思えた。しかも、その人が、ホーギャンの墓へ案内してくださるのだと言う。

 無言で後ろをついていくわたしに、司祭はなにも尋ねなかった。わたしはマクス・ホーギャンと名前の掘られた墓に、買ったばかりの花を供えた。あげられるものが、何もなかった。だから一番大切なものをあげようと思って、ポケットから取り出したアメジストのブローチを墓に置いた。


 ——ミクス.ラム。あなたの言う通りでした。


「新聞は読んでいるかね」


 わたしは顔をあげる。青空を背景に、初老の男性が、なにかしらの事実を確信しているような、はっきりとした眼差しで、わたしを見つめている。

 わたしは、目を伏せた。

 視線の先で、花びらが風に揺れている。


「新聞の行方不明欄に、ある子どもの名前が載っている。特徴はこうだ。ベージュ色の髪、青い目、年齢は十一歳。なまえは、言った方が宜しいかな。ローイア・クライム」

「……」

「きみの素性はいずれ町に知れ渡る。きみはここにはいられなくなる。わたしが何を言いたいか、きみならもう分かるはずだ」

「自首をおすすめになられているのですか」

「もしくは告解だ」

「あいにくですが、わたしは神を信じません」


 沈黙のなかを風が吹く。言葉というのはふしぎだった。ひとたび口をひらけば、まるで水門が開かれたかのように、水のごとき過去があふれ出す。

 わたしはほとんど走馬灯に近いそれがめぐりめぐるのを、望洋とした心地で眺めていた。わたしの脳には、過去のその映像が流れており、現実には墓石と花と文字があり、頭上では、司祭の声がしていた。


「大罪だよ」


 視界の端では、僧衣が風に揺れている。「ええ」

 瞼の裏では、ママが泣きながら金切り声をあげている。

 まぎれもない。わたしは罪人だ。


 天から与えられたものは疑いと、罪と、ひとつの家と、暴力と、憎しみと、悲しみだけ。


「人も神も法も、罰を与えることには長けているようです。けれどわたしたちのことは、神父さま、だれも救ってはくださらなかった」

 

 風とたわむれる。土に触れる。

 人間を厭うように。


「罰はうけるつもりです。神父さまのおっしゃるとおり、神がいらっしゃるのなら、法に頼らずともわたしは裁かれるに違いありません。それか、この人生は、はなから裁きのために用意されたものだったのかもしれません。わたしは逃げたのです。だから、きっと裁きはつづくはずです。断罪の人生は繰り返されるはずです」


 波のように、意識の果てから、何かが襲ってくる気配がする。ゆっくりと襲ってくる波の、大きなそれに意識を澄ませながら、息を吸って、波を迎え入れるため目をとじた。


 瞼裏では、夜の中、焔が燃えている。


「もしわたしを憐れんでくださるのなら」


 ――焔に飛び込めなかったわたしが、走ってその場から逃げだしている。

 誰かを探して、逃げている。


「……おねがいを聞き入れてください。雪が解ける前に、川下でわたしの遺体が見つかるはずです。深く穴を掘って、埋葬してほしいのです」



 ――夜闇の中、あなたがいる。まるで灯明のごとく、そこに立っている。夜の大海におぼれるわたしが最後に目にする島。

 

 耳鳴りを伴った大波に呑まれて、一瞬だけ呼吸がとまる。現実は遮断される。わたしは、この感情をよく知ってる。指一本、動かせないほどの悔恨の念。波は引き、よりまた大きな波となって襲い掛かる。


 

 誰か、わたしたちを嘆いてください。憐れんでください。

 身の保身ばかりだった。自分を愛してくれた人さえ大切にできなかった。

 憎しみという感情を崇拝した。善なるものを見限った。


(地獄へ行くだろう)


 肩に司祭の手が触れた。ひさしぶりに触れる人の温かさだった。

 ふと、唐突に、それでいて鮮烈に、泣きたくなった。

 生まれたばかりの赤子のように、わあわあと声をあげて、泣けたらいいのにと思った。


(まっさかさまに地獄へと堕ちる)

(煉獄の炎も見ることなく)


 頭上では十字を切る気配がした。わたしは目を閉ざして、波が過ぎ去るのを待っていた。大丈夫、大丈夫、とかつてなんども心で繰り返した言葉が、もはやなんの意味もなさずにほどけていく。

 終わってもいい。始まってもいい。そう思わないと、心が壊れてしまいそうだった。だから、肩が震えるのを、だれにも見られないように身を抱きしめて、司祭が立ち去るのを待っていた。だれもいなくなって、みじめなわたしを目撃する人間がいなくなるまで、墓場にうずくまって、隠れていた。


 

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