本編
本編
ナカムラは放課後に用事があったせいで、仕方なくひとりで下校しています。彼の通うM高校から上大岡駅まではほとんど山のような坂を下って、そして平地を歩いていく必要があります。もし京急線に乗るなら商店街を抜ける必要がありますが、地下鉄に乗って帰るなら商店街の途中にそちらへ下りていく階段があります。ナカムラもいつも通りにその階段を使うことにしました。
ふだんと違うのはひとりであること。誰も周りにいないぶん、いろいろなものが目につきます。意識したことのなかった壁の色や近くを通った老人の姿勢。見ようともしていないものでさえ割り込んでくるように感じます。
そして階段を下りはじめ、踊り場を折り返してあるものに気が付きました。交差をするように隣にもうひとつ階段があります。ナカムラはぴたりと足を止めました。それは奇妙なものだとナカムラは瞬間的に考えます。その答えを導いてから正しい理由を構築し始めました。
たとえばエスカレータであればレーンが複数あることはおかしくないどころか正常です。なぜならエスカレータは一方通行だから。それが交差するかどうかは建築上のデザインの問題であって、ほとんど誰も気にもしないことです。しかし階段が並んで交差するとなると話は別です。それは人が主体的に上り下りするものであり、隣接する必要はどこにもないからです。もしデザインだという主張があったとしても簡単に退けられるでしょう。商店街に出入り口のある地下鉄駅への連絡通路への階段で、誰もそんなデザイン性を要求はしません。たとえ商店街に商業施設が生まれることで外見が一新されても、です。
ナカムラは頭の中を疑問でいっぱいにしながら、その交差した階段を覗き込むことにしました。そっと、何も刺激しないように。おそるおそると表現してもおかしくないほどゆっくりと手すりの先へと頭を出します。そこにあったのは足元にあるのとどこも変わらない階段でした。また踊り場があって折り返して下っていきます。
ほう、とナカムラは息をつきました。ただの階段かよ。そう心の中で安心しながら毒づきます。そうしてナカムラはいつもの電車に乗り、帰宅しました。
「あれ、タカハシ、まだハヤシのやつ休み?」
「知らん。休みどころか連絡がつかねえもん。さすがに気になるけどよ」
「あ、連絡取ろうとはしたんだ」
「当たり前だろ、俺以外とはそんな仲良くしようとしないんだから」
「それでお前でどうにもならないんだったら何かに巻き込まれてんじゃねえの」
「笑えねえ」
ちょうどそこでチャイムが鳴りました。担任の先生が教室に入ってくるのと同時にナカムラとタカハシは自分の席へと戻ります。先生の顔は普段よりもずっと青ざめ、雰囲気は神妙なものになっています。ナカムラはなんとなく、ロクでもない話を聞かされそうだなと感じました。先生はクラスメイト全員が席につくのを待っています。
「どのみち噂が広がることがわかっているので先に話しておきます。騒がないでください。ハヤシくんについてご家族から捜索願が出されました。そのうち警察が学校に来ることになるかもしれません」
教室がどよめきます。誰もが小さな声で口々に何かをつぶやいています。
「また、面白半分の野次馬やメディアが学校周辺に出没する可能性があります。それらについては教員に聞いてほしい、自分にはわからず答えられないと返事をしてください。遊び半分で適当に答えないでください。ひとりの人間がいなくなるという重大な事態です。ご家族のことも考えねばなりません」
誰かがプリントに打ち込んだ文面を読んでいるような忠告でした。しかしそれでも強烈なインパクトを残しました。誰もがその話題には近づかないようにしようと思う程度には。
またナカムラとタカハシが話をしています。
先生の言葉の影響で、やはりハヤシの話題は避けているようです。
「バイトはどう、稼げてる?」
「さすがにしないよりはずっとな。つってもそこまでシフト入れんのも難しいけど」
「どこで働いてるんだっけ」
「『camio』の一階のスーパーマーケット」
「え、知らんかった。駅前のだろ?」
「そうそう。あんなとこ高校生来ないからやりやすいぜ」
タカハシが意外なところでアルバイトをしていることにナカムラは驚きました。彼の知っている限りのタカハシは、人目につきたがらない性格をしていたからです。もちろんタカハシの最後の返答はその要素を満たすものでしたが、灯台下暗し、裏をかくような手段を採るのとはまたイメージにずれがありました。
タカハシがあまり自分のことを話す人間ではないせいで、彼のアルバイトの目的をナカムラは知りませんでした。なにか欲しいものがあるのだろうがそれが具体的にはどんなものかはわからない、そういう認識でした。
やがてそんな雑談の時間も終わって、いつものようにチャイムが鳴ります。今日もナカムラは地下鉄に乗って帰ります。いっしょに帰ったことはないけれど、ハヤシも地下鉄を利用していたことを思い出しながら。
その夜、ベッドの中でナカムラは唐突に目が冴えました。あるひとつのおかしなことに気がついてしまったのです。それは、階段。自分が使うものと交差していたあの階段です。あれは、あってはいけない。なぜなら地下鉄の駅へとつながる階段はあの出入り口には他になく、そうであるならば覗いたときにまだ踊り場が続いていたのはあり得ないことなのです。交差ということは別のルートにつながっているということです。駅より下へと続く階段。あの踊り場はその存在の証明になってしまいかねません。
ナカムラは混乱しました。他につけられる説明を探しました。たとえば、災害時に駅構内から脱出するための非常口のひとつであるとか。正当性はたしかにありそうでしたが、地下鉄上大岡駅は駅ビルの地下街にも接続しています。脱出口に事欠くとは思えません。否定する材料もありませんが決定打にもなりません。それよりも異常性が色濃く浮かんできます。
(……侵入、いやダメだろ)
ナカムラの心を謎の階段が蝕んでいきます。アリがクッキーのかけらを巣へと持ち帰るように。ある時点でナカムラは眠りに落ちましたが、目が覚めてももやもやしたものが頭に残っていました。
「タカハシ、お前さ、『camio』でバイトしてるんだろ?」
「なんだよ、昨日も話したじゃん。スーパーな、働いてるよ」
「噂とか聞いたことねえ? どっちかってえと、まあ、怖い系の」
「いやパートのおばちゃんとかがそういうので盛り上がると思う? ないって」
タカハシは半笑いで否定します。言われてみればその通りです。そんな話で盛り上がるのは学生までで、むしろ彼らがいまいる学校こそがそういった噂の出所になりがちな場所です。
ナカムラがまあそうか、と納得したところにタカハシが視線を送り続けます。どうしてそんな噂を確認したくなったのか、と言外に尋ねています。
「俺さ、地下鉄で帰るだろ? そのとき商店街の出入り口から下りるんだよ」
「ああ、あんね、階段」
「その途中にさ、交差してる隣のレーンの階段があんの」
「うん」
「いやそれおかしくね、って。エスカレータならわかるけど、階段を分ける意味ってないじゃんか」
「まあ、そうだな」
「それで『camio』にいるお前なら何か聞いたことあるかって思ったんだよ」
「聞いたことねえな。階段自体はわかるよ、たぶん俺も見たことあるやつだと思う。でも下りたことないし、気にしたこともない。だって用事ねえしな」
タカハシが腕を組んでそう言うと、ナカムラは残念そうに笑いました。
「でもどうせ災害時の備蓄とかじゃねえの?」
「俺もそうかなって思ったんだけど、だとちょっと変なんだよ」
「何が?」
「踊り場があって、また折り返してた。もっと地下につながってるってことだ」
「地下鉄とぶつかるだろそれ」
「だから変なんだって」
タカハシの表情が変わりました。さっきの半笑いと比べると、明確に楽しみを見つけたものへと変わっています。どこかいたずらっぽい、少年らしさを奥に潜ませたような笑顔です。歯さえ覗いています。
「行ってみるか?」
「いや、それはヤバいでしょ」
「まあ、たしかにちょっとした怖さはあるしな」
「そうじゃねえって、見つかって通報とかされたら面倒だろ。どう考えても」
「お前以外に誰も気づいてない階段だってんなら、もちろん進入禁止ってことに頭がいくやつもいない。だからそれはないと思うぜ」
いたずら好きなタイプにありがちな頭の回転を見せて、タカハシはナカムラの心配を吹き飛ばしました。前提さえ呑み込めば筋は通っています。ナカムラも返す言葉が見つかりません。気圧されたように頷きます。
タカハシは励ますようにナカムラの背中を叩きました。
「時期外れかもだけどいいじゃねえか、肝試し。どうせ事実は下らねえだろうけど」
ふたりは放課後を待って、そのまま件の階段へと向かうことに決めました。
空の色がオレンジにさえならないあいだにナカムラとタカハシは駅前の商店街にたどりつきました。いつものように人が行き来しています。そんな風景を見ていると、ナカムラはなんだか安心してきました。
商店街の片側だけが商業施設として変貌しているのはいびつに見えるかもしれませんが、上大岡の人間は誰もそんなことを気にはしません。右と左のどちら側でも買い物はできるし、食事もできます。
京急上大岡駅を正面にして、商店街の左側にナカムラの使っている地下鉄の駅への入り口があります。みんなが使うものというわけではなく、知っている人がちょっとだけ早く駅につける連絡口くらいの立ち位置のものです。今日も多くの人がその存在に気付きもせずに素通りしていきます。ナカムラとタカハシは一度だけ足を止めて、すぐに入っていきました。
「ほら、あそこ」
「え、そんなすぐ見えんのかよ」
「そんな長い階段じゃないし」
肩透かしを食ったようなタカハシの反応をよそに、ナカムラの言ったとおりに別のレーンの階段が手すりの先で交差しています。地上に続いているのも間違いないし、言葉の通りに踊り場を経てさらに地下にも続いていそうです。あまりにも当たり前に存在していて、たしかに違和感を抱くのは難しそうでした。
タカハシはいま自分たちのいる階段の上下を素早く確認しました。
「いくぞ」
そう言ってナカムラの肩を叩くと手すりを飛び越えました。向こう側の階段でタカハシが手招きをしています。時間をかければかけるだけ人に見つかる可能性は高まります。ナカムラも急いで手すりを飛び越えました。ふたりはそのまま階段を下りて、踊り場を折れます。そうするともう誰かが探しに来ない限りは見つかりません。ナカムラがひとつ息を入れてタカハシを見ると、目をらんらんとさせて親指で先を指しています。たしかに興味が湧いていたナカムラは頷いて、階段を下りていきました。
かなり下りました。はっきりと地下鉄よりもずっと階段は続いています。かびくさい臭いもあって、ナカムラはだんだんと不安になってきていました。
「おい、マジでなんかヤバい感じしないか」
足を止めてナカムラは声をかけました。
タカハシは返事をしません。
「おい帰ろうぜって。警察とか呼ぶやつとしか思えねえよこれ」
「いやあ、帰れねえよ」
「冗談言ってる場合じゃねえって」
「マジで言ってる。お前もう帰れねえんだよ。行方不明になんの。ハヤシみたいに」
「は?」
「あーあー、やべえよなあ。こんな短期間に同じクラスから二人もかよ。警察からも相当いろいろ聞かれるんだろうなあ」
あまり言葉ほど困った様子には見えない調子でタカハシが口を開きます。
「お前なに言ってんの?」
「別に。明日からのこと。じゃあ俺は帰るわ」
そう言うとタカハシは階段をゆっくり上がり始めました。その一方で、ナカムラの足はどうやっても持ち上がりません。手をついて踏ん張っても床と一体化したようにぴったりと。タカハシは笑いながら手を振っています。ナカムラは力の限り叫びましたが、吸音材でもあるかのように声は響きません。タカハシの姿が見えなくなりました。ナカムラは自分にできるすべてを試しました。血がにじむほど。しかし。
数日後、担任の先生がまた悲しそうな顔をして教室に入ってきました。
ナカムラの席は、空いていました。
踊り場の先 箱女 @hako_onna
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