第8話 再訪、そして再会

 ところが十階建てのマンションは建ってしまい、そこに住んでいる現在の私は、そのマンションから、かつて私も住んでいた両親の家まで行く。

 私が住んでいるのは八階だ。窓は両親が住んでいる家のほうに向いているけれど、道の向かいに同じくらい高い建物ができていて視界がさえぎられ、その家は見えない。


 両親の家へ行く途中でちょっと寄り道をするとそのアライ池の住宅地に行ける。

 日曜日、その寄り道をして、ひさしぶりにアライ池の住宅地を通ってみた。

 あのころ、新しくて高級感にあふれていた家は、いまとなってはわりとどこにでもある「普通の家」になってしまったと感じた。

 それでも、やっぱり、門があって庭があって、しかも道よりも高い土台の上に家がある街並みは、いまでも「高級住宅地」という感覚を感じさせてくれる。

 建て直された家も多いようだ。

 私が幼いころに真新しかった家も古くなったのだろう。とくに、そのころの家は、高級感のある家であっても、断熱性能は低い、「バリアフリー」にもなっていない、というものだった。二一世紀の現在も住み続けるには不便でコストもかかる。

 所有者が変わった、または、世代が代わった家も多いだろう。

 それで、建て直されたり、大きく改修されたりしたのだろうと思う。


 この住宅地の周囲にも、この住宅地の家以上に新しい住宅は増えた。

 でも、私が子どものころから変わっていない住宅もかなり残っている。屋根は黒瓦で、壁はさえない色のモルタル壁という家だ。

 新しくできた住宅も、やはり「同じプランで量産した建売住宅」という感じがする。

 そういえば、アライ池の住宅街は、ほぼ同時にいっせいに建てられたもののはずなのに、最初からそれぞれの家のプランは違っていた。建て売りではなく、開発されることが決まってから、その家の買い主からそれぞれ注文をきいて建築したのだろう。

 だから、アライ池の住宅地は、普通の街になってしまったように見えて、いまでも、まわりの住宅地とは違う「気取った感じ」をまとっている。


 そんなアライ池の住宅地のなかに、一軒、平屋の家が残っていた。

 あの花屋さんだった。

 シャッターは閉じていた。そのシャッターにはさびが浮いていた。もう何年も開けられていないことはすぐに見て取れた。

 店の前のコンクリートの階段は残っていた。店の前のきれいな芝生はたぶんなくなったのだろう。かわりに雑草が生えていたけれど、手入れをまったくしていないというわけではなさそうだ。

 店の上に店名を書いた看板が出ていたことにも、たぶん初めて気づいた。

 その看板も錆びて、色あせ、もはや看板のとそこに書いてあった文字の色の差もほとんどなくなっていたけれど、文字は読めた。

 「東洋生花店」とあった。

 新興住宅地の並びにできた小さい小さい花屋さんなのに「東洋」とは大きく出たものだ。

 私たちの家族は、ずっと、ここを「アライ池の花屋さん」とか、「花屋さん」も言わずに「アライ池まで花を買いに行ってくる」と言っていて、店名なんか意識したことはなかった。

 なかったと思う。


 まわりは、家が建て替えられていてもそうでなくても、いまでも高級住宅地なのに、この建物だけが、小さく、老いさらばえている感じだった。

 それはそうだ。

 この新興住宅地で自転車の練習をしていた幼稚園児が会社の定年までのカウントダウンに入っているという時間が経ったのだ。


 それでも、私は、やっぱり、この花屋さんには、もういちど開いてほしい。

 いま、ただ花の入ったバケツを並べただけの「野趣」あふれる花屋さんが受け入れられるかどうか?

 あんがい、受け入れられるのではないかと思う。

 そして、そんな店では、やっぱり、赤のシャツを着て白いズボンを穿いた若い女のひとが働いてくれていればいいと思う。

 それはなかなか叶わぬ願望だとは知っているけれど。


 (おわり)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アライ池の花屋さん 清瀬 六朗 @r_kiyose

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ