第35話

 川が流れている。

「そんなところで何をしているんだ」

 彼女は尋ねた。すると、尋ねられた彼女は振り返って、そして言った。「お姉さんを待っていたの」

 風もなく穏やかな様子で、川は滾々と何をすることもなく流れている。「ずっとしてみたかったことがあるんだけど」

 彼女はそれを、とても素直な気持ちで話している。こんなことは、生きているうちではできなかったことだ。

 どうしてあんなに素直に言いたいことを言えないでいたんだろう、と彼女はおもった。

 はじめのうちは、ただ話しているだけで良かった。話すのが楽しかった。理解してもらえるのが嬉しかった。やっと出会えたんだとおもった、つまり、言葉の通じる相手と。話せるだけで良かったんだ、本当は。それ以上のことを、というよりも、それ以外のことを求めるような不純が生じたから、それに伴って感情は複雑に入り組んで、一番最初にそうしたかったことを忘れてしまう。あそこには人の心を夢中にさせる、たくさんのものに溢れていたから。でもここは違う。ここには何もないし、彼女もなにか手持ち無沙汰のように、ぼんやりと川を眺めていただけだ。

「散歩がしたい。ちょっとそこまで歩かない?」

 空にぽっかりと黒い穴が空いている。川のそばの砂利道に注がれている青い光の中で、二人の影はどこまでも長い。

「ずっとこうしたいとおもっていたの。でも言い出せなかった」

「何が?」

「お姉さんとふたりで歩きたかったの。夜の散歩がしたかった」

「そんなこと……すればよかったんじゃない?」

「女が? 深夜に? 自らの足で? 徘徊を?」

「あの時代としては気狂い沙汰だったかもしれないけど」

 彼女は歩きながら天を仰いだ。「時代は変わるよ。女が、ふたりきりで夜の散歩をしていても可笑しくはない。多少危険であることには変わりないけども」

「私とあなたが女同士でなかったら」

 彼女は言った。「危険ではなかった? 深夜に散歩しても、変じゃない?」

「それは、変じゃないだろう」彼女は顎を撫でた。「みんな平気でそういうことをしているだろうし」

「死んでからなら、変じゃない」彼女は言った。「誰も私たちを邪魔する人なんか居ないんだから。ここでだったら誰も私たちの噂をしないし、私があなたにどんなことを口にしても、聞いている人だって居やしない」

 彼女は言った。「だからずっとここで待っていたの。ここでなら全部話せる。私がほんとうにしたかったこと、あなたが……」

「散歩、如きのこと」彼女は呆れて笑った。「死んでからじゃないとできないものなのか?」

「私はお姉さんとお散歩がしたかったの」

 彼女は言った。

「私の目的はたったそれだけのことだった。でも、たったそれだけのことでも、叶えることができなかったから、ほかのことにあくせくして、それを目的としてすり替えて、仮の満足を、本物の満足に仕立て上げていただけ。でもずっと悲しかった。いちばん……ほしいものが、手に入らなかったから」

 彼女の手が、彼女の手に触れた。

「手を繋いでもいい?」

「………………」

「握手をしたこともない……この手ですけど」

「どうでもいいけどね」

「繋いでいいですか?」

「………………」

 彼女はその冷たい指に、自身のそれを絡めた。彼女はとても幸福だった。ずっと、それだけを望んでいたから。

「ああ、それにしても、クソッ」

 だけど幸福で居る彼女のとなりで、もうひとりの彼女はまた別のことを考えている。「駄目だ、もう一回行かなくちゃ」

「もう、いいじゃあないですかあ」

「駄目だよ。まだだめだ。くやしいよ、みすみす。もうすこしで分かりかけたところだったのに……」

「ほら、川の流れがきらきらして。きれいですよ」

「そうだよね。そういうものもある。分かっているんだ。でも……」


 おや(一字不明)、川へはいっちゃいけないったら。


おわり

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不思議の国のかぐや姫(分割版) 島波春月 @summerbaka

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