第34話

 彼女はその千年目の朝に、万年床のせんべい布団から、むっくりと起き上がった。

「……………」

 彼女は上半身を起こしたまま、またしばらく目をつむった。そして、まぶたを上げた。

 めのまえには昨日と全く同じ風景が広がっている。

 四畳半風呂なしアパートの部屋の壁はくすんでいる。窓を挟んで右側の壁には、角の画鋲が一つ取れたままの太田裕美のポスター。右端の下だけが丸まっているが、直すのが面倒でそのままになっている。机の上に置かれた赤いラジカセと、積み上がったテープの山。昨日その山が山崩れに遭って、人に借りたものと自分のものが混ざってしまった。面倒なのでそのままにしておいたけど、今日はそれを返しに行く日だから、きちんと仕分けないといけない。少し斜めになったままで不安定な机の横には、積み上げられた雑誌の山。今度資源回収に出してトイレットペーパーと交換してもらわなくちゃ。薄く、しかしホコリをたっぷり吸った重いカーテンの向こうからは、午後二時の怠惰で夏の名残みたいな日が、ぼんやりと気だるく差し込んでいる。

 彼女はしばらくそうして、部屋の中に漂う埃の流れを見ていた。それは午後の光にきらきらと照らされて、宝石のように幾度も点滅した。

 彼女がそうやってぼんやりしていると、窓の外から町内放送が聞こえてくる。光化学スモッグにご注意下さい……光化学オキシダントが……本日は気温が高く風も弱いため……云々。


 夏が終わろうとしていた。

 ガタガタとうるさい扇風機を一生懸命掛けた蒸し暑い部屋で、彼女は遅めの朝食を取った。それからパジャマを脱いで、おままごと程度に備え付けられた洗い場から水を取り、タオルに含ませて全身を拭いた。

 着古したTシャツとハーフパンツに着替え、髪を一つにくくると、財布と文庫本をハーフパンツに突っ込み、サンダルをつっかけ、ドアノブをひねり、外へ出た。

 近所の本屋で三十分ほど昨日の続きの『あしたのジョー』を立ち読みし、店員の咳払いの回数が頻度を増してきたところで店を出て、その近くの喫茶店に寄ってアイスコーヒーを飲みながら、持ってきたジイドの『狭き門』を読んだ。喫茶店ではヴィヴァルディの『夏』が延々と流れていて、さすがにうるさかったので、コーヒーを飲み干すと、外へ出た。それからスーパーマーケットで何を買うこともなく冷やかしながら涼を取り、適当な頃合で目的地へ着くと時刻は午後の三時半。

「サキちゃんいらっしゃい」

 八百屋のおかみさんはアルバイトの彼女が定刻通りにやってくると、どっしりとしたお尻を持ち上げて、頬の肉を上げて挨拶してくれる。

 彼女は座敷へ上がってエプロンを付け、そこから遅番の仕事に入る。

 まるおか青果店は夜の七時までやっている。彼女はそこで野菜を売ったり野菜に集ろうとするハエを退治したりして、毎日三四時間程度働くのだ。

 彼女がいつもの定位置に着くと、奥さんは座敷の方へ下がった。奥座敷の方では朝早くから野菜の仕入れをしていた旦那さんが昼寝をしている。座敷では、奥さんが昼食のきつねうどんを食べている。

 テレビでは元首相の保釈騒ぎを一日中やっている。彼女は座敷と店の間の上り框に座って顔をうちわで扇ぎつつそれを聞くともなしに聞いていたが、すぐにチャンネルは、甲高い声の、早口で話す女優がホストを務めるところのトークバラエティに変えられてしまった。

「サキちゃん、そんなところに座ってないでおいでよ」

 奥さんに呼ばれて、彼女は履いていたつっかけを脱いだ。


 つくづく、世の中というのは不思議なところだ、と彼女はおもった。

「適度に楽しめれば良いね」

 彼女の友人は言った。

「いや今日は実に嬉しい」

 ピョヨヨーンと音が鳴った。彼女はあぶったするめを噛みながらそれを聞いている。

 点けっぱなしの赤いラジオからはナイター中継が聞こえている。友人はギターを抱えたままコップで二級酒をあおった。「君が同意してくれてよかった。いや、ぜひ今度来て下さい。たいくつだけはさせませんから。退屈ったって、まあ、ものすごく愉快だということでもないんだけれども。とにかくみんな一所懸命やってますから」

 髭で顔の半分が隠れてしまっているようなひげもじゃの、着古したアロハシャツをよれよれさせている男が言う。

「ぜひあなたにも来てほしいな。そんなにかしこまったようなというかね、むしろくだけたかんじなんだな。みんな手ぶらで来てね、ふらっと来てふらっと帰れるような、そんな気軽な雰囲気を目指しています」

「なるほど」彼女は口の中のするめを飲み下しながら相槌を打った。

「いや、でもこんな話をするのでも緊張した」

 男はもじゃもじゃの髪をかきむしりながら言った。「サキさんにけいべつされたらどうしようなど」

「軽蔑?」彼女は首を傾げた。

「いや、連中テキトーにやってるんですよ」

 男はニコニコしながら答えた。

「みんなそんな……プロになりたいとかね。そういうことではなく。ぎすぎすした雰囲気ではなく、みんながその場を楽しめる場所づくりをしようと」

「いいんじゃないですか」

「とにかく音を楽しもうと。それだけでね。集まっている連中なんですが」

「いいんじゃないですか」

「だから、そういうところにね……サキさんのような本格派をお呼び立てするなど、気がひけると怯えていたやつも居たくらいなんですが。あ、これはここだけの話ね」

「本格派?」

「誰がどう聴いても、サキさんの音楽というのは素晴らしい」

 彼は言った。

「だからね、そういう本格派を仲間に引き入れて。こっちのスタンスというか態度がね。弛んどるとか怠惰であるとか、おもわれてしまったら、情けないというか恥ずかしいというか」

「とんでもない」彼女は少し笑って、言った。「買いかぶりもいいところです。……僕のものなど、とても大勢の皆さんにお聞かせするような……」

「ほら、そういうところなんだ」男は膝を進めて、「美意識が為すものか……その謙虚なところが僕たちには欠けているんだな。とにかく楽しけりゃいいと。それも適度にね。高みなど目指しちゃいけないと、どっかそういうふうにおもっているところもある。もちろん上を見ればきりがない。そういうところと下手に張り合うよりもね。なんて、あなたの前では全部言い訳めいて聞こえてしまうかな」

 男は頭をガリガリと掻いた。

 彼女はちいさな七輪のうえであぶられた乾いたイカを見ていた。ナイターの音が大きくなった。アナウンサーの興奮して割れた声が聞こえてくる。松原打った、プロ通算二百五十号…………

「結局、そういうのが一番素晴らしいんじゃないですか」

「また、そんな」

「いや、本当に」お世辞だと言いたげな相手の言葉を抑えて、彼女はちょっと口角を上げた。「そういうことを日々の楽しみとして、明日の活力、今日の清涼剤として使用する。音楽はそのまま音を楽しむと書くんですからね。音を楽しんでいる連中が間違っていて音によって高みなんぞを目指そうとしているのが正しいなんて、これこそおかしな話で」

「そう、そうなんだ。俺もそれを言いたいんだよ」

 男は膝をぴしゃりと打って言った。

「適当に……その日一日一日を。無事に過ごせればいいと言うかね。もっとも、適当なんて言葉はネガティブな意味を孕んで使用されることも多いが、適切な量、という意味で使用すればそれほど悪くもない、むしろ健全でしょう」

「そうでしょう、そうでしょう。そうやってごまかしごまかしやっていくのが結局一番いいんですよ。あ、こんなことを言ったらまた軽蔑されてしまう」

 二人はそれで多少笑いあった。沈黙が降りて、開けていた窓から夏の風が入ってくる。埃っぽいカーテンがはたはた動く。プーンと弦の鳴る音。

「適当に楽しめればね」

 プーンプーンと弦を鳴らしながら彼は言った。「それでいいですよ。それがいいんですよ」

「………………」

 だけど、そうやって一日一日を適度に楽しんでいれば、ここへ来た目的を忘れてしまいそうだ……


 その後彼女は週に一度の銭湯に出かけて、普段は濡れタオルで全身を拭く程度の体にシャボンをたっぷりつけて洗い、髪も持参した粉シャンプーで洗って、湯気で剥げかけた赤富士を見つつ浴槽に浸かる。洗い場を走っていた子どもが転んでぎゃああああんと火がついたように泣いているのが見えるが、誰も声を掛けるものは居ない。そのうちにこどもは自力で起き上がって、体を洗っている母親らしき女性のところへ掛けていって、「近くに居ないと駄目って言ったでしょ!」と言われて尻をぴしゃんとやられまたぎゃああああんと泣いていた。

 帰り道、彼女は金盥を持って夜の道をコトコトと歩いた。空にはところどころに薄雲が張り、煌々と照る月を隠している。

 彼女の向かう先には誰も居ず、後ろを振り返っても誰も居ない。まだ夕飯のにおいの残る住宅街の、明かりの灯った家々を通り過ぎる。人影はない。彼女は空を見上げた。雲の切れ間からうつくしい満月が見えた。彼女は少し楽しくなった。

 この世には彼女以外には誰も居ないようで、しかし誰かの存在は絶対に存在している。その自由な気持ちと、それから他人という存在の頼もしさによって、彼女は良い加減に開放された気分になった。久々で洗った洗い髪も清々しているし、洗濯したてのTシャツとハーフパンツ、それに下宿先からつっかけてきた蛍光ピンクのビニール靴も、なにやら彼女の高揚した気分を下支えしてくれた。彼女は陽気な気持ちになって歌を歌った。


 ………………

 その日は九時頃帰路について、読みさしの本を読んでいるうちに眠ってしまった。二時頃目を覚まして小用へ行き、ライトを消して、眠った。

 さて、明日は友人に借りたカセットを返しに行かなくてはいけない。


 翌日は、どこか爽快感すら感じさせるような、真っ青な青空だ。

 気温は特別暑くもなく寒くもない。吹き付ける風は強くもなければ弱くもない。時々気がついたように吹く風は、彼女の肌に心地よく馴染んですぐに消える。そのせいで、彼女には、今は風が出ているとか、出ていないとかの認識もない。ただ心地よい色で彩られた青空に、岩に染み入るような蝉の声、それから通りを歩いていく金魚売りの男の濁声。きらきらとてんめつするように光る風鈴の群れをひらひらさせて、金魚売りは荷車を運んでいく。シャラシャラと風鈴が揺れ、高く澄んだ音がそれに混じって響く。路地のかき氷屋では、日陰になった軒先で、おかみさんと氷売りの男が世間話をしている。「当接の物価高には参るね。何でもかんでも値上げ値上げで賃金の方はちっとも上がらないんだからね。これで公害はひどいスモッグはひどい、首相は汚職で逮捕されて、まあ世も末ですよ」

「かみさんが言うんだよ。こんなめちゃくちゃな世の中で子ども産むなんて残酷なことできないって。まあ分かるんだけども。分かるんだけどもさ」

「でも今更そんなこと言われてもさ。こっちにだって計画があるんだし、そういうの込みで結婚したというかさ。なんかもう、分かるんだけどね。言いたいことは。でもさ」

「目的というかさ。そういうのってあるじゃない。誰でも何でも、大きさはどうあれ、なんというか、将来においてというかね。そういう目的みたいなのを否定されちゃうと、ちょっとこっちだって頭にくるというか、情けなくなるというか。そういう気なら、結婚する前に言えっていうんだよ」

「………………」

 ここへ来た目的?

 何処かから催馬楽が聞こえる。

 いや、これは催馬楽でなくてただの流行歌だ。

 彼女は奇妙な不思議を感じて、ぱったりと歩くのをやめた。そして、店先のラジオから流れるフォークミュージックに耳を傾けた。


「……あー~~~」

 私は、旅に出ていたはずだったのに!

 そして私は”個人”になるために、それを探すために、ここへ来たのに。それを忘れて、旅に出たことさえ、おもいだしもしないで……そして個人というものを勘違いし、否定し、あまつさえ拒んだ……自らの手で。

 あそこは退屈だった。すべてが満たされていて、欠けたところがなかった。欠けがなければ埋めることができない。隙間がなければ入り込める場所はない。そこには全体だけがある。しかも泰然としている。そこに個人はない。個という感情は存在のしようがない……

 あそこに、個人はいなかった。孤独はなかった。あそこにはすべてがあった。そして、私は、あそこで、全てが在る、在るという理由だけで、その生を満足させていなければならなかったのだ。だけど、それに満足が行かず! 退屈で! 私はあそこから出てきたのではなかったのか……

 こんな話がある。たとえばそれは天人のはごろもとかいう、べんりなアイテムの話だ。それを羽織っていると、生き物にとってのやっかいな、自我というものが全くなくなると。喜怒哀楽を感じなくなり、何が起きても、何があっても、感覚は凪いだように動かない。ある日、その天人は散歩をしていて、そのはごろもというのを、崖の下に落としてしまった、と。そこから私の退屈は始まった。私の”個人”が始まったのだ。

 何を見ても、何を聴いてもうつくしいだけの、快楽慣れした退屈な生活を離れて、私はもっと”快楽”できる場所を探していた。そうだ私はものすごく、贅沢なんだ。天人の用意した程度の弛んだ快楽などでは、とうてい満足できなかったんだから!

 そして私はそこへやってきた。何を見ても、何を聴いても面白い。私はうまれたての赤ん坊のようになって、はしゃぎまわった。そして人間”個人”の、喜怒哀楽を、噛んで噛んで噛みつくすために、この地上に降りてきたのだ。

 私は個人になった。一人前の、その内実に喜怒哀楽を持つ、幸も不幸も楽しくて仕方がないという個人になった。そうおもっていた。そう勘違いした。つまり、結局のところ、私は個人などではなかったのだ。そのような高尚なものに、結局私は成り得なかった。それだけのことだ。

 私は……私は、個人などではない。私は、ただの制度だ!

 私の目的は”個人”だった。それは、自己である個人、他者である個人、という意味のはずだった。が、私は結局、自己という自らの手で、他者という個人を求めた際に……その他人という個人を、個人という次元ではなく、”男である”という次元にまで、貶めて扱ってしまった。だから私はやっぱり個人ではなく、制度に過ぎなかったんだ。(分かるか、分かるか?)

 つまり……私は彼個人というものを求めたのではない。私(=女)は、”彼”が”彼だから”彼を求めたという理由だけでは”足りず”(彼が彼自身だったから好きになった、という理由ですね)、彼が男である、女の対になるものであるという理由も含めて、彼(=男)を私(=女)という次元にまで、自身と他人との価値を落とさなければ、愛情を持てなかったということだ……

 こういうのを説明するのに手っ取り早いのが西洋だ、と1976年の彼女は考えた。つまり……単純な話、きちんとエロスをアガペーに変えていたか? と、それだけの話なんである。

 エロスという、生きる息吹、高揚、肯定のみで、私は彼という個人を(いや、やっぱり個人以下だ。だって個人というものは、その一生の中で一人ひとりが苦労して作っていかなくてはならない状態であるが、生まれてきた時点ですでに獲得している何らかの性別というものは、その個体そのものが苦労して会得した物ではないからだ。もっとも、そこからまた新たな性別を会得するには苦労が伴うかも知れないが……)、私は脳天気な、動物にはごく自然に備わっているだけのつまらない欲のようなものによって、まったく彼が男であるからという理由であの時私は、彼のその肉体を求めてしまった。……でも、それの何がイケナイコトなんだ? そういうことをしたって、しなくたって、やっぱりそこに正しいとか正しくないとかいうジャッジは下せないのではないか? あるいは……

 あー、千年生きても何もわからない。

 肉体の欲望をエロスの次元に留めるだけで、感情を昇華できていないとして軽視するのは簡単なことだろう。しかし人間、木の俣からはどうしても生まれない。(と、現世に竹から生じたこの竹姫様はおもった)”彼”だってきちんと立派な親があって生まれたのだろう。そうでなければああして出会うこともなかった。そうなれば、ここでこうして益体もないことを延々考えて、風の出ない夏の終りに、こうして当て所もなく、友人に返すべきカセットをポケットの中に仕舞ったまま、ただデクノボーのように突っ立っている、或阿呆の姿もこれまた無いわけだ。

 個人というのは大衆の一つであり、大衆というのは個人の総合である。

「……………」

 彼女はばりばりと頭を掻いた。そして、おもった。ああ、僕はばかだ。大馬鹿だ。千年経っても、こんな簡単な事実も知らない。それで、平気そうな顔をして、歌ったり、踊ったり、物乞いをしたり結婚をしたりこどもをつくったり家を建てたり壊したり、建てたり壊したり、借りたり返したりを繰り返し……そしてその生活の総合を、ただいたずらに消費して……

 生活というのはつまり、馬鹿でもできるということだ。何を知らなくても、知っていても、ただなんとなく大衆の中で、大衆としての意識すら持たず、ふわふわとくらげのように漂っていてば、その内実の幸福や困難や行き詰まりがどうであれ、”時間”さえ過ぎてしまえばそれらは過去に、生活に、そして人生にと名が与えられてしまうものなのだ。ワカシ→イナダ→ワラサ→ブリと個体は同じなのに大きさによって名前を別個に与えられてしまう魚のようなものだ、いや、そんなへたな例えをわざわざ持ち出さずとも、その個体はずっと変わらないのに、赤ん坊→こども→大人→老人と変わってしまう自分自身のことを顧みれば済む話で……

「……………」

 そこまで考えて、この長寿の竹の姫は、耳に染み入る蝉の声をバックに聞きながら、焼けたアスファルトの上に落ちている、自身のまっくらな影を見下ろした。

 世界が動き出した。通行人が彼女の隣を通り過ぎて、金魚屋のだみ声も今や遠くなっている。蝉の声が大きくなり、ジワジワと、頭の天辺からつま先まで、残暑の蒸し暑さが駆け巡っていく。しかし彼女はブルリと体を震わせて、そしてとうとう自身の不思議におもい至って、ゾッと肝を冷やした。

 私はどうしていつまでもこんなに生きているんだ?

 私は……いつまでも、不自然に、長々と生きて、それにも関わらず、その時間を有効活用することなく同じことを繰り返していたんだ。強制された快楽に飽き飽きして……それが嫌であそこから出てきたにもかかわらず……けっきょく、「日がな一日ぶらぶらしているのが一番良い」などと、虚勢を張って……でも、それじゃあ、ここでしたかったことって何だったんだ? だからそれはつまり……

「あー、分からない。分からないぞ」

 夏の終りの下町の、ジワジワ流れる蝉の声、背中に滲む汗の色、舗装されたるアスファルト、そこへ濃い影を落としたその女は、言いながらしかし笑っている。

 分からないというのはさいていなことだ。それを自身は知らないが、他人は分かっている。そのみじめさ、哀れさ、戸惑いや羞恥、焦り、苦しみ。なんでこんなこともわからないんだ? 他人には常識であるその知識が分からない。生活を他人と共有するというのはお互いの常識をすり合わせるということだ。それに少しずつ時間を掛けて軌道修正を試み、結果として快適な相互関係を創造する……それが”分かる”ということだ。理解し合うということだ……しかし、”分かる”ということの前には、”知る”ということが必要だろう。たとえばのはなし、蝉でも、かぶとむしでも、何でもいいが……その”蝉”という名前を持った虫のことを知らないでは、蝉のことは”分からない”。まずは分からないものの入り口に立つことが必要だ。知るというのは、分からないそのものの入り口にまず立ち、その事象そのものの存在を認識しなければならないということ……つまり……

 私にはまだ、知らないものがある!

 花を眺めて歌を作ったり、呼吸の不思議におもいを馳せたり、ブッキョーだの漢学だのといってみたり、叶わない恋に酔っ払ったり、こどもをつくったり家を建てたり壊したり建てたりをしているばあいじゃなかったんだ。どうしてこんなろくでもない、どうでもいいことに血道を上げて、まるでそれらだけが生きることのすべて、それらをすること自体が生きることの内容だなんてことを、信じることもなく、”そうだと決め込んで”居たんだろう……本来、私はそんなことをするためにここに来たんではなかったのに。でもそうだとすれば、私はここへ何をしに……

 ああ、分からない。ちょっと待ってくれ。今いいところなんだ。何かが掴めそうな……千年経って、ようやく分かったんだよ。つまり、分からないということが分かった。だからこれから私は更に、知らないことを知り、そして知ったことを分かるようにならないと。それはきっと今回以上に骨の折れることだろう。だけどそうじゃなくちゃ甲斐がない。せっかくこんなに面白いところに来ているのに……遊び尽くさなければ意味がない……

「あ、あ、あ、ヤバい。駄目だ。来る来る来る」

 彼女はその場で立ち止まったまま、ばりばりと頭を掻いた。

 その時、バラバラバラバラ……とけたたましい音が上空から聞こえ、彼女は顔を上げた。

 八百屋だの肉屋だの花屋だの魚屋だのが軒を連ねるその商店街の上空には、すでにして小型ヘリコプターの姿があった。なんだなんだと様子を見に来た八百屋だの肉屋だの花屋だの魚屋だのその客だので商店街はてんやわんやの大騒ぎ、ヘリコプターの開け放たれたドアの向こうから、黒服に黒眼鏡を着けた人物が、黄色いメガホンを持って何かを叫んでいる。ヘリコプターのバタバタバタバタ……という音にかき消されて、その人物が何を叫んでいるのか分からない、が、何かを言っているのは分かる。彼女は片耳に指を突っ込んで天を仰ぎ、「えっ、何っ?」と声を上げた。

「時間ですよー………」

 バタバタバタバタ……

「もう、帰らないとー……」

 バタバタバタバタ……

「われわれも、もうずいぶん待ちました。もう勘弁して下さい。これ以上は、とてもじゃないけど待てませんよー」

 バタバタバタバタ……

 ああ、待ってくれ。こんなのは、「もうご飯だからうちに帰りなさい」じゃないか!

 まるで夏休みの小学生のような気分だ。”今”が一番楽しいのに。午前中からずっとともだちと遊んでいたのに、今が一番楽しい。「もう帰らなきゃ」という時間になればなるほど、その空間への名残惜しさが強くなり、いつまでもそこへ居たいとおもってしまうのはどうしてなんだろう?

「もう少し待って」

 彼女は天上を見上げて哀願した。しかし彼女の言葉はヘリコプターのバタバタバタバタ……という音にかき消されて、全然、誰にも聞こえなかった。駄目だ、もう時間がない。

「ひさみちくんにカセットも返してないし、これから返しに行くところなんだ。借りたものは返さないと」

 バタバタバタバタ……

「八百屋のおかみさんにもバイト辞めるって言ってないし。予備校の後期のお金も払っちゃったんだよ。僕は大学に行くんだ。大学行って外国語を学ぶんだ。もう少しだけでいいんだ。あとほんの少しの時間があれば、いや、やっぱりもう少しじゃ足りないな。あと五百年、千年、そのくらいあれば、ここで本当にしたかったことが分かる……」

 バタバタバタバタ……

「あと千年だけ。お願いだから、あと千年だけ、待って下さい!」

 バタバタバタバタ…………


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