第33話

 屋根から竹が突き抜けている。彼女はその光景をぼんやりと眺めた。

 見覚えのあるような、無いような、不思議な気持ちだ。

 さく、と足元で音がする。彼女はめのまえの、太い竹が何本も何本も家の屋根やら土壁やらを崩してそびえ立っている、奇妙な家へと歩を進めた。

 幸い、戸は開いた。開いたというより壊れたと表現したほうが正しかったかもしれないが。彼女はその家屋の中に一歩足を踏み入れた。薄曇りの冬の日だ。時は未の刻をうろうろするような時刻、崩壊した屋根のあちこちのすきまから、雪の気配を十分にふくんだ、しかし昼間の長閑けさを滲ませたような、鼠色の空気が降りている。彼女はそのカビ臭い空間で息を吸った。

 太い根を張った巨大な竹が、幾つも立ち並んで、その家屋の地面から伸びていた。もう何十年も人の手が入らず放置されていたのであろうその家屋の倒壊を、まるで支えるみたいに竹は立ち並んでいる。雨風を避ける程度になれば何でもいいとおもったが、あちこちに穴が空いているせいで外気と室内にあまり変わりはないみたいだ。

 ふと彼女は、かまどの上に乗っている何かに視線を吸われた。それに近づくと、彼女はそれを手に取った。

 竹とんぼ?

 彼女はそれを指先でくるくると回した。それは冬の鈍い光に揺れている。しばらくそうしていると、彼女の指先に何か、冷たいものが触れた。

 彼女は穴の空いた天井から、鈍鼠色の空を見上げた。


 さて…………

 その頃だったか、確かなことは言えない。しかし実際に、それは起こった。

 全国津々浦々の竹林から、一斉にその花が咲き乱れたのは、確かその頃のことだ。

 たとえば桜前線などといって、ソメイヨシノなどが一気に咲き揃う現象があるが、竹の開花もそれと同じようなものだった。竹林というのは、地下で根がすべて繋がっているものだからだ。

 竹の花は、別にうつくしいともおもわれないような、とてもささやかなものだ。その開いた形や色は茗荷や稲穂に似ている。それらは数日だけ咲いて、その後はみんな枯れてしまう。

 竹の花が咲くのは不吉であるという。曰く飢饉や天災の前触れだと。

 『竹』そのもの自体が不吉なもの、縁起の悪いものであるという話もある。

 竹の中は空洞である。筒である。宵の明星はユウ“ヅツ”とも言う。これは「夕の神」の意であり、宵の明星、すなわち一頭明るく見える金星である。金星の神とは誰か? 天照大神は太陽の神、月読尊は月の神、須佐之男は嵐……金星の神であるとするならば、この傍迷惑な神様は、不吉な疫病神にまで言葉の意味が伸びていく。そしてまた、この竹というものも、不吉なものである……という話。

 そのように不吉とされる竹の花が咲いた。人々はそれを噂したが、人の間に何か特別なことが起こることはなかった。日々はそのまま続いたのだ。

竹の花が咲き乱れていた頃、ひとりの男が死んだ。ひとりの男が不審火を出して、その豪奢な屋敷を焼いた。ひとりの男が権力を追われ、しかしその交代劇が世に出ることはなかった。

 ひとりの女が歩いていた。舞台は奈良の山奥、もはや朽ちかけ忘れ果てられ崩折れた、誰の手ももはや入らない崩れかけの……

 その竹細工で結ばれた、そまつな庵に、その男は居た。それを彼女が見つけた。それは、彼女がずっと探していた男だ。

 後ろの山でザザザと花咲く竹の群れが揺れた。赤城の山も今宵限り……これで終いだ、何もかもの決着が。何かしらの……結事が。

「少し、歩きませんか」

 久しぶりで会ったその男は、彼女にというよりは、誰にいうでもなしというような簡素さで、彼女を屋外へ誘った。

 その山に彼女が出掛けたのも、旅の途中の気まぐれに過ぎない。

 山を登っていく最中に、鉢合わせた農夫と少し会話をした。以前この近くに住んでいて懐かしくて寄ってみた云々。すると農夫は健康に焼けた肌に白い歯を光らせ笑ってみせて、最近はここもひどい有様で、ここ数年はここらを住処にしていたものたちもどんどん土地を捨てて別のところへ行ってしまうとの由。

なぜか?

「竹が」

 曰く、竹の生長が凄まじいのだと。以前は住民が筍を掘ってそのその生長を抑える用意もあったが、人手が一人二人と居なくなるに連れその生育を邪魔立てするものは少なくなり、竹藪はその生域を徐々に広げていく結果になった。竹は根の張りも弱く土砂崩れなどを巻き起こしやすく、大雨が降ったときなど目も当てられない惨状になったという。

「だからここのところではほとんど人も寄り付かないんですがね」

 しかし彼は、人の出来る儚い抵抗ではあるが、時々おもいだしたときに筍を掘りに来ているという。

「以前より住み暮らしていた場所だからね。時々懐かしく、以前の風景をおもいだしては、儚く筍を掘ってみたりと、まあ、そういうことをしておるわけです」

 で、そのような不毛の土地に、最近庵を結んで住み始めたという、変わった気性の聖がいるという。

「なんでも以前は得度僧まで上り詰めた方だとか。そういう話ですけどね。都を追われたとかなんとか」

「それは何時頃のことですか」

「さあ? 詳しくは知らないけどね」

 などと、言いつつ、農夫はその聖についてたくさんのことを彼女に話してくれた。話題に事欠く田舎にとって、辺鄙なところに住み始めた聖などは格好の噂の種、話題の一番に輝くに決まっている。その話を聞きながら、彼女は次第に確信を強めていった。灯台下暗しというべきか否か? 青い鳥はごく近い場所に存在していたのだ。

「途中で恩赦があったとかの話ですよ。御上のりふじんな仕打ちを気の毒におもった上役が、島流しに合う前に逃してやったとかなんとか……どれがほんとのことやら知りませんけど。俺のかみさんなんかはね……」

 それから農夫は彼の妻の意見なんかを話してくれて、そのまま近くの座りやすそうな石に腰掛けて、彼女は彼の会話にたくさん相槌を打って、普段他人との交流に飢えているらしい彼の心を十分に満足させた。

 その噂話は本当だった。だから彼女は彼のめのまえに、こうして実際対峙しているわけだった。

「灯台下暗しとはよく言ったものですね」

 彼女は、途中で水浴びをしてきて良かったとおもった。そのほうが、余計なことに気を取られないで彼とお喋りできるからだ。

 その日は朝から曇っていた。彼女のすっかり乾いて固くなった皮膚には、風は冷たくもなく温くもない。彼女は着古したたった一着の、薄くなってもろもろになりかけている小袖を脱いで、川で洗った。

 それを河原に広げて火をおこし(こんな動作はもう手慣れたものだ)、それからゆっくりと冷たい川の中にその身を沈ませた。

心臓の音がうるさかった。別にあんな話を聞いたところで、その庵に住んでいるとかいう聖が、彼女のめあての人と決まったわけではない。そうでない可能性のほうが、じゅうぶんに高く、しかし彼女は知っていた。ここに居るのはあの人だ。別に明確な理由や証拠があるわけでもなかった。でも、彼女には、それが”分かって”いたのだ。

「風のうわさで、あなたのことは聞いていました」

 聖は言った。

 男は昔とちっとも変わっていなかった。そして、それを見たことによって動いた自身の感情にもまた、彼女は安心していた。

 つまり、何も変わらないということだ。彼の姿は以前とちっとも変わらないし、自身の中にずっと内在していた彼への感情も、やっぱり以前と何も変わらない。時間が少し過ぎただけだ。それ以外は、わたしたちの間のすべては、何も変わっていない……

「都を出てしまったそうですね。どんな理由があったのかは知らないが……あなたのことです、よくよくのご事情があったのでしょう。それでもこうしてお互い、変わることなく再会が叶って。まるで夢のようです」

 彼女は彼のそのような義務的な言葉も、夢見心地で聞いていた。人というものは、長年夢見ていたことがいざ、叶ってしまうと、案外それに強い反応を示すことなく、日常的に受け止め流してしまうものだ。そういう按配で彼女は太平楽に夢見心地していたが、それはすぐに壊された。

「それで今日は、一体どんなご用向で?」

「……………」

 彼女は彼のそういう冷たい”仕打ち”に、急に体中の熱が冷めて、それと交代で全身が廉恥による熱で苦痛に燃えるのが分かった。

「随分……冷たい言い方ですね」

 彼女は口の端を歪めて笑った。「久しぶりでこうして会えたのに。そんなふうに……義務的に言われると」

「義務的なんて、そんな」男は少し困ったように笑った。「そんなふうに聞こえたなら、ごめんなさい。お気を悪くさせるつもりはなかったんです」

「……………」

「ただ、僕は……」

 彼女は息を吸って、吐いた。それから顔を上げた。

「僕は罪を犯しました」

 と、彼女は言った。「僕はその話を聞いていただきたくて、こうして再び、……あなたに、ひとめでもお会いできたらと」

「罪?」聖は少し小首をかしげて、静かに微笑した。「罪とは一体、どういうことですか」

「僕は……私は」彼女は乾いた唇を感じて、それを無意識に舐めた。冷たい風が彼女の唇に触れた。さっきまでの桃色の、夢見心地の気分は何処へやら、彼女は背中にたっぷりと冷や汗をかいて、そして、焦っていた。

「つまり……私は」

「大丈夫ですよ」彼は言った。「僕はここに居ます。聞いていますから。焦らないで。ご自分の裁量で、あなたの言いたいことだけをおっしゃって」

「私は、あなたのことが好きになってしまった」

 で、彼女は言った。「しかしそれは罪なことです。つまり……つまり、あなた方というのは、そういう俗世間での男女間の関係とは無縁の、切れたところにある。しかし私は……あなたのことが、どうしても恋しくて。やっと分かったんです。この焦る気持ちがどういう理由で生じるのか……、私は、そればかりを夢見て」

「つまり、どういうことを?」

「あなたに同じ感情を抱いて欲しい」彼女は言った。「つまり私に対するあなたの感情をということです。私には重すぎる感情を、それだけで潰されてしまうようになる感情を、あなたにも半分背負って欲しい。このような……いや、分かっているんだ」彼女は苦痛に顔を歪めた。「こんな傲慢で、理屈も何もなく、非常識で我儘な願いや欲望が……まともな感情であるはずがない。そんな感情を、他ならぬあなたに? ああ、ごめんなさい。こんなことを言うつもりはなかったのに。どうしたんだろう? でも、口にしないと、くるしくて……でも、苦しいからとこのような悪態をあなたに浴びせかけるなんて。これが罪悪で無くして何でしょう? 僕はあなたに助けていただくて、それで、こんな……こんなところまで!」

「罪を犯すとはどういうことですか?」

 僧は静かに言った。「人がまた別の他人に恋することは、とても自然なことですよ。自然なものを、不自然なものとして歪めることはできません。それを、無理勝手にねじまげて、まるでそれ自体が悪徳であるかのように逆転した価値観をわざわざ付与する……そういう考え方をするから、悪徳は蜜のように甘くなり、人々がその逆転した価値に憧れるようになる。しかし、本来、人が人のことを対象としたいと望むことは、まったく自然極まりないことです。あなたの他人に向かった感情そのものが罪であるかのような言い方は、お止めになったほうが良いでしょう」

「私はあなたが好きだ」すっかり相手の前に降伏しきったような表情を浮かべて、彼女は彼を見た。「どうしても……だめだ。いくら考えても、そういうことになってしまう。そういう言葉にこの感情をあてはめないと、それ以外に、この言葉に決着をつける言葉が、私の中にはなにもない。僕はだめになってしまったんです。感情に対する適切な言葉をあてはめることさえも億劫がって……それで、私は……」

「ありがとう」

 明るく柔らかい声が聞こえて、彼女は頬を高揚させた。しかし彼女の希望に満ちた表情はすぐにまた壊された。「あなたの気持ちはうれしい。そして僕もあなたのことが大好きだ。でもそれはそれだけの話です。これから僕が話すのは、それとは別の話です」

 彼女は彼の言葉をぼんやりと聞いていた。しかし、その意味がいっぺんにすべて意味として頭に入ってきたというわけではなかった。好きだけど、別? どういうことだろう。

「僕はあなたに好かれる価値など無い人間ですよ。私はまがいもの、にせものなのです」

 聖は言った。

「以前の僕なら、あなたのまっすぐな感情に感動して、安易にそれを受け入れていたかも知れません。つまり、あなたのなかの正しいとされる感情に同調して、それに寄り添うことこそが善であり正しさである、などと自身に言い聞かせてね。それが正しさだとおもっていたんです。すべてに正しくあらねばならない。すべての人が平等に正しい道へと進んでいけるように、そのお手伝いができればなどと、勘違いをして……。でもそれはある道においての正しさでしかない。その正しさで救われる人と、救われない人がいる。ただひとつの正解を求め、そればかりを拠り所とすることは、その道では幸福になれない人のことを、正しくないものとして断罪してしまうことだ……ほんとうに、真からその人のことを考えるのなら、その人の中で正しいと感じているものを、こちらで、そうではないと否定してあげなければならないときもある。僕はあなたのことを好いている……良い人だとおもっている。だから、あなたが間違った道へ進みだそうとしているのを、ああそうですかと看過することはできない。あなたが私のようなものに恋を抱くのは、間違ったことですよ。今ならそう言ってあげることができます。中央から流れてきて、その間に得られたものというのがそれです。だから、僕は、流れてきて良かったんですよ。そのお陰で、僕は以前の過ちを正せるようになったんだから」

「それは……それは、おかしいんじゃないですか」

 彼女は震える声で言った。

「少なくとも私は、あなたの教えで救われた。でもあなたは、それが過ちだったという。だったら過ちによって救われた私も、あなたの過ちですか?」

「ああやっぱりあなたは」

 聖はそれを見るものをまったく寛がせるような柔らかい表情を浮かべて、彼女を見つめた。そういう顔をするから! と、彼女は余計なことを考えた。

「賢い人ですね。僕の考えていることは、みんなあなたに言って聞かせる前に理解されてしまう」

「そんなことはいいから」彼女は歯を噛んだ。「答えて下さい。あなたの過去が間違いなら、私が救済されたのも間違いですか」

「救済なんて、大それたこと」彼は畏れ多いように首を振った。「僕にそんな力はない。大体から、過去の僕など間違いだらけだったんです。そもそもの話、他人に対して自身の言葉を敷衍して理解させよう、知ってもらおうなんてこと自体が傲慢なことだったんだ」

「あなたが居なければ私はなかった」

 彼女は言った。

「あなたがご自身の過去を、言動を、間違いだったとしても別にいいでしょう。それも個人的なことです。それを他人がとやかく言ったって仕方がない。間違いなら間違いなんだろう。それでいいです。でも、あなたが個人なら私だって個人だ。だから私には私の個人的な過去がある。私の個人的な過去は、あなたが作ったんです」

 彼女は言った。

「私の体や精神は全部、あなたに作っていただきました。その責任を取って下さい。あなたには間違えた過去かも知れないけど、その間違いによってあなたに関わった他人がいるせいで、あなたの間違えた過去は完全に個人的な体験とは成り得ません。あなたには間違っていたかも知れないけど、私には正しかったんだ」

「あは、は」

 彼が笑った。彼女は、それを見ていた。

「本当に……理屈っぽい人だなあ、あなたは」

「別に、理屈が言いたいのではないよ」彼女は泣きそうになった。「ただ、自分の言いたいことを正確に口に出そうとおもったら、そうなってしまうだけ」

「なるほど」

 聖はニコニコとしている。「それならば、やっぱり私は何もかもを間違えていたんですね」

 そして彼は言った。

「私は間違っていた。……やっぱり、関わるべきではなかったんだ」

 彼女は呆然として、その言葉を聞いている。

「人というのは難しいものですね。人は人と関わることによって何らかの接点、執着が生まれる要因を作ってしまう。結局、あなたと接点を持ってしまったこと自体が私の間違いだったんだ」と、彼は言った。「ごめんね、接点なんか持ってしまって。そのせいであなたの心臓の中に何らかの火を灯してしまった。僕はそれに対して、あなたにお詫びしなければいけません」

 と、彼は言った。

「意味が……」彼女はぼんやりと言った。「意味が……よく分からない。よく分からないんだけど」

「僕はあなたが羨ましい」

 聖は彼女の疑問に答える義理はないとでもいうように、自分の言いたいことだけを続けた。

「あなたは僕のために、というよりも、なんだろうな……ひとつの目的のために、何もかもを投げ出してきたのですね。地位も、名誉も、この世でたった一人からの寵愛も、何もかもを投げ出して……それどころか、それまでの生活信条すら、全て投げ出してしまって」

「僕だって」彼女は口の端を歪めた。「まさかこんなことまでになるとは、おもっていませんでしたよ」

「こんなこと?」

「ひとりのことを好きになったばっかりに。ふらふらと全国あちこちをさまよって」

「ああ……」彼は理解の仕草をした。そして、言った。「それは、そうでしょうね」

 で、聖は目元の辺りを、それを見たものが心地よくなるように、緩ませて彼女を見た。まるで彼女の気持ちなどすべて理解できているというかのように。彼女はだから、そういう言い方をされて、そういう目をされて、すごく幸福な反面、ひどく傷ついていた。そういう顔を私に見せるくせに、どうして結局私のことを受け入れてくれないんだよ?

「だからこそ、羨ましいんです。理性的なあなたが、その我を忘れてひとつのことに掛り切りになるご様子がね」

「僕のことそうやって軽蔑しているんでしょう」

「いいえ、違います」聖は彼女の言葉をきっぱりと否定した。その、当然のことを絶対的な正当性の元に発言したというような、決然とした意志の強さのようなものに気圧されて、彼女はそれ以上皮肉が言えなくなった。

「捨てる……忘れるということは、元々のそれを所有していなくては叶わないものです。元々持っていないものを捨てることはできないし、持っていないものを何処かへ忘れてくるというのも、これまたできないことですからね」

 聖は続けた。

「それはあなたという個人です。あなたという過去の総体。そういうものを築いてきたという現在のあなた。そういうものを、あなたは持っている。持っていたから……あなたはこうしてここへ来た。過去で築いてきたあなたというものすべてを捨ててまでしてね」

「それの何が羨ましいの?」彼女は苦痛に眉をひそめて尋ねた。

「僕にはそういう総体が無いから」聖は言った。「そういう個人が希薄だから、おもいきって捨てることもできない。捨てる場所も無いし」

「私はその捨てる場所にならないのか?」

 結局、聖が何を言って(または言い繕って)彼女を説得してみても、無駄なことだった。

 だいたい切羽詰まっている彼女には、彼の話を聞く耳なんか端からの持ち合わせがないし、いくらそうやって羨ましがられても、嬉しくもなんとも無い。結局彼ら二人の言葉はお互いの感情をお互いにぶつけるだけで、そこに何の発展性もないのだった。

「私にできて、あなたにできないということは無いとおもうんだけど」

「うーん、ですから」聖は困ったように微笑む。「無い袖は振れないということです。これ以上のことは、もう僕にも言葉がないな」聖は言った。「これ以上言葉を作ってみても結局、お互いの主張をお互いが言い合うということにしかならない。もちろん、僕の方はそれでも構いません。でも、どうしてこのような堂々巡りのような状態が続いてしまうのだとおもいますか?」

「……………」突然尋ねられて、彼女は、呆けたままのようになって、あまり頭の中で考えずに答えた。「あなたが私を拒むから」「いいえ、違います」聖は(またしても)きっぱりと答えた。「お互いがお互いのことを理解しよう、理解してもらおうという気がないからです。結局のところ、われわれは個人でしか無い。であるからこそすべての制度、制約からこれほど自由で居られる。自由で居ても食いっぱぐれないで居られる。人というのは制度に守られているからこそ衣食住をそこで保証されます。人と関わり合うことができます。けれどそのような……村の掟から外れて、こうして山の奥深くに隠れ潜んで向かい合う”個人”同士は、自由でいるからこそ、その身に代償というものを引き受けなければなりません」

 聖は言った。

「それが孤独です。誰からもじゃまされず、誰からも干渉されない。それ故に誰とも関わり合いになれず、理解されることもない。理解されないでもいい。一つのもので完結している。だから誰からの感情も、誰かへの感情も、ひとつも必要じゃない。それは、要らないものだからです」

「私のことが好きなのに?」

 彼女のそれは彼女の頭の中での発言の精査も受けずに、するりと自然現象のように出てきた。「好きでも、必要じゃないんだ。私は。あなたには」

「ああ、あなた」彼はなぜか、名残惜しそうな声(少なくとも彼女にはそう聞こえた)で言った。「私はここへ、孤独になるためにやってきたんですよ!」

「私はその孤独を壊すから」彼女はふにゃりとその端正な顔を悲しみに崩した。「じゃまなんだ。だから私は要らない人間なんだ」「いえいえ、そうじゃありませんよ」男は穏やかな様子で、感情に乱れている女をなだめる。「どこかにあなたを必要としている人は必ず居ます。要らないなんて……そんな人間は、この世のどこにも居やしない」

「あなたに必要とされなければ、意味なんかない!」

「……………」

 今まで彼女が何を言っても、暖簾に腕押し柳に風といったふうに彼女の言葉に特別感情を動かされた様子も見せなかった彼が、多少感情を動かされたように、瞳を揺らした。彼女はそれを見ていた。それは見る人が見れば、睨みつけていた、のかもしれなかったが。

「意味、か……」

 彼女にとっては自暴自棄から飛び出した、ある種羞恥を伴った劣悪な発言でしか無かったのかもしれない。しかしここが他人と他人が交流することの醍醐味というか、面白いところというか、厄介なところというか……つまりそれを受け取った彼の方では、また別の作用が起こっていたようだった。

「僕はどうしたらいいの? あなたのことしか考えられない。あなから否定されて、僕は、私は、それではどこに行くの?」

「私が、あなたを否定したことなどありませんよ」

「それでは何故……どうして私をこばむの?」

「拒んでなんていません」

「それではどうして、僕に何も言わずに……どうしてこんなところに? どうして出て行けと言われて、理不尽な注文をされて、それをハイハイと簡単に受け入れてしまったんだよ。誰かに相談することも、でっち上げだと声を上げることもなく……それどころか、自ら進んで流れ者になるようなまねを……」

「でも、それとこれと、あなたに何んの関係があるの?」

「冷たい言い方をしないで」彼女は泣きそうになって言った。「そんな冷たい言い方。どうして……関係はあるでしょ? 無いの?」

「だって……僕の身がどうなろうと、どうでもいいことじゃありませんか!」

 聖はびっくりしたように言った。「私の身に起こることは私自身が処理する類のものです。それを他人にまで関係させて、それからどうすればいいというのですか」

「どうすれば? どうすれば? そんなことは決まっている、そんなことは……」

 決まっていないのだった。だから彼女はそれ以上言葉を継げなくて、言葉を失った。彼女は口を開き掛け、閉じ、それからまた開け、閉ざした。

 それにしても、個人が個人を所定の場所につなぎとめるというのは、どれだけの不条理を含んでいるものなのか!

 これがお互いに好き合っている者同士だとすれば別だ。片方が去ろうとする、片方が行くなという。そんなところへ行くよりも、私のところに居たほうが、どんなにあなたに徳が、益があるか……相手は相手をかき口説く。相手が相手に含む愛欲さえあれば、その欲求が叶えられた時、それを見た第三者の目にはどう映るのか? ああよかった、やはりお互いがお互いを好いている者同士が一緒になるのが一番だ。一方が一方の行動を制御しても、それが不自然に映ることはない。お互いの間に愛欲の含まれた相互感情が確認できるのなら。しかしこの二人の間に愛欲が含まれていなければ別だ。

 相手が去るという。言われた相手は行くなという。しかし相手は行ってしまう。そして、去られた相手には、その去った相手を繋ぎ止める決定的な言葉を持たない。「あなたのことが好きなんだ。だから、俺の傍から離れてほしくない!」そういう強い感情を持った言葉がない。そのような「権利」が、そして「理由」がないからだ。だから去り際にこう言うしかない。「さようなら、どうかお元気で」

 欲求の種類が違うということは、かくも残酷なことで有り得る。何故だろう? なぜ、お互いに愛欲に結ばれた者同士には一方の行動を制御できる「権利」が生じても不自然ではなく、それを含まず行動するものには、その権利すらも得られないとは?……

 分からない! どうすれば……どうすればこの大好きな人を、ひとつのところに、自分の手の届くところに押し込めておくことができるの?

 それで彼女はようやく、物語の中の男の胸中を知る。それはこういうことだ。

 ケッコンすればいいんだ。ケッコンという、人という生き物が採用した制度を悪利用すれば、恋しいとおもった人のことを縛り付け、身の近くに止めておくことが出来る。ケッコンとは人という生き物が恋する対象をいちばんべんりに繋ぎ止めておける、便利な、大変便利な一番の共同幻想だ! その集団錯乱の結果によって、人は人のことを、ひとところに……閉じ込めて……

「しかしそんなことにどんな意味が?」


「人々は女という幻想に囚われています」

 と、聖は言った。

「人は女というものを幻想としては知っているが、しかし女というものは……こうして私のめのまえにも、こうして存在しているわけです。あなたという一人の人間を、ただ私のめのまえにいるからといって、ひとくくりの「女」というもののなかに含ませてしまって、ごめんなさい? しかし私たちはそうして、めのまえの女性と、それから他ならぬ私たちの中の幻想の女をすり合わせ、そしてその他ならぬ幻想の女がめのまえの女によってみるもむざんにうちくだかれる経験を持つたびに、益々自己の中の幻想の女に傾倒していく……

 女というものは煩悩を呼び寄せる悪いもの。現実に存在する、女と名乗るものは常に僕たちのめのまえにいて、そしてその圧倒的な「存在している」という確かさで、「ボクの中の女の子」を無きものとしてしまう……もうほとんどここまで来れば、現実の女などというものは、おぼろで脆弱な理想と幻想の女を打ち砕こうと手ぐすねを引いている悪鬼のようなものだと嘯いて……しかし実際の話、あなた方はこうして「存在している」のです。これを全くのないものとすることはできない。もしもそのようにしてしまえば、僕は一体、このような繰り言めいたことを誰に向かって話しているというのでしょう? あなたという存在が存在しないのだとしたら……と、これはほんのジョーダンですけどね」聖はそこでちょっと笑って、「そしてあなた。あなたもまた、男女という区別を超えて、私という「存在」に執着している。これは珍しいことです。なぜって、僕はこうして存在しているのですから。不思議なことにあなたは、これはあなたが男でないからなのかもしれませんが……それとも関係がないのかな。とにかく、「めのまえにいる僕」に、恋着のようなものを抱き、かつそれを捨てなかったということです。男はすぐに、現実の女にゲンメツする。それは俺の求めていた「黄金像の女」ではなかったと言ってね。しかしあなたは違う。これほど僕という身が、執着を起こすような価値のある生き物でないことを、半ば鬱陶しいまでに打ち明けたとしても、あなたは僕のようなものをうつくしく、そしてまるで得難いものであるかのように扱ってくれる……なるほどあなたは女性でしょう。そして私は男だ。そしてあなたは私の肉体そのものに、めのまえにいる客体としての私を、求めているという……しかしそれは本当でしょうか? あなたは、他ならぬ私の、この薄汚い肉体の上に、「幻想の男」を付着させているだけではないのですか? つまり、あなたは……」

 聖は言葉を止めて、多少言いづらそうに言葉を継いだ。「私という現実の男の中に、あなたの中の幻想の男を見出し、作り上げ、それのみを追いかけている。そういう意味では、あなたは他の幾多も存在する、あまたの男たちと変わりがありません。理想ばかりを追って、何らめのまえのものを見ようとしない。あなたは男です。男と変わりないものですよ」

「違う!」

 彼女は言った。「あなたはどうして、そうやってりくつばかりを言うんだ。そんな理詰めなきもちで、あなたのことを好きになったわけじゃない。私のことが好きになれないというのなら、どうしてそうはっきり言ってくれないの」

「あなたのことは好きですよ」彼は穏やかな目をしたまま微笑んだ。「でもそれとこれとは全く別の話です」「意味がわからない……」彼女は額に手をやって、今にも崩折れそうになりながら、言葉を吐き出した。「どういうこと? 嫌いならそう言って。どうして私のことこばむくせに好きだとか、意味のわからないことを言うの」

「私の気持ちの向きはそうだ。けれどそれはそれ、それだけの話です」

 彼は彼女の態度には特に心動かされた様子もなく、自分の知っていることだけを淡々と述べるような口調を取った。「私があなたに好意以外の感情を持つはずがない。それは当然のことです。あなたは聡明で美しく、才気に満ち、生命の歓喜によってまったくしゅくふくされている。そのようにうつくしいものを、誰が心から嫌いになったり、拒んだり出来るでしょう? 私はあなたの生命を歓迎する大勢の人々の一員です。私はあなたの存在そのものに与している。”私は”そうです。しかし、あなたはそうじゃない」

「はあ?」

彼女は苛立ちをもう今ではほとんど隠さず、めのまえの男を睨みつけた。

「そのように正しいあなたが、私のようなものに恋着まがいの間違った感情を抱いて、みすみすその生命に与えられている大切な時間を、むだにするようなへまを打つようなことを、僕は決して、歓迎しないと、こういうわけです」

「そんなのは私の勝手だ!」

 彼女はほとんど叫ぶように言った。「なぜ……あなたに……私の感情まで押さえつけられなければならない? 私にはわからない……あなたの口にしていることのすべてが」

「それは当然のことです」彼は労りのしぐさを含んで、しかしきっぱりと言った。「今あなたのめのまえにいるこの私は、あなたの想像上の、幻想の男ではありませんから」

 女はその場で嘔吐した。男はそれを甲斐甲斐しく世話した。そのままぐったりしてしまった女はもうほとんど性も根も尽き果てていたが、ぎらぎらした目をしながら、尋ねた。

「あなたの目的とは何だ?」

「それは決まっています」聖は一つも悩む素振りも見せず、またしても機械がたった一つの正解を弾き出すかのような冷静さで言った。「あなたのような人を救うことです」「嘘つき」彼女は唾棄を込めて言った。「欺瞞者。大嘘つきの……きつね。天狗、古だぬき」「あはは」彼は楽しそうに、やわらかい声で笑った。「きつねにたぬきですか。やっぱりあなたは楽しい人だな」

 ひとしきり笑った後、彼はその陽気な調子を口元に残したまま言った。「それで良いのです。僕などにいちいち好意的な感情を持つのはお止しなさい」「殺してやる」「そうそう、それでよろしい」

 彼女は彼を恨んだ。彼女の、らんぼうな言葉でさえも、このようにいなされ(と、彼女には感ぜられた)、甘い言葉もまた否定されるのだとしたら……一体、どんな感情を”道具として”、彼に言葉を投げつければいいというのだろう? それとも、彼女には彼に掛ける言葉など全く無くして、彼の言う通り黙ってこの場を去る以外に行動は残されていないというのか? 何故、……何故だ? ただ他人のことを好きになっただけなのに! どうしてこのような不条理に、あえぎくるしまなければならないんだ?

「それでは訊くが」彼女はすっかりしょげかえって、力なく尋ねた。「私の目的とは一体何だったんだ?」

 それに対して、彼はやっぱり、この世の真理をただ機械的に告げるような形で、こう言った。「それはあなたご自身が考えることですよ」

 気がつくと彼女の視界は真っ赤に爛れたようになっていて、それで彼の首を絞めている。彼の首は枯れ枝のように細く、乾いていた。「殺す」彼女は言った。「一緒に、死んで」

 しかし彼はというと、ただ薄っすらと口元に笑みのようなものを浮かべているばかりだ。彼女はそれを見て、何だか泣きたくなった。彼が何か言いたそうにしていたので、彼女は手の力を緩めた。彼は言葉を感情に崩すことなく、淡々とした様子で言った。「それであなたの気が済むというのなら」「……好きでもない女と、心中するというのか?」彼女は口の端を歪めた。「とんでもない”目的”だな。あなたの一生をかけて求めたようなものがそのような下らないものとは、とうていおもえない……」「そうですね。理想があっても、こうして現実は……うまく行かないものですね」「あなたはそんな人じゃなかったはずだ」彼女は両手を再び彼の細い首に手を掛けた。ちいさな喉仏がぐりぐりと彼女の手の中で動いた。「女なんかに……他人の感情などというつまらないものに……左右されて……みすみすそのうつくしい命を散らすような……そんなものはあなたには似合わない」「ほらね」なぜか彼はそこで鬼の首を取ったかのように得意になって、しかしそれを小さなこどもに教え諭すような口調で、こう言った。「それは僕ではありません。そういう僕を、あなたは僕の体のうちに勝手に作ってしまったんですよ。あなたは幻想の中の私を見ているだけです。そうでしょう?」「ちがうよ」「本当の僕は、そうやって女の人に首を絞められて、そのまま息絶えてしまうような、かよわい、はかなく詰まらぬ凡僧、愚禿そのものなのです」「ちがうね」彼女は彼を見下ろして笑った。「それはあなたの幻想のあなただ。あなたが想像した、ただの幻想に過ぎない」「私の?……」「あなたはあなたの中でそうであるべき自身の姿を勝手に描いてそのとおりに行動しようとしているだけだ。なぜ必要以上に自身の姿を歪めて、自身よりも一段も二段も低いものとして他者にむりやり提示しようとする? それは欺瞞じゃないか。大嘘つきの偽善者め。私には分かる。あなたはもっと、そのままの人だ。凡僧でも、愚禿のものでもない。私はそういうあなたが好きだ。いくらあなたが私の感情を間違ったものとしても無駄なことだ。間違ったままでいい。あなたが私を間違いだというのなら、それでも私は別に構わない……」「……ああ、ははは」

 男が奇妙に笑い出したので、びっくりした彼女は手を離した。彼は額に自身の手を添え、そのまま右目をごしごしと擦った。「あなたは……すごいな! 素晴らしい……何もかもが……」「…………」「本当に、ああ言えばこう言う、少しも言葉が減らない。へりくつを並べ立てて……なんて素敵な人だろう!」

 彼女はぼんやりと、その聖を見下ろした。

「本当に僕は勉強が足りなかった」

 彼は上体を起こして、じっと彼女のことを見つめた。

「あなたのような人でも、結局情欲にまどいくるしむのですね。いっしょに呼吸の不思議について、お喋りできるようなあなただったのに」

 その過去を覚えているくせに、どうして? と、彼女は彼の言葉の意味をあまり鑑みる余裕もない。余計なことを考えている間にも、彼女と違って言うべき言葉を持つ彼の言葉は続く。「人と一度でも関わってしまえば、どうせ個人では居られないんだ。それを僕は、まずはじめにおもいだすべきでした。それを一種の利己主義として、間違いとし、その上に万人が救われる方法など求めたから、すべてがまた間違ってしまった。ああ、関わらなければ……関わらなければ、あなたと私は、もっと別のものになれるはずだったのに」

 聖はかなしそうに言った。

「関わったから、」

気分が悪かった。頭が割れるように痛いし、喉の奥には酸っぱくて喉を焼くようなものがまだまだ出口を求めているようだったし、これ以上彼の言葉を聞いていたら、どうなってしまうか分からない。だから言葉を口にしなくてはいけない。頭の中に溜まっているものを……くだらないものを溜め込んでいるから、具合が悪くなるんだ。吐き出さないと。言いたいことを、言いもせずに溜めていたからこんなことになる。人と関わらないでいたから……「関わったから、私はあなたに出会えたんだ。関わったから色々なことを知って、楽しいという感情を、幸福というのを知ったんだ。それを教えてくれたあなたなのに。どうしてその幸福だったことを全部間違いみたいにいうの。あなたは、私と関わったせいで、それが不幸だったから、だから、間違いだったというの?」

「まさか」聖は目を丸くして言った。「不幸だなんて。私が?……とんでもない。私はあなたという人に出会えて幸福でしたよ。あなたとおしゃべりするのは、他のどんな人とおしゃべりするよりも何倍も楽しかった。でも、幸福だからって、楽しかったからといって、それがお互いの善になるわけではない。正しさになるわけではない」

「どういうこと?」

「僕は……つまり、目的の違いです」

 彼は言った。

「あなたは結局、幸福を求めているのでしょう。その生の総合を、結果を、人との関わり合いの果てを、その最終を幸福に結実するものとして扱っている。でも、僕は違う。幸福は素晴らしいものです。でもそれは目的じゃない。それは不幸や苦しみ、快楽や穏やかさといった状況と同じ、ひとつの状態に過ぎない。幸福は僕にとっての生の総合の希望的結果ではなく、ただの……過ぎていく時間の、一つの状態でしかありません」

「……………」

「そして、すてきなあなた。僕の好きなあなたは、私の素敵な業です」

 彼は言った。

「私はもう二度と生まれないのです。それが僕の目的なんです。つまり、あなたの最終的な目的と、僕の最終的な目的というのは、別のものなんです。だから、幸福を目的とするあなたと、二度と生まれないことを目的とする僕は、その最後で手を繋ぐことは決してありえない。だから、あなたが僕に思慕を寄せるというのが間違っている、と、こういうわけです。業を断たなければ私はまた生まれてしまう。そうすると私はすべての意思に背いたことになってしまう。それでもあなたは、私の意志を阻害しますか?」

 彼女の視界が揺らいだ。ああ倒れそうだ。というか、倒れて、そのままもうそこから二度と動きたくない。

「あなたは私の愛着、現世に私の魂を縛り続ける執着の元だ。私はあなたに恋着している。そういうことにしましょう。すると、そのためにまた輪廻を繰り返してしまうということになる。私はそうならないためのみにこの生を今まで全うしてきたのに。あなたによってそれがたった今、不可能になりつつある。あなたは私の目的を妨げるために生まれてきたのですか。違うでしょう。あなたがここにいる意味は……もっと崇高な、特別なもののためだったはずだ」

 そして彼女は泣いている。

 彼は、そういう彼女を微笑を含みながら見ていた。

 私の感情の負けだ、と彼女はおもった。

 私の感情は、彼ほど明確な意思があるものでもない。ケッコンして解決する類のものでもなければ、行かないでといって繋ぎ止められる類のものでもない。彼の崇高な、個人的なことを阻害できるほどの強さも持たなければ、理由にもならない。

 私の中に、彼の自由を阻害できる理由なんて、一つもないんだ。私の感情が、”間違っているから”……

 でも、こんなに好きなのに。


「あなたは僕をどうしたいの?」

 聖は静かに言った。

 彼女は白い息を、ゆっくりと吐き出した。「それを言えば、あなたは僕の気持ちを受け入れてくれるの?」

「私に出来ることならば」

 聖はやっぱり静かに言った。

 だから彼女たちは聖の棲まう崩れかけた庵の中で肌を重ねてしまったが、彼女はそういう行為に没頭しながら、違う、こんなことがしたかったんじゃない、とおもっている。

 何がしたかったのか? その男に触ってみたかった。触ってどうする? 触って、その男が本当に存在しているのかを確かめたい。男の肌は想像よりも少し荒れていて、骨ばっていた。でもそれは触ってみなければ分からなかったことだ。彼女が想像していた彼の肌は、もっとやわらかくて、しっとりしていた……

 だから、実際の生き物に触るということは、そういう確認を取るという意味がある。かもしれない。だから彼女が抱いた欲求はある意味では正しい。しかし、だからなんなんだよ? 男の肌がきたなくたって、きれいであったからって、それで何が違っていると言うんだよ? それを知ったからといって何になる? 何に……何にもならない。何にもならないくせにしかし欲求だけある。なぜだ? 体全体が、すべてが、別のなにかの生命体に乗っ取られてしまったみたいだ。こんな男に触りたくない。触られたくもないし暖かさも冷たさも何も感じたくない、こんなことをするだけのために、こんな下らないものを目的とするために、私はあの人のことが好きになったわけじゃない……

 で、だから彼女は行動が終わってしまったときに、すべてが終わってだめになってしまったとおもってしくしく泣いている。

「私は汚いことをしてしまった」

 彼女は言った。「あなたはそのようなものではなかったのに。私が欲望であなたを汚した。私は欲望によって汚された。こんなもののためにあなたを好きになったわけじゃない。こんなものが欲しかったわけじゃない」

「では、何が欲しかったの?」

 彼は彼女を労り慰めるように、むきだしの肩に手を置いた。彼の手のひらはかさかさで、乾いていて、ちっとも、肌と肌が重なり合ったような水っぽいうるおいがない。彼は一本の、年老いた枯れ木みたいだ。

「あなたが欲しい。もうどこへも行かないで。ずっと一緒にいて。それだけでいいの」

「居ますよ、ずっとそばに居ます」

 彼は彼女を励ますように言った。彼女はその言葉に安心して、そのまま眠りについた。しかし朝起きてみるとそのとなりに聖の姿は無くて、で、あるからして、彼女の望みは結局叶えられない。

 それからまた彼女は彼のことを探したが今度こそみつけることはできなかった。そして彼女は現世を、彼を探しつつさまよいつづけた。でもやっぱり、どれほど時間を重ねても、彼に会うことは二度となかった。

 そして、千年が過ぎた。


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