帰化

本編


 あ、あー。聞こえてますかー? じゃあ、さっそく話していきますね。物語調で話したいので、ですますは付けませんが悪しからず。それでは聞いてください。


 これは僕が鬼怒川に行ったときの話だ。

 手持ちのガイドを起動するとしゃがれたお爺さんの声が聞こえてきた。彼は街の観光案内人だったという。今は引退して静かに暮らしていたが、この観光案内を録音する企画に抜擢され、久々に話をするそうだ。そこでお爺さんはせっかくなら自分しか話せないようなことを話そうといい、語りだしたのは鬼怒川という地名の由来と、それにまつわる少し怖い話だった。

 そもそも鬼怒川温泉というのは、栃木県日光市にある温泉で、江戸時代に発見されたそうだ。当時は日光詣に来た僧侶や大名の疲れを癒やしていたという。そこから時代は変わり、一般庶民も気軽に来れるようになってからは、観光案内も設置されるようになったそうだ。そこで観光案内をしていると名前の珍しさからよく鬼怒川という地名の由来について聞かれたという。


 僕はそのあたりまで聞いて歩き出したのを覚えている。鬼怒川温泉駅に降りてすぐにガイドを起動したのでまずは鬼怒川を見ようと思い、鬼怒川のある方向に向かったはずだ。


 お爺さん曰く鬼怒川の由来には諸説あり、これと言って断定することは難しいそうだ。例えば、栃木県や群馬県があった場所は、その昔に毛野国と呼ばれていたことから、そこを流れる一番大きい川が毛野川と呼ばれ、訛って鬼怒川になったというものがある。

 けど、その説は、なぜ鬼が怒るという一見すると怖い字面が使われているのかを説明するには至っていない。

 もちろん、これを説明する説もある。鬼怒川は普段は穏やかな川だが、一度洪水が起こると、激しく荒れてしまう。この特徴を、鬼が怒っているようだと考え、鬼怒川と名付けたという説だ。


 これを聞いたときは、この説が一番しっくり来たのを覚えている。でも今は違う。


 お爺さんは続けてもう一つの説を教えてくれた。昔、この地域には絹村という村があり、絹をよく川で洗っていたそうだ。それで絹の川と書いて絹川と呼ばれたという説だ。ただこの説は少しおかしいというお爺さんはいう。絹という生地は水に弱く、濡れるだけで縮んでしまったり、摩擦にも弱いので生地が傷んでしまったりするそうだ。

 だから、絹を川で洗っていたというのは、あまり信じられないとお爺さんはいい、この説は、他の有力な説が歪められて伝わっているんじゃないかと言った。そしてそれは、街で観光案内人を努めていたときに、取材で行った地元の小さな民宿の親父さんが語ってくれたとも言っていた。昔の話だし、その民宿も潰れてしまって、その親父とももう連絡は取れないから信憑性は薄いかもしれないと断って、お爺さんは話しだした。


 このあたりで鬼怒川についたと思う。鬼怒川の上空にかかる橋の上から流れる川を見た。意外と柵が低かった気がしたが思い違いだったかもしれない。


 それで、その説は面白かった。絹村というのは確かに存在していたが、していたことが違う。絹を洗うのではなく、鬼の気を鎮めるため絹を川に流していたらしい。なぜ絹かというと、災いが起という言葉遊びからだそうだ。お正月に喜ぶとかけて昆布巻を食べるのと同じ感覚なのだろうか。それはそうとして、その鬼というのが、本物の鬼なのか、川の氾濫をそう呼んでいるのかは不明だが、本物の鬼だったら、なお面白い。鬼というのはパンツ一丁の姿が有名で、かなり露出度が高いイメージがあるが、あれでいて絹を欲しがっていたということになる。


 そんなことを想像していたから足元から注意がそれてしまったのだろう。僕はそこで派手に転んでしまった。冬に来たから雪が氷のように張っていて滑りやすかったとはいえ、恥ずかしい思い出だ。

 つけていたイヤホンも耳から落ちてしまって、その拍子で壊れてしまったのか、立ち上がってガイドを付けると、聞こえが悪い。少し音が遠く感じるのだ。音量のボタンをいじっても反応しない。ただ、聞こえないこともない程度だったので気にせず、また歩き出した。今思うとその時の僕は背筋も凍るような状況にいたのだが、僕は振り返ろうとも思わず進み続けた。


 アクシデントはあったが、ガイドの話はまだ続いていた。どうやら絹村で怒らせないようにしていたのは本物の鬼だったようだ。どうにもこの地域には鬼がいるという伝統的な共通認識があるらしい。そして流すのが絹の理由は言葉遊びだけじゃなく、鬼が人間に近づきたくて欲していたからだとお爺さんは語った。何故かはわからなかったが、本当に鬼がいると信じているような口振りだった。


 そして、お爺さんは、これから語るのが最後の説になりますといい、鬼の増やし方が鬼怒川の由来に繋がっているようなのですと言った。この説は昔話のようで、こう語られた。


 昔、鬼怒川に、ある男がきた。その男は全国を旅する旅人だった。男は旅をするときには、いつも案内人をつけて、その土地で有名なスポットの説明を受けたりしていた。例にならって鬼怒川でも案内人をつけた。案内人はしわがれた声をしたお爺さんだという。初めは物知りなお爺さんだと思っていたのだが、鬼怒川の由来の話になった頃から少しだけ様子がおかしくなっていった。ここには鬼がいるというのだ。お爺さんは本気でそう言っていた。けれど、怯えた様子もなく、何かを諦めたような不気味な笑みを浮かべていた。そして話が進むと、お爺さんは観光案内に注意しろと言った。鬼は観光案内に扮して人を攫うんだと鬼の生体について語った。そして鬼に攫われると川へ連れて行かれ、行方不明になるらしい。街では、観光案内をつけた人が帰ってこないので不審に思っているが、全国各地で運良く見つかった人もいるようで、なら何か事情があるんだろうと、特段大事にはなっていなかった。しかし、見つかった人は全員、全国の有名な土地で観光案内をしていたという。

 旅人はそこまで聞いて、嫌気がさして、やめてくれと言おうと、お爺さんの顔を見ると、そこにはお爺さんの着ていた服を着た、腐った人間のような化け物の姿があった。頭からは2つの角が生えている。ようこそ、こちら側へ。化け物はそう言うと男を捕まえてしまった。

 現世うつしよに帰ってぬ川。これが最後の説だそうだ。だとしたら、鬼はどこに案内しているというのだろうか。


 お爺さんはこの説を紹介し終わると収録時間の関係でここでお別れですといい、ガイドを終えた。僕はそのまま音楽を聞こうと、スマホで音楽を流すように操作したがイヤホンからは何も聞こえない。後でわかったことだが、イヤホンは転んだ時に完全に壊れていたらしい。

 では、僕が転んでから聞いていたあのお爺さんの声は誰のものであったのか。僕の後ろには何がいたのか。


 鬼はいる。


 そう確信したのはそのすぐ後だ。思い出すだけでゾッとする。


 というわけで、話はこれで以上ですが、この観光案内を聞いているあなたも、これから同じような経験をされると思うと少し辛いですね。


「さて、ようこそ鬼怒川へ」

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鬼怒川温泉物語 和泉 @awtp-jdwjkg

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