おいしくない

いつもの昼休み

 四時間目が終わるチャイムが教室に響き、高校生たちは規則正しく並んだ姿勢を一斉に崩す。


 お昼休みの時間だ。


 みんなお弁当を持って外へ出たり、財布を持って購買へ行ったり、仲の良い友達のところへと、散り散りになっていく。


 私は毎日友達と一緒に教室でお弁当を食べる派だったから、今日もきーちゃんとしゅーちゃんのところへ向かった。


 先日の席替えで、きーちゃんとしゅーちゃんとは席が大分離れてしまった。だから休み時間は私の方から窓際の二人の席へ移動する。

 お弁当を持っていくと、二人はすでに椅子を一つの机に向けたりして、きーちゃんの机にお弁当を広げていた。


「おつかれー」


「おつかれー!」


 しゅーちゃんは今日も元気そうだ。きーちゃんはあくびをしながら背筋を伸ばす。


「おはよう〜」


「また寝てたの?」


「きーちゃんずっと爆睡だったよ」


「きーちゃんって国語の時間、いつも寝ちゃうんだね」


「だって山﨑先生嫌いなんだもん」


「え〜なんで?山﨑先生優しいのに」


「いや、顔がキモいから無理」


 きーちゃんは茶色に染めた髪を黒いゴムで一つにまとめながら、そう言って笑った。


 私はきーちゃんとしゅーちゃんとそんな会話をしながらお弁当の蓋を開く。卵焼きが入っていて、心の中で密かにガッツポーズをする。


 私は昔から、お弁当が大好きだった。それは母の手料理だから。私の家は母子家庭で、母は女手一つで私たち姉弟を育ててくれている。夜ご飯は私の担当だから、母の手料理を食べられるのはお昼のお弁当の時間だけだった。


「わ〜!よーちゃんのお弁当、今日もすごいね」


「でしょうー?」


 しゅーちゃんが私のお弁当を覗き込んでそう言う。嬉しくて口角が上がってしまう。


 母は毎日仕事でとても忙しいのに、私たちのお弁当だけは必ず作ってくれた。お弁当は私にとって、母の愛そのものだった。私はそんなおかずの中でも、特に卵焼きが大好きだった。

 母の卵焼きは本当に美味しかった。私が何度練習しても、母のような味にはならない。お弁当に入っている卵焼きは私にとって、まさに母の味だった。


 しゅーちゃんにつられてきーちゃんも私のお弁当を覗き込む。なんだかニヤニヤしている。


「よーちゃんのお弁当ってさ、なんか、幼稚園児が喜びそうな感じだよね」


 上目遣いで私の方を見ながら、そう言ってクスクス笑った。その笑い方が、なんだか真っ直ぐではない気がして、私は思わず返し方に困ってしまう。


「私はそういうお弁当が一番好きだけどなぁ。昔の気持ちのままワクワクできるって、最高じゃん?」


 しゅーちゃんがきーちゃんに言葉を返してくれて、少しホッとする。しゅーちゃんはさすがだ。私みたいに、人の発言を変に悪く捉えたりしない。しゅーちゃんはいつでも真っ直ぐなのだ。


「よーちゃんのお母さん、本当にすごいね。毎日働いてるのに、ちゃんとお弁当作ってくれるなんて。私なんて今日も菓子パンだよ」


 コンビニの袋をガサゴソと漁るしゅーちゃんを見て、きーちゃんがまた何か言う。


「よーちゃんって母子家庭なんだっけ?」


 そうだよ、と返す。


「あたし、母子家庭の人って苦手なんだよねー。なんか、ムダに苦労してます感出してくるじゃん?」


 と言って、きーちゃんはまた笑った。


「え……ごめん」


 一瞬だけ、体が強張る。なんて言ったらいいのかわからなくて、とりあえず謝った。するときーちゃんは言う。


「え?何が?」


 キョトンとした顔で、私のことを覗き込む。

 私はただ、きーちゃんのことを見つめ返した。さすがのしゅーちゃんも返し方に困ったようで、微妙な長さの沈黙が流れた。みんな静けさに乗じて、各々のお弁当を食べ始める。


 母のおかずは、今日もどれも美味しかった。見た目も綺麗だし、冷えていても味がしっかりわかる。私は母の味を一つひとつ大切に味わっていた。


 が、きーちゃんが沈黙を破り、一言を放つ。


「おいしくない」


 きーちゃんは真四角のお弁当箱の中身を睨みつけていた。


 始まった。


 少しの沈黙のあと、「そうなんだ」とだけ、しゅーちゃんが言った。


 きーちゃんは綺麗に焼き色のついた春巻きを、まるで異物でも摘むかのように箸で取り上げている。数秒睨みつけた後、口に放り込んでまた、こう言う。


「おいしくない」


 今度は私もしゅーちゃんも何も言わなかった。またなんとも言えない長さに切り取られた沈黙が、私たちの間に落ちてくる。みんなそれをどう処理するでもなく、箸を動かす。


「……五時間めの小テストさ、勉強した?」


 私は話題を変えようと試みる。


「えー、私なんもやってないよ」


 しゅーちゃんは菓子パンを美味しそうに頬張りながらそう言う。


「そんなこと言って、しゅーちゃんいつも点良いじゃん」


 きーちゃんがしゅーちゃんを茶化して、みんなに笑顔が戻った。しかし、お弁当のポテサラを食べてきーちゃんはまた言う。


「おいしくないなぁ」


 その後もきーちゃんは、おかずを食べるたびに「おいしくない、おいしくない」と言った。



 いつもだった。きーちゃんはお弁当を食べる時、必ず「おいしくない」と言う。最初に聞いた時は戸惑った。どう言葉を返すべきか、迷った。


 きーちゃんのお母さんは、絶望的に料理が下手なのかもしれないと思った。試しにおかずを分けてもらったこともあるけれど、それはどうも違うらしい。もらったおかずはとても美味しかった。

 きーちゃんは反抗期なのかもしれないと思ったこともある。高校二年生の多感な時期だから、お母さんに反抗したくてそんなことを言っているのかもしれない、と。しかしそれも違うようだった。休日に母親とよく買い物に行っているようだし、お母さんとの仲睦まじいエピソードをよく話している。

 ではきーちゃんの味覚が変わっているのだろうか?しかし、それもまた違うようだった。放課後遊びに行った時に食べたアイスクリームや、休み時間にみんなで食べるおかしはおいしいと言ってくれる。


 きーちゃんはどうやら、本当にただお弁当のおかずをおいしくないと思っているようだった。


 初めて三人でご飯を食べた時から、きーちゃんはずっと「おいしくない」を連呼していた。

 どれだけ面白い話題を話していても、どんなにおいしそうなおかずが入っていても必ず「おいしくない」と言う。


 私はこのきーちゃんの「おいしくない」が、好きじゃなかった。


「ご馳走様でした」


 きーちゃんはお弁当を食べ終わると、丁寧に手を合わせてからお弁当をしまう。


 私は別に、きーちゃんが嫌いなわけではない。話していてとても楽しい時もあるし、基本的にきーちゃんは優しかった。二年生になりたての頃、クラス替えをして友達作りに苦戦していた私を、きーちゃんとしゅーちゃんは快く受け入れてくれた。

 二人は小学校からの幼馴染だそうで、何度か同じクラスになったこともあるらしかった。だからしゅーちゃんに聞いてみたこともある。そうしたら「いつものことだよ」と言われた。しゅーちゃんは笑っていなかった。でも怒ってもいなかった。いつもより少し、硬質な声をしていた。



 それから毎日、私はきーちゃんの「おいしくない」を聞き流しながらお弁当を食べた。私もしゅーちゃんも特に否定したり、同情したりはしない。


 きーちゃんは、わざとではないようだったから。それは普段の会話からよくわかっていた。きーちゃんは、自分の感じたことを素直に表現するタイプというだけだった。


 でも、人間とは不思議なもので、おいしいものを食べている隣で「おいしくない」と言われ続けると、なんだか自分の食べているものまでおいしくないような気がしてしまう。


 私が母の愛情たっぷりのおかずを食べている時も、大好きな卵焼きを食べている時も、隣で無遠慮に発せられる「おいしくない」という言葉が、まるで呪いのように私の味覚を覆っていくのを感じていた。自分の食べているもののことではないとわかっているのに、なぜかおいしくなくなってくる。


 どんなにおいしいおかずも、どんなに好きな食べ物も、きーちゃんが無遠慮に発する「おいしくない」に汚染されていく。


 しゅーちゃんも同じように感じていたようで、きーちゃんがそう言い始めると、話題を変えようと何か別のことを話す。しかしどうしても「おいしくない」に戻ってしまう。


 こんな風にして私たちの「おいしい」は、今日も「おいしくない」に奪われていった。



 この日もきーちゃんは十回以上「おいしくない」を連発して、お弁当を食べ終わった。

 そんなにおいしくないなら、食べなければいいのに、と思う。捨てちゃえばいいじゃん。そう、伝えればよかったかもしれない。


 だけど。


 きーちゃんに悪気はない。悪気があったならまだ良かった。「おいしくない」を聞かされ続けながらご飯を食べる私たちの気持ちが、本当にわかっていないのだ。


 いや、きーちゃんにはわかるも何もないのかもしれない。きーちゃんはそういう会話の仕方をする人だった。


 お弁当をしまいながら考える。


「おいしくない」が汚していったお弁当や、私の「美味しい」や、楽しい昼休みについて。毎日毎日そんなことを聞かされ続ける、高校生活について。


 そんなに嫌なら、きーちゃんと一緒に食べなければいい。

 でも、じゃあ誰と食べればいいのだろう。私たちはもう、六ヶ月も一緒にいる。ご飯の時以外の休み時間や、移動教室の時も一緒だ。

 仮に一人でご飯を食べるとして、きーちゃんになんて言えばいいのだろう。このモヤモヤを、どう言えば伝わるだろう。


………面倒臭い。


 私は考えるのをやめた。


「次、理科だから実験室行かなきゃだね」


「はぁ……だるいなぁ」


 実験室は私たちの教室の二つ隣だ。しかしきーちゃんがため息を吐くと、なんだかもっと遠くにあるような気がしてしまう。


 そんなことを考えていたらチャイムが鳴ったから、私は言葉になる前の言葉を潰して、飲み込んだ。


飲み込んだ言葉は、おいしくなかった。

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おいしくない @hitomimur

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