Fly Me to the Sky

東雲そわ

第1話

 彼女を見上げる私の瞳に、伸ばした前髪が影を落とす。

 

 ネットの白帯にバチンッと弾かれたバレーボールが、本来の軌道から大きく膨らみ、回転数を上げながら、弧を描くように飛んでいく。そのままコートの外まで飛んでいったボールは体育館の壁にドンッとぶつかり、跳ね返った勢いそのままに転々とコートの中程まで転がっていく。


「先輩、ナイスサーブ!」

「失敗したときだけ声出し元気になるのやめてー!」


 後輩に茶化されても笑顔でボールを拾いに走る彼女は、秋に部活を引退してから髪を伸ばし始めていた。かつてショートカットだった精悍な後ろ姿も、今はピンクのヘアゴムで結ばれた後ろ髪がぴょこぴょこと愛想よく跳ね回っている。


 三年生エースとして最後に出場したインターハイ予選の県大会。大会最多得点という功績を残し、チームを初の全国大会出場へと導いたその実力が評価され、関西の大学からスポーツ推薦の内定をもらった彼女は、多くの三年生が机に向かう中、今も一人コートに残り、自主トレーニングを続けている。


 後輩と共にストレッチを行い、後輩と共にランニングを行い、あの日から、誰よりも長い距離を、彼女は走り続けている。


 コートを使った全体練習には基本的には加わらず、一人、体育館の二階に新設されたトレーニングルームで持ち前のパワーに磨きをかけ、一通り筋肉を痛めつけた後は、レシーブ練習の列にこっそり並んだり、ブロッカーとして後輩達の目の前に高い壁として立ちはだかったり、ときおりボール拾いに駆り出されるという偉大な先輩らしからぬ扱いを受けながらも、あの頃とは違う日々を、あの頃と変わらない笑顔で過ごしている。


「もう一本!」


 後輩達の声援を受け、彼女が再びコートのライン際に立つ。それを期待を込めた眼差しで見つめるのは彼女の後輩達だけに限らず、隣り合うコートで練習に励む男子バレー部員も同様だった。加えて、校舎と隣り合う体育館は昇降口のほぼ正面に位置するため、たまたまその場面に巡り合わせた帰宅途中の生徒の幾人かが脚を止め、換気のために開け放たれた体育館の扉からは、決して少なくないギャラリーの視線が彼女に向けられていた。


 分け隔てなく人に接する無神経さと、小さいことには拘らない大雑把な性格のおかげで、私が知る以前から敵味方共に顔が広かった彼女は、全国レベルの実績を残し、バレー部初のスポーツ推薦を得たことで、その知名度を更に上げていた。その人気ぶりは日を追うごとに拍車がかかり、昨年末から彼女のトレーニングメニューに加わった、バレー部の練習終わりに行われる十本限定のサーブ練習も、いつしか放課後の名物になり始めている。


 大会最多得点の栄誉を勝ち取り、全国でも通用する唯一の武器として磨き上げた、力強さと華やかさを兼ね備えた、ジャンピングサーブ。


 ボールを打つまでの八秒間で描かれる、彼女の三年間の軌跡。


 全国への切符を勝ち取ったあの日と、あの瞬間と、同じ表情で、一人、コートに立つ彼女を、私は今どんな眼で見つめているのだろう──。


 ──宙を舞う彼女は今、どんな景色を見ているのだろう。


 体育館の床を這う冷たい空気が、入り口側のギャラリーに紛れていた私の足元にすり寄ってくる。彼女の息づかいまで聴こえてきそうなほどの一瞬の静寂が体育館の空気を満たし、堪らず逃げるようにその場を離れた私の背後で、今度は混じり気のないの歓声と声援が俄かに上がる。


 私が彼女に声援を送ることは今まで一度もなかったことを、そのときになって思い至り、胸の奥で何かが動き出す気配に耳を澄ませながら、校舎に繋がるコンクリート剥き出しの渡り廊下を急ぎ足で渡っていく。

 

 昇降口では、図書室の学習スペースに置き忘れた推しキャラのペンケースを取りに戻っていた松永さんが、既に上履きから学校指定のローファーに履き替えていた。


「ごめん、私が待たせちゃったね」

「見てかなくていいの?」

「うん。別にいい」


 下駄箱の最下段に上履きを差し込み、履き古されたローファーを引っ張り出す。あれから身長は数センチ伸びたけれど、足のサイズは変わらないままだ。


 爪先で地面を何度か叩いて、潰れた踵に足を馴染ませる。今さら靴を新調するぐらいなら参考書の一つでも買った方がいい、と言われまでもなく理解できているので、親にお金の無心はしない。県内に一つしかない国公立大学を目指さなければいけない身分としては、これ以上のお金を勉学以外のことで浪費するわけにはいかなかった。


 共通テストを間近に控え、勉強にほとんどの時間を費やされている松永さんと私にはこれといった話題もなかった。無言のまま、何度目かの歓声に沸く体育館の横を通り過ぎ、踏み潰された落ち葉の屑があちこちに詰まったアスファルトの上を、残り少ないローファーの底を擦り減らしながら歩いていく。


 松永さんとは、いつも正門でサヨナラをしている。通学に使う路線が違うため、通学路も真逆なのだ。


「大阪って、やっぱり遠いのかな」


 普段なら「じゃあね」と言うところで、松永さんが独り言のように、そう口にする。


「……遠いよ」


 遠過ぎて、街の名前も、駅の名前も知らない場所。


「でも本場のたこ焼きは食べてみたいなぁ。あと、お好み焼きも」

「この前は明石焼きが食べてみたいって言ってたよ」

「……うん、言ったかも。あれだね、最近覚えなきゃいけないことが多過ぎて、逆に忘れっぽくなっちゃってるのかも」


 私が薄い笑みで応えると、松永さんは「へへへ」と笑う。


「じゃあ、また明日ね」

「うん。また明日」


 名残惜しむこともなく、互いに背を向けて歩き出す。

 

 図書室に入る前に電源を切っておいたスマホをポケットの中で温めながら、駅までの十分足らずの道のりを、マフラーに鼻を埋めて歩いていく。途中、駅までほぼ一本道の通学路から横道に逸れて、この季節になって初めての寄り道をしたのは、次の快速電車まで、まだ少しだけ時間があったからだ。


 通学路を少し外れた県道沿いのファミリーレストランは、夏の終わりと共に閉店し、今は空き店舗になっていた。


 人通りの少なくなった道を歩き、色のくすんだその建物の前を通ると、明かりを失った窓ガラスに、あの頃よりも髪を伸ばした自分の姿が映り込む。


 足を止めて──再び歩き出すまでに、それほど時間は掛からなかった。


 まだ二人とも髪が短かった頃、最後にこのファミレスに訪れたときも、私はこの窓際の席で、いつも遅れてやってくる彼女のことを、一人待ち続けていた。





 もう更新することもない定期券をかざして改札を抜けると、ちょうど一番奥のホームに電車が入り始めたところだった。ホームを渡る歩道橋を一段飛ばしの大股で昇り、渡った先の階段を小刻みな駆け足で降っていく。


 この時間帯の快速電車に、私が落ち着いて座れるスペースは存在しない。乗り込んだ乗車口のドアが閉まるのを待って、そのままドスンと背中を預け、ポケットから取り出したスマホの電源を入れる。


 見た目はまだ綺麗でも中身はオンボロな高校入学時に買ってもらったスマホは、すっかり老体と化していて、ぽつぽつと灯りが灯り始めた夕暮れ時の街並みのように、緩やかな動作で光を帯びていく。


 ようやく目覚めたスマホが私に見せた通知は一件だけ。


 彼女からの、メッセージ。


 アプリを開くと、昨日までの彼女とのやりとりが画面を覆い、その一番下に未読のメッセージが表示される。


「8/10」


 数字と記号のわずか四文字。何かの日付にも思えるそのメッセージは、ある確率を示していた。


 十本中、八本が成功したことを私に伝える、記録のようなメッセージ。


 そんな、ただの記録としか読み取れないメッセージが、二人だけの履歴を埋め尽くしている。それは年が明ける前から続き、元旦も、雪が降った日曜日も、休むことなく続いていた。


 それらのメッセージに対して、私はただ既読を付けるだけで、一度も返信をしていない。


 渇いた指先を滑らせ日付を遡ると、私に向けられた彼女の言葉がそこにある。彼女からクリスマスの予定を聞かれたときに、間を置かずに「勉強」と答えた私に、一日遅れで返信されたメッセージ。


「あたしの全力サーブが十本連続で決まったら、100%合格できる!」


 ゲン担ぎにしても、ずいぶん乱暴なやり方だと最初は思っていた。


 彼女の最後の試合でも、サーブは打った数の半分ほどしか成功していない。それを十本連続、しかも加減も温存もしない全力のサーブを、部活を引退して試合勘が遠のいている身体で成し遂げるのは、素人目から見ても難しいと思っていた。


 「私が勝手にやってることだから」と無神経な彼女から返信を固辞する申し出があったのは、冬休みに入る前のことだった。刻々と迫る受験への重圧から神経質になっていた私でも、そこに「受験勉強の邪魔をしたくない」という見えない言葉が添えられていたことは、ちゃんと理解できていたと思う。


 それ以来、彼女と言葉らしい言葉を交わさなくなったのは、彼女の気遣いに甘えているのとは別の理由が私の中にあることも、彼女はきっと理解している。


 毎日送られてくるその数字に、気がつけば縋りついている自分がいた。


 無責任でいい加減な彼女の言葉に、背中を押されている自分がいる。


 その一方で、日に日に大きくなっていく数字を目にする度に、次第に強まっていくある感情が、実体を持つ影のように、私を徐々に覆い尽くしていく。目を背けることができない程に大きくなっていたそれを、彼女は少しずつ私に告げようとしてくれていたのかもしれない。


 市街を抜けた車窓からの景色に、遠くの山々が映り始める。冷たいオレンジ色に染められたその景色も、やがて少しずつ、遠のいていく。


 暖房の効き過ぎた車内の空気に微睡み始めた意識を揺り起こして、まだ少しかじかんだ指先で、言葉を紡ぎ始める。

 

 感情的に打ち込んだ言葉を、冷静な思考で取り消して、冷静を装った言葉を、感情のままに塗り潰す。塵のように降り積もる焦燥感の中、何度も、何度も、繰り返したその行為が、私の中から全ての言葉を奪い去り、ピクセルの底に沈めていく。

 

 覚えなきゃいけないことが多過ぎて、逆に忘れっぽくなっちゃってるのかも──松永さんが口にした台詞が不意に頭を過ったけれど、私は記憶力だけはいい方なので、これからも忘れることはできないと思った。


 彼女に伝えるべき言葉を見失った私が、再び微睡み始めた意識の中で、最後に指先で触れたもの──送信側のメッセージとして画面にポンっと現れたそれは、眉間に深い皺を刻んだ不満顔がどこか愛くるしくも見える、デフォルメされた三毛猫のスタンプだった。


 どうしてそれを選んでしまったのか、自分でもよくわからなくて、困惑した。


 彼女の持論によれば、今日の時点で、私が合格できる確率は80%ということになる。その80%という数字で満足しようとしていた自分に、残り20%という数字に逃げようとしていた自分に、不甲斐なさを感じていたのかもしれない。


 いつまでも100%の結果が出せない彼女に、苛立ちを覚えていたのかもしれない。


 やぶれかぶれ──その可能性が一番濃厚に思えて、軽い絶望感と目眩を覚える。


 答えが見つからないまま、快速電車が次の停車駅に止まり、背を預けていたドアが開くのを感じて、体を浮かせる。座席の端に手すりに寄りかかると、その冷たさに少しだけ目が覚める。


 電車を降りた人々がホームを去り、来るかもわからない乗客を待つ快速電車に、冷えた空気が流れ込んでくる。


 出発を待つ乗客の中から、不満気なため息が聞こえてきて、私は殻に篭もるように目を閉じる。

 

 そして夢を見るように、一つのことを思い出す。


 彼女に送った不満顔の三毛猫スタンプは、いつも遅れてやってくる彼女を急かすために、あのファミレスの、あの窓際の席から、彼女にいつも送り付けていたスタンプであることを──。


 やがてドアが閉まり、音と振動を伴って動き出した快速電車が、緩やかに速度を上げていく。その揺らぎに紛れて、掌の中で何かを受け取った気配を感じて、目を覚ます。


 彼女の飾らない言葉が、そこにあった。


「今日は8本も決めたんだよ! ちょっとは褒めてくれてもいいんじゃない!?」


 彼女の顔が、目に浮かぶ。


 今まで本当に返信をしなかった私に対して怒っているのか、久しぶりの私からの返信に喜んでいるのか、どちらとも言えない顔をしている。たぶんそれは私も同じで、マフラーで顔の半分を隠していても、彼女にはきっと見抜かれてしまう。


 スマホに触れた指先が、熱を帯びる。


「その残り20%を引いて私が受験に落ちたら一生恨むから」

「そんなのやだ!」

「エースのくせにだらしない」

「明日こそ絶対全部決めてみせるから!」

「絶対に?」

「絶対……じゃないかもしんないけど! でも、頑張るから!」


 彼女の言葉に満足した私は、最後に三毛猫のスタンプをもう一度送信する。今度の三毛猫は丸まった背中を向け、そっけない態度で尻尾をふりふりと振っている。それが私から会話を終えるときの、いつもの合図だった。


 それに対して、彼女からは得体の知れない生き物のスタンプが送られてくる。あの頃から変わらない、いつまで経っても理解に苦しむそのセンスに、自然と零れたため息に誘われるように、一つの言葉が私の胸の奥から溢れ出す。

 

「がんばれ」


 春を待たずに旅立つ彼女には、きっと素直に言えないその言葉を、私は一人、再び動き出した電車の中で、もう一度確かめるように呟いていた。

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