それでも近くに


 部活には全然身が入らなかった。

 とはいえ自称進学校である私の高校の吹部は、他校と比べてちっとも熱心ではない。全くの無名だ。少し音がずれようが音が安定していなかろうが、誰も気にはしない。真剣に吹奏楽がやりたい人はこの学校には来ないだろう。他の部活だってきっと同じようなものだ。部活よりも勉強。学校の雰囲気としてそれを目指しているようなのだから。

 だから、私の駄目さも目立たずに練習が終わった。

 先輩や後輩も含め部員たちの覇気の無さにはたまに辟易するけれど、今日ばかりは助かったと思う。そしてそんな醜い安堵を感じている自分に、今度は辟易した。

 ユーフォニアムやらメトロノームやらをごそごそと片付けながら、帰ることを考えて憂鬱になった。窓の向こうの空が暗く見えたのは気のせいだろうか。


     ✣


 別に今村美月に兄が取られてしまう、と恐怖しているわけではない。兄は自分のものなのにとなど思っていない。今はもちろんのこと、どんなに憧れの兄であろうが「私、将来はお兄ちゃんのお嫁さんになるの!」などと考えるほどに、幼い頃の私の脳内もお花畑ではなかった。

 でも。

 遠くにいて、これからも遠くに行く存在であった兄の姿を、明確に塗り替えた瞬間がある。

 兄が家を出ていく直前の年だった。私が何歳の頃だったかは忘れた……ああ、でも兄が高校三年生だったのは確実だから、計算するに私が小学四年生の時か。

 私は母と大喧嘩をした。最初のきっかけはもう覚えていないから、その程度の些細なことから始まったのだろう。夕暮れ時、と言うにはまだ少し早い時間。兄はまだ学校から帰ってきていなかったし、当然のように父も会社で、誰もいさめる人がいなかった。止まらない言葉の数々。でも、でもと食い下がる私に、母がとうとう手を上げた。

 頬を平手打ちされたのだと、最初はわからなかった。

 私は目を見開いて左の頬に手を当て、怒る母の顔を凝視した。じわりと感じた熱さが、自分が理解することのできる「痛み」という言葉と一致した時、無我夢中で家を飛び出していた。

 家の前の坂を駆け降りた。途中で勢いが付きすぎたのと足元をろくに見ていなかったので派手に転んだ。血がみるみる膝に滲んだ。じわりと響く痛さと恥ずかしさに、私は泣いた。とぼとぼと泣きながら歩いた。

 坂の下にある公園のすべり台の下に、何時間じっとしていただろう。日も暮れてきた頃、私を迎えに来たのは、学ラン姿の兄だった。

「葉月。ここにいると思った」

 聞き慣れた声と見慣れた笑顔に安心したのだと思う。いつの間にか乾いた目でぼんやりとしていた私は再びわっと泣き出した。大きな手が私の頭にぽんと置かれた。

「お母さんと、喧嘩したんだってね」

「うん。あのね、あのねお母さんね、私のこと叩いたの……」堰を切ったように私の喉から嗚咽が漏れた。

「痛かった?」

「ううん……ううん」違うの、と訴えながら気づいた。私がショックだったのは、母に言われた言葉ではない。喧嘩をしたという事実でもない。怒っても何しても絶対に私の味方だと心のどこかで思っていた母が、私を叩いたことだ。めちゃくちゃに涙と鼻水を拭う。「お母さん、ひどいよ。私のこと嫌いになったんだ……私がいい子じゃないから。ひどい。そんなことで嫌いになるなんて、わたし……」

 その時、ブランコの鎖を意味もなく手で揺らして弄んでいた兄が「それは違うよ」と不意に言った。

「母さんは、葉月のことが大好きだよ」

 私は驚いて兄の背を見つめた。

 その頃は兄もまた大学受験に関して母と言い合っているのをよく見かけた。ひどい、という母の悪口に同調してくれるだろうとなんとなく思っていたから、その言葉が意外だった。私はすべり台の下から出て、兄に近づいていった。長い影が砂利の地面に伸びていた。消えていく太陽の残灯。だんだんと街を包み込む群青。

「なんで、そんなこと言えるの」

「だってお母さんは葉月と僕の親だから。どんな時でも絶対に味方なんだ。絶対に裏切らないんだよ。今はちょっと、兄ちゃんのジュケンのことで色々心配してくれてるから、機嫌悪くなっちゃってるんだ。葉月は悪くないよ。……でもね、お母さんも、悪くないんだよ。悪くないんだ……」

 私がびくりとしたのはその声が震えていたからだ。兄は泣いていた。私が顔を覗き込む前に、くるりとこちらを向いて、私の肩に頭を預けてきた。「ごめん。ごめんちょっと……」くぐもって、濡れたみたいな声がそう言った。私はすんすんと鼻をすすりながら、ひたすらに戸惑っていた。

 今なら、何となく兄の涙の意味がわかる気がする。

 絶えない受験に対するプレッシャー。母に幾度となく当たっている罪悪感。両親に素直に感謝が言えないこと。妹に迷惑を掛けたという加害意識。他の分類できないもやもやとした感情。高三生の誰もがそうなるように、兄も押し潰れされそうになっていたのではないか。私の前ではいつも気丈に笑ったり、あくまで優しい兄だったけれど、見えない苦しみや辛さを抱えて、自分ではどうすることもできずに持て余していたのではないか。

 当時はそこまで悟れたはずはない。ただ、私と兄の目が街灯の下で見ても赤くないと思えるようになるまで、ずっと私たちはそうしていた。無言なのにお互いの怒りも悲しみも自然に相手に伝わっているかのような、不思議な時間だった。

 坂を登って家に帰ると、母は「叩いてごめん」と言って私を抱きしめた。私も謝ったのだと思う。兄は「勉強しなきゃー」と何食わぬ顔でさっさと二階の自分の部屋に上がっていった。あったことと言えばそれだけだ。

 言わないで欲しいと頼まれたわけでもないけれど、兄が泣いたことを、私は今まで誰にも言ったことがない。これからも口にすることはないだろう。何なら兄自身はもうあの夕方のことを忘れているかもしれなかった。……でも、私は忘れない。

 家へと続く坂道をゆっくりと二人で歩きながら、考えたこと。兄が一歩先を行き、私はついていく形で歩いて、それでも手は繋がれたままだった。

 強くて優しくて何でもできて完璧だと思っていたこの兄のことを、私が守ってあげたいと感じた。守りたい。この本当は弱い、ただひたすらに善良な人のことを。私はこの人をこの先一生裏切りはしない。そして兄もまた私のことを裏切ったりはしないだろう。私たちは兄妹だからだ。家族だからだ。

 離れ離れになっても、遠くに行ったとしても。

 私たちは家族なんだ。


     ✣


 駅からのバスに乗ったぐらいの時から雨がぽつぽつと降り始めて、最寄りのバス停につく頃には随分と強くなっていた。傘を──折りたたみ傘すらも持っていなかった私は、トタン屋根の下に入って冷たい雨の降り注ぐ通りを眺めた。バスのタイヤがいつも乗る位置のコンクリートは少し凹んでいて、そこにできた水溜りにいくつもの波紋が広がっていた。

 雨粒が視界を遮り、白く烟ったような空気。足元から震えだすような一月の寒さ。でも、濡れるのを覚悟でパッと走り出してしまえばそれで済むことだ。なのに私が立ち止まったのは、帰りたくないという意識がどうしてもあったからだと思う。ずっとずっと、今日一日頭の中に、あの人の声が響いている。

 今村美月に非はない。

 ……そんなことはわかっているけれど、それでも会いたくない。

 こんなに嫌な気分になる理由が自分でもわからなくて、でも今更手のひらを返したように素直になんてなれなかった。そんなのみっともないし、私はまだあの女のことを許していない、怒りを消していないということをわからせたかった。家族の中に入り込もうとしている今村美月に。彼女のことを連れてきた兄に。能天気に迎え入れた母に。何も考えていなさそうな父に。その怒りが何に対するものなのかはやっぱりわからなかったけれど。

 「わかる」と「わからない」、「わかってほしい」が頭の中をぐるぐると回って、目が回りそうだ。

 どうしてうちは坂の上にあるのだろう。どうして少し上り坂になっているだけで、家を出るのと帰るのでは、勢いも気負いもこんなに違うというのだろう。

 昔兄と時間を共有した公園がここから見える。耳や頬が冬の冷気に冷たくなっているのを感じた。あの時みたいに兄が迎えに来てはくれないだろうか。なんて、無理か。今日は何か予定があるようなことを言っていた気がするし、仮に何も無かったとしても、昔と今では違うのだ。あの頃のままの私ではないし、あの頃のままの兄でもない。母もそろそろ夕飯の準備に入るから手が空いていないだろうし、やっぱりもう帰ろうかな。五分も全力で走れば着くかな。これ以上雨が強くなっても嫌だし。寒いな……。

 バスの定期券やら楽譜やらを入れた手提げ袋を肩に掛け直して、駆け出す覚悟を決めるために息を吐き出した時だった。

 突然雨音の中から、濡れた地面を歩く、水を撥ねるような足音がふっと耳に飛び込んできた。私は自然に音の方を振り向いて──唖然とした。息を呑みこむ。

「なんで……」

 そこにいたのは、昨日から今まで私の頭の中を占めて、更に膨張し続けている今村美月本人だった。今度こそ悪い夢か……などと現実逃避をしても無駄だ。冷えた指先はもう痛いほどだ。

 ブラウスの上に黒いコートを羽織った格好の彼女は、にこりと微笑んで私に手に持っていた傘を差し出した。迎えに来た、と。

「お義母さんは夜ご飯のために足りないもの買いに行ってくれてるところなんだけど、雨が強くなってきたように思ったから」

 差し出された傘は、母の古いものだった。この人は傘立てに突き刺されたどれが私の傘なのかわからなかったのだ。母に言われたわけではないのに、私を迎えに来た。私が部活から帰ってくる時間なんてはっきりとはわからなかっただろうに、待つことになるのを覚悟でそれでも来た。優しげな笑顔。

 この人は私と話したがっている。

 それを感じて、息が詰まるような苦しさを覚えた。でも逃げることなんてできない。私にはこれ以上、後退りできる場所がなかった。

「……ありがとうございます」

 早口に礼を呟いて紺色の傘を受け取ると、彼女は「うんっ」と頷いて背を向けて歩き出した。一瞬の作り込まれたような綺麗な笑顔に、今村美月の感情は見えなかった。



 エアコンの暖房が効いたリビングは暖かくて、ようやく呼吸ができたような気がした。もっとも母はまだ買い物から帰って来ていなくて、今村美月と二人きりという状況なのは生きた心地がしなかったが。

「冷えちゃう前に着替えておいでよ」制服姿の私に彼女は言った。「あったかいお茶とか淹れる? それならお湯沸かしておくよ」

「あ、じゃあ、お願いします」

 断るのもどうなのかと思って、会釈と共に言うと、今村美月は「オッケー」と親指と人差し指で丸を作って見せた。

 のろのろと、これでもかと言うほど時間をかけて私服に着替えた。私が若干足音を殺しつつ再びリビングに入って行くと、彼女は紅茶の茶葉を探しているのかキッチンの引き出しをごそごそとやっている所だった。場所を教えようと口を開いて、一瞬ためらって口を閉じ、迷った挙げ句に結局私は「茶葉なら一番左の二段目ですよ」と声を掛けた。彼女は驚いたらしくぱっと振り向いて、引き出しから缶を取り出してから照れたような顔をした。

「ありがとう。葉月ちゃんが帰ってきたら紅茶でも作って飲んだらってお義母さんに言われてたんだけど、場所訊き忘れてた」

「私が淹れますよ。慣れてますし」

「……そっか。じゃあお願い」

 茶葉はティースプーンに多めに三杯。

 やかんからポットにお湯を注ぐ。とぽとぽという音と共に、ハーブのようなアールグレイの香りが台所中に広がる。

「ねえ」テーブルに着いた彼女が静かに話しかけてきた時、私は何も反応できなかった。

「葉月ちゃんさ、わたしのこと嫌い?」

 煮出している途中のポットの上に手をかざすようにしながら、私は立ち尽くしていた。湯気が存分に当たった手のひらがじっとりと濡れる。

 無言を肯定の返事と捉えたのか、今村美月は「そうだよね」と視線を逸らして笑った。割にさばさばした笑みだったので、私はなんとなくはっとした。勝手に彼女のイメージを女っぽいものと思い込んでいたが、その印象とは少し外れた表情だった。今村美月の前に私は出来上がった紅茶のマグカップを置く。ありがとう、と穏やかな声で言われる。

「あのね」あまりにそのままの声色だから、警戒する暇もなくあっさりと言葉が耳に入ってきた。緊張を互いに見せまい、感じさせまいとする、そんな緩い緊張感がただそこにあった。──時計の秒針が回る。「わたしのこと、好いてほしいなんて思ってないよ。でもわかってて欲しいの。わたしは、葉月ちゃんのお兄さんのことを取ろうとしてるわけじゃないってこと」

 何が言いたいのだろう。壁にもたれ掛かった私は両手でカップを包み込む。湯気に覆われた、その向こうの水面。部屋はあまりに静かで、エアコンが暖かい風を吐き出す音と外の雨音ばかり聞こえた。

「〈お兄さん〉を奪い取ったりなんてしない。……でも、色んな話をして、色んな場所に一緒に行って、たくさんの時間を一緒に過ごして、〈怜央〉とこれから先を生きていきたいって思ったの。他の人じゃ、駄目なの」

「兄ちゃんの、どこが好きなの」私の問いにも、彼女は少しも考えたり迷ったりしなかった。少しも間を空けることなく。

「誰よりも優しいところ」

 うん、と私は俯いて頷く。知ってる。そんなのみんなわかってるよ。私が口を挟む前に今村美月の声は続く。「まめな気遣いをして、でもそれを感じさせないところ。たまに無鉄砲なことをするところ。勇気があるところ。何に対しても一生懸命なところ。全力を見せてくれるところ。耐えることもできるところ。好きって言ってくれるところ。たくさんたくさん、それを伝えようとしてくれるところ。──あと」


 強いだけじゃ、ないところ。


 私は思わず彼女のほうを見遣った。彼女もまた顔を上げていた。ここに帰ってきてから初めて、私たちの目が真正面から噛み合った。逸らさない。逸らさせない。私たちは見えない手で互いを掴み合っていた。離さない。離させない。

 今村美月は、強い芯を持った視線のままで微笑んだ。さっきよりも更にしっかりとしているのに、柔らかい。それもまた本当の笑顔だった。笑みという表情だけでこんなにたくさんの種類の顔がある。昨日からずっと頭の中を占めていると言いながら、私はこの人のことをどれほど見ていただろう。この人だけじゃない。他の人のことだってそうだ。

 私だけが兄の内側の姿を知っていると思っていた。……でもそれは違った。

 母にも父にも、それから今目の前にいるこの人にも、少しずつ違う兄の姿が見えているのかもしれない。でもどの兄も本物の兄なのだ。彼という人間の殻の中で渦巻くものを、みんなでそれぞれ別の場所から覗いている。

 美月さん。あなたは、兄の弱さも知っているんですね? 兄はあなたに、弱い部分も見せているんですね。

「葉月ちゃんは、わたしのこと嫌い?」

 再び投げかけられた問いに、私は答えない。さっきとは違う意味をまとった沈黙が流れる。美月さんは紅茶を啜って、ふっと熱い息を吐き出した。それから、また口を開いた。淡いピンクの色が付いた唇が微かに動き、まだわからないよね、と言った。

「わたしも、まだ葉月ちゃんのことわからないもの。考えてることも、何が好きなのかとかも。でも、じきに葉月ちゃんを好きになれるっていうのはわかるよ。もっと知っていきたいって今も思ってる」

「……」

「だって、好きな人の大切な人だから」

「…………」

 美月さんは少し悪戯っぽい表情で人差し指をぴんと立てる。「だからやっぱり、さっきの言葉は嘘ね。どれくらい時間が掛かってもいいから、葉月ちゃんにも私のこと少しでも好きになって欲しいな」

 私は兄の好きな人の顔をじっと見つめた。

 優しい人なんだと思った。

 だって優しい兄の選んだ人だ。そして優しい兄を選んだ人なのだ。あなたたちは、よく似ている。

 ずっと怖かったし、見ないようにしてきた日を美月さんが私に見せる。それは兄を一番に守るのが私でなくなる日。兄が私の手を振り放して、家族の輪から出て別の家族を作る日。手の届かない場所へ行ってしまう日だ。でも、それは実は違うのだとわかった。兄を守るのが美月さんになっても、それは兄が私を裏切ることにはならない。新しい家族を築こうとも、私たち一家の輪とその輪は確かに重なっているのだ。

 何よりも、私は兄を裏切らない。

 兄の幸せを今も、これから先も願って生きていく。その幸せがどんなに形を変えていっても。

 飲めるだけの熱さになった紅茶をごくごくと飲み込んで、私は一つ頷いた。いつものハーブティーの味が染み渡った。


     ✣


 五つの卵を割って、菜箸でかき混ぜる。どろっとした液は箸の先に抵抗を返し、だんだんと腕は疲れてくる。まだらな渦を描いていた白身と黄身ができる限りの均一になるまで、私は一生懸命に混ぜ続けた。

 味付けは出汁多めで、あとは砂糖と少しの塩。母から引き継いだ、我が家の卵焼きの味。形はきっとそうはいかないのだけれど。コンロに乗せた卵焼き器にサラダ油を入念に敷いた。鮮やかなオレンジだった卵液は、火が通ると柔らかい黄色に色を変える。その具合を見つつ、端からフライ返しでぐるぐると巻き付けるように転がしていく。ほんのりと焦げ目のつく匂いと出汁の匂い。油の上で焼ける音。起きてからそんなに時間が経っていないというのに、もう空腹を感じた。今日も健康だ。

 やがて卵焼き器の上には、太くて大きな円筒型の物体が姿を現した。

 やっぱりね、と私は一人肩を竦める。ぱっと見ただけではこれが卵焼きだとは誰も思わないに違いない。ちょうどその時、階段を降りてくる足音がした。二人分だ。笑い声も聞こえた。兄と美月さんだろう。

 午前中のうちに二人は東京に帰る。私が部活から帰って来る頃には、とっくに兄も美月さんも東京でそれぞれの日常を始めていることだろう。私もまた普通の日々に戻って、部活に行ったり家で母やら父やらと「いつも通り」を過ごしているうちにあっという間に冬休みは終わる。寂しくはないが、なんの感慨もないわけでもなくて。ぐるぐるに混ざった、自分でも何が入っているのかわからない感情だ。それでいて、きっと均一である必要はないのだろうと何となく思っていたりする。

「おはよー……」

 兄が漫画のように目を擦りながら登場する。まるで子供のようだ。私は笑う。

「おはよ、眠そうだね」

「ん。こんな七時前なんかにあんまり起きない」

「でも九時前にはここを出発したいから」と、言いながら後ろから入ってきたのは美月さんだ。昨日と同様、シャキッとしている。「あっ、葉月ちゃんおはよう。今日も早いね」

「おはようございます」

 私はいつもの倍以上の太さがある卵焼きを包丁でいくつかに切り分けた。ぱたんとまな板の上に倒れた断面は、綺麗で大きな真ん丸だった。私は内心、よしと思った。変な形でも卵の数を三つも増やした割には会心の出来だ。二切れだけ弁当箱に詰め込んで、他は……。

 その声を掛けるのは、まだ少し勇気がいるけれど。

「兄ちゃん、美月さん」

 思い切って呼び掛けた。勢いの付いた声が弾んだ。「ちょっと余っちゃったから、朝ごはんにこれ一緒に食べない?」

 言いながら、三分の二以上も余らせておいて「ちょっと」も何も無いよなと思った。変に思われただろうか。明け透けの下心に呆れられただろうか。にわかに不安になる。

 ──でも。

「いいの!?」

 まだ椅子に座ってぼんやりしているらしい兄よりも、美月さんが先に反応した。私が頷くと、くしゃっとその顔が崩れて、泣き顔のような笑い顔のような表情が現れた。いつものようににっこりと微笑まれるだろうとばかり思っていた私は、呆気にとられてそれを見つめていた。

「ありがとう……ごめん、嬉しくて」美月さんは手のひらで瞼を抑えた。しかしその口の端は優しいカーブを描いていた。「それにこの卵焼き、かわいい」

 本物の表情とはなんだろう。作り物の笑顔とは、表情とはなんだろう。誰もが自分の脆くて柔らかい部分を、硬い殻で守っている。まるで卵のようだ。だがたまに中身が溢れ出し、殻の外に姿を見せることがある。

 それは、きっとすごく繊細で美しい瞬間だ。

 美月さんがかわいいと言ったのは、きっとこの卵焼きにしては妙な丸い形のことだろう。でも馬鹿にされたとは感じなかった。私も精一杯の笑顔で応えた。

「満月みたいでしょう」

 時にいびつになっても、形や大きさが揺らいだとしても。私たち家族が、これからも素敵な円を描き続けますように。




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満月と卵焼き 蘇芳ぽかり @magatsume

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