満月と卵焼き

蘇芳ぽかり

遠くに

 兄が今村美月を連れて帰って来たのは、冬休みももうあと残り数日という時のことだった。

「おかえり!」

 ドアの開く音にリビングから飛び出した私は、玄関に出たところでピタリと立ち止まった。用意していた満面の笑顔が、そのまま顔の上に固まる。兄の背後に続くようにして、知らない女性が入ってきていた。

 目を伏せていた彼女は顔を上げて私の姿を捉えると、こんにちは、お邪魔します、と大きくはないがはっきりとした声で言って微笑みかけてくる。

「……」私は根が生えたようにその場に突っ立っていた。ゲシュタルト崩壊。家にいるはずなのに、知らない場所に迷い込んだような感覚だった。咄嗟にこんにちはと返すことすらできなかった。

 ──兄ちゃん、その人は誰。

 訊きたいのに声が出ない。強張ったまま残った笑顔は消すタイミングを失ってそのままになっていた。いや、表情筋を上手く動かすことができなくなっていただけかもしれない。

 兄はそんな私の様子に気付くことなく、普通にスニーカーを脱いでひょいと上がってきた。「葉月、久しぶりーっなんてね」冗談めかして自分の言葉に笑っているのは、前回兄がこの家に帰ってきてからちっとも久しくないからだ。年末年始には当たり前のように東京から帰省して来て、大晦日と三が日は家族四人で過ごした。そうだ、家族四人だった。兄は当然一人で帰ってきたのだから。

「兄ちゃ……」

「この人は今村美月さん。大学時代に出会った人で、彼女っていうか……うん」少し照れた顔をする。ごにょごにょと「結婚も考えてる」と呟いて、軽く顔を赤くして、「あ、美月、遠慮してないで上がって」と誤魔化した。

 ケッコンって、あれ、漢字でどう書くのだったか。

「うん。ありがと」今村美月は満足気に笑ってフローリングの床に登ると、くるりと向こうを向いて靴を揃えた。そうしてから私のことを真正面からしっかりと見つめてきた。頭一つ分ぐらい、背が高かった。ヘアアイロンで巻いたのか、茶色がかった髪が緩くカーブを描いて肩に落ちている。

「葉月ちゃん、だよね」

 その言葉で相手が自分のことを少しは知っているのだと知る。私は彼女のことなんて何一つ知らないのに。

 今村美月はふわりと笑みを浮かべた。長い睫毛は妙に妖艶で艶っぽく見えた。

「玲央から……お兄さんからお話聞いてます。これからよろしくね」

 ちょうどその時、キッチンで料理をしていた母が顔を覗かせた。

「そんなとこで立ち話なんてしてないで、さっさと入ってきなよ。……あっ美月ちゃんこんにちは」

「こんにちは、お邪魔します」「お父さんはいる?」

「今買い物行ってもらってる。卵切らしちゃって。でももうすぐ帰ってくるはずだよ」

 私一人が玄関に取り残された。一段低くなった沓脱に、兄の履き古してクタクタになったスニーカーと、ぴんと立ったキャメルブラウンのブーツが並んでいた。それだけが目に映るものの中で、妙に浮き上がって見えた。



 晩ご飯はじゃがいもと挽き肉のクリームコロッケだった。中身はとろとろとして、外の衣は香ばしい。母の得意料理だ。

 長方形のテーブルを囲んだ。誕生日席には父が座った。今村美月は兄の隣で、私の真向かいだ。正直、勘弁して欲しかった。じろじろと見るのはおかしいし嫌だし、だからといって右やら左やら変な方向に体を向けてもいられない。私は俯いて箸の先でいつもより細かくコロッケを切り分け、口に運んだ。悪夢ともつかないぐらい曖昧で奇妙な夢を見ているような気分なのに、コロッケはいつも通りに美味しかった。

 兄が付き合っている女性を──というよりは同棲している女性を連れて帰ってくるということを、母も父も既に知っていたらしい。それも正月よりも前から。更には母はもう今村美月に会ったことがあるのだという。一体いつ? 遠出を好まない母がわざわざ東京まで出て行って二人に会っていたなんて、全然聞いていない。

 母は彼女を「美月ちゃん」と呼んで、怜央が迷惑かけてない?と笑いながら訊ねた。父も「ドレッシングいるか?」「ご飯おかわりあるからな。盛って来ようか」などと世話を焼いた。

「ちょっとお父さん、そんなに食べられるわけないよ。ねえ、美月?」

 兄の声に今村美月は目を細めて、口のあたりに手をやった。「ふふっそうだね。ご飯はもういいかな。でもこのコロッケすごく美味しいですね」

 ほんと? 嬉しい。母が口元をほころばせた。「レシピ教えてあげよっか?」

「いいんですか! うちで作ってみたいな」

 母は今村美月が気に入っているようだった。礼儀正しいし、明るい感じだからだろうか。でもそんな女は少し探せばどこにでもいるに違いないのに。上機嫌で夕食前には私に、「葉月と美月って似てるねぇ」などと言ってきた。知らないよと思う。偶然に意味をこじつけようとしないで欲しい。そしてそれを私に押し付けないで欲しい。

 賑やかに沸いた食卓で、私は沈んでいた。

 ……正月、なんて。

 私は何も知らないで、快く過ごしていた。大晦日に食べたすき焼きが美味しかったことも、初詣の時におみくじで中吉を引いて「一番ぱっとしないやつだなあ」と思ったことも、外とは対照的に暖かい家の中でのんびりしながら兄と好きな漫画について話したことも、全部覚えている。当たり前だ。まだあれから一週間も経っていないのだから。でも、その時に父や母がどんな顔をしていたのか、兄がどんな顔をしていたのかはどうにも思い出せなかった。

 私以外の三人は、何も知らないかのように〈いつも通りの一家〉を振る舞っていた、道化だった。

 ……違う。そうじゃなくて、何も知らなかった私だけが道化だった。

「ねえ」急に明度の高い声が思考に割り込んできて、私はぎょっとして顔を上げた。今村美月は明らかにこちらに向けて話していた。それを理解するにも時間が掛かる。

「葉月ちゃんは、高校二年生だったよね」

「そうですけど」

「部活とかって何やってるの?」敬語を使わない言葉遣いに、はなから私など子供扱いなのだなと思った。今だって話からはじき出されている私に善意で話を振ってくれたつもりなのだろう。

 バカにしないでほしい。そんな裏にある感情ぐらい、簡単に気付くことができる。

「……吹奏楽部です」

「楽器は?」

「ユーフォニアム」県内で何位だとか、市の大会で何賞を取ったとか、そんなに上手いわけではない。でも受験勉強をしたくないから、練習に明け暮れていた。冬休みとはいえ明日からは部活に行く。

 今村美月は「そうなんだ」と言って微笑んだ。「わたしの高校時代の親友も、吹部やってたよ。楽器はトランペットだったかな。すごく上手だった」こうして笑うと涙袋がくっきりと出る。光のもとで見る彼女は、化粧こそそこまで濃くはないが、華やかな顔立ちをしていた。東京の人だ。きらきらしていると思った。

 私は俯いてサラダに箸を付けた。緑色の葉は、水に濡れて表面が光っていた。「へえ、そうなんですか」とだけ答えた。

 葉月?と母が軽く私を睨む。「なに、今日あんた機嫌悪いの?」

「……全然そんなことないけど」

「じゃあもうちょっと喋ったらどうなの。今こんな曲やってますとか、なんとかっていうコンクールに出ますとか、色々言えるでしょ」

「だってそんなこと聞いても、誰も楽しくないでしょ」

「誰もって誰が決めたの」

「知らない。私が決めたの。それでいいでしょ」

「はづき──」

「やめなさい」と、穏やかな父の声がやんわり割って入ってきた。「いま親子で喧嘩してどうするんだ」

 だって、と言いかけた母の声に被せるようにして「そうだね」と私は言った。ぴりぴりした会話を続けるのは面倒だし、みっともないのは確かだ。一家に泥は被せたくない。

 それから食卓の上では、気を取り直したように適当な会話が飛び交った。基本的には兄が話していた。仕事関係の話が多かった。私を除いた四人の前にはビールのグラスが置かれていたが、残った中身の量は様々だ。父も母も同じようなペースで二杯目に手を出していて、今村美月はまだ半分ほどしか飲んでいない。酒を断りこそしなかったが、あまり飲める口ではないのかもしれなかった。

 一方でグラスをほとんど空にしている兄は既に二杯飲んでいるが、顔色も舌の回り方も夕食前と一切変わらない。兄がザルであることを私は知っている。なんとなく暗い悦びを感じた。

 やっぱり今村美月に兄は釣り合わない。

 考えてから、二人の相違点ばかり無意識に探している自分を心底汚いと思った。

 同じテーブルに着いていようが、同じ蛍光灯の下に照らされていようが、同じものを咀嚼して飲み込んでいようが、腹の底にあるものは同じではない。空間を漠然と共有しているだけ。家族とはそういうものだ。──それなら家族とはなんだろう。

 母も父も口を挟みながら酒を飲み、兄の話を聞く。仕事の話など聞いていたってよくわからないが、今村美月の絡まない話は楽だった。大学時代の話なら、確実に彼女の話にもなるだろうから……とそこまで考えて、兄が意図的にその話題を避けてくれていることに気づいた。やっぱり兄は優しい。心から申し訳なく思った。


     ✣


 私と兄は九歳も歳が離れている。だから兄と同じ屋根の下で過ごしたのは、私が生まれてから数えても十年に満たない。

 その間一度も喧嘩をしたことがない、などとは言わない。

 でもきっと、他のどんな兄妹よりも仲が良くて穏やかだった。

 歳が離れているということ。それは兄妹という関係においてすごく大きく影響する。兄は私に決して手を上げなかった。話をよく聞いてくれたし、勉強も教えてくれた。その他の色んな上手いやり方──身のこなし方なんかについてもたまにアドバイスをくれた。常に妹に優しくて面倒見のいい、完璧な〈歳上のお兄さん〉だった。私は私で、物心ついてからはずっと「この人はじきに遠くへ行ってしまう人だ」という意識があった。私たちはいつも対等ではなかった。表面上触れる分には優しいが、目で見れば明確な差と溝が、私たちの間には横たわっていた。

 近くにいても遠くにいた。

 いずれはもっと遠くに行くのだと常に感じていた。

 そんな、兄妹だった。あの日までは。


     ✣


 次の日。六時前に、自然と目が覚めた。

 私はスリッパに足を突っ込んで一階に降りて行った。

 暖房と床暖のスイッチを押す。父は既に会社へ行った後のようだった。流しには冷凍うどんの袋と食べた後の食器だけが残されていた。このくらい洗っていけばいいのにと心のなかで愚痴を言いつつ、弁当箱を取り出して、長いパジャマの袖を軽く捲った。

 今村美月は明日までこの家にいるという。それを昨夜聞いた時には絶望しかけた。せめて今日が一日中部活の日で良かったと思う。

 銀色が鈍く光るボウルの中に、卵を二つ落として溶いた。母のこだわりにより、我が家で使う卵は赤い。黄身を菜箸の箸で適当に掻き混ぜて潰すと、ぶしゃっという小さな手応えと共に濃いオレンジ色が吹き出した。まるで血みたいだ。私はそこに水と粉状の出汁、砂糖と塩を目分量でぶち込んだ。味は母のものを完全再現しているから絶対美味しいという自信がある。

 でも、私の作る卵焼きは、変な形だ。

 同じようにぐるんぐるんとひっくり返しながら焼いているはずなのに、母のような綺麗な直方体にはどうしてもならない。円筒のように断面が丸くなってしまう。別に食べるにあたっては何も問題ないけれど。

「おはよう」

 突然耳に飛び込んできた、まだ聞きなれない声にはっとなった。リビングの入り口に今村美月が立っていた。既に着替えている。皺の見当たらない綺麗なクリーム色のブラウス。

「……おはようございます」

「早いね。お弁当? 自分で作ってるんだ?」

 ええ、まあ、と私は頷いた。とは言っても、ご飯と共に晩ご飯の残り物と卵焼きを詰めているだけだ。昨日のように揚げ物なんかの時は、わざわざお弁当用に一つ余分に作ってくれるし。

「卵焼き、美味しそう」

 薄い化粧を施した顔で微笑まれて、私は一瞬目を見開いた。私の卵焼きは、形がおかしい。明らかに普通と違う。優しい自分を演出するみたいな顔をしているが、どうせ内心は不器用な子だ、と笑っているに違いないのだ。嘲笑われた気がした。

 包丁で五等分に切り分けた卵焼きの三切れを弁当箱に詰め込んで、残りの二切れを急いで口に放り込んだ。「美味しいですよ」ともごもごと言う。いつもはお弁当に入れるのは二切れで、残りは母か父にあげてしまうのだが、今村美月に食べさせるのは嫌だった。中身のない「おいしい」の一言を浴びせられたなら気が狂いそうだった。そして何より、心を開いてくれただなんて思われるのは癪だったのだ。

 眼の前で見せつけるように食べたが、彼女は顔色一つ変えなかった。「いいね」と言っただけだ。初めから期待もしていなかったのか。私ばかり意地悪をしているつもりになっているみたいで、なんとなく負けた気分になる。

 おはよー、と母があくびを噛み殺しながら起きてきた。

「お弁当できた? 朝ごはんは?」

「んー、私はいいや」

 お弁当が作り終わって母が起きてきた今は、六時二十分。いつも通りだ。兄が起き出してくるのは、この家ではいつも八時過ぎ。母と娘と、息子を飛ばしてその恋人。女三人で長時間を過ごすなんてまっぴらだ。早く学校に行ってしまおう。誰もまだ来ていないだろうが、自主練でもなんでもしていればいい。

「顔洗ってくる」

 呟くように言ったら、「洗い物は?」と咎めるような母の声が追いかけてきた。

「後でやる」

「後でって、もう……」

「朝ごはんって、トーストとか焼きますか」

「ああ、ごめんね、美月ちゃん。じゃあお願いしてもいいかな? 食パンは冷凍庫ね」

 はい、と返事をする声が聞こえてからも、私はしばらくリビングから廊下に出てすぐのところに立っていた。身動きもしないで耳をそばだてていると、案の定「ほんとごめんね?」という母の声が聞こえてきた。

「葉月……あの子、今はああいうお年頃ってやつだから、今は大目に見てあげて」

 今村美月は、全然大丈夫ですよとか何とか答えたらしかった。あの女なら笑顔で模範解答を口にするだろう。見なくてもその光景がありありと浮かぶ。「私ひとりっ子なので、妹ができたみたいな感覚で嬉しいですよ」

 母に対しても今村美月に対しても、ふつふつと怒りが湧いて仕方なかった。何がああいうお年頃だ。全部わかってるみたいな顔で、何でもかんでも年齢の問題で片付けようとするな。何が妹だ。

 ……でも、本当に今村美月と兄が結婚したら。その時にはあの人は、私の事実上の義姉になるんだ。

 冗談じゃない。私が身震いしたのは、廊下が寒かったからというばかりではない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る