四十九 雪花は桜にあらずと知れり
春は、窓の彼方にぞありける。
桜が咲いているのが見えるけれど、それはずっと遠くにある。到底手は届かない。春を迎えられないかのように、布団の上に寝転がっている。
「火傷の調子はどう?」
うっすらと開いた目を向けると、そこには座高の高い「月下紅」の男が正座していた。糸目の男。しかし彼が纏う空気は不穏ではなく、むしろその目は彼を優しく見せていた。
その姿を見て、挨拶しようと体を起こす。しかし、背中に鋭い稲妻のような痛みが走り、思わず布団に倒れ込む。
「無理しないでくれ、氷雨くん……。今、薬を塗るからね」
布団をずらし、着物を少しずらすと、細い体に広がるのは痛々しい火傷痕。ぼこぼこと波打つ表面は岩肌のように固まり、変色していた。
その上に、丁寧に薬を塗り込んでいく男。冬の空気のようにひんやりとした薬の冷たさが、背中に広がる。
「ながら、せんせい……」
氷雨の細い声に、男――
「どうした?」
すう、と引きつれた呼吸の音。
「おれは、この部屋から、出られ、ますか……?」
長良は、少しばかり首を傾けながらも、きちんと氷雨の方に体を向けて答えた。
「具合が良くなったら、出られるだろうね」
「そう、じゃ、なくて」
切れ切れの言葉。
「入れは、する、けれど、出られない、出口がわからない……。そんな、部屋では、ありませんか?」
それはまるで、桜の木が見えた、ここと少しばかり似た部屋のような。
幼馴染とともに暮らした部屋のような。
――おれは未だに、この部屋から出ることができない。……出方がわからない。
かつて口にした言葉を思い返しながら、氷雨はじっと長良を見る。その瞳は努めて穏やかで、しかし抑え切れない水面下の何かが、表面を揺らしていた。
(黒硝子のような瞳だな……)
ふと、長良は思う。
澄んで、穏やかではあるけれど、感情をうまく表に出せないような、そんな歪さがある。何かに引っかかってしまって、その中で感情が不可解な肥大化をしているような。
得も言われぬ暗さを持つ瞳。
「……そんな部屋があるのか、私にはわかりかねるが、」
ふと、長良が視線をずらす。そこには、この部屋の入り口たる戸がある。彼はしばらく戸を見つめ、それからおもむろに手をかけた。
「それは、自分で確かめてみると良いよ」
その言葉とともに、長良は氷雨の元まで寄ると、硝子細工を扱うように優しく氷雨の体を起こした。背中の傷には、極力触れないように。
それに支えられながら体を動かすと、やがて氷雨の目にも、戸の向こうの景色が見えるようになる。寝たきりでろくに動けない状態から、少しはましになったらしいと安堵する長良に軽くもたれ、氷雨はゆっくりと、ゆっくりと目を凝らす。
そこには、陽の光に包まれた廊下があった。
「廊下の突き当たりには小窓があるんだよ」
長良はそう言って、戸の向こうに視線をやる。
年季の入った飴色の床板。その表面には、洗いたての布のように真白な光が差し込んでいる。
そして、その中をひらひらと舞い落ちるは、逆光となった桜花弁。
磨き上げられた漆器のように滑らかな床板。そこに影を落としながら絶え間なく舞う淡紅色は、静かに床の表面へと重なり、桜が織りなす文様の一部となる。それも、細く吹き込む風によって刻々と姿を変え、見る者を飽きさせない趣があった。
それはまるで、夢幻のような光景。
「氷雨くんには見えている?」
桜の色に沿ったような紅色の着物を纏った長良が、静かに問う。その静かな視線の先、まだかすかに青い唇が、ゆるやかに開く。
「……はい、見えています」
それはまるで、夢幻のような光景。
しかしそれは、氷雨にとって、確かな現実。
あの部屋にいた時、戸の向こうには今いるのと同じ部屋があった。それはあり得る状況ではないのに、それが当たり前になってしまっていた。氷雨だけがそうだった。あの部屋の出口を知らなかった。
しかし、今は違う。
そしてそれは、あの部屋に自分はもういないということ。
桜舞う季節なれど、夢幻にあらず。
雪代は、もう側にはいない。
「……てる」
近くで、低く穏やかな声がした。それに引っ張られるように意識を持ち上げていくと、そこには懐かしい顔が。
「長良先生」
長良はゆっくりと頷き、そして頬を指差す。
「泣いてる」
思わず頬をなぞると、手の平に巻かれた布に目が行く。冷たい雫はその上を伝い、すうっと滲み、しみになる。ぴり、とその奥が疼いて、思わずそれをまじまじと見た。だんだん目の焦点が合っていくのを感じながら、氷雨はこくんと頷く。
「……こうしていると、去年の春のことを思い出します。先生が看病してくださった頃の……」
過去から現在へと意識が戻ってはゆくけれど、以前と変わらない一室の匂いや色は、氷雨をどこかほっとさせ、同時に何とも言えぬ気持ちにさせる。その表情を見て取ってか、長良は努めて真剣に氷雨を眺めやった。
「久しぶりにここに来たと思ったら、血だらけの手で、気絶しているときた。まったく、驚かせてくれる」
「すみません……」
「月下長屋」の一角、そこは病人のための部屋として機能している。そこで看病を行うのが、「看護役」の長良だった。
「その手は、血を拭って消毒しておいたからね。しばらくは箸や筆を持てないだろうから、匙や代筆で工夫するんだよ」
「はい」
「それから、きちんとした食事を摂ること。たくさん血を流したんだからね」
「はい……」
「友人や師匠が心配していたよ。後で挨拶してやりなさい」
その言葉に頷き、試しに手を軽く閉じ開きする。途端にずきりと重たい痛みが体を貫き、氷雨は顔をしかめた。
「幸い、剃刀の破片などは刺さっていなかったよ」
「剃刀……」
その言葉とともに、剃刀の持ち主の顔、そして倒れる前の一連が脳裏に浮かぶ。思わず、はっと顔を上げた。
「阿形は」
すると、長良は冬の空気を具現化したような厳しい表情で、氷雨を見やる。氷雨は思わず布団の上で正座した。
「阿形くんは、今『警護役』から詰問を受けている。まあ……これに関しては当然だろう」
「浮橋様」に仕える契約の場で、その主に仇なす動きをしたのだ。「浮橋様」を守る立場である「警護役」から詰められても仕方ない。
「それで、目が覚めたら氷雨くんも参加するように、とのお達せだ」
長良は苦笑いしながら言う。氷雨は晴れない表情のまま、軽く目を伏せた。
「……まあ、まずはお食べよ。力がつくよ」
その言葉とともに、長良が一旦立ち上がり、そして戸の向こうから盆をもってくる。そこには、やさしい色をした卵粥が湯気を立てていた。ほんのりとだしの香りもする。表面に散らされた青ねぎが、目にも鮮やかだった。
「いただきます」
慣れない左手で、匙を取る。落とさないように気をつけながら粥をすくい、慎重に口元へもっていく。息を吹きかけ、そしてぱくりと口に含んだ。
「おいしい……」
それは、以前ここで療養していた頃、よく食べた味だった。気持ちが弱った時にふと求めてしまう、懐かしくて不思議と甘い、卵とやわらかいご飯の味。
「そりゃ良かった」
そう言って、長良は親猫のように、細い目をいっそう細めた。
長良が、薄く窓を開ける。
雨は止んでいた。桜の木には、雨のさなか溶け残った先日の雪が、白い花弁のようにそこにある。ひゅるり、と吹く風は、やはり少しばかり春を知り始めたか。
「残る雪、だね」
長良は、その景色を見ながら呟く。そして何かを言い淀むように、粥を食べ終えた氷雨をちらりと見た。
「……阿形は、何か言っていたのでしょうか」
それを訝しく思った氷雨が問うと、長良は困ったように頭を掻く。
――だから教えてほしい。どうして、『浮橋様』を襲おうとしたのか……。
倒れる前に問うた言葉を、氷雨は思い返す。
「今回の経緯を聞く限り、氷雨くんには言いづらい話だと思ったんだけどね。まあ、遅かれ『警護役』が話すか……」
低い呟き。長良は何かを警告するような厳しい表情で、氷雨に向き直った。
「彼は……阿形くんは、『浮橋様』への『復讐』だと言っているらしいんだよ」
浮世黒蝶みをつくし 市枝蒔次 @ich-ed_1156
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