四十八 雨中、赤より現れ出づるものは


 阿形の目は、己の目に似ている。


 そう気づいた瞬間、氷雨の体には、ぐらりと揺さぶられるような衝撃と、「やはりそうだったか」と妙に達観する気持ちとが、同時に流れ出していた。 


(だから、「浮橋様」は……おれを阿形の師匠に?)


 考える。

 やけにゆっくりと見える視界とともに。


 阿形が顔を背け、懐に手を突っ込んでいる。

 風にひるがえる白い着物。細長く不安定な体。

 髪が激しく乱れ、灰色に濁った雨雫が飛び散っていく。


(でも……)


 感情を爆発させた阿形は、まるで夜叉のような顔を見せた。囂々ごうごうと燃え盛る炎そのもののような、苛烈にほとばしる何か。



 あれだけは、自分と違う、ような。



 止めるべきか、そもそも自分に止める資格はあるのか、師匠として止めるべきか。

 そんなことを考えているうちにも、阿形は一歩一歩進み、舌打ちした「月下藍」がそれを迎え撃つように前進し、そして、懐から手を出した。



 そこに握られていたのは、小さな剃刀かみそり



 (剃刀)

  


 ぎらりと瞬く、剃刀の刃は雨粒を斬る。

 雨粒が光り、割れ、地面に叩きつけられる。


 直後、阿形の足が、水溜まりを踏みつけた。



 黒御簾の向こうに見た、忘れえぬ姿。

 そこで見た鮮烈な黒が、瞬間、全てを、塗り潰す。



(雪代……!)



 どしゃっ


 阿形の足音が響いた瞬間、氷雨は何もかもをかなぐり捨てるような勢いで、走り始めていた。


「氷雨くんっ」

「氷雨っ」

連翹と引鶴の声。それが聞こえたか否か、振り返ることもせず、氷雨は一直線に走る、走る、走る。そして、御殿の扉から駆け付けた「月下藍」とほぼ同時に阿形の元に辿り着くと、その手から引きちぎるように剃刀を奪い取った。 


「……! 何を」

 あっと言う間の出来事に、しばし呆然と目を見開く阿形。その隙を見逃さず、「月下藍」がたちまちに阿形の体を組み伏せた。抵抗もできぬまま、地面に倒れる阿形。


「お前ら……師弟揃って問題を起こすとは……!」

「どうして俺らが担当の時に限って、問題を起こしやがるんだよ!」

 文句を言う「警護役」二人がかりで引きずられる阿形は、あの激しい瞳で、ぎらぎらと「月下藍」を睨みつけている。野生の獣もかくやというほどの迫力に、思わず目をそらす「新月」もいるほどだった。


「……『浮橋様』、お見苦しいところをお見せして申し訳ございません」

 扉の側に控えていた「警護役」の言葉とともに、「浮橋御殿」の門が閉められていく。それによって何となく空気が弛緩する中、氷雨は剃刀を手に持ったまま、引きずられていく阿形の後を追った。

「氷雨くん、手が」

 切羽詰まった連翹の声。それにはたと気づいて手を見ると、剃刀を持った手には赤々と濡れ光る筋。

「止血、医務室行けよ馬鹿、氷雨」

 引鶴も続けて叫ぶ。

 「ごめん、後少しだけ待ってほしい」

 しかしそれは二の次という風に、早速尋問を始めた「月下藍」たちの後ろに立った。


「なぜ、こんな真似をした」

「偉そうに。隠していた剃刀に気づかない手落ちをしておいて」

「何……!」

 胸倉を掴み上げる、血気盛んそうな「警護役」。そんな彼を、目つきの鋭い別の「警護役」が睨んだ。今日も含め、会うたびに氷雨に目くじらを立ててくる「月下藍」だ。先程も、氷雨師弟を警戒しており居心地が悪かったのだが、それはあながち誤っていないことになってしまった。

「落ち着け」

「でも、義龍ぎりゅう先輩……!」

「今すぐ別の者と交代しろ、笹目ささめ。もう休め」

「……承知」

 体格は笹目の方が良いにもかかわらず、彼は義龍にはそれ以上抵抗せず、大人しく引き下がる。

 阿形は、そんな彼らに夜叉の瞳を向けながらも、ひどく冷えた声を発した。


「お前ら、そんなに主が大事か」


 その問いに、義龍は鼻を鳴らす。

「当然だ。我々は『浮橋様』に仕え、それを誇りとする者だ」

 阿形は答えない。代わりに、彼を真似するように、わざと鼻を鳴らした。義龍が不快そうに首を振る。そして、阿形に冷ややかな視線を向けた。

「 ……とにかく来い。ひとまず仕置をする必要がある」

「動機も聞かないのか、話にならんな」

「お前はまず、その曲がりくねった性根を叩き直すところから始めるんだな。話はその後だ」

 首根っこを掴み、乱暴に阿形を引っ立てる義龍。氷雨は慌てて二人を追った。

「待ってください、おれは阿形の師匠ですよ」

 義龍が反射的に氷雨を睨む。


 しかし、未だ手に握られたままの剃刀とその血を見て、しばし思案するような顔をした。

 そして、おもむろに氷雨に向き直る。


「私は、お前が狼藉者だという認識を改めるつもりは無い。しかし、体を張って主を守った姿勢は評価する。要件は何だ」

「ありがとうございます。……阿形、少しいいかな」


 氷雨は一礼して、ちらりと弟子の姿を見る。

 彼は相変わらずの目つきだったが、氷雨が変わらず刃物を握りしめているのを見ると、かすかに顔をひきつらせた。それに構わず、氷雨は阿形の前に立ち、ゆっくりと口を開く。


「阿形はおれの目を覚えていた。おれもそうだ。それは、互いの目がよく似ていたからだ」


 雪が止み、澄み切った空気の中で見た黒硝子。

 今、氷雨の目は、それとよく似た色をしている。


「かつておれは、御殿の奥に押し入ろうとしたことがある。それは阿形と同じだ。似た部分があるから、『浮橋様』はおれを阿形の師匠にしたのかもしれない」


 こくん、と息を飲む阿形。彼に向かい、軽く頷いてみせた後。



 ぐわり、と氷雨の纏う空気が変わった。



 静かだった。

 しかし確かに見えるのは、今にも凍てついてしまいそうな危うさ。凪いで見えた瞳は恐ろしいほど黒々とし、油断したら引き込まれてしまいそうに思える。

 感情への押さえつけを、瞬間止めてしまった瞳。



「でもそれは、決して『浮橋様』をしいするという目的じゃない。おれはあの日、『浮橋様』に仕えることを決めた。『浮橋屋敷』で生きようと決めた。だから、『浮橋様』を傷つけるような真似は、許さない」



 それは同時に、「浮橋様」の姿形を成すものを傷つける真似は許さない、ということ。



 生唾を飲んで、阿形は思う。


(同じだというのは、間違いない……。俺も、そう思ったから)


 降りしきる雨の粒を氷と化し、その一粒々々で身を貫いてしまいそうな瞳。




(だが、この感情は、俺とは似て非なるものじゃないか……)




 感情を隠しているということは同じ。

 しかし、隠されていたものの実体は、まるで違うではないか。


 阿形のそれが炎のような感情であったとしたら、氷雨のそれは、凍てつく氷のような……。



 氷雨は、青ざめた顔で阿形を見ていた。その瞳の色は変わらず、しかし、どこかその表情は苦しそうにも見えた。




「『邪魔をするな』と、おれに言ったね。ならおれは言おう。阿形が『浮橋様』を傷つけようとする限り、おれは『浮橋様』を、命を賭して守る。そして言うだろうね。『邪魔をするな』と」




 炎の中、崩れていく櫓。あの中に、雪代がいた。

 助けられなかった。だから、雪代は死んだ。



 今度こたびこそは、守らなくてはならない。


 それは「浮橋様」の臣下としても、雪代の友としても。



 厳しい顔で「邪魔をするな」と言い放った氷雨だったが、ふと春の訪れのように一転、表情を和らげた。



 「……でも、阿形はおれの弟子だ。それに、似通った部分のある人を、切り捨てたくはない。激情に飲まれて行動してしまったおれに、そんなことを資格なんてないのかもしれないけれど」



 いきなりの変化に面食らう阿形の前で、氷雨はほろ苦く笑う。

 黒い髪に淡い曇りの光が映り込み、幻のように煌めく。それを、皆は呆けたように見つめていた。それに気づいているのか否か、氷雨はゆっくりと阿形を見つめ、静かに問う。



「だから教えてほしい。どうして、『浮橋様』を襲おうとしたのか……」



 阿形は眉をしかめる。そして、いつの間にか夜叉の空気を大分薄らかにした瞳で、氷雨を見返す。



「それは……」



 ぐらり、

 ふと、影が揺らいだ。

 いや、影ではない。目の前にいる、阿形の体だ。


(あれ……)

「氷雨くん、血を流しすぎだよ。先生、早く……」

「利き手だろうが、馬鹿野郎」

 遠くで友の声がする。その声が遠のいていく。視界が霧にかすむ。何も見えない。……。


 そして息をつく隙もないまま、氷雨は冷たい地面の上に倒れ込んだのだった。



 倒れる直前、いつか見た光景が、頭をよぎる。

 燃え盛る村、その道の途中で拾い上げた包丁。

 その刃にべっとりとついた、赤黒い血。




 あの刃は、誰が、誰を、なぜ、傷つけたものなのだろう?




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